たとえば製造業者の方の「一人でも犠牲者を出すようなら、オレだったらやめる」というのは、気高い主張です。これはクラフトマンシップというか「製造者の節度」、製造者にとっての道義の問題です。製造者には、より高い徳を発揮していただきたいと願うぼくは、そうした姿勢を支持します(道義的な面だけでなく、長期的な顧客満足のためにも、商売繁盛のためにも)。
したがって、ゴンザレスさんのように「私ならすぐに作るのをやめている」というご意見は、ものづくりをされている方のごく自然な感覚だと思います。事故原因がユーザー側に「だけ」あるのではなく、製品側に「も」あるという疑いが晴れないのですし、実際問題、物理的特性としてはある程度の危険があるわけですから(新しい製品ということも勘案されるでしょうし、「想定外ユーザーの手元に渡ることを、どうやって防ぐか」の達成度の問題でもあるでしょう)。
古来「法は最低限の道徳」などと言いますが、「自主規制でうまくいかず、これだけの犠牲者を出しているのであれば、法規制が必要だ」といったときに、「×年間でこれだけの犠牲者」というのは看過し難い数なのか、法規制の是非をも社会の利益と勘案するのが立法者に求められる感覚でしょう。先に「製造者にとっての」と言いましたが、購買者には購買者の理屈があり、情があります。いったん社会に出た製品である以上、購買者の立場もまた勘案されるべきなわけです(ここがまあ、ボクはえらく混乱しました)。そうした全体を勘案するのが法の精神であり、危険評価(あるいは有用性評価)なのでしょう。
で、ぼくが有用性(ベネフィット)の評価で混乱したのが、前述の「好き」「おいしい」です。これを「人気がある」「消費者に高い支持を得ている」と考えることでたどりついたのが、「購買者には購買者の理屈がある、情がある」です。
この点では、ぼくも最初「どうしても必要だ、ないと困るというまでの理由が見つからない」と考えていました。昨日辺りに読んだ人気エントリ(蒟蒻畑 危険度じゃないと思うのだよね - Chikirin 2008-10-09)と同じです。マスコミや行政にも、ぼくと同じように「好みを軽んじる」感覚があるように思います。確かに「高い社会的な利便性がある」とか、国家の存亡に関わるといった評価に比べれば、「好み」は高いベネフィットとは言いにくいものです。
この点については、自由とリスクとベネフィット(児童小銃 2008-10-09)というトラックバックをいただきました。
自由主義の立場から見るとベネフィット/リスク比が低いから規制していい、というのは危ういと思います。そもそも他人が想定するベネフィットはせいぜい大勢の人たちの平均値でしかないのに対して、自由主義は個人個人が自己責任で幸福を追求する権利があるというのが原則です。日本国憲法13条とか。幸せの意味は心の数だけある*1のだからそうでないと誰かが抑圧される、と考えるわけです。これも、ごもっともなご指摘ですよね。
むしろベネフィットについては、リスクが絶対的に大きく放置はできないという場面において過剰規制にブレーキをかける方向で考慮すべき事柄だと思います。つまり、リスクは大きいがベネフィットの総和も大きく社会的な影響が大きいから単純に規制するのはいかがなものか…というふうに。
自由とリスクとベネフィット
なにしろ「ないと困る」という人がたくさんいるという点では、「なぜないと困るのか」が反社会的な理由ででもない限り、それなりに高いスコアなんですよね。無視していいとは思われない。
だって、ぶっちゃけちゃえば「あめや団子と同じ程度の危険」かもしれないという程度なんだし、そもそもお菓子っていう嗜好品なんだもの、「好き」が最大のベネフィットだろうし、その程度のベネフィットとだってつりあっちゃうのではないでしょうか。あめや団子と比べれば、歴史が浅く伝統食品では決してないので、いろいろと分が悪いとは思います。最終的には行政が介入することになるかもしれませんから、いわゆる政治的判断で「なくてもいいから禁止」に軍配があがってしまうかもしれません。しかし、危険性評価の一貫としての有用性評価であれば、「バランスしちゃう」という結論もアリです。逆に「リスクも低いけどベネフィットもそんなに高くない」からという「だけ」で禁止するのはNGでしょう。
上記の議論とはつながりが悪いですが、「1」のコメント欄で、こんにゃく精製の技術革新にも寄与しているというご指摘もいただいています。もちろん、メーカーやこんにゃく生産者にとっては大きな収入源となっていたことも予想され、こうした点もベネフィットに含まれるでしょう。
世の中には「LLE」とか「YPLL」とかの「損失余命(損失寿命)」なんていう概念もあるようです。でっかい危険をはかるために使われるようですが、こういう「激しく微妙」なケースでも使えるリスク/ハザード/ベネフィットをはかるような、「便利なものさし」があるといいですね(難しいでしょうし、変なものが有名になって濫用されても困るけど)。
