hituziのブログじゃがー
ブログ主はhituzinosanpoさん、こと、あべ・やすしさん。
ごく大まかにいうと、視覚障碍者や日本語学習者のために「和語は漢字にしない」「地名などの固有名詞にはルビをふる」「必要に応じて分かち書きを取り入れる」という方法はどうだろうか、という提案をされているブログです。
ブログの記事も、そういった方針で書かれているので、正直に言うと「いまのボクにはとっつきにくい表記法」です。少なくとも、最初は読みやすいとは思わなかった。しかし、これは慣れの問題が大きくて、いくつか記事を読むうちにさほど気にならなくなりました。特に「和語は漢字にしない」のだな、と知ってからは。
それでもまだときどき、「ん? ああそうか」とつっかえますが(^^;;
なにしろ、いろいろと刺激を受けています。なかでも、ちょっと前の記事ですが、下記を読んで自分でも書いておきたいことがあるのに気づきました。
わかちがきは、発明されたものだ。(hituziのブログじゃがー 2008ねん 07がつ 04にち)
日本語の組版(んーと、印刷時の文字の配置とでも言えばいいかな)技術の変遷が、日本人の日本語記述方法に影響を与えているのではないか、という話を思い出したのです。これは、仮説というほど精緻なものではありません。が、思いつきというほど無根拠なものでもないと思います。
もしも、これからするお話が妥当なのだとすると、印刷・組版技術が日本人の考える「正しい日本語の書き方」を変えてしまったのかもしれない、そしてそれは現在も進行中だ、という可能性があることになります。もっと一般化すると、「技術が、規範としての正しさに影響を与えることがあり得る」というわけで、このような標題になりました。
hituzinosanpoさんの問題意識に引きつけて言えば、日本語の標準的な表記法というのも、案外と教育の力などでなく「実業の世界」から変えて行くことができるのかもしれない、それは現在も進行中なのかも、といった話でもあります。hituzinosanpoさんには新しい知見は含まれていないかもしれませんが、自分の心覚えとして、書き留めておきます。
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ご存知の方もおいででしょうけれども、江戸期の黄表紙本や明治期の錦絵新聞などを見ると、現在の日本語の組み方とはいろいろなところで違いがあります。書籍でも、ある時期までのものは、一見してわかる現代との違いがあちこちにあります。
現代の日本語組版には、おおまかに言って次のような原則があります(後述するように、徐々に変わりつつありますが)。
- 1文字分のスペースは均一の正方形
- 形式段落の最初は1字下げる
- 句読点は1文字分のスペースをとる
- 句読点は前の文字に近づけて、脇に置く(タテ組みの場合は右上に、ヨコ組みの場合は左下に)
- 文章全体は矩形に組む(行長が等しい=ハコ組み)
しかし、みなさんご存知のように、かつては違いました。
漢字仮名混じりの文章でも、句読点や形式段落をまったく使っていない時代がありました。ちょうど漢文の白文のようなものです。前述の黄表紙本や錦絵新聞は、上記のいずれの原則にも合っていません。句読点も段落もなく、ハコ組みでもないのがふつうです。
句読点が登場してからも、均等に組まれた文字の字間に句読点をねじ込んでいるようなものもあります。漢字や仮名と同じ大きさの句読点も見たことがあります。位置も、タテ組みの行の左右中央に句読点があるものもあります。年代を追って印刷物を見ていくと、さまざまに姿形を変えながら徐々に定着していったのだということを、感じ取ることができるでしょう。
いま、ボクは主に1800年代後半以降の新聞や書籍の写真を参照しながら、このエントリを書いているのですが、前述のような原則が日本語組版において定着したのは、だいたい1890年代から1900年代のおよそ10年あまりなのかな、という印象です。
25別の言い方をすると、句読点の形や位置、大きさが現在のようになるのは、金属活字での組版が定着した後なのです。句読点や段落がいまのスタイルになってから、まだ100年あまりしか経っていない、ということでもあります。
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金属活字以前の木版印刷では、連綿体などと呼ばれる「続き字」で文字が彫られていることはごく当たり前でした。さらに、より古くには連綿体を植字するための「連刻木活字」も存在しました。
