霊能者ユタのおはらいで体調不調? 沖縄の中学生5人が病院へ(MSN産経ニュース 2008.10.22)
ユタというのは、ある種のシャーマンです。沖縄版の女性の神主ということもできるかもしれません。
ユタ - Wikipedia
子どもたちの症状は、幻影随想の黒影さんが見るように集団ヒステリーだろうとぼくも考えています。やはりコックリさん騒ぎを思い出し、なんでまた、と思います。
地元紙を見てみました。
おはらい中 不調訴え/過呼吸搬送/真志喜中、教室にユタ呼ぶ/(沖縄タイムス 2008年10月22日 【夕刊】)
過呼吸で生徒5人搬送 おはらいの際「気分悪い」(琉球新報 2008年10月22日)
「父母が呼んだ」「父母会の有志がユタを呼び」となっており、それでか、という思いと、それにしても、という思いが錯綜しました。
両紙の見出しの論調が微妙に異なっています。沖縄タイムスの「教室にユタ呼ぶ」は、「学校にユタさまを呼ぶのはさすがに非常識」といった意識が伺えます。記事中でも〈おはらいを許可した校長は「特に断る理由がなかった」としている。〉〈同校では五月にも、他の部活で同様な理由でおはらいをしたことがあるという。〉という記載があり、学校の判断を問う姿勢があります。しかし、琉球新報は、そこは問題にしていないように見えます。
【23:10追記(23:54 末尾から移動)】
朝刊にも出ていた模様。こりゃ、単にダメ校長ってことか? うちの記事は心配し過ぎか?
真志喜中「10人過呼吸」/夜に通報 学校側、説明せず(沖縄タイムス 2008年10月22日 【朝刊】)
【追記ここまで】
【10/22 03:47追記】
はてブでいただいたコメント。
〈2008年10月23日 zu2 内地で言えば、塩を盛るような行為ですよ。たぶん。 / http://www.zukeran.org/shin/funifuni/200810.html#23_01 〉
地鎮祭どころか、そこまで軽いか? うーん……どうなんでしょ。
【追記ここまで】
校長が「特に断る理由がなかった」とコメントしているのは、ふつうの感覚では理解し難いです。その辺は、地域に日常的に受け入れられている民間信仰ならではという事情がからんでいそうにも思います。
ぼくは沖縄事情には詳しくありませんが、たとえば奄美群島(鹿児島県)では、引っ越しのときにユタさまに引っ越し先や方位を見てもらったり、困ったときに集落の守り神のような位置づけであるノロさまに相談に行くのは、今でもふつうのことだそうです。
沖縄も同様なのかもしれません。古くからの聖地(ウタキ、御嶽 Wikipedia)が、いまも大切にされているという話ですし。
◆
沖縄や奄美に限らず、まだまだ各地に「地元に残るスピリチュアリズム」はあるそうです。先般、「拝み屋」についてご教示いただきました。
下記URLの「2008年08月28日 00:04」のコメントです。
http://shibuken.seesaa.net/article/105386509.html#comment
気になるのは、「地域文化の尊重」「地域文化に親しもう」といった学校(文科省)の姿勢が関係しているのではないか、ということです。それを結びつけるような記述は記事にはありませんし、杞憂ならよいのですが、自分と学校の関わりや、呼んだのが父母の有志という点からも、どうしても「地域と学校」ということを意識してしまいます。
かつて書いたエントリ〈草の根の「水伝」〉も思い出されます。
地縁や血縁を通じて「善意で」こうしたものを紹介されると逃げにくいといった構図は、しばしば耳にします。保護者が呼ぶ、となると拒みにくいというのも理解できます。地域を知ろう、方言を知ろうといった気運のなかで、ハードルが一気に下がってしまっているのではないか、と不安になります。
◆
本来なら、説話や紹介程度ではない「宗教的な儀式」が許されるのは、あくまで私的な空間での話のはずです。それが牧師さんやお坊さん、神主さんでも、「学校が(で)やるのは勘弁」というのが、ふつうの管理職の感覚でしょう。民間信仰であればなおさらでしょう。
保護者の引率で誰かの家に集まるとか、みんなでシャーマンのところに行くとか、試合の後に会うとか、そういったことならば、あるいは黙認されるかもしれません。それでも、部活に直結するならストップがかかりそうです。どうにも止めようがないとしても、教員が立ち会うような「学校公認」に見える形は避けようとするはずです。
だから、事前に相談されたなら、それは断るチャンスだったはずなのです。いわんや校舎内でというのは、いくらなんでも線引きができていなくて度し難い。校長がなぜ「とくに断る理由がない」と考えたのか、理解できません。遊びのつもりだったとでもいうのでしょうか?
