#「1」は、個人的な話ばっかりです。
#ひょっとすると「2」に至る背景説明としてお読みいただければ、
#少しは意味があるかもしれないけど、意義を期待しちゃいけません。
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金曜日、中2になる次女の中学校で一学期が終わった。今日は高1の長女が終業式だ。
次女の成績は、中の下といったところか。絶対評価なので、山勘だけど。いまの絶対評価で3が多いというのはなあ……ちとつらいね。
「関心・意欲・態度」は軒並みAなのだが、まあ学力は高くない。有り体に言って,あまり知的なタイプではない。級友には不思議ちゃんと呼ばれたりもするらしい。
考えたり発表したりするのは好きで、よく頑張っているのだが、自宅学習はぜんぜん足りていない。理科は好きなのに、論理的に積み重ねるという点では、訓練不足がモロに出ている気がする。通信簿の観点別評価を見てだけではなく、本はぼちぼちと読むのだが、説明したり文章を書く力はからきしなので、そんなふうに思うのだけど(断片的な、感覚的なものは好きでよく書いている。まあ、中2の女の子だったらこんなものを書くだろうなあ、というものを書いている。恋愛のこととかね。ちょっと年齢よりは幼いところがあるかな)。
小さな頃からの「なにかを身につけるために、同じことをコツコツと繰り返すのがイヤ」という気質(?)が、中学になると勉強には大きなマイナスとなって来ているのがわかる(きっかけというか、モチベーションをつかむと集中できるのだけどねえ……手芸なんぞ、根を詰めてやっていたりする。70〜80年代のポップスが好きで、よく覚えている。マニアというほどではないのがまた、ちょっと寂しいのだが)。
特に英語に苦手意識をもってしまっている。
もともと、「これ」というジャンルでも見つければともかく、ヘタに学を志したりするよりは手に職をつける方が、本人も生き生きと生きて行けるのではないかと思う。だが、いまどき何かを調べるとすぐに英語に行き当たる。英語の成績はどうでもいいが、英語に苦手意識を持つのは大いに損だ。せめて「辞書を片手に、読めば読める」ぐらいに思えていればよいのだが。
また、教師に対する好き嫌いが教科の好き嫌いになり、挙げ句に「なんとなく、先生ってイヤ」「勉強がイヤ」になっている。幸い、学校がイヤとまではなっていないのだが(少なくとも強く嫌がってはいない)、楽しみにしていた部活も顧問の先生が変わって、いろいろと戸惑っているようだ。先生というものがイヤなので、夏休み中の補習教室みたいなところにも、行きたくないという。まあ、勉強に行くということ自体、気後れするのだろうけどさ。
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先生のどこがイヤかと聞くと、「(教室で何が起きているか、個々の生徒が何を考え、どう感じているのかを)なんにもわかってないくせに、わかったような、えらそうな口をきく」と言う(こんなに整然と語ったわけではないけど)。一部には、そうでもない先生もいるけど……ということは、ほとんどの先生はそうだと思っているわけだ。
きっと、「まあ、先生って言ったって、大半は単なるふつうのオトナだもんな。やたらと立派な人格者なわけじゃない。期待しすぎるとつらいよ」などと言ってみても、なんの慰めにもならないだろうし、むしろ有害かもしれない、なんて思うとかける言葉もなかなか見つからない。でもまあ、ぼくはそう思っているので「生意気を言うな!」などとも言えない。やっぱりかける言葉がない。
自分自身が中学生だったとき、「うちのオヤジは、なんて世間知らずなんだろう」と呆れてバカにしていたことを思い出す。教師に対しては、「あの先生はすごい」と思うこともあったが、若い理科の担任男性教師を「かわいいものだ」と思っていたり、家庭科のおばさん担任教師を「自分の劣等感から来るカンシャクを生徒にぶつけている」と思っていたりしたなあ、なんてことも思い出す。
