2008年07月19日

子ども、「校長先生の授業」、TOSS - 2

前項のようなもやもやした思いを転がしていたら、toshi先生のブログでこんな記事を読んだ。

校長先生の授業(2) TOSSとくらべて(教育の窓・ある退職校長の想い 2008年07月19日)
http://blog.livedoor.jp/rve83253/archives/1149106.html

小学校の授業だが、ここで紹介されている「校長先生の授業」には、舌を巻いた。さすがプロ中のプロだ。こういう、自分が考えたことが次につながる授業なら、子どもたちは学校が楽しみになることだろう。

自分の考えたことをグループで討論させたり、ノートに書かせたりして、それを発表させる……といった授業は、小学校でも中学校でもたくさん見て来た。高校でも見た。
しかし、その度に、授業の進み方がよどむような印象を受けた。テンポが悪くなりやすいのだ。小学生たちは、高学年でも、全員がそうそう素早くてきぱきと適切に動くことはできない。配られているプリントに鉛筆で記入するというだけのことが、もたついてしまう子も少なくない。ちゃんと気構えができている子はとっくに記入が終わっているのに、やっとプリントと鉛筆を構え直しているような子を待たなければならなかったりもする。後ろや横を向いて、ほかの児童生徒に話しかけて時間をムダにする子もいる。

この授業では、そうしたよどみが生じないような工夫がいくつもされている。事前の作文もそうだし、設問の簡潔さも、マグネットを使っているのも、チョークでちょっとした書き込みをするだけ、というのもそうだろう。
もちろん、ぞろぞろと前に出て行ってなにかをするだけで、ある種のよどみは生じることだろう。でも、すべてを終えてプリントを前にぼんやり待っているよりも、並んだり戻ったりする方が、無為に過ごしている感じはしないことだろう。

「なぜそう考えたか証拠を示す」なんていうのは、特に時間がかかるだろう。こういうところは、多くの場合、挙手して何人かが発表となりがちなのではないか。でも、「根拠に基づいて考える」ことを重視するためもあるのだろう、校長先生はひとりずつの考えを聞く。緩急をつける意味もあるのかもしれない。

一時限45分の授業で意見発表も含めてこれだけのやりとりが生じているということは、全体としては大変にテンポの良い授業と感じられたはずだ。
中学や高校ではこうはいかないかもしれない。社会科や総合などでは、この手のことをやろうとしても設問は複雑になるし、自分の答えをまとめるのにも時間がかかるようになる。いきおい、2つぐらいの設問をやりとりして終わることになったり、4つも5つも設問があるもので、ものすごく駆け足な感じになったりする。小学校の段階ならではの授業テクニックという部分はあるだろう。


TOSSや主宰者の方針や言動については、疑問に思うことが多かったので、今日の記事は特に興味深かった。ぼくは彼らの特徴として、妙に子どもも大人も類型化したがる点がある(そして、自分にもそういう傾向がある)と考えていたけれども、それがなぜなのか、またどうしてそれがまずいのか、今日の記事でわかったような気がする。個々の子ども(人)を見ているようで、実はバリエーションに当てはめて「想定している」だけで、実際には見ていないのだろう。TOSSの場合は「法則化運動」なのだから当然かもしれない(ぼく自身の場合は、子どもや相手を「つかむ」ことを急ぎ過ぎているのかな)。

若い先生が、手ぶらで教室に放り出されるような思いをされているのであれば、TOSSのようなスタイルに惹かれる多いのはうなづけるものがある。でも、どうせ法則化といったことを考えるのであれば、この校長先生の授業のように、どうやって学習意欲をかき立てるか、子どもの意を汲むか、どうやって授業をたるませないか、そのためにはどういう準備が必要か……単元ごとに小手先で格好をつけるようなノウハウよりも、そういう根っこの部分のノウハウを共有することに傾注すればいいのに。そう思ってしまう。
願わくば大学や教育実習で、そうした「教授法」が身につけられるといいのに。
ま、きっと昔からそういう取り組みがありつつも、学校を出たばかりでは実地に活かしにくいとか、そういう事情も少なくないのだろうという想像もつくのだけど。

さっき、小学校ではうまくできても、中学や高校ではうまくいかないだろうと書いたけど、これもぼくの想像力不足や無知のためかもしれない。もしも、「学習意欲の涵養は小学校で終わり」なんてことにでもなっていれば別だが(もちろん、そんな事実はないはずだ。でも、いつまでもそんな手取り足取りでもいられないことだろう)、多くの知見が積み重ねられているはずだものね。
それが数少ない公開授業体験や、ウチの子どもたちを通しては見えてきてないだけなのだろう。うん。ぼくが思いつくことぐらい、教育の専門家が思いついていないはずはないものね。