これらは、当然ながら筆で書くときの記述スタイルを再現しようとしていたのだと思われます。ふつうの書きものを真似たということでもありますが、初期の本は「手稿本」「手写本」だったので、それを真似たという意味でもあります。
さらに、草書体や連綿体の場合、前後の文字と続いている部分だけでなく、切り離されている部分もあります(それが現今の分かち書きと関係があるのかどうかは、ぼくにはわかりません。けれど、ちょっと気になっています)。
また、初期の金属活字での印刷物には、必ずしも均等な文字配置ではないものもあります。おそらく、最初は「木版印刷と同じことが再現できる」ことが目標だったのでしょう。金属活字は1文字ずつ同じ大きさに作りますので、大変な作業だったはずです。しかし、それ以前の技術でできていたことができないのでは、せっかくの新技術が見劣りしますから、現場が必死に頑張ったものと思われます。
そのうちに金属活字での組版が普及するとともに、金属活字で組みやすい「均等な配置」が徐々に主流になっていったのでしょう。つまり、金属活字で手間がかからない=ローコストで達成できる文字組みが、主流を占めて行ったわけですね。
ぼくは上記のことを『字の匠』という冊子を制作したときに、アートディレクションを担当された永原康史さんに教わりました。永原さんは、その後『日本語のデザイン』(美術出版社、2002年)という本に上記のようなことをまとめたようです(ぼくは未読ですが、ここで述べている技術が与えた制約について、永原さんはより精緻な仮説にまとめているかもしれません)。
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1960年代以降、写植組版が浸透します。さらに1980年代には、コンピュータ組版(電算写植)が一般化していきます。90年代にはDTPによる組版が浸透して行きます。
写植では、均等ではない組み方が活版印刷よりは楽にできるようになりました。最初は1文字ずつ字間を調整する必要がありましたが、そのうちに「均等詰め」なら自動でできるようになりました。コンピュータ組版は、1文字ずつの字間調整さえ自動にしました。
ここ20〜30年ほどのうちに、句読点をはじめ文字の組み方が変わって来ています。全体に、ベタ組み(均等組み)よりも、プロポーショナルに組む(文字に応じて空きを調整して組む)ことが増えて来ています。
国産の写植組版機や組版ソフト、ワープロでもプロポーショナル組みは、できないことではありませんでしたが、特殊とされた組み方で、手間がかかるものでした。ところが海外由来のDTPソフトやワープロソフト、デジタルフォントでは事情が違いました。欧文では、プロポーショナル組みが主流だっため、デフォルト設定がプロポーショナル組みなのです(上質なプロポーショナル組みが自動でできることが、欧文コンピュータ組版のメリットという面があり、それが日本にローカライズされるときにも踏襲されたのです。意図的かどうかはわかりませんが、簡単には仕様変更できなかったという面は否めません)。
いまは印刷用機材の主流が、海外由来のものに移りました。それによって、つまり使用する機材やソフトの主流が変わったことで、文字組もまた変わって来ているのです。
その結果、印刷出版業界ではある議論が生まれました。「DTPソフトやワープロでは、なぜ写植や活版のようにちゃんとしたベタ組みができないのだ」「おかしいではないか」「ちゃんとした日本語組版ができる、国産のソフトが必要ではないか」というわけです。
ある程度以上の年齢の人は、「1行あたりの文字数がどの行も同じになる」といった、ベタ組み=均等な文字配置が「正しい」という印象が抜き難くあり、新技術ではそれができない、という不満をもってしまったのです。どうしたら、きれいなベタ組みができるか、という議論も起きました。
永原さんや私は、こうした議論などの経験があったために、初期の活版印刷物を見てすぐに「あ、これは木版の再現をねらったのではないか」と考えた、という側面がありそうです。新技術の登場時には同じことが起きるんだね、と考えたわけです。
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印刷だけでなく、手書きにしても、たとえば原稿用紙の升目に字を入れるように、均等に文字を置くのがふつうというような感覚が、ある年齢層には抜き難くあります。ボクのように草書や行書にあまり馴染みがなく、しかも印刷物が前述のような均等組みが主流だった時代に育った者です(それ以前の世代、たとえばボクの親世代は草書や行書にも馴染みがあって、手書きだと1行の文字数が変わるのは自然なことという感覚があるようです)。
