2008年10月05日

「発達段階に応じた指導」とニセ科学

教育と嘘事(黒猫亭日乗 2008年10月 4日)を読んで、ううむとうなっています。
詳細は先方でお読みいただくとして、ぼくなりに要約すると、こんなことです。

学校教育には、「発達段階に応じた履修内容」というカリキュラム構造がある。そのため、どうしても低学年では厳密には正確でない説明で教えるという事態が生まれる。

こうした構造は、必ずしも「低年齢では間に合わせの説明」ということではなく、それなりの根拠があって選び取られているのだが、どうしても「上の学年で、より深い理解、より正確厳密な説明にアップデートされる」というスタイルへの慣れを生むだろう。

黒猫亭さんの危惧は、端的には、そうしたことへの慣れがあるために、ついつい「水からの伝言」のような説話の問題点に目が向かないということがあるのではないか、教材にしやすいかどうかみたいな点にだけ目が向きがちな状況を生むのではないか、結果として不適切な構造をもった説話でも採用されやすい状況にあるのではないか、ということになるでしょうか(先の「人間も永遠のベータ版」というエントリとも、ちょっと重なる部分がありそうな気もします)。

そうなのでしょうか。外野が考えてわかることでもないと思うので、先方コメント欄への、教育関係者や教職経験者の方々の議論参加を期待しています。


上記のお誘いだけで、この記事の目的は果たしているのですが、あちらのコメント欄にはあまりふさわしくない蛇足など。

先方のコメント欄にも書いたことですが、エントリを読んで、地動説をどう扱うか、が典型例のひとつかもしれないと考えました。

小1、小2では、生活科で目の前の現象を観察するといった内容があるようです。その段階では、天体の運行は「地上から見た状態」をちゃんと把握することが主眼になると聞きました。つまり、「太陽は東から上って、西に沈む」「太陽は、空を東から西へ動く」の世界です。もちろん、それは「そのように見えるに過ぎない」ということなのですが、それを学校で学ぶのは中学校に上がってから(各段階での履修内容の詳細は、「学校教育での天文学の扱いにわとり紅茶日記」がわかりやすい。ただし、リンク先では発達段階への配慮ではない解釈が示されているし、このケースが適切な事例かどうかもわからない。ただ、ここでは、そういうステップを踏むということだけを確認したい)。

また、国語や総合的な学習の時間、算数から数学など、どの教科を思い描いても、上の学年に行くと、より内容は複雑化し、込み入ります。小学校中学年程度でも、踏み込めばかなり奥行きのあるテーマが扱われることもありますが、なんというか一面的な理解に留めて、混乱させないようにしているところがあるとは感じます。

単純化しつつも必要な要素をはずさずにすべて盛り込むというのは、たとえ話や要約などでもなかなか難しい。多くの場合、完璧にはできないという諦めがあります。ですから、教育現場のみが抱える問題でもありません。メディアも常に同じ問題を抱えています。

しかも、もしも、子どもたちへの配慮や、上級学年で上書き修正されるという教育システムへの信頼感が、こうした事態を生むことにつながっているのであれば、上書きされない可能性のあるテーマの扱い方の問題ということになる可能性もあります。これは教育内容の一層の統制へとつながり兼ねません。そういう道は歩ませたくない。

いつものように、もどかしく悩ましいです。


気になることがもうひとつ。

ぼくらが子どものころから、教員を含めたオトナたちってルールに関する「なぜ」に、明確に答えられないことが多かったですよね。あれは「この段階の子どもにわかるように説明できない」ということもあったでしょうけれども、かなり多くの割合で「考えたこともない」というケースも含まれていたのではないでしょうか。いま現在の自分を考えても、どうもその疑いが晴れません。

80年代後半だったか、少年の「そもそも、なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対して、どう答えるかが新聞を含めて話題になったことがありました。自明だとしか答えられないじゃないか、なぜそれを問うのだというような論調が少なくなかった。ここではその内容や回答には踏み込みませんが、こうした使い古しの命題さえ「自明だとしか思ってなかった」っていうのが、世の多くのオトナの実状だったのでしょう。教師だけでなく。また、最近だけでなく、有史以来ずっと。

