2008年10月04日

共感・善意・熱意だけではもろすぎる:地域教育を例に

先のエントリに呼応するかのように(自意識過剰)、いや、シンクロニシティのように(悪い冗談)、kikulogで「善意ほどやっかいなものはない、熱意ほど扱いづらいものはない」(2008/10/3)というエントリが上がっている。いやまあ、同じことが気になっている人が多いってだけなんですけど。

あ、poohさんもだ。

「善なる」こと(Chromeplated Rat 2008-10-03)

kikulogコメント欄では、平泉のしだれ桜に関するJanJanの記事と、そこのコメント欄でのやりとりの不毛さなども話題に上がっている。読んでくだせえ,悩ましいから。

某マイミクさんの日記でも、kiklogに触れつつ善意とか熱意について、思いを巡らされておいでだった。深く共感し、そこについつい長いコメントを書いてしまった。そのコメントをここにも貼っとく。

どっちかというと、外野の雑音に対するイラダチがこういう文章を書かせたような気もするし、ニセ科学はカガク絡みの独立した問題だと勘違いしておいでの方に向かって書いたような気もするからだ。ここに置いておいた方が、誰彼の目に留まる可能性もあるかもしれんではないか(いま思いついて、ちょっと空白行を増やし、区切りの◆を入れた)。

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うー、誰にしても、限られたリソースで効果を上げることを目指すのを否定しているわけではないのですよね。ただ、「その方法でいいの?」「本当に効果があるの?」ということは往々にしてあるわけで。

教育にまつわる活動では、ある種の形式主義がついてまわります。たとえば「中学生が地域の人といっしょに町の清掃活動をする」といった具合に、半ば強制的に「地域に関わる機会を作る」わけです。清掃の後には炊き出しのカレーなんかもあって、地域の人と一緒に食べる。

で、町もきれいになるし、積極的に参加していれば、そのとき町の人と顔見知りになれる場合もある。

そうなんだけど、「町がきれいになる」ことは、実は目的ではないんです。ついでの効用だったりする。地域に知り合いを増やすことも、必ずしも目的ではない。


究極の目的は、子どもたちが自分が地域の人間でもあるってことを実感して、地域に関わることを当然のことと考えるように変わってくれることなんですね。また、大人も子どもたちを地域で育て見守るという視点をもつようになれること。

そんなの、即効性を期待できるわけではない。それどころか、大方の子どもたちは、なんとなくとか、いやいや参加しているだけで、内心は「早く終わらないかなあ」だけだったりする。カレーなんかうれしくもない、とか。大人たちだって、面倒だなあ、子どもたち、ちゃんと並べよ、とかね。

で、「地域の行事はきらい。学校が終わったら二度と行かない」「学校のPTA役員ででもなければ、もう参加したくない。役員もできればやめたい」なんて人が増えちゃったり。


形式主義的になっているとはいえ、ロジックとしてはどこも大きく間違えてはいない。だけれども、実効はわずかしか上がらず、むしろ逆効果の部分も多々ある。それにも関わらず、例年の行事になっているとやめられない。

そして、こうした取り組みもまた、地域の人たちの善意と、教員たちの熱意で成立して,続いているんです。もちろん、やめればいいってものでもない。

こんな、たかが「形式主義的な部分もあるなあ」ってものでさえも、ジレンマを抱えている。いわんや、明らかに効果の望めない活動を続けちゃったら、なけなしのリソースを投入してしまったら、本当は莫大な損害を出しているのに等しいはずなんです。関わった人の心が離れるという、最も避けなければならない大損害。


だけど、選択の誤りや検討の不備を指摘するということもまた、「関わった人の心が離れるという、最も避けなければならない大損害」を引き起こす。

共感や熱意、善意がなければ成立しないし持続しないのだけれども、共感や熱意、善意だけがリソースではもろすぎる。冷徹なロジックも仕組みも、同時に必要なんですよね……。