◆
かつて、奄美では方言を禁じていた時代がありました。学校で方言を使うと、次に誰かが方言を使うまで「方言札」を首から下げるという罰を受けるのです。そもそも、ごく近年まで島内のことについて学校で学ぶことはなかった、と言います。今も昔も、地元出身の教員などほぼ皆無なので、いろいろややこしい事情もあるのですが。
今は違います。「地元を知ろう」「地元の文化を大切にしよう」という全国共通の教育方針があります。これはある種のルネッサンスです。もし、沖縄も奄美と同じように「方言や地元の話は禁止」だったことがあるのならば(Wikipediaの「琉球語」を見ると、やはり方言札があったようです)、あの誇り高いウチナンチュたちは、ウチナー文化の復興を強く意識しないはずがありません。それが、変な意識変革につながっていはしないか、それが危惧されます。
仮に沖縄でも、たとえば十年前、二十年前ならば、逆にこうした事態は考えにくかったのではないかとも思えるのです。まさか「ヤマトンチュのやる地鎮祭みたいなもの」とかは、言わないとは思うのですが……。
「教育に地域を関わらせるな」などという動きにつながらないか、そんな心配も頭をよぎります。
【学校とか教育とかの最新記事】
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/news/1224665747/343
>343 : ブランド鑑定士(コネチカット州):2008/10/23(木) 00:28:40.97 ID:FyM07fJj
>ユタ信仰って変な日本語だなぁ。宗教じゃないから。
>かといって呪術とか黒魔術とかでもない。
>祈りを捧げる神主や巫女のようなもの。
>女性だけではなく男性もユタに判断してもらったりするよ。
というコメントを見て、下記を投稿しようとしたができんかった(-_-)
▼▼▼▼ここから▼▼▼▼
>>343
>祈りを捧げる神主や巫女のようなもの。
>女性だけではなく男性もユタに判断してもらったりするよ。
いや、そりゃ知ってるけど、「宗教じゃない」「信仰じゃない」って
どういう意味だ? よかったら教えてくれ。
教祖もいなけりゃ教団も教義もない、
いわゆる近代の宗教の定義に合致しないから、ってことか?
ユタさまや、そこに心を寄せる人をバカにしたりするつもりはまったくないんだが、
よその土地のシャーマンにしても(イタコであれオシラサマであれ、あるいは
いわゆる拝み屋であれ)、ふつう「民間信仰」「土着宗教」としかくくれんと思うんだが。
▲▲▲▲ここまで▲▲▲▲
んー、よそものには量りきれない部分は、あるに違いない。
しっかし、盛り塩ぐらい(@はてブ)というのは……そうなの?
つまりまあ、「学校にユタさまは、ありえないってほどではない」ということだよねえ。
教えて、沖縄の人!
ごめんなさい。ロジックがついてきていません。
難しいですね。
PTAレクでクリスマス会をするのも管理職の考えによっては教室に宗教を持ち込むなということで禁止される地方に住んでいます。
で、ウィンターフェスという名でやったり・・・。
友人に沖縄在住の作家がいて、ユタを題材にした小説も書いているんですが、やはり沖縄というのはシャーマニズムがまだ死んでいない国ではあるんですね。ですから、霊を視たという子供がいたらユタに頼もうというのは、水伝の場合のように変な思想を持った校長の独自判断ではなくて、地域社会の常識ということになるでしょう。
で、この事件だって、シャーマニズムが死に絶えている東京で起こったら、校長の見識不足ということで問題ないでしょう。子供が過呼吸で病院に担ぎ込まれたということになれば、監督責任を問われるのが当たり前です。
しかし、おそらく沖縄では、poohさんが仄めかしておられるように、これは単なる「除霊の失敗」なんです。ユタが「このマブイは相当強いね、あたしの力じゃ勝てないさー」とか言えば、それで学校も親御さんも納得するような原理で社会が営まれている。記事の文面からは、当事者間でこの一件がさほど問題視されていないような印象を覚えます。
たしかに「事件」ではあるんでしょう。学校でユタにも手に負えないような霊が出て、子供が病院送りになった。そういう事件ではあります。これを、「ユタの怪しげな呪術のお陰で子供の健康に悪影響が出た」と前提視するのは本土の論理です。そこでは、そうではない論理で社会が営まれているわけです。
そういう社会であることが、経済的な問題なんかにも関係しているらしいんですが、少なくともそれは沖縄人ではないオレたちが軽々に意見して好いことではない。ですから、これはおそらく新聞上でだけ本土的な論理の事件であるだけなんじゃないかと。
たとえば「霊を視た人」がいて、「霊障が出ている」以上、それは人の心に関する問題ですから、沖縄において沖縄で成立している社会原理でそれに対処したからと言って、そうではない社会に住む人間が簡単に批判できるものではないと思います。
>>いや、そりゃ知ってるけど、「宗教じゃない」「信仰じゃない」ってどういう意味だ? よかったら教えてくれ。
元のコメンターの意図はわかりませんけれど、宗教や信仰ではないという言い方が成立する部分があるんではないかとは思います。たしかに神話や伝承はあるんでしょうけれど、それは宗教や教義という概念に複雑化するのではなくて、社会原理のようなものとしてあるんではないか、そういうことではないですかね。
