2008年09月21日

浜の真砂が尽きるとも、世にニセ科学の種は尽きまじ

代表的なニセ科学的主張2つについて、公的機関や教育機関が肯定的に紹介している例を調べたところ、ごく簡単な検索で優に百件を超す例が見つかった。

詳細は後述するが、検索対象は一部に過ぎない。また、EM菌など環境教育や環境行政に関連して実際に採り上げられている既知のニセ科学の例はほかにもある。さらに調べた場合、この数がどれだけ増えるかは未知だ。

昨日のエントリで「水からの伝言」を調べてみたが、こちらはさほどの数ではなかった。しかし、TAKESANさんが、教育機関のWebサイトにある「ゲーム脳」に関する肯定的言及を検索してみた結果を紹介している。結果、水伝のケースは「おとなしい」と思えるようなありさま。
実際検索すると解りますが、「ゲーム脳 site:ed.jp」でググると、170件くらいヒットして、ほぼ、ゲーム脳をそのまま受け容れています。キリが無い。

上記を読んで、いま「ゲーム脳 site:go.jp」で検索してみた。
http://www.google.com/search?q=%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E8%84%B3+site%3Ago.jp

こちらでも数十件ヒットする。新旧あるだろうが、詳細は見ていない。ただ、ざっと見ても、肯定的引用もあればメディアリテラシーの教材として俎上に載せるものあり、「なぜ受け入れられたのか」を問題にするものもある。なかには、今では問題ありと認識しているのに「出しっ放し」になっているものもあるのかもしれない。
また公的機関のサーバーでも、コンテンツの性格にはいろいろあるはず。

まさに玉石混淆。

具体例は実際にリンク先をご覧いただくとして、「170件」とか「数十件」を多いと考えるか、少ないと考えるかは難しいところだ。
ただ、TAKESANさんもエントリ中で指摘しており、ぼくも先方のコメント欄に少し具体的な話を書いたが、おそらく、ネットに上がって来ていない膨大な量の肯定的引用や紹介がある。

さらに、文科省の調査によると、平成19年度、全国にいわゆる「学校」はおよそ4万校あまり(小学校22,693校、中学校10,955校、高校5,313校、中等教育学校32校、特別支援学校1,013校、専修学校3,435校、各種学校1,654校)ある。そのなかのどの程度を調査対象にできたのか、それがわからない。また、これ以外に大学や短大などもあって、そっちだって安心していいんだかどうだか。

行政機関の方は、地方自治体まで検索対象になってないから、ネットに公開されていても上記の調べ方ではまったくわからない。また、教育機関だって業者のサーバーを使っていることもあり、その場合は「ne.jp」などで運用されている。そういえば、TOSSのように授業案を共有しているケースだってある。


ここまででわかるのは、こんなことだ。

  • 「穴だらけであろう、ちょっとした調査」でさえも、200件前後の肯定的な引用例が見つかる(徹底的に調べれば、確実に数は増える)。
  • とっくに知られていると思っている話題でも、いまだに採り上げられる例がある。
  • うっかりと公開されっぱなしになっている例も、おそらくある。


変な言い方だが、以前から指摘されているように、おそらくは需要があるのだ。いろいろな意味で。
したがって、たとえば水伝なりゲーム脳なり、具体的な事例としてそのケースを認識していないと、「あ、いいもの見つけた!」と判断停止してしまうのではないか。気にしている人間が「古い話」と思っているようなものでも、知らなければ「新しい話」だ(いま思いついて、懐かしの「脳内革命 site:ed.jp」でググってみた。いまだに20件以上はヒットする。せめて放置されているものでありますように)。世間は忘れても、熱心な人は「鉱脈を掘り当てる」のかもしれない。

たぶん、一網打尽にする方法はない。社会現象とでもいうような大きな動きにでもならない限り、大メディアがこうした問題を大きく採り上げることはない。

かつて、ぼくは「消費されないニセ科学批判」みたいなことを考えたことがあった。流行の概念にされてしまうとじきに飽きられ忘れられる、と考えたのだ。けれども、それは間違っているのかもしれない。「ニセ科学」が、いったん「知名度の高い概念」になれば、流行遅れにはなっても「こういうのがあったじゃない? あれだよ」「うおっ、そうなの? やばいやばい(汗)」という反応が引き出せるのかもしれない。