そして、自明のこととしか考えて来なかったことを、説得力をもって提示しなければならないという事態には、教員や親、上司などになるとしょっちゅう出くわす。言い換えれば必要とみなされていなかった武装が、急に必要になる。どこかから借りて来るか、自力でこしらえるしかない。想像に過ぎませんが、オトナはみんなそうするだろうし、教員だって用意されていないけれども必要なもの(たとえば「どうやって教えるか」)が出てくれば、ずーっとそうやってきたわけでしょう。ですから、同じ方法を取ろうとしてもおかしくありません。その方法が間違っているとは言えない。

もしもそういうことでもあるのだとすると、やっぱり最初から装備を増やすしかないということなのでしょうか。だけど、自明だと思われていることは、原理的にわざわざ用意されるとは考えにくいですよね。それとも、そうした事態に直面したときにどこを探すか、探せるか、共有できているリソースがあるか、ってことなのでしょうか。


あわてて補足。さらに余談のようなものです。

上で「どうやって教えるか」がカリキュラムに用意されていないと書きましたが、たとえば大学でまったくそういうことを学ばないわけではないです。教職課程を履修した人はよくご存知だと思いますし、特に教育学部や教育大学などでは、一定の機会・講座は設けられています。ただし一般大学では特に、ほかのあらゆる職業や学部と同様に、「大学は職業学校ではないので、実務は現場で学ぶ」という傾向がはっきりとあるようです。

一概に「だからいまの教員養成システムはダメだ」とも言いにくい面もあります。大学では同時に「学ぶ方法(調べる方法)」を身につけるはずですし、オンジョブ・トレーニングはあらゆる職業で行われていることでもありますから。

それでも、いまの学校での初任者指導のあり方は、あまりシステマティックとも負担面での配慮がされているとも考えにくいと見ています。おおざっぱにいえば「教え方を学ぶ場は、教育実習と実務ぐらいしかなかった」という実感を持っている現職教員も少なからずいます。これは教育を考える上で大きな問題点のひとつだと考えているので、あえて例に用いました。
 
posted by 亀@渋研X at 13:13 | Comment(4) | TrackBack(2) | 学校とか教育とか | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする はてなブックマーク - 「発達段階に応じた指導」とニセ科学
この記事へのコメント
黒猫亭さんの所とどっちに書こうか悩んだのですか、論点の分かりやすいこちらに……。

あまりにも自明すぎて、どうも多くの論者の皆さんが失念なされているのではないかと思われる事で、一度はっきりと誰かがどこかに明記しておいたほうが良いのではないかなぁ……と思うのは、「一度認識された知識や印象を覆す(別の知識・印象で上書きする)のが如何に困難か」という事実を一番よく知っているのは(知っている職域集団は)、他でもない教員である──というほぼ疑いのない事実です。

教員が「ルールに関する“なぜ”に明確に答えられないことが多い」のは当然の事なんですよ。だって、それはその教員にとって「自明」の事なんだから。だから、子どもに聞かれて、その場ですぐに改めて理由を考えて説明する事はとても難しいんです。正直に「当たり前だ」「常識だ」と答えるしかないし、それで上手くいってきた実績もあるわけです(少なくとも下手な事を言って事態をより悪化させてしまう懸念のほうが大きいように思われませんか?)。
もちろん、その場でぱっと浮かぶ理由(らしきモノ)は出てきますよ。それこそ居酒屋で説法するサラリーマンの言うような事は誰だってすぐに思い浮かぶわけです。でも、誠実な教員ほど、それを軽々しく言えないんですよ。「一度認識された知識や印象を覆す(別の知識・印象で上書きする)のが如何に困難か」を本能的に悟っているから(私は、いい加減な事をほいほい言いふらすんで、とても迷惑がられたわけですけど……)。

