気がついてなかったんですが、つい先だっても、似たような報道があったんですね。
「女子は数学が苦手」はステレオタイプのせい――米大学(ITmedia 2007年05月25日)
NETAFULLで引用されているのはウィスコンシン大学、ITmediaのはシカゴ大学の研究ですね。アプローチが全然違うところが興味深い。そういえば、女性の数学者の数に着目したエントリを書いていた人もいたな。
なんか苦手意識を植え付けられたり冷遇されていたりする女性がいたら、こういう研究成果でちょっとでも事態が好転するといいんですが。
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NETAFULL氏と同様に、ぼくも女性が数学や理科なんかが苦手だって意識はなくて、俗説というか偏見だと思ってたんですよね。ところがですね、昨年、続けざまに2人の進学塾教員から「一般に女子の方が理系は弱い」という説明を受けまして、「えー?」てな思いをしました。
ひとりなんぞは、ぼくのアカラサマに懐疑的な態度を見て「いや、俗説じゃないんですよ、ほんとなんですよ」みたいなことを言い募ってました。「学校時代って、概して女子の方がまじめに取り組む生徒が多くて、教科を問わず成績もいいんじゃないんですか?」なんて聞くと、「それは確かにそうなんですが、でも」みたいなぐだぐだな話しかしてませんけど。
一般の人ならともかく、塾の教員がそういう印象をもつって、いったいどういう体験をしてるんでしょうね? ウィスコンシンの記事の方でも「女性は数学の能力に劣るとの固定観念が親や教師にある」なんて書かれてるし。
これが実態とは異なるのだとすると、なぜそういう迷惑かつ誤った印象が生まれるのか、そこはちょっと興味があります。「ああ、そりゃ勘違いするわ」っていうような事情でもあるのかしら。
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冒頭の「若だんなの新宿通信」さんがおっしゃる、
そう、俗説にまみれてはいけない。には全面的に賛成できます。それぞれの文がつながっているような、つながっていないような気はするけど(^^;;
そうした性差をもとにする議論は、たいてい個人差よりも小さい。
だから、女性科学者の芽を摘んではいけない訳ですね。
あ。「今回の研究でもって、なんにつけ性差なんか関係ないとわかった」とか言うと、それは飛躍。「この結果からもわかるように」とか言い出す人もいそうだなあ、なんて余計な心配をしたりして(ここでの若だんなさんの書き方「そうした○○は、たいてい××」は的確だと思う)。
いやいや。人ごとじゃない。
ぼくは「多くの場合、個人差の方が性差よりも大きいに違いない」と思っているなあ。でも、なにを根拠にしているのかというと、ろくな根拠は……ないなあ……。「数学が得意な女生徒が何人もいた」とか「女性で理系の学者を何人も知ってる」とか「だいたい女子の方がまじめで成績いいみたいな」なんていう個人的な経験や印象であるとか、さもなくば人生観とか人間観とかいうもんのような(汗
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こういう、ジェンダーバイアスだの性差別イクナイだのという「道徳的な観点から見て好もしい結論」って、怖いですね。自分のバイアスにお墨付きをくれたような気がしちゃうから。ほんとは、それとこれとは別の話だよね。こういう研究結果が出て来ても出てこなくても、どっちにしたって性差別はすべきではない。
数学がからんでて「差別じゃありません、女性ゆえの向き不向きを考えた適材適所です」とかいうなら、それに対して「そりゃおかしい」という論拠にはなるのだけど。
ついつい「こういうことからもわかるように、男女の能力には根本的に差はないんで、差別すべきじゃない」なんて、やりそうです。
原理的には、脳だのその機能だのなんだのについて、なにかについて性差があったっていいわけですよね(あってもおかしくはないというか、その可能性自体は否定できないというか)。でも、数学の得手不得手とかいう点については、性差はなさそうだぞという知見が積み重ねられている、と。
ま、ほかのいろいろなことについても、性差よりも個人差っていう話を、かつてたくさん読んだような気はする。それによって、今の印象が形作られて来たような気もする。でも、「気がする」だけなんだよなあ、覚えてない。なのに「裏付ける例には、枚挙にいとまがない」なんて調べないで書きそう。危ない危ない。昨日のエントリとか、だいじょうぶか、おれ(どきどき)。