「子どもの意を汲む」とか「やる気を引き出す」なんていうと、迎合なんじゃないか、勉強はおもしろいばかりではない、つらいもので当たり前、なんていう声も聴こえてきそうだ。ぼくだって、そう思っている部分がないではない。
だけど、ムダなつらさを増やす必要もない。それが学習意欲をそぐものであれば、なおさら。
ほめられる(認められる)ように振る舞うことが動機となって学習や生活に取り組むというのでは、確かに危うい。外ではなく、内に動機をもっていてほしい。
他者と比較することや、他者とやりとりすることでしか知り得ないこともある。でも、だからといって他者と比較することや、他者からの働きかけが前提になってもらっても困る。

子どもに迎合するのではなく、子どもの意を汲む。
自己肯定感? 自尊心? わからない。

与えられた課題を従順にこなすことも必要だ。だけど、それしかできないというのは困る。
では、興味関心をもったことしかやらないというのは? 困るだろうか?

うーん。職場の上司としては、確かに困ったことがあった。

かつて職場(編集プロダクション)で「級数とか歯送りとか、編集者としては基本的な知識なんだから、いい加減に覚えろよ」と部下に言ったとき、「だって、そんなことには関心がないんですもの」という返事が返って来て驚いたことがあった。おそらく95年頃のことだと思う。当時、そいつは27歳だったか。「書かれている内容」や「いかに書かれているか」にしか関心が持てず、制作物としての本については、装丁や造本にしか関心がもてないらしかった。組版なんかどうでもいいと思っていたのかどうかは、わからないけれど。
そいつは後に会社を辞めた(ぼくが辞める前に)。「ふつう程度には、そこそこなんでもこなせる編集者」にはならず、校正者になった。校正者としては、そこそこ優秀だっただろうと思う。
そいつの人生としては、それでよかったのかもしれないとも思う。


今日のtoshi先生の記事の主題とは関係がないのだけど、こうした展開は習熟度別授業や少人数指導では起きにくいのではないか、ということもちょっと気になる。
多様な意見が出にくいということが予想されるだけでなく、長女の高校受験の際に、いくつかの都立高校を見て歩いて、「均質」ということに強い違和感を感じたせいもあるに違いない。「学力で薄く薄く輪切りにする」のが今の都立高校受験だとすると、その結果生まれた均質さは、一部の上位校を除いて「諦め」「無力感」「敗北感」を受験校選びの段階から生み、それが高校では倦怠感という形で表出されているのではないかと思えてしかたがなかったのだ。

地方出身者にとっては想像を絶するほど、選択肢が無数に提示される。自分に合うかどうかの判断が迫られる。しかし、受験期が近づくと、学力が中程度の者は、実際にはその半分ほどは、そもそも選ぶことができないことも知らされる。
確かに受験とはそういうものだ。でも、そういう体験は、15歳たちに生々しく現実世界の冷酷さを突きつけてしまうように思われた。甘いんだろうけど。
でも、学区制を廃止していなければ、ここまで薄い薄い輪切りにはならない。ほんの数校のなかからしか選べないのであれば、運不運の大きさも違うし、なによりもちっとは多様な生徒が集まることになる。極薄のハムのような均質さはないに違いないし、上昇志向を根こそぎ奪うようなこともないだろう。


自分で課題を見つけて取り組むこと(課題解決型の学習)が大事にされるような指導要領が始まって、何年になるだろう。小学校にはかなり根付いたと、ぼくは見ている。中学校や高校でも、なんとか形はそうなっている授業が増えているとは思う。しかし、「覚えなければならないことの多さ」と「考える時間の少なさ」の前で、習熟度別編成や少人数指導の前で、なんだか生徒間の格差ばかりが根付いていやしないか、そんなふうにも思う。
「ゆとり教育」は悪者扱いされることが多いが、ぼくは見るべきところも多い指針だと考えている(態勢を含め、問題がないなどと考えているわけではない)。十分に花開き、実を結ぶにはつらい環境があったにも関わらず、小学校では、その「見るべきところ」がうまく機能した部分が多々あった。6学年という時間のなせるわざでもあるのだろうか。
2002年度の学習指導要領改訂を鍵と見るならば、それが中学、高校でも、花開き、実を結ぶとしたら、これからだったはずだ。小学1年生のときから2002年度の指導要領で学んで来た子どもたちは、いまようやく中学に上がったところだ。