では、現場の教員にとって切実な問題は何であり、それがどう「水からの伝言」の教育現場での蔓延に繋がるのか──という点について、黒猫亭さんの問題提起はとても示唆に富んだものであり、しかしその結論は現場の切実な問題意識や実感とはかなり乖離しているように思われます(もちろん、ここでは黒猫亭さんの結論と現場の実感のどちらが正しいとか、どちらがより社会として問題視すべき事柄かとかいった事を論じるつもりはありません──たぶんどちらも大切な事なのでしょう)。
この点に関しての私個人の見解は、かなり長くなりそうですので、場を改めて書かせていただこうと思います(たぶん自分のブログになるかと思います)。
Posted by 田部勝也 at 2008年11月22日 22:00
>田部勝也さん

すいません、コメントにしばらく気附きませんでした。

拙ブログへのコメントにはお返事を差し上げましたけれど、勿論この一連の問題に関しては最初の説に拘るつもりは毛頭ありません。何度も繰り返しているとおり、最初に想定した仮説と現場の実感が食い違うのであれば、まずその実感をお伺いしたいと謂うのが目的です。

しかし、たとえば水伝授業を個人の問題に還元するようなご意見と謂うのは、まったく納得が行かないわけで、田部さんが仰るように教師と謂う職業人は、

>>「一度認識された知識や印象を覆す(別の知識・印象で上書きする)のが如何に困難か」を本能的に悟っている

はずであるにもかかわらず、水伝を正規の授業内容に持ち込んだわけで、それは教師以外の人々が水伝を信じるのとはまた別の機序が働いているはずなんですね。本来、それを行うには、他の職業人からは想像も附かないほど強い抵抗があるはずなんです。

その辺の謎が納得の行く形で解明されるのであれば、当初の仮説を撤回するのもまったく吝かではありません。

嘗て高校教師だった田部さんの論の展開にも期待しておりますので、エントリをアップされたらこちらにTBを送って戴けると有り難いです。
Posted by 黒猫亭 at 2008年11月25日 16:04
田部さん、黒猫亭さん、こんばんは。

この件、ずーっといろいろ考えつつも、なんも書けないでいます。

でも、ご指摘の「一度認識された知識や印象を覆す(別の知識・印象で上書きする)のが如何に困難か」の件限定で、ちょっとだけ書いてみます。

たしかに教員の方は、そういうケースをたくさん体験しているだろうと思います。

でも、「あっ!」と思うような経験をしちゃうと、長年親しんできた考え方とかとらえ方を、容易に捨てちゃう……なんてことも、たぶん体験してますよね。子どもたちについてというよりは、社会人としてかもしれないけど。

いや、一方で、染み付いた思考方法からは容易に抜け出せないってこともあるんですけど。うー……やっぱり、この件限定でも、まともな話は書けない(T^T)

いやまあ、印象としては、そういう「あとで上書きされることに慣れている」といったことよりも、目的にかなうものだと思って飛びついちゃう、とか、そこには多忙が大きな原因としてあるなどというあたりの方が、大きな要因としてありそうだとは思っているのです。が、なんで「どっちが大きい」と考えるかっていうと、ほとんど印象でしたかないんですよね……。

自明のこと(と思ってきたこと)に関する質問にパッと答えられないのは、これはもう、教員だろうと誰だろうと、そうですよね。

あ、そうだ。
田部さんのブログって、どこなんでしょう。リンク先を渉猟してみたけど、わかりませんでした。よろしかったら、そのうちに教えてください。

と書いてからはっと気づいて調べ直しましたが、cocolog-nifty.comにもなさそうでした。おヒマなときに、お願いします。
Posted by 亀@渋研X at 2008年11月27日 00:55
パソコン、壊れました。
いろいろ試してもどうもダメっぽくて、OSを再インストールしても動作がかなり不安定です(この文章もびくびくしながら打ってます)。書きかけのコメントやそのための資料もバックアップを取っていなかったので吹っ飛んでしまいました。
そんなわけで、さんざん思わせぶりなコメントを残したまま心苦しいのですけど、仕事のほうの年末進行もあって、ちょっといろいろと余裕がありません。私のコメントはたぶん忘れた頃に突然アップされると思うので、なにとぞお許しください。
Posted by 田部勝也 at 2008年12月05日 19:36
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