沖縄の人々は、たしかにユタを特殊な才能を持った巫覡として相応に尊敬しているけれど、ユタという存在自体を崇拝しているわけではない。祖霊信仰のようなものはあるけれど、それだって宗教や信仰というような高度に体系化された概念ではなく、生活に根付いた風習のようなものだ、そういう意味かもしれません。
オレもそれほど沖縄に詳しいわけではないですが、たしかに「ユタ信仰」という表現には若干の違和感を感じますね。でも、このコメンターとは違って、「呪術」であることは間違いないとは思いますけど(笑)。
私は、ず さんの反応なんかを見て、(ず さんの論に対して)腑に落ちないなあ、と感じていて。
これ、地域性とかの前に、体調不良や心理的な不安を抱えている人に対してまず採るべき方策では無い、という所が問題だと思っています。
学校という場で「塩を盛るような”軽い”行為」で不安を解消したりするのを許容すべきか、という論点なのかな。私は、許容すべきでは無い、という立場なので…。
きっちりとした心理的なケアが必要な生徒もいたかも知れない、と考えるのは、それほど的外れでも無いと思っています。
率直に言うと、なぜ塩を盛るような軽い行為がそんな騒動を引き起こしたの? という疑問。それについて、生徒が過大評価して父母や教員が過小評価したという事は無いのかな、って。
だって、20人もの生徒が体調不良を訴えるとか、「ただ事では無い」じゃないですか。
後、これは余談ですが。
ず さんのエントリーのはてブについた、「東京中心主義」というのは、意味が解りませんでしたね。
私は、古来の風習とかが比較的残ってきた所で育ってきたので、ああいう意味不明な事を書かれると、不快になるのです。
今コメント投稿したのですが、入って無いですね。
反映されていないだけでしょうか。
http://okinawa.machi.to/bbs/read.cgi/okinawa/1199789071/l50
259以降がこの話題です。で、260は私ですから、カウントはしていません。
地域に広く(強く、深く?)共有されているなら「オッケー」……なのかなあ。うーん、パブリックな場、教育の場では……オフィシャルには……じゃあ、地元の拝み屋は、有名でみんな知ってればいいのかってえと、いや、異論のある人が地元にひとりでもいれば、って、いちいち聞いてられないか。ううむ……。
>たしかに「ユタ信仰」という表現には若干の違和感を感じますね。
その点はぼくも同じです。「ユタを信仰しているわけじゃなかんべ」という違和感があります。たとえば「マブイ信仰」「ウタキ信仰」とかいうなら、違和感はないのですが(よく理解できていないせいかもしれないですが)。
琉球弧に特有の自然観・死生観・生命観があって、その発露としてのユタでありノロだというならば、いわゆる宗教じゃない、という解釈も成立しないこともないような気もします。
ただ、ボーダーなものだとしても、儀式・儀礼的な部分などを考えると「信仰」「宗教」と呼ぶ以外にないような……。盛り塩だって神主の祝詞だって、宗教儀礼だよなあ。
もっとも、それを軽いものからなにから全部排除しろってのも、「地鎮祭訴訟」みたいで杓子定規だなあとも思うんですけどね。うむむむ。
これで地域教育の後退とか、招かないといいなあ……。
事情はわからないですけど、テレビなどのお祓いみて、お祓い受けたタレントが「ううっ」みたいになるのをマジに受けたかんじだったりするんじゃないかなあ。だったら「あのね、気のせいだから」「なんでもないから」って言ってあげる大人はいるんじゃないかしら。あと、自分が騒いだことで大人が集まっちゃって・・・ってところで子どもなりの責任感があるのかもしれませんね。「こりゃなんか大変なんです」と証明せねば・・と病気になるといいましょうか。そこが「地鎮祭」とは違うんじゃないでしょうか。
この年頃って「思いこみ」でも病気っぽくなったりするような気が。それは精神医学的な病名つけられて、「私はなんか病気なんだ」とならなくていい不安神経症気味になったりもしたりもするし。
ほんとに「心の病」であるにせよ、原因は「霊」じゃないですから、「それは間違い」といえる大人がまわりにいないのは不幸だと思います。ユタ信仰者はいるわけで。
「宗教VS国家」工藤庸子著作がおもしろいですよ。「モスリムのスカーフがなぜ学校で禁止されるか」がよくわかります。
■はてなブックマーク > ΩブックマーカーgntのブックマークΩ ΩΩ<な、なんだってー!? > 宗教
http://b.hatena.ne.jp/gnt/%E5%AE%97%E6%95%99/
経由(ほかのブックーマークコメントも、いろいろ勉強になります)で下記。
>「真正性の水準」再考 - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」
>ユタのおはらいで女子中学生過呼吸事件http://tinyurl.com/589vvp関連で。ああ。まさにコレだわ。「スピリチュアリズムは、始まったときから、科学的言説とメディアに媒介されたものだった」
その「スピリチュアリズムは、始まったときから、科学的言説とメディアに媒介されたものだった」の記事。
■「真正性の水準」再考 - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」
http://d.hatena.ne.jp/oda-makoto/20070305#1173084241
こういう土着というか民俗的なものを「スピリチュアリズム」と呼ぶのは不適切なわけか。ううむ。
■ぽちゃ姫in沖縄 - ユタが原因なの?
