実は、人間の判断も同じだ思うのです。誰であれ、なにかするときは、そのときまでの知見での最適解を選ぶわけですよね(この程度のことなら、考えるコストをかけない、流れに任せるというのも判断のひとつだとすれば)。ただ、それは「そのときには、そこまでしかできなかった」だったり「適切に選んだつもり」だったりもするわけで。もっと別の経験をすると「あ、こういう方法もあったのか」とか、「あのときの自分の知識でも、判断がついたはずだ」とか、そういうことっていくらでもあるわけじゃないですか。
誰かが「科学は永遠のベータ版だ」と言いましたけど、人間もおおかたそんなもんだってことですよね。
「ベータ版」って表現に乗っちゃうと、人間の場合、デバッグだとかバージョンアップの機会はいろいろある。仕事であれ人間関係であれ社会参加であれ読書であれ、そこここにデバッグの機会はあるわけです。それは場合によっては、不快なことの場合もある。なんかをしくじって「そうじゃねえだろ」ってツッコミを食うことだったりね。気がつかないこともあるんだろうな。
だもんだから、それで本当にデバッグできるかどうか、つまり出来事を受け止めて今後に活かせるかは、自分次第な部分もある(いやあもう、読書や経験を本当に生かせているかとか考えると、反省することしきりです)。でも、気づかないでサブバージョンとかリビジョン(つまり、ごくちょっぴり)ぐらいがアップしてることもあるでしょう。なにか変な思い込みが生じるとかって「激しくダウングレード」も、逆にあるんだろうけど(汗)。
でも、目からウロコみたいな、大幅なアップグレードは滅多にない。
楽観的には「人間がなんかするっていうことは、変わるということ」「ささいなことでも、常になにかデバッグできる可能性がある」ってこと。ちょっとだけ悲観的には「デバッグは、外から強く求められて不快なこともある。覚悟しよう」。こういうことって、もうちょっと知られていてもいいのかもしれませんね。
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なんでこんなことを言い出したかのかというと、下記のような道筋があるのです。
先のエントリのコメント欄でのやりとりから、まず、こんなことを思い出しました。ニセ科学や、一般的な意味での教育とは直接関わらないのですが。
地域(の人)が教育に関わるケースで、インセンティブとして自己実現が語られることがあります。ありがちな構図としては、定年退職した方の第二の人生において云々といったような話と、結婚・出産を期に専業主婦になられた方の社会参加を云々といったことです。
これをまるっきり否定することはできないんですよね。
かつて、教育活動にボランティアとして協力してくれている人たちのスキルを問題にして、「老人の自己実現のために、子どもの人生を台無しにされてたまるか」というようなことをおっしゃった方がいました。これまた極論・暴論で、そんな根幹的なところに関われるようなボランティアなんて、ほぼあり得ない。
ただ、そうやって何かに参加することは「自分が周りの役に立つ。やってよかった」というようなことだけでは、済まない場合がある。ごく穏当に言っても、自分自身の完成しているつもりだった部分でさえも軌道修正を迫られることがある、再検討を迫られることがあるのだ、ということは理解されていないように思います。
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別に自分にばっかり修正しなければならない点があるだけではありません。逆に他者によい影響を与えることもあるわけです。だから、気楽に参加するなということでもないし、無価値なことでもないんです。
実は,そういう部分こそが「生涯学習としての社会参加」というような意義をもっているはずなのですが、どうも生涯教育というとカルチャー教室的なものや同好会的なものがという浅薄な理解が、世間にも行政にもあるような……。
学習というのが自己変革、自己改革ってことだとすると,大仰なものでもなく、どっかに行かないとできないものでもなく、また、いつどこで終わるってものでもないはずなんですけどね。
と、ここまで書いてきて、今度はかつて読んだエントリを思い出しました。
読書感想文に決して書いてはいけないこと。(小学校笑いぐさ日記 2007-08-31)
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試しに、まず記憶で書いてみます。確か「読書感想文には、『この本を読んで自分の考えが変わった、生き方が変わった』という『美しい物語』が期待されている」といったお話だった……と思う。
現物も見てみましょう。
求められているのは、あくまで「感想」。ううむ。ちょっとここでの捉え方は敷衍し過ぎ、力点のありかが違うかな。「美しい」は、全然ないじゃん。まあ、そういう傾きは感じるが。
「私がこの作品と出会ってどう変わったか」
という、ひたすら私的なことを書くよう求められているわけで。
(略)
あえてコンクールの話をすれば、審査員が求めているのは、
「本を読むことで人間は変わる」
……という物語なのです。
読書感想文に決して書いてはいけないこと。
でもまあ、多分このブログを読みに来ているような方々は、「読むことで自分のなにかが変わる」(ことがある)という主張に違和感をもたないのではないでしょうか。ところが、これに対して「本を読むぐらいで変わったりしねえよ」「なにを夢見てるんだ」みたいな反応を、あちこちで見たんですよ。あんまりびっくりしたんで、ときには「そんなことないよ」なんてコメントしちゃいましたよ。
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おそらく「変わる」ということから、何をイメージするかが大きく関わっているのではないかと考えています。
