黒猫亭さんの疑問は、極論化すると「【1】どれほど理想的な環境にあっても、『受け手の程度を踏まえて教える』という方法は、一定の『誤りの混入』を許すのではないか」「【2】教えることに慣れている者は、『誤りの混入』にも慣れ、その問題を軽視するようになるのではないか」「【3】その結果、ニセ科学的なものなどが入り込みやすくなる事態が起きるのではないか」ということですよね。
で、「受け手の程度を踏まえて教える」こと自体は否定しない(一時にすべてを教えることは、原理的に不可能だから)。ひょっとすると、上書き訂正されるケースでは「それでいい」とさえ考えておられるかもしれない。また、教える者、個々の資質にも解決を求めない。
単に「そこ[上記の構造]を見逃すと解決しないのではないか」とおっしゃっているのだと理解しています。
【1】は、それなりに実例が思い浮かびます。そういう傾きは、確かにある。
しかし【2】は、なんとも言えない。「慣れ」などという問題は、第三者には推し量りにくい。だから、ここで実感なり、事例なりが集まるといいなあ、というのがぼくの願望です。
先方コメント欄での議論への、教育関係者のさらなる参加を熱望します。
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継続的にご紹介戴いて有り難うございます。流石に今日は指が痺れるほどテキストを打ち込んだ(笑)のと、時間切れで週末まで余裕がないということで、手短にご挨拶をさせて戴きますね。
>>しかし【2】は、なんとも言えない。「慣れ」などという問題は、第三者には推し量りにくい。だから、ここで実感なり、事例なりが集まるといいなあ、というのがぼくの願望です。
同感です。やっぱり、外から視て論じるのなら幾らでも論は立てられるんですが、やはり当事者からご意見を戴かないと一方的な話になってしまう。その意味で、気長に構えて待ってみますね。
それと、【2】についてなんですが、これはたしかにちょっとどう捉えたものかまだモヤモヤしているところがあって、「慣れによって感覚が麻痺している」という言い方だとまだ非難的なニュアンスが拭い去れないのかな、なんてことも少し考えます。
寧ろ【1】に関連して、「何が嘘になるのか」という、普通の大人同士のコミュニケーションでは突っ込んで考えられることの判断基準が相対化してしまい、是非の判断が難しくなっているという言い方のほうがいいのかもしれません。たしかに、或る程度の不正確さを一旦許容してしまったら、どの程度の不正確さが嘘になるのかというのは非常に限定するのが難しい。そういう技術的困難の一つと謂えるのかな、と。
反感を買いにくい設問のしかた? というとらえかたでよいのでしょうか?
もしもそうだとすると、一般論としては、いまは「どんな設問の立て方でも、現場教員はまず『そこまで言われるの!?』と反発するだろう」と思ってしまいます。それほど追いつめられているのですよ(ウチの学区でも、この夏休みをはさんだら、2名出勤できなくなりました)。
そうではなくて、問題意識をより的確に表す表現ということなのでしたら、あー、えー、うー……「どの程度の不正確さが嘘になるのか」は、一般的な命題としては「あり」だと思います。ただ、これを教育っていう文脈で使うと、なんだろう、こう、自家撞着的というか、背反的重言というか、あの、困ったな(汗
一定程度までの不正確さは「十分でない」ということではあっても「ウソ」ではない、というような感覚が、教え慣れしている人間にはあるんじゃないかと思えます。なんだろう、「ウソ」って確かに正確じゃないのだけど、感覚的には「足りない」とかよりも、もっとはっきりと「捏造寄り」で異質なんですよね。「間違いだってウソだ」って感覚もあるんだけど、程度問題とは相容れない委との問題だという意識があるような、ないような……。
いや、ぼくなんかは編集屋なので「元はただの言葉足らずかもしれないんだけど、結局のところウソになっちゃってるんだから」みたいな感覚がある。だけど、駆け出しの連中なんかは猛烈に抵抗することもあるんですよ。「ウソなんかじゃない!」って。でまあ「意図の問題ではなく、結果の問題だ」なんて話をするんですが(あ、そう考えると、一般的な感覚なのか?)。
ある種の慣れが必要な命題の立て方なのかも知れません。教員のみなさんにおかれては、その辺どうなんだろうなあ(大汗