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そういえば「俗流○○批判」などと呼ばれる主張には、その手の「妄言」が少なくないですよね。そういう個人的体験だの印象だの人生観とか人間観のみに基づいてたり、過度な一般化がされていたりと、根拠の乏しい憶測をたくましくしているようなもの。
ああいうものも、仮に結論が妥当だったとしても、論拠や推論に誤りが含まれていたり、確かめようもないような話だったらば、どれほど自分の経験に合致するように思えたり、自分にとって好ましい結論だったとしても、眉に唾して接したいものです。
……なんてことを事例を示さずに書いちまうと一般論ぽいわけだけど、実はこれは目くそ鼻くそとか、天にツバするってやつなわけですね。ひょっとすると結論は妥当かもしれないけど、妥当かどうかを確かめる術もないんだから。
読者は、てきとーに自分の体験に当てはめて「そうそう」と解釈してくれるかもしれないが、同じものを思い浮かべているとは限らない。しょせん、同じ意見の人が「そうそう」とうなづくことを期待しているだけの文章になっちまうわけだ。
あ、ブーメランになってもいいから天にツバをするという選択もあるか。でも、説得力ないよねきっと。あの人とかあの人とか考えると、説得力ないもんな。
しかし、そういう主張がメディアにも多いということは、実はそこら辺で「説得力ねえ」とは受け止めない受け手も多いってことか。そうだよな。
そうなると、言ったもん勝ち? ううむ、いやな渡世だなあ。
ま、だからこそ対抗言論や批判の意味があるわけだ。しかし、言いっぱなしのゴタクをつかまえて、ちゃんと論拠を示しながら批判するってのは、大変だ。不公平だ。なんというか「非対称性」の一例だなあ。
ちゃんとした批判活動をしている方々、ありがとうございます。
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ところで、NETAFULLは、スポーツ紙2紙(日刊スポーツとスポーツ報知)とZAKZAKが元ネタ。あ、報知とZAKZAKは、どっちも共同通信か。日本語でググった程度では、ほかのソースがちょっと見当たりません。シカゴ大もウィスコンシン大も一般紙には出なかったのかもしれないですね。
陰謀論者的に反応すると「一般紙などの既存の権威に近い筋では、こういう偏見が残っていた方が都合がいいのだ」って話になるのでしょうかね。
#書きかけのものや、書かなければならないものがたくさんあるのだけれども、どうしても書きやすいものから採り上げてしまうなあ……。
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オレとしては、多分個人差よりも大きい性差のようなものが、「中には」あるんじゃないかという印象はありますね。勿論、これも学問的な根拠があって言っているわけではありませんが(笑)。
で、多分それはsexの問題ではなくgenderの問題であって、そういう意味では「女性だから○○である」という「言説の存在それ自体」が、女性という社会的・文化的性の在り方に対して一定のバイアスを掛けているんじゃないかと思うんですよ。
お書きになった「女性は数学(理系学問)が弱い」という言説というのは、かなり広汎に流布している俗説ですよね。で、多分男女の間で肉体的性差によって学問の得手不得手が決まるなんてことはないんですよ。
ただ、そういうふうに世間で一般的に謂われているから、女性が数学が苦手でも「女だからなぁ」というふうに許容されてしまうし、寧ろ数学や理系学問(つまり世間一般では「堅くて小難しい学問」だと思われている学問)に強い女性は「可愛げがない」「生意気だ」と視られて、たとえば本人に理系の職種に就きたいとかいうような希望でもない場合、現在一般的に女性が適応しているような「世間の仕組み」の上では損になる場面が多いのかもしれません。
つまり、数学や理系学問が必要とされる目的を達成したいという動機でもない限り、今現在一般的に女性は数学が出来なくても莫迦にされたり不利益を蒙ったりしないし、積極的に数学を学びたいと思わせるような社会的メリットも存在しないということで、だから多くの女性は数学を積極的に学ぼうと思わない、したがって女性の平均的な数学の成績は低い水準に留まっている、というだけなんじゃないかと思います。
