2008年07月25日

通り魔事件3:テレビは報道を自粛すべきでは?

その1:ほんとに今年は多い?その2:なんで増えた?の続きです。

その2までで、数字では確かに増えたんだけど、実は増えたの多いの言うには、そもそも少なすぎて意味ないんじゃないのかとか、もしも増えたと考えるならば、やっぱりテレビの影響がでかいんじゃないか、というところまで書いた。

■「テレビが危険だ」と言えるのか?
ある程度年齢が上がるとテレビと新聞とどっちが、という話も出てくるかもしれない。そこで、ちょっと統計を見てみよう。

図録▽1日当たり平均メディア利用時間:テレビ・新聞・インターネット

2004年までの数値だけど、みんな1日に3時間半もテレビ見てるんだ……。で、新聞やネットは40分いかないと。


統計では、新聞やインターネットを見る時間(各約40分)は、テレビを見る時間(210分)の5分の1足らずだ。とはいえ同じ時間を費やしても、得られる情報量は新聞やインターネットの方が多いに違いない(体験的には、ってことでしかないけど)。テレビでもネットでも報道ばっかり見てるわけじゃないけど、新聞はほとんど報道だって違いもある。だから、ほんとはそのまま比較はできないけど、まあ、情報量としては、新聞やネットから得るものをテレビの倍だと仮定しよう。1分をテレビでは1ポイント、新聞やネットでは2ポイントと換算すると、およそ「テレビ210ポイント:新聞80ポイント:ネット80ポイント」ぐらいということになる。テレビが新聞やネットの3倍近く。新聞とネットを足したものの4割増ぐらい。

ふつうの人の実感としては、これぐらいが近いのかな。想像でしかないけど、実はもっとテレビが圧倒的なんじゃないか、なんて気もする。わからんけど(余談ですが、ぼく新聞1時間ぐらいかな、ネットは……何時間かなあ、かなり長いと思うけど。新聞記事をネットで読むことも多いしなあ。こうしている時間も数えるとなると、一日中とか・汗。でも、テレビはせいぜい20分ぐらいかな。世間様とはえらい違いだ・大汗)。

同じサイトにこんな統計もあった。

図録▽新聞を読まなくなった日本人

「読まなくなった」なんてタイトルだけど、実は50代以上では増えてる。40代以下では減ってる。20代30代では激減だ。全体としては、そんなに激減しているわけではないかもしれないけど、30代以下ではテレビの影響って、すごくでかいという可能性は高まる。(ネットはどうなんだろうねえ)

関係ないけど、2005年で最も新聞をよく読んでいる60代って、1975年では最もよく新聞を読んでいる30代だったわけだ。1940年代生まれは新聞が好きなのかしらね(団塊の世代? いかにもな気もする)。

■テレビはプッシュ型のメディア
さて、上記のような統計だけでなく、新聞やネットとテレビなどの放送が決定的に異なる部分として、「放送はプッシュ型だ」ということがある。いったんつけたら、スイッチを切らない限り、情報を垂れ流しにしてくれる。

たとえば朝のニュースワイドが始まったら、チャンネルを変えなければずっとそれをやっていて、特にイヤでなかったらそのままになる。つまり内容を吹き込まれる。関心が低ければ注視はしないだろうが、音声はなんとなく耳に入るわけだし。ジャーンとBGMが鳴ったりすると、つい目が行く(家族を見ていると、雑誌やなんかと「ながら見」をしていても、そういう反応をしている)。「このテーマは関心が薄い」と言って読み飛ばせるようなコンテンツとはちょっと違う。

そういう状況下で、通り魔事件だの自殺だのといった話を、犯人のプロフィールだの犯行現場だの犯行に使った道具だのと、ダラダラダラダラと垂れ流してくれるのがテレビってもんなわけだ。しかも、しばしば扇情的なな演出までつけて。

ネットだって影響はあるだろう。新聞だって影響はあるだろう。週刊誌だってなんだって、なんらかのインパクトはあるに違いない。しかし、その影響力をテレビと比較したときには、かなり分が悪いであろうことは容易に想像できる。

であれば、テレビは事件報道を見直すべきだ。極論すれば、淡々としたニュースなどの、いわゆる「まともな報道」以外のワイドショー的な番組、とくに流しっぱなしにされそうな時間枠や番組枠では、扱うのを禁じるぐらいでもよいのかもしれない(たとえば朝の出勤時間帯のニュースワイドやゴールデンタイムなどがパッと思いつく)。
あるいは、演出を控えるとか内容を吟味するだけでも効果はあるかもしれない。