実際、なにかひとつ新しい知見を得れば、それによって自分の行動が影響を受けることがあります。ごくささいなことでもいいんです。コワいお化けの話を読んで、夜、トイレに行けなくなるとか。「青信号でも、周囲のようすを見ないで道を渡ったら危ない目に遭った」という話を読んで、信号でも左右を気にするようになる、気にした方がいいなあと考えるようになる、とか。
人格や生き方ががらりと変わるみたいなことではなく、そういうささいな変化も「変わる」ということなのだと考えられるか、また、そうした考え方に触れたことがあるかどうかが鍵なのかもしれません(幸いぼくは、子どものころに「人生が変わるような読み方をしろ」と乱読をたしなめられました。完全にイコールな話ではありませんし、それこそ「大げさな」と思いましたが、その辺の経験がこうした考え方につながっている気はします)。
しかし、学習とか自己改革というのは、基本的にそういうことですよね。学習したことを使う、というのは、と言った方がいいのかな。なにかを知って、なにかが変わるんです。劇的ではなくても。単になにか知識量や使える技術が増えて得をするということだけではない。思考や行動に影響を与える。
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というわけで、冒頭の文章に戻るわけです。
なにかをしようと考えている人の、背中を押せる話ではないかもしれません。勉強するってなんだろう、どういうことだろう、なんで本を読めって言われるんだろう、なんていう子どもたちの疑問に完全に答えるものでもありません。
でも、ひとつの可能性として、知っていた方がよいこと、ときどき思い出した方がいいことなのではないかなあ、と考えて、このエントリになったのでありました。
どっとはらい。
件の記事、結びが
「美しい物語を描いてください」
なので、「美しい」が入っていても全然大丈夫だと思います。
……あの記事、わりと「読書感想文」というものへの皮肉を込めたつもりだったのですが、正面切ったHow to記事だと思った方も多いようでむにゃむにゃ。
その上で批判してくださる方もいるようでむにゃむにゃ。
擁護してくださっているとのこと、身に余る光栄です。
ありがとうございます。
地域のボランティアとかについては、以前、読み聞かせボランティアについてずいぶん批判的じみたことを書いてしまいましたが。
http://d.hatena.ne.jp/filinion/20050627
きっと、事後にでも「あれは違うんじゃ?」とか、指摘すべきだったのでしょうね。
色んな意味でお互いに精神的に大変ですけど。
でも、ボランティア導入は、軌道に乗るまでのコストは覚悟すべきだ、と聞いたことがあります。
それを乗り越えるべきなのでしょうね。
わざわざのお越しをすいません。ありがとうございます。
皮肉だとはわかってもらえないケースが、けっこうありましたねえ。なんでだろうと思いながら、また読み返してしまいました。かなり「読書感想文になにかを求めている側」を突っ放した書き方になっていると思うんですけどねえ。
読み聞かせのエントリ、拝読しました。
いやあ、こりゃあつらいですねえ。あんまり無思慮なのは困りますねえ。
学校の教育活動を支援するのに、なにかものすごいスキルが求められると思って思い切り逃げ腰になられても困るんですが。
ぼくらのところでは、何年か続いてくるうちに、スキルの共有が徐々に課題として認識されはじめています。すべてのシーンでとは限らないのですが、保護者の側にも教員の側にも、ものすごく遠慮があるんですよね。でも、徐々に議論を重ねるうちに、やっぱり是々非々でやるしかないんだってことになるしかないわけで。
保護者たちは、学校側に喜んでもらえて、新しい活動への参加要請をもらえたりすると、「ちゃんと役に立った」とうれしいんだけど、すべてに答えようとすると、かなり無理をすることになる。でも断れない。
一方で、参加して行くなかで疑問に思ったことがあっても、それを先生に伝える場がない。方法がない。
先生方にも、不満というか危惧がある。保護者間での情報のやり取りで「こんな子がいた」なんていう話が流れると、名前を出さなくてもすぐに誰だか特定されてしまうとか、自分の子どものお世話に走っちゃう人がいたりとか、先生の指示に沿っていないアドバイスを生徒にしちゃうボランティアがいたりとか。
で、そういうことの擦り合わせを、少しずつでもやっていけるようにしよう、という気運が生まれています。保護者も教員も、お互いへのサービスをするためになにかをやっているわけでもないし、自己実現を求める気持ちがあったとしても、それは「付随してくるもの」であって、それを目的にされては困る。教育活動の支援=子どもたちのためになることをしようという目的が、優先される。
こういうことを理屈でいわれると、保護者も教員も萎縮してしまうのですが、簡潔にルール化されてくると、けっこう簡単に浸透したりもします。すごくおおざっぱに言うと、「学習指導の補助は、子どもと同じ学年には入らない」とか、「活動中に見た子どもたちのことは、保護者間で話題にしてはいけない」とか、「活動に参加後、参加票を提出。気になったことがあれば、そこに記入する」とか。
最初から全部覚えなくていい、やっていくうちに身に付くから、とか。
肝心の読み聞かせについては、まったく関わっていないので知らないのですが(ずーっと前から続いていて、読み聞かせをする会もあるようです)、仮に同じような状態だったとしても、全体的にこういう「目的を果たすために、協議しながら進めよう」という認識が広がれば、自然に話題にしやすくなるんじゃないかと楽観しています。慣れっこになっていて、見逃されるということもあるかもしれないので、そこはちょっと気をつけてようすを伺ってみようとも思いますが。
ボランティア活動も、学校と保護者や地域の関係も、やっぱりデバッグができないといかんですね!(^^)