これは、活版印刷、特に金属活字の組版の強い影響下にある、技術の制約が「正しさ」のイメージを作ってしまった例ということができるのではないでしょうか。言い換えると、そのとき主流の技術で実現しやすい方法が、その時代の「正しさ」に影響を与えてしまう、ということかもしれません。
お気づきかもしれませんが、Windowsをはじめとするパソコンのテキスト処理も、プロポーショナル組みがデフォルトです。MS Wordのデフォルトフォントは「MS P 明朝」「MS P ゴシック」ですが、「P」はプロポーショナルの頭文字と言われています(伝統的なベタ組みをするには、フォント名にPの付かない「MS明朝」「MSゴシック」を選択する必要があります)。
今この文章を読んでいるブラウザでも、デフォルトでは「MS P 明朝」「MS P ゴシック」で表示されているのではありませんか?(ぼくはMacユーザーのため、Windows環境を十分には把握していませんが、ごく最近まではそうでした)。
いま、日本人は「ベタ組みが正しい」「ベタ組みが読みやすい」という感覚を、急速に失いつつあるところだと言えそうです。
技術的な制約は、いろいろな意味でコストと言い換えることもできるでしょう。それが、規範をかたちづくるということが起きうるのだとすれば、「日本語をどのように記述するか」という議論においても、上記のように技術の変遷を追うことがなにかヒントを与えてくれるかもしれません。学校教育などで仕込まれる規範ではなく、技術(コスト)が要請する規範が解決する部分があるかもしれません。
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この話を、すぐに分かち書きや漢字仮名の文字遣い、ルビの問題に拡張して語ることはできません。しかし、「そのように準備されている技術」を使うのが当たり前になると、強制的にであれなんであれ、かなりスムーズな移行が起きてしまう、ということはあり得るのではないでしょうか。
「我々は、使用に際してコストがかからない方法を、知らず知らずのうちに採用する可能性が高い」と考えることもできます。その場合、たとえば仮名漢字変換のエンジン(Input Method)が自動的に文節を判断して分かち書きにするとか、「和語は仮名書きにする」といった選択肢を備える……といった技術支援がなければ、なかなか浸透しにくいということも意味するかもしれません。
先ほど、「DTPソフトやワープロでは、ちゃんとしたベタ組みができない」という話をしました。実際には、印刷会社用の組版ソフトや専用機は、きれいなベタ組みが当然のようにできたのです。しかし、それは数百万と高価だったり、使いこなすには熟練が必要だったりしました。数十万という比較的ローコストで買えて、あまり高度な訓練を必要としないDTPソフトには、簡単かつきれいにベタ組みができるソフトがなかったのです。
印刷会社の組版ソフトや専用機の簡易版のようなソフトもありました。デザイナーや編集者の求めるクオリティは出すことができ、一部の印刷所でも使用されていました。しかし、デザイナーや編集者が使いこなすには複雑で、市場で大きな人気を得ることはできませんでした(現在も存在しています)。
そして、2001年に「きれいなベタ組みが、簡単にできるDTPソフト」が登場します。しかも、当時デファクト・スタンダードであったソフトよりも安価でした。前述の『字の匠』という冊子は、そのソフトに同梱するために作成されたものです。
現在、このソフトは徐々にデファクト・スタンダードの地位を得つつある、とぼくは考えています(ただし、ベタ組みに関するアドバンテージの重要性は、徐々に失われているとも見ています)。
これもまた、コスト(金額だけでなく、技術の習得や実践にかかる手間ひま)と技術や規範の浸透の関係、そのひとつの側面を語るエピソードのように思われます。
私は今までこう考えていたんです、
日本語を横書きにする場合、現在は左から右へ書いていくが、終戦までは逆に右から左に書いていた
と。
ところが、古本市で見つけた戦前のある雑誌(映画関係っぽい)の表紙には外国人女優の名前が現在と同様にカタカナで左から右へ書かれていたんです。
「何コレ?」と思いながら他の雑誌などを見てみると、