もしもここまでの考察がある程度正しいのだとすると、被害者のうちの何%かは、実行犯ではなくメディア、とくにテレビのワイドショーなどが殺したようなものだ、ということにならないか。であれば、見直しは即刻行われるべきだろう。影響があるんだかどうなんだか、いまだによくわからない「猟奇的なシーンのあるアニメやゲームなどのフィクション」や、タバコのCMなんかよりも、よっぽど効率的に長期にわたってたくさんの人を殺している可能性さえあるわけだもの。

■偶発的な事件は防げない、であれば報道する意味は低い
事件報道を控えたほうがいいという話をすると、「事前に危険を知っていたい」という意見が出て来ることがある。

しかし、前述した「年間数件だのというレベルの案件は統計で扱えないレベルのものではないか」という考察が正しければ、これは事前に知っていても役に立たない。おそらくは、年間で数十件なんて事件も、そうなのかもしれないなんて思う。一定程度の確率で、どっかにはおかしなことをしでかす人間がいるとして、それが次にどこに現れるかは、ある程度の共通点があったとしてもほとんどランダムとしか言いようがないのではないか。

あるいは、なんらかのプロファイリングが可能で、「こういう人が、こういう犯罪や自殺に走りやすい」というようなことがわかったとしても、条件に合致する人が容易に見極められ、なおかつ条件に合致する人が高い確率でそうした行動に出るということでもわかっていなければ、やはり役に立たない。

危険予防という意味では、こういう人が犯罪や自殺に走る可能性があるというだけでなく、「だから、こういうふうに対応しよう」という情報なら、役に立つかもしれない。しかし、事件そのものの報道には、ほとんどなにも役に立つものがないのではないか。

他罰欲求を煽る、あるいは、そうした欲求を満たすといったことはあるのかもしれない。しかし、それは怒りを向けるべき相手にとっておこう。いらんガス抜きなんか、してもらわないほうがよろしかろう。

そういう意味では、テレビだけでなく、ネットであれ新聞であれ、「通り魔や自殺などの詳細な事件報道には、百害あって一利なし」なのかもしれない。

ま、それはともかく、その1その2でも触れたように「増えてる!」「多いぞ!」と騒ぐのであれば、増やさないためにまず、あなたがたが自分ができることから着手するのはよいことではないの、マスメディアのみなさま。
posted by 亀@渋研X at 17:00 | Comment(10) | TrackBack(0) | 渋研X的日乗 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする はてなブックマーク - 通り魔事件3:テレビは報道を自粛すべきでは?
この記事へのコメント
今朝の情報番組でも八王子の事件を取り上げていたのですが(何の番組だったかはわかりません)、CMの直前にコメンテーターの1人が「包丁で刺したとか、見出しにこういう具体的なことを書くのは日本だけだ。アメリカではやらない。やめるべきだ」というようなことをしゃべってました。

仮に日本でもそういう規制を取り入れたとして、遅からず映画やゲーム、小説など、創作物の表現にも規制をかけるべき、という声はあがるんでしょうね。
Posted by A-WING at 2008年07月25日 18:07
そういう指摘、すでにあるんですか。やっと出て来たってところなのかな。
徐々に変わっていくとよいのですが。

>遅からず映画やゲーム、小説など、創作物の表現にも規制をかけるべき、という声はあがるんでしょうね。

あがるのでしょう。そして、それもまた修正すべき点ですね。

先日ちらと見た番組では、父親を殺してしまった女の子が「父親が家族を殺す夢を見た」と供述したという話を受けて、犯罪心理学者を名乗る人たちが「それが凶行につながったのでしょうか」と問われ、「関係ある可能性もあります」みたいなコメントをしていました。
そりゃあ関係ある可能性もあるでしょうけど、それを日常語に訳したら、本当は「なんともわかりません。両方の可能性があります」ってことですよね。
ああしたコメントになんの意味があるのかも、大変に疑わしいですね。
Posted by 亀@渋研X at 2008年07月25日 18:31
今晩は。

マスメディアは、自身の影響に無自覚ですよね。
自分の所にも書きましたが、知らせないとまでは言わなくとも、ある程度「やり方」を変えるというのは、出来る訳ですよね。淡々を事実を伝えれば良いのだと思います。