次女はそんなオレのようにひねくれているわけではなく,まだまだ素朴に教師に期待していて、徐々に教師も「ただのオトナ」だと失望しつつあるのだろうと思う(ダメなオトナもいる、少なくない、ということは、小学校もなかばで理解できたようだ。道を歩いているだけで、交通ルール無視の連中はいるし、お店などで列を乱す者もいる。でも、教師にはまだ失望していなかったのだろう)。
順当に育っているだけかもしれない。
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「十全な人間ではない者が、職権と称して権能をふるう」なんてのは、当たり前の風景だ。世間では人格者の方が珍しい。職場では上司が人格者じゃないのは、むしろ当然だ。
しかし、彼ら教員はぬるい職場の上司と違って、「それなりに仕事さえこなしてくれればよい」とは言わない。生徒たちに十全な人間であることを要求する。
昔の教員のように、勉強さえできればほめてくれるなどという慎ましい要求しか持っていないわけではない。テストでよい成績がとれたって、意欲的でないとか、友だち関係がどうだとか、危険に近づくなとか、地球環境がどうだとか、まるで「万能の聖人君子でなければならない」かのようにいろいろなことを言う。いやまあ、目指すべきところはやっぱりそこなのだろうから、言わないわけにもいかないだろうけど。
特に目立った能力がなくとも、そこそこまじめにしてさえいれば、お目こぼしにはあずかれる。でも、それは「いてもいなくてもいい自分」を作るようなものだろう。そして、ひとからげに扱われるときには、やはり理不尽な思いをすることもある。
でもなあ、学校で一日中ジャージとサンダルで過ごしているような人に、服装の乱れとか言われても説得力はないよね。同じように、とても手本に見えない人に立派なお題目を言われても、説得力はないわけだ。こりゃ、ある年齢に達すれば、誰もが思うことだろう。
まあ、それだから、教師がいよいよ横暴にも不遜にも見える、ってことは避けられないのだろう。思春期? 反抗期?
確かに小学校の先生に比べると、中学校の先生は細やかに生徒の意を汲むとは言い難いとぼくも感じている。「なぜ、どうして」よりも、まず「覚えろ」という傾向が強くなっていると感じる。教える技術について、小手先の工夫になっていっているように見える。大学のダメ教師のように、ただ念仏のようになにかを唱える授業も、中学高校と徐々に増えていく。
高校入試や大学入試があるから、って側面も、少しはあるかな。ま、高校以上は義務教育じゃないからな。
ただ、個々の先生と話をすると、中学高校の先生が必ずしも個々の子どもたちのことを考えていないわけでもないし、やる気を失っているわけでもないのだとも感じる。
でもまあ、小学校の教師の「どうやって教えるか」の努力と熱意に比べると、見劣りすることは多い。「生徒は授業を受ける準備が万全にできている」という前提で授業をしたいという欲求が強いんだろうな。当然かもしれない。
でも、そうだとすると、中1プロブレムってのは、「小学校時代には常に用意されていたハシゴを、中学でいきないはずされる」ってことだわな。もしも、これを「段差」とか「ギャップ」と呼んで、スムースな接続を模索するなら、小学校のようなやり方を中1に導入して、徐々にハシゴのない状態に慣れさせていくのか、小学校段階から徐々にハシゴをはずしていくのか、そこは検討しなくちゃいけないよね。今のところ、ぼくの知っている小中一貫教育は、中1プロブレム「だけ」に着目してしまって、同じ問題が中2に起きているようにも見える。もっとも、すでに中学にある程度馴染んでからなので、中1のときに直面するよりはマシなのかもしれない。
なにはともあれ、我が子の「やる気」ぐらいはなんとかしたいなあ、と思いつつ、手をこまねいている。
【学校とか教育とかの最新記事】
『教育の窓・ある退職校長の想い』のtoshiです。
このたび、横浜市が全市で小中一貫教育を実施すると決めたことにかんがみ、せつぶろぐにて、その問題をとり上げさせていただきました。
その記事に、貴ブログの本記事の一部を引用させていただきました。よろしくお願いします。
事後報告となり、申し訳ありません。
例によって、TBはうまくいかなかったようです。