これらのエントリは、「合理化がいかにして行われるか」「ノスタル爺はどうやって自己正当化をはかるか」のサンプルになるに違いありません。もっともらしい客観評価などの後に述べられる「意見」「主張」というやつは、発言者の立場などによるバイアスから自由になれない可能性が高い、そこんとこは区別して読まないといかん、ということを示しています。
特に後段「4」「5」の道筋は、「理屈とは別の個人的な感情」といった意見は、かなり危険かもしれないことをも示しているのかもしれないとも思います。原理的にはどんな主張だってできるわけですし、それを正当化とまでは言わなくても温存しようとする行為でもあって、さらに同じような立場の共鳴を呼びかねないわけですから。
しかも、そう気づいても、そうした個人的なバイアスからは自由になれない、ということまで示しているはずです。なんたってサンプルとしてこしらえたわけではなく、まっとうな話をしようと悶絶した結果がこれなのです。こわいよ。自分が。
どんだけ真剣にやっても、合理的判断と整合しない結論から離れられないニンゲンのサガとか、そんなことに思いを馳せながら読んでいただければ幸いです(危険評価そのものは、まともだと思ってるんですけどね)。
「しばらくコメントに反応しない」という自分に課した禁忌を破ったついで、でした。
ぶっちゃけます。
この件について書かれたものをいくつか読んだのですが、こちらの一連のエントリーのような、自身のバイアスに眼を向けながら客観的に評価していこうという「姿勢」を感じさせるものがほとんど見られなくて、ちょっとげんなりしてます。ですから、こちらを拝見すると、少し安心するのです。
亀@渋研Xさんのスタンスを見習いたいものです。
ところで、よく見られるのが、「ゼリー」として売ってたのが問題、という意見と、それに対する、「フルーツこんにゃく」と表現を変えたではないか、という反論(形状を変えた、というのもありますが)。
私は、名前を変えた事そのものもですが、それだけでは無くて、あれがまさにこんにゃくであるとどれだけ周知させる事が出来たのか、というのがポイントだろうと思います。実際、フルーツこんにゃくと改めた事を、私は知りませんでした。
でも、そもそも「蒟蒻畑」という名前だろう、という指摘もありそうです。この場合には、視覚的なイメージ等から、ゼリーらしさが強く意識されるのではないか、と考える事も出来ます。
思うに、当該商品について釈然としないものを感じている人は、こういうエラー、つまり「紛らわしい」がゆえに起こり得るエラーについて違和感を懐いているのではないのかな、と。見た目は明らかにゼリーぽいのに蒟蒻を強調して名前を変えたと言われてもなあ、と。
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念のため。
先にも書いたように、私は、製造中止は行き過ぎた措置だったと考えています。一時的であるにしろ。あらわれたリスクには、対策を講じた作用も織り込まれているはずなので、それを勘案すると、妥当な判断では無かったと思います。
ただ、私自身、未だ、ごちゃごちゃとして整理されない思いもあります。かなり難しいです。
私が一番言いたかったのはちょっと別のところでして。
私はリスクはベネフィットは裏表の場合が多いと思います。ただ、ベネフィットは「好きだけでいいじゃないか」的な話しかなさそう・・・的な流れに読めました。なんていうんでしょう?リスクとベネフィットが遠く離れているかんじがしたんですね。もちろん渋研さんは当然のこととして書かれていると思うんですが消費者関連行政も大きなところでいうと以下の「リスク」を3点が主張されているところですよね。そのリスクなくなるといっしょになくなるベネフィットはもちろん「なくて当然」というとになります。例えばマンナンライフが新しい商品が出してきたときに「以下ベネフィットがないというクレームは今後この商品については言っちゃだめよね」ということになるはずです。それは世論は覚悟(なんか大袈裟な言い方ですが)してるんしょうか?これってこんにゃくゼリーそのものの「ベネフィット」ですよね。
例えば
(1)口で吸いだして直接食べるから危険
→手を汚さないで手軽に食べられる
→あと「プッチンプリン」みたいな、スポンと抜ける感覚が楽しいし無駄がない。(お菓子作りしてると型からきれいに抜けるのはベネフィットです)
(2)物質的な特徴として硬く、弾力性が強いから危険
→歯ごたえがあっておいしい
(3)こんにゃくを含んでいない柔らかいゼリーと外観的に区別しにくいから危険
→ゼリーのおいしさがすぐイメージできるので親近感がある
「こんにゃくゼリー」に関わらず商品開発するうえで大事なところだなと感じるわけです。それも「消費者のベネフィット考えた製造者の美学」のように思います。マンナンライフに関しては、この部分もよくわかって自主規制してたと思います。