http://www.pochat.info/blog/492/
■2008-10-23 - La Fa�ence @ KMS International
http://d.hatena.ne.jp/famnet/20081023
■ユタ (電話占い ラファエル 2008年10月23日)
http://ameblo.jp/raphaeluranai/entry-10155096308.html
びみょーに「別に学校に呼んでもいいじゃん」でもないのだなあ……。
【FNNニュースから全文引用】
FNNニュース:沖縄の中学校で「ユタ」によるおはらいの途中に生徒約20人が体調不良に 5人病院搬送
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00142858.html
沖縄の中学校で、多くの教師や生徒が見守る中、地元の霊能者として知られる「ユタ」によるおはらいが行われたが、途中で生徒5人が病院に搬送される騒ぎとなった。
中学校の近所の人は、「パトカーが2台くらいいた」、「生徒が先生に抱きかかえられて出てきたと...。5名」と話した。
霊能力を持ち、さまざまな問題を解決するため祈とうを行うユタと呼ばれる人々。
沖縄に根付くユタが、中学校でおはらいをしたという。
宜野湾市の中学校の吹奏楽部では、これまで生徒から「霊が見える」、「気分が悪い」などといった訴えがあり、これを受け、父母らが学校側に「おはらいをしたい」と申し入れたという。
そして21日夜、生徒およそ60人と父母らが見守る中、ユタによるおはらいが行われた。
そのおはらいの途中、生徒およそ20人が急に具合が悪くなり、うち5人が病院に運ばれた。
女子生徒は、過呼吸になったとみられているが、その後、回復し、全員、その日のうちに自宅に戻ったという。
真志喜中学の比嘉正夫校長は「不安な状況の中、行われているんで、不安な気持ちが伝染していったのでは」と話した。
ユタについて、法政大沖縄文化研究所の屋嘉宗彦所長は「(沖縄の人にとって)身近なんです。子どものころから何かあると、自分の祖先になるが、その人たちが何かを要求している知らせじゃないかということで、ユタに相談に行く」と話した。
沖縄の人は「看板はあげてないけど、いっぱいいるんじゃないですか。(ユタを頼まれることは?)今まではありますよ」と話した。
真志喜中学の比嘉校長は「学校としては、あくまでも認めない形なので、いろいろな方と相談して、意見を聞きながら対応を考えていきたい」と話した。
(10/23 19:09 沖縄テレビ)
この場合、先生も地域に押し切られた感がするので責める気もありませんが。
いくつかの問題が複合してますね。
1 「霊的なことを感じる」と主張する子どもに対する対応のしかた。
2 学校に宗教的なもの全般をどこまで持ち込んでかまわないかということ。
3 地域の民俗信仰と学校との関係。
おそらく、それぞれのテーマについて分けて論じても、なかなか一致点を見つけるのが難しそうですが、議論する値打ちはあると思うので、私も一言。
私の職場である高校にも、たいてい学年に数人、「霊感が強い」ことになっている生徒(殆どが女子)がいます。その生徒が「見える」と言ったら、そこに「霊があるのではないか」という引き受け方が、女子には特に多いようです。
私はその場に居合わせたら、すぐには否定しません。「霊が見える」生徒は心に何かを抱えていることが多いし、生徒が言うことを頭から否定する教員の話など、生徒は聞いてはくれませんから。
話を聴きながら、のろいや恨みなどのヤバそうな方向に話を持っていけないように誘導して、「私には何も感じられないし、この学校があったところには以前特別なことはなかったんだから、もし霊がいるとしても、皆には何もしないから大丈夫だよ」ということで終わるようにしてます。
その後数日間は、「霊が見える」と言っていた生徒に話しかけるなど、を注意して観察する事も大事です。聞いて欲しい悩みを抱えていることもあるので。
大きなポイントは、これが「公立学校の校内で起きた」ということで……。
「公立学校で、生徒がある種の宗教っぽい儀式に立ち会う」っていうのは、やはり強烈に違和感があります。それこそ盛り塩でも、それをぞろぞろと儀式化して行われたらアウトだと思う。
その辺は、人によって地域によって、基準にずれが生じるというのはわかるんですけど。たとえば「学校で、××神社のおみこしを子どもたちにかつがせよう」となったら、それはOKなのかNGなのか……。日常生活の上で、あれを宗教儀式だと考えている人は、あまりいないでしょう。氏子でないとかつげない、なんていう地域でもない限り。でも、本当は宗教的なもので、しかも盛り上がればケガ人が出たりもするかもしれないわけですよね。なんとなくですけど、NGだっていう人もいるんじゃないかなあ。
困ったことに、校長のコメントが、なんだか腑に落ちんのです。断片が報道されている性かもしれないのですけれども、朝刊では「説明できることはない」で,夕刊では「断り理由がない」、テレビには「学校としては認めてない」って……。
なんだか歯切れが悪く言い逃れくさい。状況からして、それしかできないのかもしれないけれど。
あれこれ考えると、仮に地元にとってはふつうの解決策で、家庭や共同体ではオッケーだったとしても、公的な教育機関が採用(黙過)していい手段だったとは、やっぱり思えないんですよねえ。ある一線を越えている。
音楽室でのお祓い(ウガン?)の際は生徒の立ち会いは不可、というのがギリギリではないでしょうか。仮にユタさまと生徒たちが事前事後に会って、話を聞いてもらったり、「安心しなさい」とお話ししてもらうところまではオッケーとしても。
もっとも、そういう線引きを地域に理解してもらうのは、なかなか困難なのかもしれないとも思います。この辺は、いわゆる「善意のやっかいさ」もからむのかなあ。
しかし「ここにはヒドい悪霊がいて」とかいう話をされたら、一体どうするつもりだったんだろう……そこまで考えていなかったとか、そういうことはあり得ないのかなあ。あちこち見て歩くと、「元病院だったから」とか、「あの棟の四階は前から出る」とか、そういうことを書いている人も、少なくないんだよなあ……。