■危険評価(有用性評価)とは別の「個人的なものさし」
ぼくは、どちらかといえば「ものづくり側」の人間です。作っているのは食品ではなく本の類いだし、直接の顧客はエンドユーザー(消費者)たる読者ではなく、出版社などですが。ただ、エンドユーザーに対する誠実さがなければ、ただの身過ぎ世過ぎであってやっていく甲斐もないし、続けていくこともできないだろうと考えています。
ですからやはり、作り手・売り手のあり方には自然と厳しい目を向けることになります。その点、ゴンザレスさんが「自主規制でうまくいかないなら」とおっしゃる気持ちもわかるつもりです。いわば職業意識の問題であって、広く誰もが納得・合意できる感覚ではない。非合理だとまでは言うつもりはありません。ものを作る側がそういった意識をもたなければ、法律だけが頼りになってしまいます。それは「よりよいあり方」ではないですよね。ただ、それをどの立場の人でも許容できるかというと、そうもいかないということです。
また、個人的なバイアスのことも書いておきましょう。ぼくはこの製品への愛着もありません。むしろ、周囲に害をふりまく喫煙者でもあるためか「巻き込まれ型被害」のようなものに敏感なようです。ですから、法規制にはふさわしくないと考えても、困った製品であるとの認識はあり、マンナンライフが自発的に製品を引っ込めてくれて、ほっとしました。改善策を探り当てるまでの一時的なものであっても「製造中止」にするという判断は、やはり歓迎してしまいます。他社も、それにならって改善なり一時中止なりしてくれるといいなあ、と願わないでいられません。商品を愛好している方々も、「自分の『好き』で、知らないところで事故が起きる」というような
ただし、ぼくのこうした思いは、どうやっても危険評価・有用性評価とうまく整合しませんでした。なぜ整合しないのか、あれこれと考えを巡らせ、いろいろな方の意見も聞きつつ考えるに、これはどうもぼくの立場だの職業意識だの「情」だのであって、全体を見渡したときに公平と言えるような「理」にはなっていない、だから危険評価と合致しないのだ……という理解に至ったところです(直接そのような指摘を受けたわけではありませんけれど)。
理詰めで考えていくと、理屈には適っているのに気に入らない答えが出る、ということは、もちろん「理詰めのどこかに見落としがあった」という可能性もあります。しかし、あれこれほかの方と話し合ってみて、どうもそういうわけではなく、感情的なあるいは職業的なこだわりといった「自分の立場に由来する感覚やバイアス」という「個人的なものさし」が働いてしまうからだ、ということのようです(実は、ゴンザレスさんが現れてくれたおかげで自分の「職業意識」についても考えることができました。ありがとうございます)。
■「個人的なものさし」からは、なかなか自由になれない
「情」と書きましたが、先のエントリに書いたように人生観・社会観と言ってもいいのかもしれません。と言っても、そんなに大したものではなくて、具体的にいうと、こんなことです。
「主たるユーザーはダイエット志向の若い女の子ではないか」という偏見(これが偏見にすぎないことは、すぐに明らかになりました)から始まり、なんとなくのダイエット志向を軽侮するような内心の傾きとか、若い女の子はものごとをあまり深く考えないような気がするという思い込みなどなど(思い込みには、保護者は小さな子どもに食べ物を与える際には「神経質になるに違いない」というものもあります)。もちろん、そういった「内心のダメそうな部分」だけでなく、自分の欲望には控えめである方が美しいとか、作ったものが生んだ結果には積極的に責任をとろうとする人間でありたいとか、そういう「よさげなもの」もあるわけですけど。そういったさまざまな「個人的な思い」がゴチャゴチャになって、「特別かつ積極的に社会の役に立つようなものじゃないのだから、なくなっても別にかまわないのではないか」と考えてしまう……というようなことです、
これが上記のような数字を読む際にも、ぼくの認識をゆがめようゆがめようとしました。なにか見つけ出せていない危険(受益者と被害者の不均衡とか)を見つけようとしたり、ユーザーの意識をことさら無視したり軽視したりする方向に働くんですね。おかしな判断を下していると思いたくない、自分が単に感情的に反発しているわけではないと思いたい、というわけです。難しいものですね。
そんなわけで、たとえば小さな子どもをもつお母さんが「そうは言っても心配」というのも当然だし、それを否定もできません。どうしたってそう感じちゃうのでしょうし、それが自然な心理でもあるでしょう。