私は、高校の理科教育が最も高度化した時代に高校生でした。化学にしても、選択科目の化学(III)では、混成軌道のことまで教えた訳です。メタンの炭素はSP3混成軌道をとり、ベンゼンの炭素はSP2混成軌道をとるなんてね。私を教えてくれた化学の教師は「自分はこれを大学にはいってから習った」と言いながら教えた訳です。
ところが、大学で化学を学び始めると、その高校での教え方が障害になってしまった面があります。「メタンはなぜ正四面体構造なのか?」「炭素がSP3混成軌道だからです」「違う!、それでは原因と結果が逆だ、共有電子対の反発があるから空間的に最も離れた位置を取ろうとして正四面体構造となり、その構造をとるために電子はSP3混成軌道をとるんだ」なんてね。私は、もともと柔軟なので、「ああ、高校では結果だけ教えたんだな」と素直にクリアした訳ですが、この原因と結果の逆転を乗り越えるのに苦労した同級生も結構居ました。
何が言いたいかというと、「不正確でも分かり易く教える」という時に、結果に2種類ありそうだということですね。その後、正確な事を学ぶ際に障害にならない不正確さと、障害になってしまう不正確さです。もともと、教育において段階に応じて導入される不正確さは、「将来の学習に障害と成りにくい不正確さ」というスクリーニングが必要なんだろうと思うわけです。ところが、私が高校で受けた化学のように、急に「ここまで教えるように」とされたりした場合、そういうスクリーニングが間に合わないまま教えられた訳です。
大事なのは「不正確さの導入」の部分ではなく「不正確さが将来に与える影響」を考えて、「影響のありそうな不正確さ」をスクリーニングすることでは無いかと思います。
>大事なのは「不正確さの導入」の部分ではなく「不正確さが将来に与える影響」を考えて、「影響のありそうな不正確さ」をスクリーニングすること
ああ、これはすっと胸に落ちる(そういうときは要注意なのでしょうけど(^^;;)。
>>反感を買いにくい設問のしかた? というとらえかたでよいのでしょうか?
いや、それこそ亀さんが仰るように、どういう設問の立て方でも当事者にとっては気に入らないでしょうから、そこを重視しているわけではないです。寧ろ、われわれは何かを論じるとき、設問の立て方にかなり議論を左右されるところがありますよね。そういう意味で、議論の本筋が何処にあるのかが明確な設問の立て方はないものかな、と。
非難のニュアンスが強い設問の立て方をすると、ウチで申し上げた「殴る・殴らない」という構造の議論に引きずられる可能性があるかな、と危惧しているわけで。勿論、そういう構造は捨象するんだということは、言葉を吝むことなくその都度強調すべきことではあるんですが、命題の立て方自体が問題の在処を的確に表しているほうが当然効率は良いわけで。
>>ただ、これを教育っていう文脈で使うと、なんだろう、こう、自家撞着的というか、背反的重言というか、あの、困ったな(汗
たしかに、教育で用いるような方便をすでに「嘘事」と表現している以上、「何処から嘘になるのか」という設問の立て方も、「嘘」のニュアンスが多義的になってわかりにくいですね。分類的には文学的な修辞ということになるでしょうから、ズバリわかりやすいというわけにはいかない。
この辺、まだ整理の附いていないところでして、とにかく「慣れ」という職業者個人の感覚の問題よりも、「重要な事柄を弁別する基準が曖昧化する」という、教育という領域における規範に関連した事柄が問題の本質なんだろうと思ってはいるんですが、何についての弁別基準だと表現するのが正確なのかが煮詰まっていないんですね。結果責任についての基準(この嘘は良いけどこの嘘は良くない、みたいな)だとすると、当然結果オーライみたいな考え方も出て来るでしょうから、なかなか表現が難しいです。
>>なんだろう、「ウソ」って確かに正確じゃないのだけど、感覚的には「足りない」とかよりも、もっとはっきりと「捏造寄り」で異質なんですよね。「間違いだってウソだ」って感覚もあるんだけど、程度問題とは相容れない委との問題だという意識があるような、ないような……。
>>いや、ぼくなんかは編集屋なので「元はただの言葉足らずかもしれないんだけど、結局のところウソになっちゃってるんだから」みたいな感覚がある。