あと、私はEUやアメリカの規制が厳しいのは移民が多いし、識字率の事情もあると思います。ニューヨークでタクシーの運転手さんに地図を見せても「地図が読めない」、「字が読めない」人が多いのに驚きます。教育的指導に「力を入れる」方向にならなかったのは残念です。
裏付けの取りようもないですが、もしそういう人が多数なのだとしたら、「こんにゃくゼリー」と呼んでいたとか名前を変えたとかいう話は実はあまり重要ではないんじゃないかなあと考えたりもします。(TAKESANさんの言われるように、見た目の問題は残るとは思いますが)
こんなんでも存在意義を認めていただけているのは、うれしいです。
>リスクとベネフィットが遠く離れているかんじがしたんですね。
今回、嗜好品については、ていうか実用的な価値が高いものじゃないと、いわゆるリスクとベネフィットを持ち出しても、比較検討にならない場合があるのだということなのかなあ、なんて思いました。
なだろう、ベクトルの方向も強さも異質なので、そこで差し引きを試みても意味がないというか、出せないというか。
レンタルビデオの料金は高いか安いかを、電気代と比較して考えよう、みたいな意味のなさ。
バタバタしまくっていて、脊髄反射的なコメントしか書けそうにないので、いまのところは「ありがたく読んでおります!」というご挨拶のみにて m(_ _)m。
>十把一絡げに「蒟蒻畑」
そ、それは大いにありそうなことですね。
「フルーツこんにゃく」という表現は蒟蒻畑のパッケージ裏面右上にある
こんにゃく(グルコマンナン)をフルーツ果汁で味付けしたフルーツこんにゃくです。
という文章の1ヶ所にしか出てきません。
蒟蒻畑ライトの方には「フルーツこんにゃく」なんてどこにも書かれていません。
また、両者の表面には「こんにゃく入りゼリー」という表記があり(これは注意喚起表示なので仕方ない)、
さらに蒟蒻畑のパッケージ表面のド真ん中には
KONNYAKUBATAKE jelly is flavored with fruit juices and made from Konnyaku.
という英文が書かれているんです。
こんな状態で「こんにゃくゼリーからフルーツこんにゃくに表現を改めた」なんて言い訳をしても逆効果でしょうね。
むしろ「自分でゼリーって書いてるじゃねぇか」と突っ込まれるだけでしょう。
頻繁に蒟蒻畑を購入している人でも「フルーツこんにゃく」という名前は知らなかったんじゃないでしょうか。
あああ、そうなんですか。
じゃあ、そこを論拠に「ゼリーだと思ったってのは、思い込みによる誤認で、パッケージにはちゃんと書いてあるから」っていうのは、逆に思い込みに基づく強弁の可能性が高いわけですね。
しかし、英語で説明するとなると、英語圏の人が知っているであろうものになぞらえるしかないような……。
「新しい食品」というのは、説明も難しいですね。
ゼラチンだけでなく植物性のペクチンで固まっててもjellyって言いますからねえ。
こんにゃくでこんなおかしを作ればやっぱりゼリーと表現するしかないでしょう。
だもんで「ゼリーって言わなくしたもん」という言い訳にはそもそも意味がないように思えます。
冷静に考えてみると、あの英文からjellyという語を取り去っても意味は通じるはず。
それに、外国人に説明するつもりだったらKonnyakuについてとこんにゃく入りゼリーの危険性も英語で説明する必要が・・・。
蒟蒻畑ライトの方には英文がないですし、なんであんな英文をパッケージに印刷しちゃったのか謎ですね。
デザイン上の問題?
話ずれますが、uneyamaさんが書かれてましたが、
>学校食堂で、塩分が多いからとトマトケチャップやマーマイト(ペースト)が廃止されたりしている。
私はオーストラリアに住んでたので、ベジマイト派ですが(笑)昔こんな記事をあげたりもしました。
http://ameblo.jp/hiromiyasuhara/entry-10020929253.html
欧米のカップ型のコンニャクゼリー禁止って、なんか日本で「ベジマイトしょっぱ過ぎるので禁止します」とかと同じようなかんじがしちゃうんですよね。それって日本人にとっては痛くもかゆくも・・どうでもいいみたいな。こんにゃくゼリーはドメな商品でいいんじゃないでしょうか。ベジマイト禁止はオーストラリア人は怒ってます。移民の人にとっては祖国を思い出す味でしょうし。
オーストラリアの食事はガツーンとしょっぱいものがないので私は大好きでしたけど、うちのホストファミリーは「赤ん坊のころからミルクに混ぜて飲んでます!」みたいなこと言ってまして、ゲーそれはどんな味になるんですか!塩辛みたい味なのに、と驚き、それは「なんとなくやめたほうが・・」と思ったんですけど。
>(母親の生活環境や生殖補助医療、遺伝要因、物理的環境や社会的地位、メディアの利用度などあらゆるものを調べる。日本でもこういう研究こそ必要なのに)
とも書かれていらっしゃいましたが、ほんとそう思います。「子どもの最貧国・日本」の著者の山野さんと、同じような話をしました、ほとんどないです。