ちゃんと主張し合って綱引きをするのが民主主義だという観点からは、ここはせいぜい綱引きをし合うべきところなのかもしれません。おおぜいの「けっこう好き」の総和だって認められるのと同様に、少数の「絶対イヤ」だって黙殺されるのは変ですものね。ただ,この部分は水掛け論になるか「その気持ちもわかる」としかならないでしょうけど(^^;;
■最後に
というわけで結論は、危険評価としては「大した危険ではない」「販売禁止などの法規制は不要。改善すべき点は業界の努力で」「製品の仕様について、一部に法的規制はあってもいいかもしれない」で、個人的な感情としては「メーカーが取り下げてくれてよかった」です。前と同じ。なにが変わったのかというと、自分なりの危険評価と自分の立場に基づいた情緒的意見を切り分けることができた、ということ(^^;;
最後までお読みになって「なんだそりゃ」と思われた方もおいでかもしれませんね、すいません。
ぼくとしては、なんで自分がそういう矛盾を含んだように見える結論になるのかが、わかった気がするといったところです(もう一度整理すると、危険性はそれほど高くない。世間的には支持されている商品なので、その支持を軽視するのもおかしい。自分に迷惑なわけじゃないけど、それでも取り下げてくれたことを歓迎してしまう。そう考えてしまうのは、ひとつには「嗜好を満足させるベネフィットを、社会的貢献のなかで低く位置づけてしまう」こと、ほかに、どうやら職業意識やら情やら個人的バイアスがからんでいる。合理的な判断ではないとまでは言えないかもしれない。ただし、少なくとも後半は危険性評価の問題ではない)。
マンナンライフの決定の理由は、本当のところはわからないというしかありません。しかし、自社の存亡や業界の将来、長期的な採算なども含めて総合的に判断してのことでしょうから、単純に「圧力に屈した」とだけ見るのはいかがなものでしょう。
マンナンライフの決断にも関わらず(あるいは、それに乗じて)、政府は規制案を持ち出して来たようです。消費者庁作りの布石だの、逆に消費者庁構想を闇に葬るためだのという声も聴こえますが、ぼくはそこには関心がありませんし、政治的配慮は必ずしも危険評価とは噛み合わないだろうとも思います。
ぼくは理にも情にもかなった判断をしたいし、社会がそのようになってくれることを望んでもいます。また、この製品の行く末は、ものづくりの片隅にいる者として、世間に迷惑をかけている者として気になります。
今回の一連の議論では、「いったん世に送り出したら、想定外の広がり方をして作り手・送り手には制御できなくなる」ということの恐ろしさも、改めて感じました。「いまさら引っ込めると言われたって」という理由が、好き嫌いという理由であっていけない道理はありません。もともと実用品ではなくお菓子なんだし(ほんと、お菓子なんですよ。ダイエット食品でも栄養食品でもないんですよ)。
最後までお読みいただき、どうもありがとうございました。
http://www.geocities.jp/kanbutu_kenkyu/simi-kon.html
「こんにゃく」を凍らせるというのは、「凍みこんにゃく」の流れのなのかしら?やったことないし食べてことないので事情はよくわからないんですけど。ヒットした商品の「つや玉」みたいになるんでしょうかね?ただ、だから、「凍らせた」というところに私はあまり不思議感はありませんでした。
こんにゃくは料理する際は必ず臭み抜きをしますが、「蒟蒻畑」みたいな商品だと、それをやらなくていいので、こういうこんにゃくあったら便利でいいなあと思っておりました。
o-157の貝割菜騒ぎで売れなくなって(同じような製法で)苦肉の策でアルファルフアができたみたいな話もあるんですが、マンナンライフは何が次の一手を考えていればいいなとは思います。
身も心もわたわたしていて、いただいたコメントをちゃんと咀嚼できていないのですが、とりいそぎ訪問者への新しい視点のご提供にお礼を。ありがとうございます。
マンナンライフの次の一手が、クラッシュタイプ以外にもあって、ユーザーの満足を損なわなければよいのですが。そのうえで、いろんな方の不安も拭えるとよいのですけど、ここまで加熱すると、それは難しいのかもしれませんね。
〈出版社をいわゆる製造業・「ものづくり」業と一緒にはできない〉は、その後のいろんな点も含めて、ごもっともです。そこまで書けてなかったと思うし、メーカーさんというものをちゃんと知ってるとはとても言えないけど、近い気持ちがあって「どちらかというと」とか「片隅」とかいう表現を選びました。
せいぜい「共通点もある」程度だったかもしれません。
それでは全然足りなくて、もっと決定的に違うというご指摘なのだとすると、それはやはり、ぼくが思っているよりも「もっとわかってない」ということなのでしょう。
悔しくも悲しいけど。