この問題で「嘘」というキーワードを遣うのは、そういう種類の問題だからではあるんですよね。児童教育の方便として一定の不正確さが混入すること自体は問題視しないのであれば、やはり「一定の」という辺りがポイントで、程度問題ということにはなるのかもしれません。
不正確か正確かという二択の客観的基準において命題の真偽を検証することは割合簡単なんですが、一定の不正確さを許容するのだとすれば、どの程度の不正確さが目的に対して妥当で許容範囲と謂えるのか、という基準が至極曖昧化するわけですね。そこが教員個々人の判断するところとなってしまうなら、当然ながら水伝はOKだと判断する人も出て来るわけで、水伝やそれ以外のニセ科学を「選択的に排除する客観的な基準」が原理的に成立しない、そこが問題なのかな、と。
つまり、われわれが大人同士の間でニセ科学批判の言論を展開する際に依拠しているような客観的な弁別基準が、児童教育やそれに従事する教員の考え方においては成立しないということが問題なのかな、と思います。ニセ科学批判の場合、「方便は方便として有用だけど、嘘になっちゃいけない、受け手の意志的な判断を瞞着するような用い方はいけない」みたいな切り分け方をするじゃないですか。つまり、嘘は絶対的に排除するんだという明確な客観基準なわけです。
そういう意味では、「嘘になるかならないか」が二択の排除基準にならないのだとすれば、実は水伝やニセ科学を選択的に排除する大きな客観基準がそこで抜け落ちてしまうということになります。教師がたとえば御伽噺やファンタジーやSFを教材に採用したとして、それが批判の対象にならないのは、「たまたま」それが問題にならない嘘だったからだということになります。もしかしたら、児童教育という領域性における規範では、SFとニセ科学を弁別する基準が成立しないのかもしれない。
そういう次第で、オレとしては、これは個々人の感覚の問題ではなく、その領域における規範の問題なのではないか、という考え方に傾斜してきているわけですが、そうだとすると問題はもっと面倒になってくるわけで。それが感覚の問題だとすれば、注意を呼び掛ければ好い、啓発していけば好い、そういう問題になるのでしょうけれど、児童教育という領域全体の規範が原理的に抱える問題性だとすれば、これはかなり大きな問題になっちゃうわけですね。差し当たり、そんな大事を抜本的に何とかする妙案なんか当然ないわけでして。
もっと面倒なのは、児童教育というものが本質的にそのようなものであらざるを得ないとすれば、ニセ科学を選択的に排除する基準が成立しない、だとしても、「だから仕方がない」という話にはならないし、水伝授業やオカルト授業を免責する理由にもならないわけですね。
そして、これらの考察が妥当だとすれば、「将来的に水伝授業と構造的に同一の問題が割合簡単に起こり得る」「そしてそれを予防する手段は現時点では存在しない」という相当気の重いことを示唆しているわけで、これはかなり困ってしまうなぁ、という予感がしています。
ただ、普通の大人の判断基準で謂えば、ニセ科学が社会悪であるという判断は当然誰にでも可能なわけですから、一人の大人としての自分が悪いと判断したものは子供にとっても悪いという考え方は可能なわけです。だとすれば、水伝が教材として妥当かどうかという児童教育の規範で考える前に、一人の大人としてこの言説は妥当なのかどうかを検証し、その欺瞞を見抜いたなら子供に対して用いるべきではない、という言い方は出来るかもしれません。
逆に謂うと、ニセ科学批判の言論からのアプローチで対話するなら、そのような理路で特殊化した問題性を再び一般化して呼び掛けるのが妥当なのかもしれません。ニセ科学を見抜く常識を持つこと、そしてニセ科学の社会悪としての性格を認識し、それを子供から遠ざけること、それを訴えていくしかないのかもしれません。
それにはまた、亀さんや憂鬱亭さんが指摘しておられるような、一人の職業人としての現場の教師の余裕のなさ、という現実的な問題が絡んでくるわけで、なかなか簡単にはいかないとは思いますけれども。
>そういう次第で、オレとしては、これは個々人の感覚の問題ではなく、その領域における規範の問題なのではないか、という考え方に傾斜してきているわけですが、そうだとすると問題はもっと面倒になってくるわけで。