1992年度の改訂や、「ゆとり」という言葉が初登場した1980年度に着眼すれば、もちろんそうではない。1980年の小1は、もう30代半ばだ(「ゆとり世代」という言葉は嫌いだけど、いまの学校の先生の多くも、その「ゆとり世代」なわけだ)。でも、「ゆとり」路線の真価というか「PISA的な見果てぬ夢」は2002年度にあったと思うんだよね。その意味ではそれ以前の指導要領も「ゆとり」とは呼ばれていても、また授業内容の厳選とか授業時数などで共通する傾向があるとしても、一線を画したものだったと思うんだけどな。
無責任な「壮大な実験」や、三浦朱門や毛利衛のような優生学的発想、格差拡大型の発想では困るけれども、ゆとり世代の小学校の先生がたは、2002年度の指導要領の「意義」や「課題」を正しくつかんでくれている人が、少なくないと思っている。

もうちょっと、今の方針での成熟と広がりを待ちたいなあ……。


posted by 亀@渋研X at 10:15 | Comment(3) | TrackBack(0) | 学校とか教育とか | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする はてなブックマーク - 子ども、「校長先生の授業」、TOSS - 2
この記事へのコメント
こんなにも大きく記事にしていただき、ありがとうございました。『プロ中のプロ』とおっしゃっていただき、A先生も喜んでくださるものと思います。

《この授業では、そうしたよどみが生じないような工夫がいくつもされている。》
 なるほど。こうした観点はもっていなかったので、おおいに参考になりました。そうおっしゃっていただくと、亀@渋研Xさんが書かれたこと以外にも、そもそも、授業が子ども主体になっているため、子どもも燃えざるを得ず、一般的にはよどむような場面でも、子どもたちは、自らの思いで、よどませないのですね。
 たとえば、掲載した写真ですが、A先生に証拠を示している子の向こうに、江戸の町の古地図を見ている子たちが写っています。この子たちは、A先生に話した後、自ら地図のところへ行って、それを見ながら話し合っているわけです。
 このようなこと、次回、拙ブログで記事にさせていただこうと思いました。

《設問の簡潔さ》
 これは、ほんとうにその通りと思います。わたしが、記述上、簡潔にしたわけではないのです。

《緩急をつける意味》
 ほんとうに、亀@渋研Xさんはすごいと思いました。『ゆとりとはり』これは、A先生が研究会などでよく話される言葉なのです。まさにそのことですよね。

《根っこの部分のノウハウを共有することに傾注すればいいのに。》
 そうか。ほんとうにその通り。A先生というか、わたしたちも、別な意味での法則化はしているのだ。そう思わせていただきました。

 おっしゃるように、中学、高校では、こうした取組は薄いですね。でも、数年前に亡くなられたのですけれど、大村はま先生のように、中学校で地道に努力された先生もいらっしゃいます。この輪が広がってほしいのですけれど(ほんとうに、亀@渋研Xさんは、切実なる思いですよね。)、わたしは、やはり、今の受験体制がそれを妨げているように思います。

《外ではなく、内に動機をもっていてほしい。》
 ほんとうにその通りなのですが、これと、ほめる、ほめられるということは、決して矛盾し合うものではなく、一人ひとりの子どもをじっくり見つめていれば、内発的動機をもっていることをほめることもできるわけです。そうして内発的動機の輪が広がっていくことをねらいます。

 ごめんなさい。だいぶ長くなってしまいました。後は、貴記事を引用させていただきながら、拙ブログの次回記事にさせていただければと思いました。

 よろしくお願いします。

 最後にもう一度。ほんとうにすばらしい考察をいただきました。感謝しています。
Posted by toshi at 2008年07月20日 06:50
toshi先生、さっそくのご訪問と過分なご高評、痛み入ります。

新エントリもありがとうございます。
http://blog.livedoor.jp/rve83253/archives/1150011.html

お礼等々は、のちほど新エントリの方へお邪魔します。
Posted by 亀@渋研X at 2008年07月23日 16:03
どうやって学習意欲をかき立てるか、子どもの意を汲むか、どうやって授業をたるませないか、そのためにはどういう準備が必要か……単元ごとに小手先で格好をつけるようなノウハウよりも、そういう根っこの部分のノウハウを共有することに傾注すればいいのに。

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こうした部分を法則化した書籍もたくさん販売されていますよ。ちょっと誤解があるのでは・・・?
Posted by たかし at 2009年07月31日 23:33
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