今回の亀さんの一連のエントリは、クリティカルシンカーの鑑といえそうです。何がどうすばらしいのか?という話を書けば、批判的思考の宣伝になりそうなので、そういった関係のエントリを書きたいのですが、今は労力を避けないのでここまで。
本題関連情報として食品安全情報blogの関連記事を上げておきますね。
http://d.hatena.ne.jp/uneyama/20081010#p17
物理的な事実からいえば、危険性はこんにゃくゼリー特有のものではないということは既に明らかだと思います。
危険性が明らかであり、且つ、危険性が周知されていない食品もこんにゃくゼリーに限らず数多くあります。これもまた客観的事実です。
そんなわけで、問題は社会的合意をどこに置くかに限定できると考えます。
私はカバヤのジューシーのグレープ味が子どもの頃、大好きで、遊びながら食べてたら、喉の詰まらせて救急車に乗って病院に行って、耳鼻咽喉科(実は友達のお父さんなんですが 笑)に激しく叱られたことがあります。あの苦しさは今でも覚えています。しばらく、カバヤのジューシーは怖くて食べませんでした。でも今はお菓子の仕事をしています。例えば「カバヤのジューシーも危険だから、販売停止にしてほしい」などという話になったら絶対反対すると思います。
http://www.kabaya.co.jp/juuc/juuc_2.html
このカバヤの「ジューシーの思い出」というページはとても好きです。
幼少期を岡山で過ごしたせいか、「カバヤ」と「オハヨー乳業」は、当時の僕らにとってとても身近な存在だった。「ジューC」と聞くと、僕はなんと言ってもあの「独特な形状の蓋の裏」を思い出す。もう20年以上は見てもいないはずなのに、蓋の裏にある3-4本の、先が丸く平たい棒の様な物は、今になってもその意味が判るようで判らないままだ。「ジューC」の知られざる魅力の一つに「例え全部食べ終わって空になっても、強烈に匂いの残るケース」がある。もうとっくに食べ終わったはずの「ジューC」の空ケースを、数時間後に再び「シュポン」と開栓しようものなら、たちまちフルーツの甘い香りが鮮明に甦り、幼心にも「お得感」を覚えた記憶がある。また、空ケースに砂や水を入れて遊んで見たり、唇の先をあてて「ボゥー」と笛にして見たりと、子供にとって色々と遊びの応用が利くお菓子だったと思う。明日、5歳と2歳になる息子達と「ジューC」を買いに行こうと思う。僕と同じDNAなら、恐らく彼らも、僕が昔味わったのと同じ感動を「ジューC」に見出す事だろう。(久仁 さん 男性 31才)
ちなみに。梶屋のシガーフライ(これも岡山の人は誰でも知ってますが)も大好きでした。たばこの形状をまねた、たばこ吸うふりとかして遊んでました。友達はこれ喉に詰まらせてました。
マンナンライフの販売停止はほかの企業の対応の指標にもなるように思います。だからほんとは戦って欲しいなと思います。
ご紹介のuneyamaさんのエントリに、FDAが警告を出した経緯として、次のような話が紹介されています。
http://d.hatena.ne.jp/uneyama/20081010#p17
>あらゆる食べ物には窒息のリスクがあるが、普通でないリスクunusual riskがあると判断された場合は対応する。ミニカップタイプのコンニャクゼリーは、その形状と大きさと滑りやすさと口の中で溶けないことから普通でないリスクがあると判断された。一方ペパーミントキャンディでの死亡事故では普通でないリスクとはならないと判断されて商品そのものへの対応はとられなかった。
【10/17追記:この見解は、2000年頃に危険性が話題になった「かつての製品群」に対してのものです。現在の製品群に対する評価ではありません。uneyamaさん、ご指摘ありがとうございます。】
これは、「物理的な事実からいえば、危険性はこんにゃくゼリー特有のものではないということは既に明らか」というお話とは合致しないですよね???
バタバタしていて、ちゃんと読めている自信がないのですけど、ぼくがなんか勘違いしているのかしら。「物理的な」というキーワードを使ってぼくの考えていることをまとめようとすると、「物理的な特性としては、こんにゃくゼリーに特有の危険はある。しかし、その危険性は小さく、他の食品と大して違わない」です。ほかに、ああいうものって、ちょっと思いつかないのです。
規制は不要というご意見ですが、規制がないことで「蒟蒻畑」より危険性の高い商品によって、さらに犠牲者が出てしまうことを危惧してしまいます。
そして、新しいお菓子の危険性の評価として、「売上高」と「この商品で死ぬ子供の数」、この二つのバランスがとれていれば良い、と受け止めてしまうのは極論でしょうか?
>新しいお菓子の危険性の評価として、「売上高」と「この商品で死ぬ子供の数」、この二つのバランスがとれていれば良い、と受け止めてしまうのは極論でしょうか?