これは逆に謂うと、男女の間で進路の選択が自由になったように見えて、まだまだ女性には数学が得意だということがメリットとなるような進路が十分開かれていないということなんではないかとも思います。未だに理系の研究職や技術職の女性を珍しがる人もいますからね。
で、ご紹介の進学塾教員氏は、そういう「成績の傾向」というエビダンスを多々視ているという経験的な確信があるわけだから、潜在的に抱いている「女性は数学が苦手」という俗説が補強されるわけです。
種を明かせば、女性一般が志望するような進路においては、まだまだ数学が必要な分野が少ないし、数学や理系教科のようにしっかり基礎や応用を訓練しなければ習得出来ない教科で苦労するよりも、コツを掴んで要領良く試験向きのスキルを上げられる文系教科のほうがハードルが低い、つまり安全だ、困難に敢えて取り組まなくても済むような言い訳として「女性は数学が苦手」という俗説が機能している、そういう進路システムにまで織り込まれた性的偏見の傾向の故だと思いますね。
また、たとえば、得てして女性は男性と違って割と簡単に泣いたり感情的に振る舞う傾向がありますよね。これは別段肉体的な性差に由来しているとは限らないわけで、単に世間では「女は男より弱くてメソメソ泣くもの」「女はつまらないことでヒステリーを起こすもの」というふうに視ているから、女性が泣いても男性が泣いた場合とは違って嘲笑ったり叱ったりしないわけで、その分、涙を流すほどの感情的切迫に対する訓練の経験が少ないのかもしれません。
自分の子供の頃を思い出すと、男女の間でそんなに大きな違いがあるわけでもないんですよね、男の子だろうが女の子だろうが、よく泣くものです。ただ、男の子が簡単に泣くと「情けない」とか「我慢が足りない」とか謂われて大人から叱られたり、友達から嗤われます。泣くことは情けなくて恥ずかしいことだと骨身に沁みるまで教え込まれます。おそらく、普通の女の子はそういうふうには躾けられないでしょう。
男の子が泣いた場合、泣いたことそれ自体の責任を本人に問いますが、女の子が泣いた場合、「誰が泣かせたのか」というふうに他者の責任を問うような無意識の仕組みが出来上がっている。
で、こういう世の中の仕組みみたいなものを突き詰めていくと、詰まるところ、どうしても男性が女性に抱く暴力的な性的欲望の問題に行き当たるわけで、暴力闘争の場面において、絶対的に女性は男性よりも非力であり、さらに暴力闘争で蒙る肉体的リスクが大きいという絶対的不公平に衝き当たるわけです。
ジェンダー論がここに衝き当たってしまうと、これはちょっとやそっと考えたくらいではマトモな解法が思い附くものではないわけです。性的欲望みたいな理不尽なパトスを合理の理性だけで考えてコントロールしようとしても、思い通りにどうにかなるものではないのですから、ここがいちばん難しい核心だと思います。
まあ、この程度の例示で説得力があるとも思いませんが、たしかに肉体的性差や器質的な違いが男女において一般的な傾向の違いとして顕れている要素もあるのかもしれませんが、それよりも圧倒的に多くの所謂「性差」というものは、「男はこういうもの」「女はこういうもの」という多くの人々の思い込みと、それに由来する社会行動や有形無形の社会システムに起因しているのではないかとオレは考えています。
性差があるとした場合、その多くがいわゆるジェンダーによるものだろうという見方は、ぼくも異論はありません。で、周囲の無意識の教育によるものという点も、自分自身の体験を振り返ったり、子どもたちを見ていてうなづけるものがあります。
素朴なところでは、幼稚園に入った途端に、それまで気にもしていなかったボクの赤い服について「赤は女の子の色なのに」とか「お父さんは男なのに髪が長いんだねえ」とか言い出すわけですわ。あ、ほかの子どもにもしこたま指摘されましたが(笑)
同じように、いろいろなところで「男女はそれぞれどのように振る舞うか」は、親がどう教えていようとも、誰ともしれない世間に吹き込まれて、どう頑張っても完全には勝てませんね(^^;;
それはそれとしてですね、塾の先生あたりが、それこそ教師になる前からそういうステレオタイプをもっていたとしても、体験のなかで強化されちゃうってのは、なんとなく納得できないんですよねえ。
女性本人は、あるいは黒猫亭さんがおっしゃるような心理状態にもなろうかと思うんですが、なぜ第三者である教師が?