上からのお達しで封殺されるのと、同調圧力で「なんか、嫌がられそうだからやめとこう」というのと、どっちがマシなんだろうと考えると、わからない。たぶん、どっちもろくでもないんだろう。
それに比べれば、情報として共有されていくなかで、「なんかわかんねえけど、ダメだって言ってる奴らがいるからやめとこうかな」ってのは、ちょっとしか違わないけど、少しはマシなような気がする。少しだけど、違うよね?

posted by 亀@渋研X at 10:00 | Comment(6) | TrackBack(0) | 渋研X的日乗 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする はてなブックマーク - 浜の真砂が尽きるとも、世にニセ科学の種は尽きまじ
この記事へのコメント
ん〜、そりゃ上からの圧力とは違うんでしょうが、正直言いまして
「ダメだって言ってる奴らがいるからやめとこう」
と思わせるというのは最悪の方向なんじゃないでしょうか。
結局「ニセ科学を信じる心理」を利用していませんか?
今は「ダメ」だという対象を「ニセ科学」と限定しているから一見もっともに思えるわけですが、
「ダメ」である対象が他のものだったらどうします?

なんかわかんねぇけど「電磁波(化学物質でも可)は危険だ」と言ってる奴らがいる

ケータイが鳴るとポップコーンができる映像が出てくる
(ホルムアルデヒドによるシックハウス発生の報道でも可)

ヤッベー!マジ、ヤッベーよ!!
電磁波(化学物質でも可)ちょ〜ヤバイ!
と信じるようになる

という反応とあまり違わないような気がします。
だったら上からガツンと「▲▲だからダメだね」と説明してもらう方がまだマシのような。
まぁ、それはそれで「政府の陰謀だ!」とか言い出す奴が出てくるんですけどね。(タミフルふたたび)
Posted by ゴホンといえばリボ核酸 at 2008年09月21日 22:39
はい、その辺は構造としては瓜二つなんですよねえ。そういう意味でも「理解して改める」のが最善なんです。ていうか、抜本的な改善には、それしかない。

だからといって、「常に100%の正解を求める」といような考え方も、無理があるかなあ、とも感じています。「全員がちゃんと理解して改めるまでは手を緩めない」とまで考えたら、ゴールがないというか。すっごく上から目線なものの言い方をしてしまうと、「できるだけ理解してほしいけど、まあ、なにしろやめてくれるなら、そこら辺でガマンするしかないのかな」みたいな。

上からだろうが横からだろうが、ダメな理由付きで「それはこういうわけでイカン」と語られても、理解しない(する気がない)人たちにはその理由は届かないんですよね。
また、上からの指示の場合は、「なにがどう悪いのかはわからんけど、上からの指示だから聞く」っていうだけの人も、もちろんいて。

でも、平たい関係のなかで「情報として共有されていく」っていう状況があれば、理解しようとすればできるチャンスが、ちょっとだけ大きいはずなんですよ。上からの話や同調圧力だのみだって、情報としては理由付きで出回っているのであれば条件は同じとも言えるんだけど、「否応なく従わされる」よりは、つまらない反感のようなバイアスが生じにくいから。

そういう状況下で、なけなしの自発性を発揮してやめることを選んでもらえる方が、完全に盲目的に従うよりは、少しはましかなあ、なんて考えたわけです。

まあ、前述の「常に100%を目指すか」というあたりとか、「理屈の部分は、ある程度までしか伝わらないものだ」と諦めちゃうか、そこも決して諦めないか、その辺の選択も関わってきそうです。
ぼくは常に理由付きで説明する必要があると考えつつも、同時に、伝わらない時には伝わらないものだ、それなりにでも受け入れてもらえれば、まだいいかな、なんていう諦めももっているので、こんな考え方に傾いてしまうのかもしれません。
Posted by 亀@渋研X at 2008年09月22日 00:28
こういうのって、必ずコンフリクトが起こると思います。

出来れば、何故おかしいかを理解した上で広めるのを止める、という風に持って行きたい。でも、ニセ科学を広める人は、どんなやり方でも広める。そういう観点だと、初めから非対称だという事になる。

じゃあ、誰かが言っているから、とか、採り上げたら雰囲気が…、というのを考えると、確かに論理的には、ニセ科学を信じる心理、もっと一般的には、何かを何となく信じる認識、を利用しているとも捉えられてしまう。私は、そういう雰囲気を醸成する事自体は重要だと思っていますけれども。