それは「社会的なコストと実際の危険のバランスを理由に『法規制は不要だ』とする主張」を、上記のように「受け止めてしまうのは」ということですよね? だとすると、やはり極論というか、どっかズレています。
もしも「結局、儲け第一主義と結論は同じじゃないか。彼らを認めてしまうことになるではないか」「だったら同じ穴のムジナだ」ということであれば、ゴンザレスさんをはじめ、すぐに法規制(または販売禁止)を、とお考えの方にとってはそうなのかもしれません。
その点については、ぼくとしては「理由が違っても、結論が同じになることもある」「理由の違いに意味を見出しせないのであれば、そのまま話を続けても、あまり意義はないかもしれない」としか申し上げられません。
ゴンザレスさんは、ブログの記事を拝読しても「すでに食品の製造者として許容される失態のレベルを超えた」と考えておいでですよね。ぼくは「自分や仲間に求められるレベルは超えた。しかし、世間一般に望めるレベルには達していない。自主規制を整備して欲しい。今後も改善されるようすがなければ、法規制を進めるしかない」と考えています。
もっとも、誰もぼくに賛同してはいないのですが(そもそも多くの方は、いろいろな留保なしで「法規制は不要」「マ社の販売自粛も必要なかった」ということのようです)。それはそれで、ぼくも納得できてはいないのですが説得できるとも考えていません。
そうそう、そもそも、亀@渋研Xさんと私達の間にも(そして、コメンター同士にもそれはあるでしょう)意見の相違がある訳でして。
危険性の評価に「売上高」が関係するというのがどういう事なのか、今一つ読み取れないでいます。
リスクに関しては、事故の件数を最も重視して定量的に評価するものだと思います。
今の所、他の食品に比して圧倒的に高いリスクは無いと言って良いと考えますが、どうでしょうか。
「長い間のご愛顧に心より感謝いたします」(女子リベ 安原宏美--編集者のブログ 2008-10-15)
http://ameblo.jp/hiromiyasuhara/entry-10151971931.html
コメント欄の赤木智弘さんの指摘は、「説得力あり」です。こういう視点も必要だなあ……。
TBをくれた児童小銃さんのエントリも、ぼくはうまく咀嚼できていないけど、考えなきゃいけない視点だと思っています。
自由とリスクとベネフィット(児童小銃 2008-10-09)
http://d.hatena.ne.jp/rna/20081009/p1
そうそう、コメント欄にuneyamaさんがいるのです。lets_skepticさんがご紹介くださったサイトの方。リスク評価が専門の方なのだろうか、と思いつつ、いまだに調べられていません(汗々
この場合基本的に天秤にかけられているものが「子どもの死」ですから、「これがなきゃ死ぬ」みたいな説得性のあるものじゃないと、ベネフィットでもなくて、「実用的」じゃないと言われたら、すべてのものはほとんど「意味なし」の嗜好品になってしまいますよね。さらにマ社の誰かが「死んでお詫び」だとバランスがとれるという話になってしまいます(ちょっと極論だけど、実際そうなってたりします)。だから渋研さんのように考えてしまう方向性がまさに危険だなとも感じます。
私はその「意味なし」と感じるところでも「ベネフィット」として天秤にかけられる思考を大切にしてほしいということですかね。この社会は「無駄」を作り出して、たくさんの人を養っているわけですから、そこに「不当」な弾圧が加われば、それはまわりまわって「死」と天秤にかけられるとも考えます。それが赤木さんの言ってることともつながると思います。
まちがっているものや、危険なものを修正する、なくすというところと両立する話です。昔の日本なんて、銃もヒロポンが出回ってますし、学校で子どもがプカプカたばこ吸ってたりしますから、そりゃまあきっとやめたほうがいいわけで、それは100人の人間が使ったら、詳しい数字はわからないですけど(たとえだと思ってください)、きっと半分以上は不具合があるんでしょう、と。マンナンライフは100人食べたら、99・9人はいわゆる新聞発表などで「リスク」といわれてるものは、きっと「ベネフィット」です。そこを忘れないでほしいということですね。
「結局数字なのか」と言われたら、「そうです」と言うしかないなというかんじです。
とりとめもないコメントで申し訳ありません。
大きなところでの社会的合意はすでにあって徹頭徹尾程度問題、その暴走にブレーキをかけられるのは結局数字で考えるしかない。その辺は、おっしゃる通りかと思います。数字と言って悪ければ、「ちゃんと実態をつかむ」ということなんですが、どうやって実態をつかむんだといえば、数字しかなかったりする。
「程度問題」で、ちょっと思い出したことがありまして。