2 学校に宗教的なもの全般をどこまで持ち込んでかまわないかということ。
3 地域の民俗信仰と学校との関係。
1 おっしゃってるようにコミュニケーションレベルでしかないと思います。ただ中学生なら、私は自分がまったく信じてないという話をしてからします。基本的に「幽霊」の話がわかんない「無粋な先生」だけど、「あの先生の話、おもろいよね」、「信頼できるよね」がいいかなと思います。私が信じてないのでどうしてもウソになりますから。説得力がないと思います。生活レベルの悩みは別の文脈で聞くかしら。小学校のとき近所の同級生の親が某宗教団体の会員で、その友達の部屋にはかの人の写真が貼ってあって「毎日金縛りにあって、○○を見る、お祈りが足りん」的なことを私に言ってました。そしていつ遊びに行っても親がいないのが不思議でした。あんまり言うので、その子の家で試しに寝てみましたが、私には何も起きませんでしたし、何も見えないので、そう言いました。最初は怒ってましたが、なぜか彼女は毎日私の家に遊びに来てました。うちは店やってたので、人の出入りが多いので私がいなくても、親とくっちゃべってたりしたみたいです。私は彼女のそういった主張に一度も同調したことはありません。でも別の話をして遊んでたと思います。
2 持ち込まない。持ち込まない理由をきちんと説明する。
3 公立学校が引き受ける内容ではないということをきちんと説明する。
一つには、島ナイチャーと呼ばれる流入人口の問題があります。また、それと関連した問題としては都市化の問題があります。現在沖縄には、「ちゅらさん」的な生活に憧れた移住ブームのお陰で毎年二万人前後の人口の出入りがあるわけで、行ってこいで一割前後の人口増加があるそうです。人口全体に占める割合は大したものではないですが、このような人的交流によって沖縄と謂っても一様なメンタリティを想定することは出来なくなっているわけですね。
また、沖縄もまたごたぶんに漏れず都市化が進行しているわけで、これによって都市住民のメンタリティの均質化も進行しているそうで、沖縄発の都市伝説というのがつい最近観測されたらしいです。それはつまり本土化ということで、都市景観も九州辺りの地方都市と見分けが附かず、新しい世代の子供たちも他府県の子供たちとそれほどメンタリティに違いのない形になっているようですね。若い世代の沖縄出身のタレントを視ても、ほとんど本土の若者と違いはないでしょう。
さらに、一旦本土で高等教育を受け本土的な価値観を身に着けてから沖縄に戻る高学歴層の影響というものもあります。マスメディアなんかにはそういう階層も多いのではないでしょうか。前回、「新聞上でだけ事件として扱われたのではないか」という言い方をしたのも、そのようなズレを想定してのことです。こちらにTBを送られた方のブログを拝読すると、事件が起こったのは沖縄でも従来のメンタリティを色濃く遺す地方だったようですが、那覇辺りの都市部ではまた違った形になったのかもしれません。
ただ、そういうふうに絶え間なく変容を続けながら、緩やかに共有されている沖縄という社会を形作る呪術性というものがあるわけで、それは科学的合理性とコンフリクトしているわけではないようです。テーゲー主義というのですか、物事の白黒を無理矢理はっきりさせない気風は残っているようですし、たとえば「地獄の黙示録」で語られたような、原住民が白人に種痘された子供の腕を切り取るというような強靱な科学拒絶とは違うんですね。
それはもう、街のすぐ上空を最先端の科学技術の塊が轟音を立てて飛んでいるわけですから、科学的な合理性と無縁だというわけではないんです。呪術か合理かで二者択一するのではなく、敢えてテーゲーに徹して選ばないわけですね。呪術的な原理で動いていながらも合理的な規範をも拒絶しない。相反する規範を摺り合わせて整合させているんではなくて、どっちとも選ばない。いい加減なんですね。
これがいいとかあるべき姿だということではないです。呪術というのは現実と戦うのではなく折り合いを附ける規範ですから生産性が低いわけだし、現実的な問題に対する解決能力が低い。沖縄人がいい加減で白黒を決めないというのは、苛酷な現実に対して折り合いを附ける必要性から生まれた姿勢で、別段それが理想的なあるべき姿だからではないんですね。
そういう県民性だからこそ、失業率が全国一だったり児童の学力が低かったりというデメリットもあるわけで、経済を振興し人々の学力を向上させるのであれば、呪術やテーゲー主義という沖縄的な社会原理が邪魔であることは間違いないんですね。
また、前出の島ナイチャーの友人は沖縄人の打たれ弱さということを言っていて、沖縄の人は叱って伸ばす方向では伸びない、褒めて伸ばさないと潰れるというんですね。それはおそらく、現実や環境と戦って現実のほうを変えていくのではなく、現実や環境と折り合いを附け世界と自分が諸共に変わっていく流れに身を任せるという、沖縄独特の考え方と無縁ではないでしょう。
今並べ立てたような事柄は、互いに何の関係もなさそうだし、今回の件とも関係が薄いように見えますが、沖縄における問題というのは、何故か詳細に探っていくと無関係なはずの事柄が複雑に絡み合っていて、容易にほどけないようになっています。そこでは問題性は常にカオティックで、特定の問題領域をカッチリと切り取るというアプローチでは解決出来ない事柄が多いわけです。
それでも、特定の問題領域として切り取ること自体は可能ですから、そのようにして限定した意見は言えると思うのですが、それはそれ以外の領域性を切り捨てるということになるわけで、それは呪術を捨て去ったわれわれの社会では有効でも沖縄においては必ずしもそうではない。そういうアプローチが有効である為には、われわれの社会と沖縄の間に或る程度共通の前提が必要となるわけで、それは平たく謂うと呪術的な原理を捨て去って「近代化」すべきだということになります。
そういう意見はあっても好いんだと思いますが、それにはかなり大きな責任が伴うわけで、沖縄の将来的なあるべき姿についての提言を含んでしまう。オレ個人としてはそこまで重い責任を簡単に負うことは出来ないと思うので、こういう問題について軽々にこうすべきだということを言いたくないということがあります。