広告などまばらに文字が配置されている場合に「左から右」に書かれていることがあり、
さらに同一ページ内に「左から右」と「右から左」が混在していることもありました。
そんな無茶が通ってたくらいですから、どんな表記方法であれ読者は意外とすんなりついてきてくれちゃいそうな気がします。
こ、これはすごい(^^;;
そういえば和文のヨコ組みが、左から右に落ち着いたのも、そんなに古いことではないようですね。
通則みたいなものがまだなかったのか、それとも融通無碍で、あまり気にしなかったのか。
ぼくも、かつては「戦時中までは、ヨコ組みは右から左だったんだ」と考えていました。で、タテ組みの文章の進み方に合わせてたのかな、と想像していました(ときどき、そういう説明がありますよね。1文字ずつのタテ書きだったんだ、っていう)。タテ組みヨコ組みを一緒に配置する場合は、そうせざるを得ないという発想があったんじゃないか、とか考えてたんです。
でも、大はずれでした。もっと自由だったみたい。
1892年の『英和會話』という本は左から右のヨコ組みです。英語の参考書なので、和欧混植です。そうなると、当たり前ですが和文だけ右から左にはできませんものね。
戦時中の『新技術』という雑誌は、基本はタテ組みなのに、中に左から右のヨコ組み和文が混ざっていました。
短い独立した文字列だと特にどっちかにそろえる必要もない、ということだったのかもしれませんね。
屋名池 誠『横書き登場──日本語表記の近代』岩波新書
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0311/sin_k146.html
未読ですが、上記Webページに〈「日本古来の横書きは右から書く」「左横書きは戦後、国の政策として行なわれた」等々の「常識」が頭に浮かんできませんか? 実はこれらは「現代の伝説」に過ぎなかったのです。〉と書かれています。
楽しいエントリーを上げてくださって、どうもありがとうございます。
冊子「字の匠」を読みたいなと思って、ネット検索してみたら、表紙の画像を見ることができました。その時一瞬、活版の文字が逆向きじゃないので、「どうやって作ったんだろう?」と驚いたのですが、よく考えたら簡単なことでした。「彩の匠」も読みたいと思ったんですが、無理ですね。
デビッド・フィンチャー監督の映画「セブン」を観た時、クレジットのエンドロールに驚いたのを思い出しました。普通は文字列が上へ上へと動くのですが、この映画は下へ下へと動いて行くんです。最初、変な気分がするのだけど、何故変な気分がするのか理由が分からなくて、下へ動いて行くから変な気分がしたのだと気がついた瞬間にビックリ仰天しました。こういうエンドロールって過去になかったんじゃないですかね。よく知らないけど。
そういえば、アラビア語の中に英語、ドイツ語、フランス語などが混植されてると「左から右」「右から左」がごちゃまぜになるんじゃないでしょうか。まあ、これもよく知らないんですが。
色々と文字やら本やらの書き方を規定するようになったのは敗戦後の話で、それまではガイドラインのようなものすらなかった、とベテラン編集者(故人)から聞いた記憶があります。
そのとき合わせて聞いた事だったと思うのですが、
右から左に文字を追う習慣しかない人(縦書きの日本語を読むようなものですね)でも、字のサイズが大きくて、言葉も短いのならば、逆向きの書き方でも理解できる、らしいです。
確か戦争中の新聞の号外だったと思うのですが、あるニュースは見出しが右から左の横書き、別のニュースは見出しが左から右への横書きになっていたものを写真で見ました。
活字を版にして組むのだったら、どちら向きでも可能なのは、考えてみれば当然です。
また、私の日本古典の知識では、古来日本には横書きが存在しなかったはずです。
江戸時代の読本等でも、絵の間に書き込まれた文字列も含めて、縦書きだったと記憶してます。瓦版だって、縦書きでしたよね。
私が知る範囲の日本の横書きの印刷物というのは、自由民権運動時代の新聞が最初です。横書きは見出しの部分で、左右の向きは新聞社によってバラバラだったと思います。
ただ、どうしてもテレビや映画などの時代劇で見たような「屋後越」的看板のイメージが頭から離れません。
実際にそう書かれている看板を見たこともありますが、よく考えてみればその看板がいつ製作されたかなんてハッキリしていない。
明治以降に作られた看板でも十分に古く見えますし。
大昔のお店の看板とかどうなってたんでしょうね?