おそらく、ぼくもゴンザレスさんも(結論は違う部分があるんだけど)「自分の行動規範」をどこまで外に対しても適用を求めるかが、うまく周りと合致していない部分があると思うんです(ここのコメント欄のみなさんとも、世間一般とも)。よくある言い回しだと、「自分にやさしく、他人に厳しい」とか「自分に厳しく、他人にも厳しい」とかってのがあるじゃないですか。ああいう雰囲気の話で、「じゃあ、あのメーカーやら業界やらには、どの程度厳しくすべきか」みたいな加減がうまく合致してないんじゃないか、なんて考えてみたりしています。
これ、どこまで合致しなければならないのか、そこも難しいところだとも思うんですね。
もうひとつ、自分でも自覚があるのですが、いろんな不安があって、そこはやっぱり簡単に足を取られる。不安の内容は人それぞれで、自分の子どもがというのもあれば、こういう事態を許すとメーカーが「不当に負担を受ける」も「堕落する」もあったりするんだけど。
で、以前、自分で書いた「不安解消装置」というエントリを不意に思い出して、昨日あたり読み返してたりしたんです。
http://shibuken.seesaa.net/article/47226387.html
「法規制」っていうのは、一定の抑止効果が期待できるだけに、不安に駆られるとついつい言い出してしまう「不安解消装置」のひとつなんだと思うんですよ。「自主規制しろ」という要求も似たようなもの(しかし、言われてしてたら自主規制じゃないような気もしていますが、まあ法規制に対する自主規制ってことでいいのかな)。
だけど、規制っていうのは、いわば伝家の宝刀みたいなもので、無闇に抜いちゃいけないと思ってるんですね。そうすると「どこからが無闇なんだ」みたいな話もあるわけなんですが。
「食の不安」というのが必要以上に増大しているというのはぼくも感じていることで、そのためにメーカーも流通もすごい圧迫を受けているだろうなということも容易に想像できます。その一方で、自分の知っている部分、つまり食品産業以外に目をやると、妙に安易に「商売」しちゃっているような方々も少なからず目にする(別に報道で触れることだけじゃなくて)。
自分が客として接している分には、ほとんど「えっ?」という目には遭ってないんだけど、一緒に仕事をすると、まあしばしばある。「ああ、この人たちはちゃんとしてるなあ」と思えることの方が少なめ。付き合いが浅くて、どっちだかわかんないとか、特にヒドくもないけど立派ってほどでもないのが最大多数ですけどね。
わからん:よくない:立派 の比率が 6:3:2 ぐらいのものかなと思う。
そうすると、「一般的に目にする安易な仕事ぶり」を「食品メーカーにまで広げて一般化しちゃっていいのか」ってことだとも思う。多分、できませんよね、そんな一般化って。食べ物を扱う人たちの平均値は、どっちかというとメディアに関わる人たちよりも「立派」度が高いんじゃないだろうか。食いもんだから。ヘタすると、客が病気になったり死んだりするから。希望的観測かもしれないけど。
まあ、そんなわけでぼくは「自主規制しろ」とさえも言えないでモゴモゴしながら、「まあ、この件については最大手が引き下がってくれたのはうれしい」止まりなわけですけど、その時点では「最大手が自主規制に『追い込まれた』ということは、別の角度から見るとどういうマイナスの影響が出る可能性があるか」ってのは、ほんとに目配りできていなかった。
その後、落ち着いて考えることができないでいるので、今も「そこにも目配りが必要だ」などと思いつつ、立ちすくんでいるような状態なんですけどね。
ああ、いつもどおり煮え切らない話になってしまった(汗
あ、そうだ。
あんまり子どものころに買い食いをしなかったせいで、安原さんがよくお書きのような体験に乏しいですね、ぼく(小遣いも少なかったし、小銭があると画用紙を買う、変な子どもだったし)。ごく小さいころを除くと、食べることが楽しくなったのって、大人になってからなんですよ。で、酒飲みなのでツマミ系にはこだわりがあったりした時期もあるんだけど、いまはそうでもない。どちらかというと、「そうまずくなく、食べられさえすればいい」に近いような。
食い物関係のネタなんかも仕事で扱って、「あー、なんかオレは美味というものをよくわかっておらんなあ」というのと、「危険とか安全って、消費者が全体的に目くじらを立てなければならないほどの状況って、もう20年ほどほとんど起きてないんじゃない?」みたいな感覚になていっちゃった(親が「らでぃっしゅぼーや」にハマって、子どもが生まれたらやたらに勧められて不快だったなんてことも関係してるかも)。
なんか、そういうのもバイアスになっているかもしれないなあ、などと思ったり。
私の方が読み違えてました。「4才以下の子どもに食べさせてはいけないもの」がunusual riskであるという間違いです。今は時間が無いので、一旦自分の意見は保留します。
uneyamaさんは、国立医薬品食品衛生研究所 安全情報部 主任研究官という肩書きだと思います。専門家ですので、食品安全性関係の話では(物理学の話をしている菊池誠さんぐらい)信頼できると考えていいかと。松永和紀さんも、ネタ元として使っているようです。
>不安に駆られるとついつい言い出してしまう「不安解消装置」のひとつなんだと思うんですよ。
読ませていただきました。そうですね。マンナンライフは「法規制」じゃないですけど、