統計とかを取ると男女差なんかほとんどないんじゃないの? なんて思うわけで。いや、これも根拠なんかないんだけど(^^;;
それとも中学ぐらいになると、すでにステレオタイプの影響を受けて苦手意識をもっている女生徒が多いとか、あるいは、そういう自分の思い込みに合致する生徒ばかりが強く印象に残るとか、そういうことなのかなあ。まあ、そういう理由はいくつも思いつくと言えば思いつくんですけどね。
性差の話を、sexとgenderの話にしなかったのは、こういう「ややこしい」話になるのがわかっていたからでした。
その辺りは、一度、書いてみたいと思います。
乳児の時から、女の子は人の顔を好み、表情を男の子よりよく見分けています。これは赤ちゃんの研究によりよく知られていることです。そうしたことは、男の子よりも早い言語の発達やコミュニケーション能力の発達に結びつきやすいです。
教室に来る2歳前の女の子は、ままごとや人形遊びに近い遊びをはじめ、言葉で親とコミュニケーションを取ろうとする姿がよく見られます。男の子もこうした子はいますが、言葉に遅れがあり、くるくる回るものや、ビー玉転がしなどに熱中する子も多いです。それからの発達で、女の子の遊びは親とのコミュニケーションを取りながらするものや親の模倣が主ですが男の子は物そのものの動きに熱中し、プラレールを走らせルことや、ブロックなどが中心になります。
こうした遊びの性差は、数や図形そのものの変化に関心を抱く男の子と、大人に褒められることを目的に算数に取り組む女の子の姿として表れます。
私が教えていると、言葉の発達が早く、観察力のある女の子は、論理数学的な問題には幼い頃から興味をしるし、能力を発揮します。男の子が勝ち負け燃えて、計算の必要なゲームに熱中する時も、女の子はそれほど熱中していません。
しかし、ゲームの中に複雑な社会のルールのようなものが組み込まれているものには関心をしるします。買い物、両替、取引、お祝いを配る、など家庭や社会のなかに含まれている算数をゲームに取り入れると喜んで取り組みます。
算数ドリルのようなものは、女の子は男の子のように集中しません。しかし、教えるときに、「もっとちょうだいよ〜」等と、劇をするように、算数の文章題を説明すると、興味をしるしきちんと解きます。
女の子に算数をさせるときには、興味を抱かせる工夫が必要なようです。男の子は「形そのもの変化や動きそのもの」を好みます。興味が数学向きですね。
男の子は、高いところに登ることもよくあって、空間認知の力は女の子より優れている子が多いです。中学入試や高校入試でこの力が問われることが多いのも、女の子は数学が苦手と見える原因かと思います。
それには、女の子にブロックのようなおもちゃを与える親が少ないことも原因しているようです。ただ、同じように与えても、空間を把握する力は男の子の方が優れているように思います。
計算力は、女の子はまじめさとミスの少なさで、男の子は競争本能で取り組むので、馬力の差では男の子がまさる気もします。
文章問題は、読解力の優れている女の子は、国語の力でけっこう解きます。難関中学入試に向けての学習でも、性差を考えた教え方さえすれば、それほど差はないと思います。
しかし、興味、好みという部分では、女の子は英語のようにコミュニケーションがからんだことが好きなので、得意止まりで終わるかもしれません。
私には娘と息子がいますが、どちらも数学は好きな教科ですが、着眼点や解き方はずいぶんちがいます。要領の良い娘は数学も暗記教科として捉えている部分があります。息子は、今数学にどのくらい時間がかけれるか…といったことを一旦脇に置いて、ゲーム感覚で「解きたい」気持ちが強いようです。
自分の目の前の目的以外のスイッチを切っていける部分が、娘よりも数学に向いている感じはします。