私が言っているのはそういうことです。今は「近代」ですから、私は勝手に重々しくする必要もないかなというレベルの話です。「呪術」の原理が生き残ってた時代の怖さを知らないなら、それを教えたらいいんじゃないですか、「近代」の教師なら。
校長先生も、「いやーボロイから幽霊騒ぎが起きるんですよ」と、学校をきれいにする金をとってくるなどのコミュニケーション能力やリーダーシップがあればいいのになと思います。私にとっては「それが子どもたちのためになること」の優先順位としては上です。
大人が地域の伝統だとか、文化的豊かさとかいってるのはいいです。勝手にやればいいんじゃないかと思います。別に現代は転居の自由があるわけで沖縄に行って幸せに暮らすことに何の文句もありません。厭なら戻ってくればいいと思います。大人が自分の自由で何をしようが、基本的にはお好きにどうぞ、だと思います。
ですがこれは、学校の中の話しですから。問題があるなら、範囲、条件、定義をきっちり切り取るところから始めないと、際限のない話になるだけで、居酒屋でお話するなら楽しいですね、という話になるだけだと思います。
ある社会に残る呪術性と云うのは、その社会固有の諸条件のもとで一定の合理性をもって存続している可能性がある、と思います。子供会の神輿だってそうですよね。地域社会と云う視点から見ると、ちゃんと必要な機能がある。
で、ユタが存続しているなら、そこにも相応の社会的な役割があるんだろう、みたいに思うんですよね。もちろん、その役割を社会が必要としなくなって来た場合にリアルタイムで退場する、と云うようなものではないので、社会的な変化の過程においては不合理な因習、と云うポジションに置かれることもあるでしょうけど、でもそれは役割が社会から必要とされなくなった、と云うことで、存在そのものを成立させている(させていた)原理が否定されたわけではなくて。
ぼくはこのエントリにトラックバックされているumikajiさんのエントリにある言葉、
> このユタ、ダメじゃん。祓えてねぇ。
と云うのが、いちばん重要なポイントを押さえている気がしています。地域社会に要求されているものを提供する技術を充分に駆使できなかった、と云うことで。
少し言い方変えますが、例えば「少数民族やら地域の風習に敬意をはらって大事にしましょう」という話はそれでいいんですし、それがを錦の御旗になってる人もいるんですが、それを不平等政策の理由にしてはだめですということです。アメリカなど移民が多い国では「われわれは単一民族です!」というのを始終いってなくてはいけない。少数民族に「敬意をはらいすぎて」例えば独立したらもっとひどい状況がまっているわけで。公の政策としては、なるべく「平等」にすることが私は「優しい」国だと思いますよ。もちろん日本は「真面目に」同化方向の植民地政策をやって嫌われちゃった国でもあるわけなので、こう言うと、安易な発言だと思われてキレられたりもしますが(笑)。コメントを読んでいると、日本は平和な国だなあと思います。
>1 「霊的なことを感じる」と主張する子どもに対する対応のしかた。
>2 学校に宗教的なもの全般をどこまで持ち込んでかまわないかということ。
>3 地域の民俗信仰と学校との関係。
もちろん論者によって、これ以外の論点もあってもいいのですが、こうしたことを、どこまでを「普遍的な話」として、どこからを「個別的な話」とするのか、という問題も、少なくともぼくにはあります。
>アメリカなど移民が多い国では「われわれは単一民族です!」というのを
「単一民族」ではなくて「アメリカ国民」のほうがいいですね。訂正させてください。
poohさんがおっしゃってる呪術性についての「合理性があるということを理解する」ことは別に「学ぶ」話ですよね。「子供の神輿」でいうなら、たとえば「豊穣を祈る」だけが宗教なら、なぜ「豊穣を祈るために大金かけて神輿つくらなくてはならんかったのか」とか「山車じゃなくて神輿なのはなぜか?」とかいろいろ「問い」をたてて、その解を探すのが「学ぶ」ということなので、そのプロセスを踏んでない実践なら、踏んだほうがいいのでは?と思いますよ。そういう「問をたてなさい」ということを教えられてないなら、「教えてください」と感じます。それは「子どもの神輿」であろうが。ユタのお祓いであろうが同じです。
渋研さんが書かれてますが、私は地元民でもない人間が考えるとすれば、ここが一番重要なポイントだと思います。
>気になるのは、「地域文化の尊重」「地域文化に親しもう」といった学校(文科省)の姿勢が関係しているのではないか、ということです。
> このユタ、ダメじゃん。祓えてねぇ。
poohさんの言ってる重要なポイントという意味が私はわかりませんでした。2ちゃんの書き込みで「シーサー置いとけー」っていうのに私は一番笑いましたが、私はそれと同じに見えました。
連投すいません。喜志喜中の「開かれた学校作り」とか読むと、なんかビンゴってかんじしました。
幽霊騒動とは関係ないですけど、ここ見ると「人材バンク登録用紙」ねえ。和田中方式が広がってるってかんじですね。藤原さんの実践は私はすごいなと思うんですけど、そしてあれを広げてできる人材ってそうそういないだろうという批判ぐらいしかできないねーと。でもそれが一番怖いところなんですけどと。
http://www.ginowan-okn.ed.jp/~hpmashiki-j/
それはなんとも。
和田中が始める前、ええと、たぶん90年代末とか2000年頃から全国的にありました。どこでもやってたってわけではないですが、やっているところはいくらでもあったんです。
「開かれた学校づくり」も、池田小の事件が起こるまでは文科省のお声がかりもあって全国の小中学校が取り組んでいて、事件を受けて「地域に開かれた」っていうのと「安全な環境」を、どう折り合いをつけるかが課題になったりしました。
おそらくバラツキがあるでしょうから、この中学校の取り組みがいつ始まったか、いつ本格化したかはわかりませんけれど(PDFにも日付がないですしね。学校の文書って、ときどきこういうのがあるんですよ)。