わかりやすい例だと少年法の改正のときは、数件の少年事件で動きましたね。このときは逆送年齢が引き下げられたけど実態として一桁もなかったと思います。
http://www.moj.go.jp/KEIJI/keiji38-1.htm
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平成13年4月1日以降に罪が犯された事件で,同日から平成18年3月31日までの5年間に終局決定があったもののうち,裁判時,14歳又は15歳であった少年の人員は8万8,036人,これは道路交通法違反事件及び業務上重過失致死傷事件を除いております。また,このうち故意の犯罪により人を死亡させた事件は合計48人,これに強盗強姦を加えた,いわゆる重大事件は合計53人でした。これに対し平成12年改正法により逆送された14歳または15歳の少年は資料2及び資料3の2ページの表一にありますように5人でした。この5人のうち,1名は強盗強姦等で実刑に処せられ,2名は道路交通法違反で罰金に処せられましたが,2名は傷害致死により刑事裁判の結果,少年法第55条により再度家庭裁判所に移送され,少年院送致となっています。この5年間における年少少年の逆送率は0.01%未満であり,故意の犯罪により人を死亡させた事件に着目しても48人中2人が逆送され,割合は4.2%となっております。このように家庭裁判所においては平成12年改正法の趣旨を踏まえつつ,少年の心身の発達状況等を考慮した慎重な運用がなされているものと認識しているところであります。
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でも世論においては「少年犯罪低年齢化」というのが既成事実となりました。
不安にかられて「不安解消」ができるかのように審議されて決定されたものが、不安を固定し、不安を増幅される根拠となっていると思います。「少年法変わったよね!」ってことで。法改正の「効果」という意味では、そもそも低年齢化してないので「なかった」といっていいと思います。私は「体感治安のみが悪化している」という認識ですが、以前雑誌でアンケートをとったとき自分と同じ年齢の女性が「子どもが凶悪化するかもしれないから、子どもを産みたくない」「虐待してしまうかもしれないから子どもを産みたくない」という回答がけっこう多くて驚きました。「不安解消」のつもりが「不安」を作り出しているということじゃないかと。これはこう思っても不思議じゃないと思いました。もうちょっと「そこを不安に思わなくていいよ」(事実だし)、という言説があってもいいいじゃないかと思いました。
>一定の抑止効果が期待できるだけに、
一般的にはそう思われても「犯罪分野」にいたっては一定の抑止効果が実証できないものは多いようです。例えば「死刑」も、抑止効果は実証されてませんし、逆に「死刑」があるほうが「犯罪が誘発される」という調査もあるようです。
>「そうまずくなく、食べられさえすればいい」に近いような。
私もそんなにこだわりはないですよ。食品の一番のリスク回避は「量が確保されていること」と「多様性があること」と思います。
グルメの仕事仲間は多いですけど、ゲームを作る人が例えば「ゲームのグラフィックにこだわらない」人じゃないより、こだわっている人が多いであろうのは不思議ではないのでそりゃ当然かなと思います。そこは守ってあげるべきだと思います。ただ、こだわり過ぎて、変な「食哲学」にかぶれちゃったりする人はいて、困りますけど。
>「あー、なんかオレは美味というものをよくわかっておらんなあ」というのと、
>「危険とか安全って、消費者が全体的に目くじらを立てなければならないほどの状況って、もう20年ほどほとんど起きてないんじゃない?」
私も同じ意見です。
FDAがunusual riskがあると判断したのは、小さいミニカップタイプの、吸い込んで食べる形のコンニャクゼリーです。2000年前後にこのタイプの製品が普通の製品より危険性が高い、という認識を持ったのは世界共通であると思われます。
その結果EUや北米では製品そのものをなくしてしまう方向に動き、韓国では行政による物理的性状の規制が行われ、日本ではメーカーによる形態の変更と注意表示が行われました。
ですから現在のコンニャク畑については、日本独自の問題です。そして現在の形状のコンニャク畑をFDAがunusual riskと判断するかどうかは不明です。
それからお菓子のことですが、世界中でバランスの取れた食生活を送るためのガイドラインというものが作られていますが、健康的な食生活のためにお菓子や嗜好品にきちんと言及しているのは私の知る限り日本だけです。
健康で楽しい食生活というコマをまわすための紐として描かれています。このへんに日本の豊かな食生活の一端が表されていると思います。
FDAの見解が2000年段階のものだということを忘れると、確かにさらにやっかいな誤解につながり兼ねませんね。
引用した部分に、追記しておきます。