それと、これまで息子の夢中になってきた、プラモデル、ボードゲーム、TVゲームが、数学の能力に大きく貢献してくれているので、経験の差だけ、娘より数学が得意な気がします。
こうしたことは、子育てと教室での経験から感じたことなので、主観的なものですが…。ただ、女の子にも、男の子以上にゲームに熱中する子はいて、数学が好きな子もいるので、性差だけでなく個人差も大きいとは思います。
かなり長文です。
この種の問題では、「女性は/男性は」、がどういう意味を表しているか、というのがポイントでしょうね。
そもそも大前提として、女性と男性の数学能力に実際違いがあるか、という見方があります。
次に、仮に差があるとして、男性あるいは女性の、何らかの生物学的差異が、ある能力の差を生み出している、という観点があります。
そして、差は生物学的な違いに起因するものでは無く、「女性/男性はこうであるべき」、「男性/女性は能力にこういう差がある」、という、いわゆるジェンダーステレオタイプの形成によって現れているのでは、という観点が考えられます。
で、まず、現在男性と女性に差があるか、というのは、これは、調べれば解るもの、と一応は言う事が出来ます。
思考実験的に、少し状況を単純化・理想化して、
・「数学力」を正確に測るテストがある。
・そのテストを、調べたい集団の全ての
構成員に行わせる。
・回収の不備等が無く、データがちゃん
と採れた。
という調査が出来ると仮定すれば、少なくとも、「現状における数学能力の男女の違い」は、解ると言って良いと思います。
次は、その違いをどう評価するか、という見方です。恐らく、テストの点数(これは、「数学力」を正確に反映している、と仮定する)を横軸に置き、縦軸に人数を置いたグラフを描くとすると、男女共に、極端に低い/高い点数を取る人は少なく、真ん中辺りが盛り上がる、ベルのような形状のグラフが出来上がるでしょう。
そうやって、点数の「分布」が明らかになった場合、平均点の差はどれくらいか、という所と、どのくらいデータがばらついているか(横に平べったい形であれば、色んな点数を取る人がばらばらにいる。尖った形なら、同じような点を取った人が沢山いる。前者はばらつき大、後者はばらつき少)、という所を見ます。
そうすると、男女に違いがあるか、というのは、はっきり解る訳ですね。「何故そうなっているか」はともかく、取り敢えず、「そうなっている」事は解る。
尤も、これは理想化したものであって、本来的には、「数学の能力とは何か。また、それを測るテストは作れるか」、「何を調査するか。母集団としてどのような集合を対象にするか」、「サンプルはどうするか。きちんと無作為に採れるか。」、「データはちゃんと得られるか。」等の、心理学的方法・あるいは調査法一般に関わる難題があるので、まずそこからきちんと考えなければならない訳ですが。
そうして得られた(と仮定)データを見て、ばらつきと平均を比較して、大きな違いがあれば、男女間に違いがある、というのは、結論出来るのですね。取り敢えずは。
という事で、ウィスコンシン大の研究は、このような調査であったと考えられます。もしこの調査が科学的に見て妥当な手続きを満たしているとするならば、男女間に違いは無い、と言って良いのですよね。これは、血液型性格判断否定の論拠と同じです。
対してシカゴ大学の研究は、黒猫亭さんが仰るような、ジェンダーステレオタイプが影響を及ぼす可能性、の心理学的研究、と見る事が出来ます。
これも、テストの妥当性・信頼性、あるいは、実験条件の正確さ(割り付けはちゃんと出来ていたか、等)が良いものであったとすると、「ジェンダーステレオタイプが認知―行動に影響を与える可能性が示された」、と考える事が出来ます。