「開かれた学校」を中教審が言い出したのは、平成8年(1996年)のことのようですね。<いまググった
ええ、確かに。ここがその流れがどうかは、はっきりわかりません。ただ、「人材派遣」って言葉は「中教審」の流れだと使わないんじゃないかなとは思いました。
>事件を受けて「地域に開かれた」っていうのと「安全な環境」を、どう折り合いをつけるかが課題になったりしました。
そうですね。よってもって「地域に開かれた」と「安全な環境」を折衷案が「防犯ボランティア」だと思いますね。よってもって「地域学習」の基本がどこかに行ってしまったのでは?といのが、私の問題のポイントですね。
そんなわけで、確かに、ユタは地域信仰に関する要素ですが、決定プロセスの情報が不足している中で、地域vs東京といったステレオタイプな切り方には、とても違和感があります。
東京というのは、地域から来られた方で成り立っている雑居です。それをお忘れにならないほうがいいと思います。
安原さんには言わずもがなでしたね。『犯罪不安社会』でも、その辺は重要な論点だったのに失念していました。失礼しました。ぼくが「和田中」に過剰反応しちゃったのかもしれませんね。
学校の「地域学習」「地域が学校に関わること」については、いろんな課題があって、それを結びつけて論じられるようなことなのかどうかはわからないのに、気を揉んでいます(て、これも言わずもがなですが)。
いただいたコメントは、このエントリとコメント欄での議論についてのお話でしょうか? それとも、ネット上で多く見られる反応について? 東京側からの、なんでしょうか? その辺、よくわかりませんでした。
そういえば、どうしたわけか、このコメント欄には東京以外の出身か東京以外に在住している人ばかりみたいです。それでバイアスから自由になれるわけでもないですが。
ぼくは青森出身で奄美にもちょっと縁があるので、どうしてもそこら辺を思い起こしながら考えることになります。なにか「全国の地方人」の琴線に触れるできごと、という部分があるのかもしれないですね(^^;;
さて、断片的な情報だけで考えることの難しさは、報道を考えるきっかけにする際に、どうしてもついて回ることが多いですね。
さまざまな可能性を念頭に置きながら、できるだけ思い込みを排除しながら考える必要があるのだと、常に気にしています。また、「あれことこれには、関係がある」という思い込みだけではなく「関係がない」という思い込みも日常的に出て来るので、ほんとにやっかいです。
前置きはともかく、
>ユタ様への信仰心の厚い校長判断で呼んだ、、、、というだけ
「この校長がダメな人だっただけかもしれない」というのは記事中でもコメントでも触れていますけど、だったら飽くまで個別例の問題で済むのかというと、なんかそうでもないんですよね。
このエントリへの主に地元勢の反応では、「あれは宗教ってほどのものじゃないし、沖縄ではふつうにオッケー」というものが多々あります。
沖縄事情を知らないから、ユタさまを知らないから、沖縄を特別視しているから過剰な反応を示すのではないか、という指摘には「確かにそういう面がないとは言えない」と答えるしかないのでしょう。だって確かに地元の人ほどはよく知らないままに語っているので。
ただ、そういう本土でだってたとえばこういうものだったら黙過されるだろう、それと同じだ……というようなお話については、必ずしも同意できかねる、という部分もあります。
程度問題と原理的な問題の両方がせめぎあっている、という部分もあるのではないかとも思います。
ぼくにとって、この報道の衝撃のひとつは「どこの公立学校であれ、自明にアウト。完全に一線を越えている」と考えていた事柄が、どうもそうではなかった、というところにあります。
そして、それが沖縄に限った問題ではないように思えることにも引っかかっています。やっぱり「他人事」ではないんですよね……。
とりとめなくなっちゃった(^^;;
お手間をおかけしてすいませんでした。
和田中に関しては川端さんの新刊にも書かれていたので頭に残っていたのかも。川端さんの新刊興味深く読ませていただきました。
以下引用。
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和田中の改革で懸念するのは、1点のみ。この方式がほかの学校にも広まった場合、「学校の嫁」だった現役保護者が、今度は「地域の嫁」になってしまう場合がありはしないか、ということ。だからといって、現状を打破する根源的な提案であることは間違いなく、この先の展開を大いに期待する次第だ。
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杉並区では今後、すべての小中学校に和田中本部をモデルにした学校支援本部を導入することになっている。いち早く支援本部と導入した校長がその中にPTAを編入しようとして大きなトラブルを引き起こした例もあるというさらに文部省2008年度から50億円の予算をかけて、全国1800カ所で学校支援本部なるものを設置するとしていることもあり、
「心配」はつきないわけだ。
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川端さんは和田中の革新性ももちろん認めてらっしゃるうえで書かれているわけですが、やっぱりなんか腑に落ちないのはなんでこう「ボランティア」でここまで「働く」のが自明なってるんだろうなあ・・学校ちゅうところは・・・でしょうかね。もう少し教育にお金出してほしいなと思いました。
川端さんの新刊名入れるを忘れてしまいましたorz
「PTA再活用論 悩ましき現実を超えて」川端裕人著
2章のPTAのために使った時間に衝撃を受けました。
まったく同感です。所得税の代わりにタバコ税と酒税とカラダで税金を払っているつもりの私としては、まあその、労を惜しむつもりはないですが、「みんながやって当然」ってなによ、みたいな。
あたしが「棄民政策」と呼んでいるものが、教育施策の中心にどっかりと腰を下ろしておるのです。戦時中から続く「足りない足りないは工夫が足りない」というヤツですな。なんで教育にだけ、ってそんなことはないんだよなあ。地方自治体に対しても、そうだよね、きっと。