消費者センターの資料でも、古いものも参照しないわけにもいかないのですが、言及のしかたが難しいです。
>健康的な食生活のためにお菓子や嗜好品にきちんと言及しているのは私の知る限り日本だけです。
そんなところまで目配りがされているとは驚きです。つい、国民性とかよけいなことを考えてしまいそうなお話です。
前のコメントで「売上高」と表現したのは、流通商品のベネフィットは、結局は売り上げとして数値に表れるのではないかと思ったのですが、たしかにズレていたみたいです。
そして、個人的なものさしの違いによるものかもしれませんが、リスクのとらえ方が大きく違っているなと思いました。
ここでは事故の件数から飴と同じくらいの「ふつうに危険」という表現をされていますが、新しいカテゴリーの商品として、危険性が飴と同程度あり、年に数人の子供が犠牲になるレベルであれば、やはり高いリスクがあると思いました。
特に「従来のミニカップタイプで、非情に固く弾力の強いこんにゃく入りのゼリー」は危険だと思っています。
ぼくも、いろんな点で釈然としていません。
なにをどう書いたらいいのか、考え続けています。うまく書ける気は今もしませんが、いま考えていることなどを少し。
ぼくとゴンザレスさんは、とても近い現状認識なのだと思います。法規制の是非を巡る結論以外は、新しいカテゴリーの製品だということやマ社以外の製品がかなり気になっている点も、同じだと言っていいと思います。マ社以外の製品も、それ以外の製品も改善されることを、ぼくも望んでいます。
ほかの方々とも、そんなに大きく違ってはいないのですが、それよりも、さらにずっと近い。
ぼくが、「まだ線を踏み越えていない。つま先がかかったぐらいだからギリギリでセーフ」とみなした部分を、ゴンザレスさんは「もう踏み越えてる。少なくともつま先は出ているからアウト」と見ておいでで。多くの方は「最初はともかく、いまのマ社製品は一歩も二歩も線の手前だから余裕でセーフ」とお考えで、マ社製品以外の話が出て来ることは少ない(実態が見えないので仕方ないのですが)。
まさに、そういうボーダー上の問題、意見の割れやすい、ギリギリの領域に属する事例なのかなあ、とも思うのですが、それにしては「ぜんぜん手前」という人が多い。
ちょっとずれた話ですが、今回、ぼくがとても驚いているのは、みんなが「こんなのたいして危険じゃない」と言っているところです。これまで、あまりそういう例にはお目にかかりませんでした。
ふつうは新しい危険にはみんな過敏です。「みんなが恐れるよりも危険は少ないよ」という話をしないといけない、と感じることが多いんです。たとえば体感治安の悪化とか、凶悪犯罪や少年犯罪の増加とかは、そういう例でした。
あるいは「一定の危険はあるけれど、こういう利点もあるんだから一概にやめようなんて言えるものではないよ」とか。タミフルなんかは、まさにそういう文脈のものです。
ところが、この製品は違った。ふつうなら臆病になる新しい危険を含んだもので、ふつうなら嫌がられる小さな子どもが被害者になるものなのに、みんなそこに過剰反応はしないようなのです。ふつうは、「そうは言っても、子どもには罪はないでしょう」なんていう意見が世間に続出する印象があるんですけどね。
で、なぜなんだろうと考えて、「なくなってほしくない」と言っている人は、身内が被害に遭いそうもない人ばかりなのではないか、なんて考え始めてしまったわけで。実際には必ずしもそうとは言えなかったようですが、まだ疑っています。なくなると自分がイヤなものの危険に対しては寛容という、ただのワガママ、自己中心的な心理がかなり多くの人には(無意識であれ)働いていやしないか、という疑いは捨て切れていません。だって、それが人情だもの。ただ、憶測に過ぎないことなので、そういう話はエントリでハッキリとは書いていません。せいぜい「不均衡という構図がないか」とか言うに留まりました。
またちょっと違う話。
ぼくには、この製品はたとえば「赤ちゃんが指を切断する可能性のある乳母車」のように見えているのだと思います。しかも「ふつう、そこに指を入れることはないだろう」という場所ではなく、「ある程度は、そこに指がいくことだってありそうだ」というような。
しかし、実際には乳母車ではないどころか、子どもを対象とした製品でさえありません。そこを誤認しやすいのではないか、直感的にはわかりにくい部分があるのではないか、という疑いはあります。そこに一定の賛同は得られつつも、事故を起こさないための配慮も多々あるということで割り引かざるを得ないことになります。
難しい。本当に難しいケースだと思います。
■こんにゃくゼリー規制論にネットはなぜ反発するか インターネット-最新ニュース:IT-PLUS(2008年10月17日)
http://it.nikkei.co.jp/internet/news/index.aspx?n=MMIT11000016102008
■製造中止「蒟蒻畑」に同情1万人…ネットに反対の声(ZAKZAK 2008/10/16)
http://www.zakzak.co.jp/top/200810/t2008101638_all.html