なんていうか、社会規範というのは社会の過去の経験を元にしてできた「公式」のようなものなんですね。我々が例えば円の面積を出したいときに「半径を2回掛け合わせて円周率を掛ければよい」と覚えていればとりあえず、欲しい円の面積は出せて、その証明まで思い出す必要は無いわけです。「良い言葉を使いなさい」という規範も、人に不快を与える言葉を使ったことで人間関係に良くないことが起こった沢山の事例がたぶん下敷きになってできている訳です。でもね、その規範を教えるために他の規範を無視して良いという話は無いのですよ。
ここでいう「他の規範」というのは「いい加減な話をもっともらしく言っては成らない」という規範です。これが乱されると世の中の秩序は、言葉遣いが悪い以上に乱れますからね。例えば九州の方で、「あの銀行が潰れる」という話を聞き込んだ人が、自分の携帯に登録してあった24人の人に、その話を広めたことで、取り付け騒ぎとなり、業務妨害罪(虚偽の風説流布)で逮捕されるという事件がありました。そんな話でなくても、主婦のAさんが久しぶりにあった歳の離れた弟と仲良く外を歩いていたら、「不倫している」という噂が真実味をもって流布していたりとかね(実は似た様な話の経験があるんですけどね。私は姉とは歳が離れていますのでね:笑)。
なんて言いますかね、言葉使いを良くするという規範よりも、「いい加減な話をもっともらしく言っては成らない」という規範の方が多くの場合に重たいのですよ。子供に道徳というか社会規範を教えるときには、個々の規範を教えるだけでなく、その軽重も教えなくてはならないはずだと思うんですね。「これも道徳、あれも道徳、どちらも守りなさい」ではあるけど、「これとあれを比較したら、これの方が重たい道徳だから並び立たない時はこちらを守りなさい」を教えてこその道徳教育だろうと思うんです。
だからこそ、子供に道徳を教えるなら、まず教える方が「この説話は他の規範を教えるのに邪魔に成らないか」を考え、次ぎに「他の規範との重さの比較」をして採用するかどうかを決定しなくてはならないものなんです。
kikulogの方で教員の方の書き込みが有ったのに対して「あなたのクラスで、直ぐ手を出して人を殴るような子供が居たとき『手を出さずに言いたいことがあったら口で言いなさい』とまず教えませんか」と問いかけたりした訳です。そして、例え口汚くても手を出すのを止めて口で言い返す様になったら進歩だとは思いませんかとね。口でののしるのも、相手の身体の水に悪い影響を与えるという教え方で教えたときに、「手を足さずに口で」というより重い規範を教えるのは難しくなりはしませんか、なんてね。
ご意見ありがとうございます。ただ、技術開発者さんの仰ることもなるほどと思いますし、水伝教師に対して水伝授業が何故間違っているのかを説明する論理としては十分だと思うのですが、少しオレの関心は別のところにあるような気がします。
たとえば技術開発者さんは、
>>「これも道徳、あれも道徳、どちらも守りなさい」ではあるけど、「これとあれを比較したら、これの方が重たい道徳だから並び立たない時はこちらを守りなさい」を教えてこその道徳教育だろうと思うんです。
これは技術開発者さん個人の「道徳教育とは如何にあるべきか」という信念に基づいた言明ですよね。勿論、そのお考えもごもっともではありますし、教師の方もこのように説明されれば「それはそうですね」と応えざるを得ないでしょう。ただ、その一方で技術開発者さんもオレも、学校で行われている実際の道徳教育がどういうものか、それにはどのような根拠があるのか、という専門的な事柄を識らないわけです。
一般論として、子供に道徳を教えるならこういうことを教えるべきではないのか、というふうに、一人の社会人として考えているわけですね。多分、そういうふうに考えて意見を語ることも、道徳教育のゴールに対する社会の要請としては決して間違いではないんだと思いますが、今回考えているのは、もう少し別の見方をしてみてはどうだろうということなんです。
最終的には技術開発者さんが仰ったように、二つの一見相反する命題を価値判断して軽重を決定することが求められると思うのですが、それを子供に教えるということは大人同士のコミュニケーションとは違うのではないか、これがまず今回のオレの考察の大前提であり出発点なんです。おそらく、それが専門的な事柄である以上は一定の段取りがあるはずだと思うのですね。