うやー、長かった。ごめんなさい。
んでもまあ、ぼくにとってはニセ科学の問題というのは、こういうことと本当に地続きなんですわい。トホホ。
posted by 亀@渋研X at 01:30 | Comment(6) | TrackBack(0) | 渋研X的日乗 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする はてなブックマーク - 共感・善意・熱意だけではもろすぎる:地域教育を例に
この記事へのコメント
 私も、亀さんの前のエントリのちょっと前に「教育現場に入り込もうとしているニセ科学は、「教育の情熱」があるからこそ、そこに存在し、深く入り込むことができるのですから。」なんて書いたところだったんですが、問題意識が共有されているってことですよね。
http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20081002/p1
Posted by lets_skeptic at 2008年10月04日 13:33
この janjan のコメント欄のやり取りは、ホントに読むとげんなりしてきますね。
石田は janjan のアカウント持ってるんですが、今のところこのやり取りに参加する気はありません。聞く耳持たない方に語りかけるのはむなしいし、聴衆に読ませる内容としては 山田ともみ記者 のコメントで十分だと思いますので。

善意を活かすにも、知識が必要なのですよね。
たぶん kikulog あたりで読んだ「ニセ科学によって善意という社会的リソースが浪費される」とは、そういうことなんだと石田は考えています。

石田も「善意でやってることにケチつけるようなことするな」みたいな応答をされて、げんなりすることがたまにあります。
http://d.hatena.ne.jp/IshidaTsuyoshi/20080309/1205022548

ときどき、善意を発露することが目的化していて、本来の目的を見失ってるんじゃないかと思ったりすることもあり、なおさらげんなりします。
Posted by 石田剛 at 2008年10月04日 13:39
lets_skepticさん、石田さん、コメントありがとうございます。

lets_skepticさんのエントリ、10/2に拝見していました。

>問題意識が共有されているってことですよね。

そう思います。もちろん、どっかで少しぐらい違うことを考えている部分もあるでしょうけど。

強く記憶に残っていたのが、ここです。

>現実的な問題として、取り寄せた絵本「水からのでんごん」は、きちんと返品または破棄されるのか?安易に図書館などに置かれたりしないのか?「水からの伝言」を根拠とする話は既に行われたようだが、それは明確に撤回されるのか?

「伝わった」ということでよしとせず、こういう対処のことも、考えていかないといけませんね。

ちなみに、自分のブクマで引用しているところは違ってた。ちょっとビックリ。

自分のブクマコメント
http://b.hatena.ne.jp/kamezo/20081002#bookmark-10245977
>〈単なる個別事例ではなく、この機会にもっと根本的な問題と関連づけて考えることができなければ、第二、第三の事例を続けるだけでしょう。〉

石田さんのおっしゃる、
>善意を活かすにも、知識が必要なのですよね。
>「ニセ科学によって善意という社会的リソースが浪費される」とは、そういうこと

も、同感です。
知識というか、ある種のスキルなのかもしれません。まあ、そのためにはまず、こういうことが起き得るという知識がまず必要なわけですが。

コミュニケーションが成立しない、問題意識が共有できないというのは、本当にもどかしいです。Web上の通りすがりの発言ならスルーしちゃうことができても、目の前で起きていること、自分が関わっていることとなると、なにかしないではいられない。
なんとか、話が通じそうなところを見つけてコミュニケーションを図るしかないのだと思いますが。
Posted by 亀@渋研X at 2008年10月04日 16:39
石田さんが書いておられるとおり、僕は「善意も社会的リソース」「リソースには限りがある」といろんなところで言っています。これはかなり本気。
Posted by きくち at 2008年10月05日 03:10
書き忘れてましたが、呼応ではなくてシンクロニシティのほうです。
みんながこの問題を考えるタイミングなんですよ。
Posted by きくち at 2008年10月05日 11:41
今回、学校がふたたびからんだことと、「校長会も呼んだヤツも、バカだ」みたいな声が上がった(ところもあった)ために、改めてそこを話題にしたくなった人が多かった、ということなんでしょうね。
Posted by 亀@渋研X at 2008年10月06日 00:32
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