本気で水を擬人化せよ(文字は殺し、精神は生かす 2008年10月18日)
「にせ科学にだまされるな」などということを私は云いません。しかしこのような言語の非人間な還元にだまされてはいけないということを強調したいと思います。ひとのだまされやすさを利用するのはひとつの悪ですが、その批判は他のひとにお任せします。私が許せないのは、ことばを科学実験の対象とすることによって非人間化するということと、水という弱いものに対して示される醜悪な支配欲です。
という立場の方。賛同者に水への感情移入(という言葉は使われていないけれども)が生じていないことに分裂を見ておいでのようだ。
うまく咀嚼できなくて適切な抜粋引用ができる気がしないので、まずはリンク先を読んでみていただきたい。
読んだ?
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言語というものに着眼した水伝批判であれば、これまでにもあった。dlitさん、poohさん(これやこれやこれ)、TAKESANさんとか。しかし、それらとはまた違うアプローチだ。
この、ぼくのエントリの当否はともかく、こうしたさまざまなアプローチがなされることを、まずは歓迎したい。
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「擬人化せよ」の一部分などは、まるで実験動物の話を読んでいるかのようでもある。「ハムスター可愛いよね。かわいがらない人がいるなんて信じられない」と言いながら、実験の名を借りてラットやモルモットを虐待するようなものか(……なんか違うような気もする)。
ぼくにはこんな感情移入の有無というような視点はなかった。ていうか、ふつうないよね。水なんだから。「相手の立場に立って考える」というと違うかもしれないが、「もしも本気ならば、こうなるはずだ」論法ですね。
ここで描かれている「彼ら=信じてしまった人」を、ぼくはうまくイメージできないでいる。ゆるい共感を示している人のイメージが強過ぎるからかもしれない(彼らは、その共感のゆるさゆえに、決して対話しようとしなかったりもするけれど。守ろうとしているものがどれほど脆弱かに気づいているのかもしれない)。あるいは失礼だけれども、内心の奥まで踏み込んだ分析を試みた結果、書き手であるNEIMUROYAさんの脳内にこしらえられた「いるに違いない伝道者=仮想的狂信者」を見ているのかもしれないとさえ思う。
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だったらどうでもいいエントリなのかというと、そうは思わない。どちらにしても「水と人間の関係性のゆがみがあり、それは人間に対する愛情のなさと、言語に対する無理解に由来する。結果的に水も人間も言語も侮辱されている」といった主張だということは理解できるし、あの話にはそういう部分があるとも思うからだ(「水を侮辱することなんかできるのかよ」とおっしゃる方には「水をありがたがって「愛と感謝」とか言ってるくせに、その実、ひとつも愛してもいなければ、感謝してもいない」という構造のことを言っているとご理解いただければよいかと思う)。
この論考(先方のエントリも、ぼくのこのエントリも)が的を射ているのかは、ぼくにはなんともわからない。先方で書かれていることを部分的にしか理解できていないからだ。
ただ、理解できた部分は同意できる。たとえば、ここ。
「ばかやろう」「死ね」ということばがひとを傷つけることができるのは、それが何の文脈もなく投げつけられるからです。この「水からの伝言」信者は、ことばは生命を奪われた文脈のないものであるとして、人間の最大の財産である言語を非人間化しているのです。「ばかやろう」ということばに愛をこめて使うことができるというのが人間の事実です。この人間性を否定することを目的とする、あるいはこれが否定されてしまった世界を生きている「水からの伝言」の信者は、記号化されて機械化され、非人間的なものとなってしまったコミュニケイションの犠牲者であるとも云えるでしょう。あと、こことか。
「ありがとう」や「ばかやろう」ということばが記号としてしか理解できない人間には、生きている他者が本当の意味では存在していないのです。しかしまあ、こういう「よくわからないが、結論には賛同できる」とか「いいことも言ってるような気がする」という態度は、まさにニセ科学だのオカルトだの俗流若者論だのの周辺でよく見るアレなわけで……。
強くお勧めすることができないのはもちろん、どっかのオカルト番組のように「当否のご判断は読者にゆだねる」しかないのだが、ぼくはまあ、なんというか「気になるエントリを読んじゃったなあ」なのだ。
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先の「水伝や百猿の発想法は、社会性の欠如を生む」の話とも共通しているようにも思う。
そう。で、〈ぼくも似たようなことは考えたことがあった(Basic Tracksの「水伝」を受け入れるということとか「百匹目の猿」に可能性を見る人々とかでも触れている)〉と書いていたのだけど、もっとストレートなのもあった。さっき外からアクセスがあって思い出せた。ありがとう。BasicTracksに追加した。
ついでに一部だけ再掲する。きっと、「本気で水を擬人化せよ」のNEIMUROYAさんに見えている光景と、共通している部分があると思うので。
『水からの伝言』『水は答えを知っている』『百匹目の猿』は、すべての主張し行動する人に対して「苦労して行動したり発言したりしていないで、ただ家に引っ込んで想い描いていればいいのに」と言っているのと同じだ。
つまり、先の「イメージや思いが発言や行動の源泉になり得る(あるいは源泉そのものだ)」という認識が間違っていなければ、こうした主張はイメージがもつ力を無に帰す、イメージの力を壊してしまう。「表現」「行動」などの「人間の営み」に対する侮辱だとさえ思う。イメージの力(2007年10月18日)
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NEIMUROYAさんの直前のエントリ(水の人格を尊重しよう)がネタというか、ちょっとブラックな水伝パロディだったので、最初読んだとき「どこまで本気なのだろう」と思った。ブログの説明文(ていうのか)も、韜晦なんだか、いまいちよくわかんなかったし(無学なので)。が、「擬人化せよ」は「考えたこと」というカテゴリで書かれている。「水の人格」のほうはカテゴリなし。それに気づいたので、おそらく本気なのだろうと考えることにした。
タグ:水からの伝言
直近のエントリで、江本氏のインタビューの内容をちょっと詳しく検討してみる、と云うのをやってみました。で、それまでは漠然としか感じていなかったんですけど、なんと云うか、非常に漠然としたゆるい「理解」を構築させるしくみ、みたいなものがあるんだなぁ、と云うのがいくらかはっきり見えた気がします。
そこには、踏み込んだ理解を成立させる機能を持った「言葉」はないんですね。水は「ありがとう」と云う言葉を単純に喜び、「ばかやろう」と云う言葉で単純に悲しむ、と云う構造を提示する。で、この構造に、70%が水で構成されている人間を当て嵌めていくんです。そうすると、その相手に「ありがとう」と云う言葉を使ってなんらかの気持ちを伝える場合には、そこにどんな気持ちを込めようが相手は同じ受け止め方をする、と云うことになる(できる)。皮肉を込めようが憎悪を込めようが、そんなものを読み取るのは、読み取る側が「宇宙の真理」に反している、と云うことになるので、それは起こりえない(あるいはその相手が「善」ではない)と云う話になるわけです。
これは、わかりやすい。わかりやすいけど、そう考えると血も凍るような主張なのかも、とか思ったり。本来ひとの世に存在するべき「複雑さ」の、これは科学を装った排除と云うことになるので。
形式を整えることにきゅうきゅうとしている「行儀作法の先生」みたいですよね。そういうのは、彼らだって嫌いなはずだと思うんだけど。
琵琶湖や太平洋の向こうのハリケーンに向けて祈るとか、いい結果が出れば祈った結果だとかっていうのも、なんかある種の「形式主義」みたいな気がしています。