ちょっと細かいですが、「母数」と「ランダム」の使い方が、気になりました。
Posted by TAKESAN at 2008年07月25日 19:48
TAKESANさん

>マスメディアは、自身の影響に無自覚ですよね。

ほんとに無自覚なんでしょうか。シーンが違えば影響力の大きさについて、「ネットなんか大したことない」なんて、とくとくと語りそうな気がします。

>「母数」と「ランダム」の使い方
あー、おかしいですか。「母数」の方は、やっちまいそうな気がしています(が、ほかになんて言えばいいのか思いつかず・汗)。
たとえば、刑事事件の認知数のうちに通り魔事件の占める割合にするか、殺人事件の認知数に占める割合にするか、なんていうことを思い描いていました。もっとほかの数字でもいいんですが(たとえば、傷害+殺人とか)、こういうベースにする数字って、あんまり少ないと統計的な意味がほとんどなくなるんじゃないかと考えたのと、なにをベースにするかで意味が変わるだろうと考えたんですね。
もちろん、事件の件数にするか、それとも被害者数にするかといったことも考えなければならないのかもしれませんが。
こうしたときのベースとする数字、「刑事事件の認知数」「殺人事件の認知数」「傷害+殺人の認知数」に相当する部分を母数と呼んでしまったのですが、おかしいでしょうか。

もうひとつの「ランダム」の方は、ちょっと意外です。あ、飛躍があるのかな。
ある程度は共通する条件が(場所であれ犯人像であれ)あったとしても、共通する場所や人はかなりの数に上り、しかも、発生頻度はすごく少ないということが容易に想像できるので、ランダムなんて表現になってしまいました。

いずれの点も、お時間のあるときにでも、どうおかしいのか(あるいは、こんなふうにするとよいのではということでも)ちょっとご教示いただけるとうれしいです。
Posted by 亀@渋研X at 2008年07月25日 20:27
こんばんは。

 「メディアの皆様方」はおそらく、
生活を守るのに手一杯
なのではないかと思います。

 視聴率やら購買数やらを増やし、
なおかつ監督官庁のご機嫌を損なわないためには、
本格的な官僚批判は出来ないし、
小難しい政治ネタは使えないしで、

とりあえず目立ちそうな事件事故や
すぐには誰も責任を取らずに済む地球温暖化などを
取り上げるしかないのではありませんか?

ところで、
メディアを受け取る側の心理について文章を書き出したら長くなりすぎたので、
自分のところで挙げました。

お暇でしたらご覧ください。
Posted by 憂鬱亭 at 2008年07月25日 21:26
ごめんなさいごめんなさい。
長文の上に、恐ろしくごちゃごちゃしてます。

統計学的には、母数(parameter)は、母集団の分布の性質を示す定数ですよね。正規分布であれば、母平均とか母分散とか。(推測)統計では、その値を推測する訳ですね。

で、亀@渋研Xさんの使われ方は、「分母」に近い意味なのかな、と。母集団の大きさと同じの場合もありますが、必ずしもイコールでは無いですよね。
うーん、その意味で言うと、「何を母数とするか」、というのは、特におかしい訳では無いのかな。
いや、元々は、仮に、母集団の大きさを指しているのだとして、それを「母数」と表現するのは良いのだったっけ? と思ったんです。これは詳しい方に教えて頂きたいのですが、「母集団サイズ」を「母数」と表すのは、良いのでしょうか。私もそう表現する事があるのですけれど、いくら調べても、判らないんですよ…。

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たとえば、殺人認知件数を母集団と設定するとしたら、それは記述統計の文脈になって、割合とかを比較する、という事になると思います。後は、色々解釈していく、という。

この場合、推測統計的に考えると、どうなるのかな。母集団の設定とか…。

ちなみに、何を分母に持ってくるか、というのは、何を見るか、という所に関わってくるかと思います。それは、社会学的な論理が関係してくるでしょうね。統計はあくまで、その後に分析するツールとして用いるものなのかな、と。

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「ほとんどランダム」の方は、「前もって予測出来ない」、という意味を持たせてありますよね。これをランダム(無作為)と表現出来るのかなあ、と思いました。

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すみません、超解りにくいですね。これは、私自身が、適切な説明を出来るほど知識が整理されていないからなのです…。て、私のコメントに突っ込みが入るかも。