たとえば、「いい加減な話をもっともらしく言ってはならない」という重い規範があるとして、それよりも軽い「言葉遣いを良くする」という規範があるという技術開発者さんの説話の設定に乗るなら、まず目的的に「言葉遣いを良くする」という規範を教え、次に「いい加減な話をもっともらしく言ってはならない」というより重い規範を教え、最後に後者のほうが前者より重いのだということを教える、こういう時系列上の段取りがあるのかもしれません。
その場合、まずとにかく「言葉遣いを良くする」という到達点が目的視されるわけで、他のことには多少目を瞑る。そして、それを習得してから次に、虚言を戒めるという、より高次の段階が想定されていて、これも目的的に多少のことには目を瞑ってそれを習得させることが求められているのかもしれない。つまり、何もかもいっぺんに教えているわけではないのかもしれない、ということが考え得るわけですね。
ですから、総体的な道徳教育という意味では技術開発者さんの仰る通りなんですが、その具体的な教育の実践の場面では、非専門家とは違う考え方があるのかもしれないし、各段階における実践は、それだけを切り取ってみると一見しておかしく見えるのかもしれない。
これを非専門家が一般論の尺度で批判し得るという前提は一度疑ってみる必要があるのではないか、教育者の専門性というのを、われわれは剰りにも過小評価しているのではないか(先生なんて誰でも出来る、みたいな)、その専門性というのは一定程度尊重されるべきではないか、そういうふうに思うわけです。
で、これは聞いてみないとわからないことなので、誰か専門家の方でそれに対してご意見はありませんか、ということを伺いたいわけですね。
勿論、これは水伝授業を肯定しているわけではありませんし、従来の水伝授業批判がおかしいという話でもありません。別の観点における問題提起だという話でして、最初の疑問としてあるのは、何故に熱意も誠意も一定の常識もあるはずの教師たちが水伝授業のおかしさに気附かなかったのかという問題です。水伝授業を行うなんて愚かだ、という見方はまずありますが、愚かだから水伝授業を行った、と逆に考えることは必ずしも正しくないと思うんですよ。
ですから、今回はそのニッチを考えてみたいな、と思っています。
>これを非専門家が一般論の尺度で批判し得るという前提は一度疑ってみる必要があるのではないか、教育者の専門性というのを、われわれは剰りにも過小評価しているのではないか(先生なんて誰でも出来る、みたいな)、その専門性というのは一定程度尊重されるべきではないか、そういうふうに思うわけです。
う〜ん。それに類する事を悪徳商法批判をしている頃に時たま感じたことはあります。まあ、私は法律の専門家では無いのですが、法律の法学的理解に関しては一般の人とも言えない訳ですね。でもって、一般の人から見て不可解に見える法律運用を説明して「そんなのおかしいよ」と言われることは多かったんです。ただね、一般の人から「そんなの法律がおかしい、法律の運用をする専門家がおかしい」と言われたときに、「おかしくは無いんですよ」と説明出来るだけの能力も専門家に必要な能力だろうと思って、ひたすらに説明してきた面があります。
なんていうかな、確かに専門家の専門性により、専門家でない人からまともな事なのに「おかしい」と言われることはあるんだけど、非専門家はそれをあまり意識せずに「おかしい」と言って良いと思うんです。なぜなら、専門家は非専門家にそれが専門のうえでまともな事なら「おかしくないですよ」と説明する能力も含めて専門性だと思うからです。それが説明出来ないならやはり専門家として駄目だと思うんですね。でね、今までどうやら教職にあるらしい人と議論してみた結果からは、「おかしくないですよ」となっとくできるだけの説明を聞いた事はない気がしますね。
こちらでお返事を差し上げようかと思ったのですが、今回の議論の根幹に関わる問題ですので、結果的にかなり長くなってしまい、再々亀さんにご迷惑をおかけするのも心苦しいので、オレのところで引き取らせて戴きました。
http://kuronekotei.way-nifty.com/nichijou/2008/10/post-4bb3.html
かなり長いものですから、お読みになられなくても結構ですし、お返事を期待しているわけでもありません。オレ自身がこの議論を続ける為に必要なコメンタリーだと考えたから書いたテクストです。