悩ましい話ではあります。私自身は、どこがどうおかしいかを丁寧に解説するくらいしか出来ませんが…。

話を聞かない人は聞かないんですよね。もう、どうしようも無いくらい。どうすりゃいいんだろう、と途方に暮れそうになったりもします。
Posted by TAKESAN at 2008年09月22日 02:00
基本的な部分で考え方が違うのかもしれません。
私は「空気を読んで自分の考えを変えられる人」って「何も考えない」からそうなれる(これはこれで一種の才能)と考えているので。

ニセ科学を信じている人に対して「ちったぁ話を聞いてくれ」と思うことがありますが、あちらからすればこちらに対して全く同じことを考えているでしょう。
結局こちらとあちらの違いは「ニセ」のあるなしで、
あちらに「ニセ」を付けているのは私たちがこちらが正しいと信じているからです。
しかし、あちらさんにしてみればこちらに「ニセ」を付けたいことでしょう。
そしてこちらにもあちらにも属していない人からしてみれば(よほど変なものでないかぎり)ニセ科学だって「それなりにもっともらしい」ですし、
科学も「それなりにもっともらしい」だけなんですよ。
そういう人たちを相手にして「理解しなくてもいいから雰囲気で流す」という方法は無意味を通り越してむしろ「危険」でさえあると思うんですよね。
「流される」ことに慣れていくだけですから。
ある瞬間にこちらの目論見どおりであったとしても、
次の瞬間に完全に別の何かにやられてしまってもおかしくない。
こちらが「正しい」と信じていることに「流されてやる」義理がそもそも彼らにはないので。
それに、

・私たちが正しいと信じていることに流されることは彼らにとっても良い

という考え自体が傲慢ではないか、という思いもあります。
いやまぁ大抵の場合は良いはずなんですけどね・・・。
Posted by ゴホンといえばリボ核酸 at 2008年09月23日 00:39
ゴホンといえばリボ核酸さん

わかります。特段の異論はありません。だからこそ、常に説明付きで、なんです。
また、自分がこらえしょうがなくなってきているだけかも、疲れてるのかなあ、とも思います。

幻影随想・別館の下記の記事などを思い出しました。
http://kurokage.seesaa.net/article/103704005.html

あっちに行っちまっちゃあ終わりなんですよねえ(少なくとも、自分にとっては)。
Posted by 亀@渋研X at 2008年09月23日 00:48
>ゴホンといえばリボ核酸さん

疑似科学・オカルト批判で有名な立命館大学の安斎育郎氏は、こっくりさんに取り憑かれた少女に対して、まず神社でお祓いを受けさせ、それから、こっくりさんの歴史や科学的メカニズム、正しい懐疑精神などを、ゆっくりと教え諭したそうです。
そういうやり方もアリなのではないかと思うのですね。TAKESANさんも指摘されているように、「話を聞かない人は聞かないんですよね。もう、どうしようも無いくらい」なんです。だからまず、こちらの話を聞く「空気」の醸成は絶対に必要だと、私個人は感じているわけです。

例えば、「学校の先生なんて偉ぶってるだけで、“水からの伝言”とか信じちゃったり、みんなバカばかり」という「空気」のなかでは、教員が何を言ったって子どもは聞いてはくれません。
例えば、「売れるんだから/視聴率が取れるんだから、イイじゃないか/何が悪いんだ」という「空気」のなかでは、「水からの伝言」も「電磁波ヤバイ」も「政府の陰謀」も無敵です。

つまり私個人は、「(理解してもらうために)説明を聞いてもらう」ためには、そもそもその場やその社会の「空気」がとても重要だと思っているわけです。人は話の内容だけで判断しているわけではない、夜景の綺麗な公園の展望台と、ぼろくさい赤ちょうちんの屋台とで、同じプロポーズの言葉を言っても同じ効果は得られない──というのと一緒ですね。
もしも他に「話を聞いてくれる方法」があるのならば、教えて欲しいくらいです。

──実は「空気の醸成」という事に関しては、私の中ではもっと重要な別の意味もあるのですけど、それについては、またいずれ。


あと、「傲慢」について。
およそ、価値観や道徳観・倫理観についての主張はすべて「傲慢」なものです。ある人の理想(=わがまま・独善)と別の人の理想(=わがまま・独善)とが衝突したときに、どのように・どのような建設的な結論を出すのか・出せるのかが問われているのだと、私は思います。
この点については、lets_skepticさんのブログのエントリ記事「説得における共感の重要性」(↓)
http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20080704
の脚注6も参照していただきたいと思います。
Posted by 田部勝也 at 2008年10月02日 01:21
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