こちらも、血液型性格判断の、「ステレオタイプによる自己成就現象」と同じですね。○型はこういう性格である、という思いが、実際の行動傾向に影響を与えてしまう、という可能性を示唆しています。
数学能力の違い、血液型性格判断、についての研究に共通しているのは、まず、「違いはあっても構わない」という所です。理由は何であれ、違い自体は存在してもおかしく無い、そして、それは調べてみれば明らかになる。
で、(一応調査が信頼出来るものだとするならば)、実際、違いは無かった訳ですね。そこからは、「数学の能力について、男女間に違いは無い」、「血液型によって性格に大きな違いがあるとは言えない」、という結論が導かれる。
次に、ステレオタイプの影響の評価。
数学能力の場合は、ステレオタイプによって成績が変わり得る事が示された。これは、仮に統計を採って差があった場合にも、それが生物学的差によるものでは無く、ジェンダーステレオタイプによるものである場合が考えられる、という事です。
血液型性格判断の場合は、血液型と性格に生物学的に関係が無くとも(小さくても)、社会的認知が個人の認識に影響を与え、それが行動にまで影響を与える可能性がある、というのを示します。
ですから、一応は、「実際に差があるか」、というのと、「差を生み出すものは何か」、というのを区別しつつ考えるのが重要ですね。その意味で、両方に関しての研究結果が出たというのは、とても興味深いものですね。
男女差というのは、多くの人が関心を持つ領域であり、また、これは血液型性格判断と構造がとても似ているので、関連付けて考えるのも面白い、と思って、ちょっと(いや、ちょっとじゃ無い…)書いてみました。
えっと、ITmedia Newsの方についてはてブに、
▼▼▼引用▼▼▼
タイトルがおかしい。ステレオタイプが女子に精神的プレッシャーを与え、成績を落とす傾向が見られた、というのが今回の実験。女子が実際に数学が苦手かどうかはわからない。男子学生にも同テストを行うべきだろう。
▲▲引用終了▲▲http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0705/25/news051.html
というのがありましたけど、これはその通りですよね。ジェンダーステレオタイプが成績に影響を与える事が示唆された、というのが件の研究から得られるもので、女性が数学が苦手なのはステレオタイプがあるからだ、とはならない。数学が苦手な女性がいたら、それはステレオタイプによるものかも知れない、というくらいは言えるかも知れませんが。
で、最後の文の、「男子学生にも同テストを行うべきだろう。」という所に関する一つの答えが、ウィスコンシン大の研究である訳ですね。
今の所言えるのは、
・どうやら、そもそも女性と男性に、数
学的能力の違いは無いようだ。
・どうやら、ジェンダーについてのステ
レオタイプが、実際の課題遂行成績に
影響を及ぼす事があるようだ。
と、こんな感じでしょうか。
なにがどうなっていると「性差がある」とみなせるのか……もう、そこから罠がいっぱいあって難しいですね。
直接の関係はないんですが、底の方でつながっていそうな記事がありました。
「女性らしさを生かして」ってヘンじゃないですか。(2年目女子ですが、いいですか? 2008年7月28日)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20080724/166159/
ステレオタイプの影響を受けている企業のアナウンスの影響を受けて……というややこしさも似ています。
(http://mohariza6.exblog.jp/8922204/)
との題で、内容をトラックバックさせて頂きました。
トラックバックが通ってなくてすいません。
コメントはそちらで書かせていただきました。