刺激的なエントリです。一部分を引用すると誤解を招きそうなので、ぜひ全文をご覧ください。
ここでは、「気」だけではなく、もうちょっと一般化して考えてみたいと思います。学問とは縁遠い身なのにおこがましいですが。
「使う人によっても意味がバラバラである」(TAKESANさん)ということは、人文科学用語などでもあり得ることです。特に哲学や歴史学の概念のうちでも歴史的にややこしい経緯のあるもの(乱暴に言い換えればバージョン・アップされて来ているもの)なんかには、そういう用語が少なくなかった記憶があります。
だからといって、たとえば「哲学は疑似科学だ」とならないのは、TAKESANさんがおっしゃっているように「歴史的にどう用いられてきたか、とか、どのような論者がどういう風に使っているか」を踏まえた用い方がされているからだ、というのがぼくの理解です。
この辺を考えていて、以前、技術開発者さんに「東洋哲学も実は科学的」(超訳)と教えてもらったときのことを思い出しました。⇒科学なんだから共有しようよのコメント欄(技術開発者 at 2008年01月29日 17:09)の辺り
TAKESANさんのおっしゃるような用い方がされていない、生煮え生かじりの議論だと、門前払いを食ったり、素人の議論とかトンデモと呼ばれてしまうことがままあるのではないでしょうか。そして、漢方や東洋哲学、宗教学なんかが、素人の印象としてはニセ科学・疑似科学なんかに似ているように思えてしまうのは、ぼくら素人にはそういう行き届いた議論をすることも読み解くことも難しいからということがあるのでしょうね(歴史を扱った怪しい話、朴斎先生のおっしゃる「研究ごっこ」、古代史などのトンデモ「研究」には、まさにこのパターンのものが多いのでは)。
また、生煮え生かじりなのだけれども俗耳には馴染みやすい議論が跋扈していて、その影響を受けている(その印象に引きずられるということや、定義や理解の面で内容的に浸食されてしまう)ということもありそうです。
哲学の場合とは逆に、「心理学は疑似科学だ」「歴史学は疑似科学だ」なんて言われてしまうことがあるのも、同様の誤解が理由のひとつに数えられそうです。
当然ですが、「生煮え生かじり」の議論は、みんなニセ科学や疑似科学、オカルトだなどというわけではありません(そういったものの仲間だということはできるかもしれません)。その場合もあるし、そうでない場合もあるでしょう。未科学だという場合もあれば、ただの無茶苦茶な話だということもあるし、単に半可通と言われて終わることもあるでしょう(それが一番多くて、しかも、ぼくもどっかでそう言われていそう・汗)。
しかし、そう考えると、それなりによく勉強してある「生煮え生かじり」というのは、かなりな知識がないと見破ることは困難ですね。仮に専門家から見ると、語彙の用法がめちゃめちゃだとか、歴史的な経緯・成果を踏まえていないなどということで、明らかに「ニセ科学」や「未科学」であったとしても、素人目には識別困難ということは多そうですね。
「気」の話に戻ると、その道の人でも「いろいろな意味で使われている」とか「私はこう理解している」なんて言わないで「こういう意味です」と言い切る方もおいでです。飽くまで自分の流派としての説明のつもりだったり、いわゆる「科学」の文脈で語るつもりがないからということもあるのでしょう。けれども、こうなると科学かどうかよりも、「広く共通の理解を得ようという心構えがないのだな」とみなされてもしかたがないのではないでしょうか。
やっぱり、科学的方法論とか科学的思考法というのは、実のところ「共有のためのテクニック」なのだなあと、改めて感じますね。