http://www.shimotsuke.co.jp/media/130/php/kikaku.php?f=p&k=48
さっき、永原さんが『横書き登場──日本語表記の近代』を引きながら、「左横書き」のはじまりについて述べているページを見つけました。
http://www.morisawa.co.jp/font/techo/mojigumi/03/02.html
ここでは、同書を出典として、印刷物での「左から右へのヨコ組み」の最初の例は1871年の辞書とされています。逆向きのは、もっと前からあるってことかな。
で、「左横書き」が定着したのは1960年代ですって。ほんとに最近ですね。
ちなみに、この「文字を組む方法」という連載記事でも何度か、技術がスタイル/ふるまいを生んだ、というような視点が語られています。
ぼくは、印刷物ではありませんが、印とか銘文、碑文なんかにヨコ書きの初出があったりしないかなあ、なんて思ったりもします(これもかつて永原さんからヒントをもらったのですが)。
看板にもあったかもしれませんね。
和文組版のルールが確立された経緯については、こんな話を聞いたことがあります。
太平洋戦争中に軍が印刷物のスタイルを統一しようとして、それを担った人たちが戦後に組版マニュアルのようなものにまとめた。それが写研(文字盤や組版機のメーカー)によって組版ルールとして広まっていった、というものです。
確か在野の研究家の方が「日本語の文字と組版を考える会」のセミナーでおっしゃっていた、と聞いたような……。真偽はわかりませんが、そうだとすると、やっぱり100年はおろか50年ぐらい前に「これが正しい」ができたばっかり、という可能性があるわけですね。
もっとも、なんとなく不文律での「正しさ」は約100年前の活版時代にできあがっていった、それが写植用にチューニングされていったということなのかもしれません。おまけに、それが今また「DTP環境でやりやすい方法が事実上の『正しい』方法」ってことに変わりつつある、という可能性も少なくないし(^^;;
私が書き込んだ「看板」については
・スペースの都合で押し込まれている場合は横書きでなく一行一文字の縦書きにすぎない
・ってゆーかぁ、江戸時代に横長の看板なんてありえないしぃ
とバッサリ感たっぷりに解決されました・・・。
この本を読んで一番驚かされたのは「左から右へ書き進めていく『縦書き』もそれなりの期間存在していた」ということでしょうか。
もうなんでもありかよ!!
異文化との接触で昔の人はいろいろと苦労してたんですねぇ。
結局、
戦前から既に流れは左横書きへ傾いていたが、戦争の影響で
「西洋かぶれの左横書きはダメだ!やっぱ日本古来の文化である(っぽく感じるが実際ではそうではない)右横書きが最高!」
とやたら右横書きを推進する連中が現れた
というのが「終戦前の横書きは右から、左から書くようになったのは戦後」という神話を生みだした原因だったようです。
この本は資料写真も多くて本当に面白かったですよ。
特に「見開きの左側ページは左横書き、右側ページは右横書き」
という左右対称デザインの雑誌の写真は最高でした。
>もうなんでもありかよ!!
あたたた……(汗
そうかもなあとは思っていましたが、もうちょっと節度があるんじゃないかという期待も、ちょっとしてました。そうかあ、無法状態かあ……。
あ、でも、下から上だけはないから「無法」ではないか……。
まあ、便利な言語だったということではあるかしら。
>神話を生みだした原因
あー、そういう構図でしたか……。なんか俗流若者論とかにも似ているような。
その本、かなりおもしろそうですね。ちょっと探して読んでおこうと思います。
そうそう。
ときどきコメントをいただくfilinionさんの最近のエントリで、日本語の表記と発音の変遷が採り上げられてました。
■「最近の日本語は乱れている!」とか主張すると、なぜ国語学者はニヤニヤするのか。(小学校笑いぐさ日記 2008-08-31)
http://d.hatena.ne.jp/filinion/20080831/1220180568
なんというか、正しい日本語なんて言っている人が思い描いているのは、せいぜい自分の若い頃のことぐらいでは……というような話でもあるのでした。「戦前までは右横書きだったんだ!」というのも、似たような部分もあるのかもしれませんね。