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後、「影響に無自覚」というのは、影響に自覚的であるそぶりをほとんど見せない、という意味で捉えて頂ければ。

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余談ですが、統計の用語は、結構使い方に混乱があるようです。「標本数」と「標本サイズ」とか(前者を使って後者の意味を指す)、「母数」で標本サイズを指すとか。なので、読む時、結構ややこしいんですよね。専門書レベルでも、違いがあったりしますし。
Posted by TAKESAN at 2008年07月25日 23:26
憂鬱亭さん、多くのメディアの人間もひいこら言っているのだろう、とはぼくも思います。一方で、ろくに仕事もしてないヤツもいるには違いないのですが。
でも、ちょっとはメディア側の人間としては「これでも大変なんですから、勘弁してくださいよ」とは言えない問題だと思うんですよねえ……。
情報産業って、ひとつ間違えたときの危険性は食品産業や教育なんかと似たようなものか、あるいはそれ以上の危うさがあるかもしれないと思っているのですが、なんかメディアが増え過ぎてるんだかなんだか、ズルズルのグダグダなメディアが多すぎる気がして……。

TAKESANさん、さっそくのご教示感謝です。
ええと、「よくわかりました」とは言えないんですが(^^;; 「母数」については、そもそもよくわかってない言葉を使うボクがいかんのですわね。「分母」という言葉を見たときに、そう思いました。
あとで、ちょっと自分で理解できる言葉に言い換えてみたいと思います。

ランダムは、うーん、そうかあ、こういうケースはランダムとは言わない……か??
「条件に該当する箇所が×千、条件に該当する人物が×万いる。それは全国にほぼまんべんなく散らばっている。実際に事態が発生するのは、その×千カ所、×万人のうちの十カ所程度でしかない。また、ここの要素にほとんど差がないため、どこで誰が行動に及ぶかは、およそ偶然に由来すると考えられる」といった状況を考えています。
もちろん、事前に予測もできないわけですが、これはむしろ、ランダムだから予測できない、という感じです。
いや、感覚に基づく怪しい話ではありますが(汗
作意ということを考えると、「結果としてランダム」とでもいうほうがいいのかなあ。

>影響に自覚的であるそぶりをほとんど見せない

なるほど。了解です。
お手数をおかけしました。
Posted by 亀@渋研X at 2008年07月26日 10:19
はじめまして。
初レスが反論的な内容になることをお許しください。
視聴者の側からテレビに対して犯罪報道を抑制するように求めるのは、視聴者としては本末転倒な行動ではないでしょうか。
ニュースは本来正確にかつ詳しく報道されるべきであり、模倣の恐れがあるからと言ってアウトラインだけ伝えたり、適当に端折って伝えたりすることは害の方が大きいと思います。
通り魔事件の報道にしても、真似して事件を起こしたという件数は一応カウント可能ですが、あの報道を見て類似の行動を思い留まったケースもあるかも知れません。でもそれを数えることはできませんね。
現状のマスコミの報道ぶりには私も業を煮やしていますが、視聴者側から自粛を求めるような意見を表明する方々が結構多いのには大いに懸念を覚えます。
Posted by オキナタケ at 2008年07月31日 23:44
オキナタケさん、こんにちは。
どこかでハンドルをお見かけしたような気がしますが、少なくとも、こちらでははじめまして、ですね。よろしくお願い致します。

異論・反論は歓迎致します。ちゃんと議論できるかは、まったく自信がないんですが(汗

いくつか「えー?」と思う点があるのですが、明解な意見というほどまとまっていません。でも、失礼して書いちゃいますね。

1. ぼくは視聴者なのだろうか。
ほとんどテレビを見ません。むしろ、マスコミ側の端っこにいる、という認識です(売れないライター、編集者なので「同じ業界」とまでは思いませんが)。

2.視聴者が「こんなのいらん」という意思表明をするのも、ありでは?
ぼくが視聴者かどうかに関わらず、視聴者側から「そこまでの情報は不要」とか、素朴に「不快だ」などという声があってもおかしくないと思うのですが。
例によって「見なければいいじゃないの」という意見は予想されます。しかし、自殺報道を引き合いに出していることからもおわかりいただけるかもしれませんけれども、いわゆる俗悪番組の問題とは、ちょっと違うんじゃないかと考えています。

