「やまもも書斎記」のほかの記事をほとんど読んでいないので、早計かもしれないけれども、
科学そのものから話しははずれる。私自身は、文字の研究者(のつもりでいる)。文字について、「正しい文字」「間違っている文字」を定義できるだろうか……一見すると、簡単そうなことだが、意外と、難しい。と出てくる「正しい文字」のくだりを読んでぼくが真っ先に思い浮かべたのは、漢字の「異体字」の問題だ。
「異体字」と言ってもピンと来ない人でも、「異字体」「別字」「正字/俗字」などというと見当がつくかもしれない。
たとえば「吉(キチ)」という文字は「士+口」でできているが、「土+口」と表すことがある。細かい部分の形は異なるのだが、ぼくらはどちらも「キチ」の字と認識する。こうしたとき、「土+口」の「キチ」は、「士+口」の異体字だとか別字だとかいうことがあるのだ。
パソコンが表示する文字やJIS規格に詳しい人なら、森鴎外の「鴎」の字の話なんかが記憶にあるかもしれない。「區+鳥」(JIS78の例示字形)と「区+鳥」(JIS83の例示字形)があって、JIS83のほうは従来の一般的な活字ではほとんど使われたことのない字形だったもので、「JISウソ字」なんて呼ばれたときもあったのだ。でもまあ、「区+鳥」は「區+鳥」の異体字とか別字だと言うことはできても、一概に「間違っているぞ」ということが正しいのかというと、これがまたよくわからない(かつて全然使われたことがない字形で、JISが例示するためにこしらえたと言うのならば、「間違い」といえるかもしれないけれども、前例があるのであれば「例示字形としては不適切」と言えても、「文字として間違い」と言えるかというと微妙だ……というような話になる)。
異なる部分は、点画の長さ、位置、数など多岐にわたる。「區」と「区」みたいに、構成要素(エレメント)が明らかに異なる場合もある。でも、基本的には前例があれば「どっちもあり」なのだ。
ただし、学校教育では別だ。点画の長さ、位置、数が違えば「間違い」だろう。それどころか「撥ね」「止め」「払い」などが違っても「×」をもらうことになり、「間違っている文字」とされることが多い(文部省や文科省は、そのような違いにはこだわらないと言明したこともある。けどまあ、今はそこには踏み込まないでおこう)。
しかし、歴史的にも社会的にも、そうした違いは間違いとはみなされないのだ。「同じ文字の違う形」でしかない(ああ、厳密には「同じ文字」とは言えないのかもしれないけれども)。
この辺、字形と字体と書体の違いとか、そういう区別の話もあるのだけどここでは省く。少しだけ解説したコラムを書いたことがあったので、末尾に「おまけ」としてくっつけておく。
仮に「間違っている文字」というのがあるとしたら、前述のように「その字には、これまでそういう形は存在したことがない」といったような場合だろうか。いや、違うなあ。「デザイン差として包摂する」なんていう話もあるし、線の曲げ方や方向なんかであれば、書道やレタリング、書体デザインで「間違い」とされることは、まずないだろう。
学校の書き取りだけは異様に教条主義的に単純化されているのだけれども、漢字の形については「どれが正しい」という議論を成立させるのは、かなり難しいのだ(いや、仮名文字でも同じか。ケースバイケースだけれども、万葉がなを「間違っている」という人は、単に無教養とみなされるだろう)。
言及先の當山日出夫さんは「文字の研究者」とのことだったので、「正しい文字」「間違っている文字」というくだりを見た途端に、ぼくはそんな意味なんじゃないかと受け取ったのだ。
もっとも、當山さんはその後で
「正しい文字」とは、この文字は正しい文字ではない……という逆方向からの定義によってしか、定義できない。一種の架空の存在である。そして、そのうえで、「間違っている文字」とは、「正しい文字」があることを、前提にしないと、言えない。と書き、さらにすぐ後では
(なお、このような、文字についての認識を持っている文字研究者は、限られているのが実際である。)ともお書きなので、ぼくのような「ちょっとかじっただけの人」の受け止め方は、全然的外れな話なのかもしれないけれど。
さて、で、一応この受け止め方を前提にして考えてみると、こういうふうに「正しい文字」というのは相対的なものだと考えるのであれば、たとえば「今現在『科学的な知見』といわれているものを直ちに『正しい科学』とみなすのは危険だ」……というような意見になりやすいとは思う。それはまるで「いま、学校で教えられている字形だけが正しい文字だ」と言っているようなものだもの。
そして、「今現在『科学的な知見』といわれているものを直ちに『正しい科学』とみなすのは危険だ」という考え方自体には、ぼくは違和感はない。