痛みの共有ですかね。ぶちぶち。
などと断片的なことを書いてもしょうがないのですが(汗
家を建てる際、お祓いをすることが多いわけですが、それとどの程度の違いがあるのでしょうか? これは個人宅だけではなく、公的な機関の建物の場合も同じです。また各種現場仕事では、お祓いを含む安全祈願なども、ごく日常として、全国各地で行われています。
ですから、沖縄特有と考えるのは違うように思います。
今回の件は、私にとってもは「頬笑ましい出来事」ですね。記事を読んで想像したのは、父兄は困って、まあ軽い気持ちで頼んだのだろうなぁ、、、「ばあさん、ちょっと頼むよ、、」ってな感じで。父兄と先生の距離は田舎のほうが近いですから、「じゃあ、ちょっと頼んでみるか」と校長もオッケーした。結果、オーライならぬ、ちょっとした騒動へ、、、、、大笑。
以上は、想像というより妄想に近いレベルの話でしょうけど、まあ、そんなところなんではないでしょうかね。ですから、頬笑ましい、と。関係者は、いや失敗した、、と思っているんじゃないですか、きっと。笑。
私はこんな感じで、今回の件を見ていますので、この件に手厳しい論評をする方々を見ていると、「ゆとりないんじゃないの?」と思いますね。悪を抱えて生きるとか、清濁併せのむとか、、まあ、それが現実で、それしかできないわけですが、綺麗なものだけで世界を作ろうとしているのではないかと感じます。
そして、一種そうした厳格性を追求していながら、身近なところに存在するものに対しては、意識下に沈んでおり、問題とは考えていないということに、非常にバランスの悪いものを感じるわけです。灯台もと暗し。
また「学校に絶対持ち込ませるな」というのは、昔、PTA がしたオートバイに対する3ナイ運動みたいな感じで、なんだかな、ですね。沖縄だけじゃなく、田舎は人間関係の距離が近いのです。ですから、上記妄想のように、「ちょっと頼むよ」で動くことが多いわけです。
とまあ、ここまで書いてなんですが、この書き込み自体が、自身が先に書いたコメントに反しているわけです。意思決定のプロセスがわからんだろ、と書いておいて、今、想像に想像を重ねた話を書いているわけですから。
お後がよろしいようで。
そうですか、それは残念です。
三ナイ運動を問題とされている背景は「学校の管理教育」の行き過ぎの批判の流れからの話で、これは逆のように思います。「地域が望んでいるから」、「地域では当たり前だから」、「親が望んでいるから」というロジックで引き受けていいかどうかということです。
さらに「地鎮祭もあるじゃないか」という言い方をされて反論されているように「じゃあXX教のお祓いのほうが効くかもしれない」とある信仰をお持ちの親が「こっちのほうが効くのでぜひぜひ子どもたちのためなんです、地域では当たり前なんです」というロジックでお願いされたら同じようにその合理性は認めないといけないんじゃないでしょうか。そこを考えて物事を判断するのが「長」というものではないでしょうかね。
しかし、ふだんの仕事で仕切りと線引きってしませんか?学校はなぜそれをしてはいけないのかしら。よほど厳しい話ではないでしょうかね。
呪術性が、「その地域にそれなりの合理性がある」のはそのとおりでしょう。ですから、「なぜそれなりの合理性があるか」ということを子どもたちに考えてもらう、もしくは教えてあげるというのが学校の仕事だと思います。総合学習の文脈の話ですが、私は小学校の自由研究で「雨乞い」について調べました。そこから地域の農地開発についての自由研究まで広げて学習を指導してもらったわけですが、地元の方にお話伺いにいったり、発表原稿作ったりなど、とても楽しかったですけどね。「雨ふるために祈ってました、なんてことを地域はやっておりました」、はい以上ならまだいいですけど、「雨ふってほしいので毎日祈っております」って発表原稿を作ったら先生は「微笑ましいね」って言いますか?ちっとも「微笑ましい」話ではないと思いますが?
まずこの事件について、学校はあくまで授業後の教室利用を認めているだけであり、ユタを呼んだり儀式を主催したのは父母の集まりであると記事から読み取りました。このような場合、地鎮祭や公立学校での宗教的儀式といった問題点の指摘は余り適当ではないと考えます。
これらはあくまで、公的機関が宗教的な行為を『主催すること』が許されるかという問題として論じられるのが憲法学上の通例だからです。
では、この事件をどのように考えるべきなのでしょうか。私は、「第三者が学校に対して『宗教的儀式』を目的として施設利用許可を求めてきた場合、管理者(宜野湾市例規集で調べたら校長先生でした)はそれを拒絶できるのか」という問題だと考えます。
上で書いた問題についてある程度類似していると考えられる、『教育研究集会』を目的とした施設利用許可が争われた事件についての判例が最高裁にあります。
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=01&hanreiNo=24939&hanreiKbn=01
判例の事件では学校使用を許可しなかったことが違法とされ、損害賠償が認められました。裁判要旨4の(1)から(6)までの事実に対する裁判所の評価がその根拠です。
今回の事件では
・校長先生が3月にも別の部活でおはらいを認めていること
・宗教的儀式において集団ヒステリーが発生する抽象的可能性はあるが、具体的なおそれがあるとまではいえないこと(この部分は私の直観なので余り信じないで下さい)
この二点が、上の判例で違法と判断された根拠(=使用を許可すべきといえる根拠)に類似していると私は考えます。
一方
・生徒を参加させた上で宗教的儀式をおこなうことが予定されている
という事実が生徒の教育に悪影響を与えるといえるのであれば、使用を許可すべきでないといえる根拠になりえます。
ここまでを踏まえて考えると…私が校長先生だったら今回の場合は渋々許可するでしょうね。一度許可して問題がなかったというのは(訴訟になったら)かなり強いでしょうし、裁判所が信教の自由を重視した判断を下す可能性は低くないですから。