3.「詳細な情報」というのは、必ずしも扇情的である必要はないはず
ここで主に問題視しているのは「テレビというプッシュ型コンテンツの」「ワイドショー的な報道」です。まあ、必要以上に詳細である必要があるのか、という思いはあります。
どこからが「必要以上」なのかは、また議論のあるところだとは思うのですが、「適当にはしょる」というのは報道のあるべき姿ではないとぼくも思います。なにをどこまで報道すべきかの議論が尽くされるべきなのかもしれませんね。

4.メリットも考えるべき
>あの報道を見て類似の行動を思い留まったケースもあるかも知れません。でもそれを数えることはできませんね。

この点は、本当におっしゃる通りで、報道することのメリットとデメリット(あるいはリスクとベネフィット)を考えるべきだとは思います。そして、ベネフィットのなかには表に現れて来ないものもある(かもしれない)、ということですよね。
ですから、一切報道すべきでないなどということは、上記の記事のどこにもぼくは書いていないはずです。

ご意見をいただいて、改めて自分の考えていることがわかってきました。
基本的には「自殺報道と同様に、通り魔的な事件についても、『なにをどのように、どこまで報道するか』について、メディアは慎重になるべきだ。特にテレビはその影響を考慮して、格段に慎重になるべきだ」というのがぼくの意見です。
しかし、正直に言うと、それだけではなくて「テレビで自殺や通り魔の報道なんかせんでもええわい」「ほかの媒体だけにしとけ」という気持ちが、やはりぼくにはあります。これはテレビに対する警戒心が強いせいで、あまり理のある意見ではなさそうです。
テレビの朝のニュースショーなどで扇情的に自殺や通り魔を報じるメリットって、何かあるでしょうか。

思いとどまらせる効果?(ほんとに?) ガス抜き?

またご意見をいただければ幸いです。
Posted by 亀@渋研X at 2008年08月02日 12:57
オキナタケさんのご意見は、テレビの放送枠や新聞の紙面や視聴者・読者の時間が有限である事を無視しているように感じます。
「ニュースは本来正確にかつ詳しく報道されるべきであり」というご意見に異存はありませんけど、「どのニュースを報道して、どのニュースは報道しないか」「どのニュースをどこまで報道し、どこまでは割愛するか」といった、リソースが有限な事に由来する不可避な政治的判断において、現状は著しく常軌を逸していると、私は感じています。
少なくともマスコミは、他のニュースを報道できた潜在的リソースをそのニュースの報道に充てるという政治的決断をした理由について説明をする責任があると考えますし、そもそも自分たちは常にそういう政治的判断をしているという自覚を持つ事が強く求められると考えます。
その点について、今回の件で述べられる事が「あの報道を見て類似の行動を思い留まったケースもあるかも知れません」だけなのだとしたら、その政治的決断は、私にはとても納得できるものではありません。


>亀@渋研Xさん「テレビの朝のニュースショーなどで扇情的に自殺や通り魔を報じるメリットって、何かあるでしょうか」

テレビ局の人が番組作りをするのがとてもラクです。

私は、マスコミこそが日本最大の利権団体・権益保護団体と思っています。マスコミほどコストパフォーマンス的にラクで無責任な仕事を他に想像できません。何も考えずに好き勝手に居酒屋談義や井戸端会議を垂れ流す事で成立するよう巧妙にシステム化され、それに対する責任をいかに放棄し免責されるようにするか周到に練られた体制・構造を確立しているように見えます。
もちろん、マスコミ内の個々人が誇りと責任をもって真面目に仕事に取り組んでいるのは知っていますけど、構造的にそういう仕組みが出来上がってしまってる──という事です。

社会心理学についてはまったくの素人ですけど、これはある意味当然の事だと思います。どんな組織だって、リスクなくラクして稼げるシステムを構築できるなら、そうしたいと思うはずです。でも、主に利害関係者の監視や介入によって、当該組織だけにメリットがあり社会全体には著しく不利益になるようなシステムの構築にはブレーキがかかるでしょう。
でも、「視聴者側から自粛を求めるような意見を表明する方々が結構多いのには大いに懸念を覚えます」といったオキナタケさんのようなご意見が増えれば、マスコミはこれからもリスクなくラクして稼げるシステムの構築に邁進していくのではないでしょうか。
Posted by 田部勝也 at 2008年08月03日 02:42
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