問題は、「科学」と「疑似科学」の関係を、そうした「正しい科学」と「間違った科学」のような関係ととらえるかどうか、なのかもしれない。
ここで敢えて(無謀かつ分不相応にも)科学と疑似科学を文字にたとえるならば、ぼくなら「文字」と「文字に似たもの」と考える。
「文字に似たもの」というのは、「一見したところ文字に似ているように見えるかもしれないが、実用にならない画線の集合」といった程度のものだろうか。ボーイスカウトの使う、石や縄を使った信号のように、内輪の約束事として「この形はこの意味」といった暗号めいた使い方はできるかもしれないし、現にそのように使っている人々もいるだろう。
ただし、ボーイスカウトの信号と違うのは、疑似科学という「文字もどき」は、それを使う人がめいめい勝手に約束事を作っている。使用する集団が小さいのではなく、非常に恣意的に行き当たりばったりに運用されるのだ。昨日と今日で意味がまるで違ったりもする。したがって、その集団内でさえも一般性がない。
もっとも、どういうわけか、集団内でそれを問題にする人は、ほとんどいないのだが。
この文字もどきの一部は「科学」にとっての「未科学」のようなものかもしれない。恣意的な運用がほとんどなくなり、形と意味の整合性が維持され(もちろん、実際の文字や言語がそうであるように、「ある程度」はということでしかないだろうけれども)、一定の集団のなかで本当に使用できるようになるかもしれない。それは文字としての要件を満たして、新しい文字になったということだろう。
しかしそうなったときには、それは「文字もどき」ではなくなっているはずだ。
そしてまた、どう転んでも文字にはなりようもないほどに恣意的で整合性のない画線の集合もまた、きっとあることだろう。
おまけ。
生田信一ほか『Design Basic Book』(BNN新社)から、p.40のコラム。
まあ、自分の書いた部分だし、コラムだけだからまるごとでも許されるでしょう。
文字もどきを読んで、中学の美術の時間を思い出しました。
その日は明朝体のレタリングの授業でした。
隣の娘は「声」を、私は「色」を書いていました。
「出来ました」と先生に持って行くと、先生と横にいた友達に「キョトン」とされて
「本気か?」と聞かれましたが、何の事を言われてるのか私には、わかりません。
「何が?」聞き返すと友達が私の作品を指差します。訳がわかりません。
何度か同じことを繰り返した後、先生が見かねて、他の生徒の「色」を見せてくれました。
「声」を見ていたからでしょう。私の「色」は最後の一画
左から来て右に行ってハネる所が左からそのまま左にハラわれていました。
先生に他の「色」を見させられるまで、まるで気付きませんでした。
あの文字もどきを無理に読むなら「コワイロ」でしょうか(笑)
今、思い出すと、オカシさを指摘する人と、何度言われても解らないトンデモさんとの
議論みたいだったと思います。
私も先生のみたいに、正しい「色」を見せれる様になりたいと思っています。
だいぶ日が経ってしまいました、すいません。
そのお話は、真性の「間違った文字」の例になるのかもしれないとも思います。というのは、ちょっと調べた限りでは、その字形の文字は見つからなかったから、ってだけですけど(^^;;
こんな字形になりますよね。
https://shibuken.up.seesaa.net/image/moji0620.gif
なんか実際に見てみると「角」という字に似ているような気もしますね(^^)
それそれとして、おもしろい体験ですね(そのときのご本人は「おもしろい」なんて言っていられなかったかもしれませんが)。
どういうわけか、自分ではどこを間違っているのか認識できないことってありますよね。言い間違いとか。あれはなんなのでしょうねえ。
「その字」です(笑)
書き込んだ後、妻に話したら「私にはそんな体験はない」と言われました。
今でも、字の練習をしていると、変な字が私には見えてくるので
誰でも体験している常識なのだと思っていました(汗)
なので、まずググってみると(笑)
「文字のゲシュタルト崩壊」というのに、辿り着きました。
全員が体験している感覚では無いのですね。
トンチンカンな書き込みに、なっていませんでしたか?
又、自分の体験を常識だと勘違いしてた。嗚呼・・・すみません。
よく聞く例としては、書き取りの練習などですかね。同じ文字を繰り返し書いているうちに、なにを書いているのかわからなくなったり、文字が文字に見えなくなって来たりするというケース。これは、けっこう体験者がいると思いますよ。
奥様も、それなら経験があるかも。
でも、はちでかさんのケースは、たとえば図面を引いていて、細部にばかり気を取られているうちに、全体としてはつじつまの合わない「不可能図形」にでもなっているような、そんな感じを思い浮かべていました。