オススメです。ご一読あれ。
ぼくは、安心「感」と科学リテラシーの微妙な関係を述べたものと受け止めた。こんにゃくゼリーって危険なの、そうじゃないの、とか、凶悪犯罪は増えていない(治安は悪化していない)のに体感治安は悪化しているとか、納得と理解って違うし、とか、いろいろなことを思い起こしてしまう。
特に下記に深く同意したので、ご紹介。
価値観の多様性を受け入れ、価値観を共有しない人との間でこそ信頼関係を築く方法として最も有効な方法が科学の営みでは取り入れられている。科学の営みには限界と不確実性を内在しているということを含めた科学についての知識を主な要素とする科学リテラシーの双方向のコミュニケーションによる普及こそが、「安全。だから安心」という状況を生みだすと思っている。たとえば「最も有効な方法が科学」なのではなく、「科学に取り入れられている」という辺り、言い回しを大変慎重に選んでおられると感じる。そういうところにも脱帽。
ただ、二文めは、ぼくのような科学しろうとには、ちょっとつかみにくい、かな。
失礼ながら、こんなふうに理解した、ということでちょっと表現をいじってみる。
(筆者は)科学リテラシーの普及が「安全。だから安心」という状況を生みだすと思っている。つまり
ここでいう科学リテラシーは、「科学についての知識」を主な要素と考えている。いわゆる理科の知識だけを指しているのではない。数字の意味を読み解けるとか、化学物質がわかるとかいうこと「だけ」ではないのだ。
たとえば「科学の営みは、限界と不確実性を内在している」(その点については、ここに至るまでに述べた)といった重要な認識も「科学についての知識」には含まれる。そういう意味での科学リテラシーだ。
そして、その普及は、科学プロパーからの一方的な啓蒙ではなく、科学プロパーと(科学の門外漢である)一般市民との双方向のコミュニケーションによってしか、なし得ないだろう。
そういう形での「科学リテラシーの普及」があってこそ、「安全。だから安心」という状況を生みだせるのではないか。
【〈科学の営みには限界と不確実性を内在している〉ということを含めた〈科学についての知識〉を主な要素とする科学リテラシー】の〈双方向のコミュニケーションによる普及〉こそが、「安全。だから安心」という状況を生みだすと思っている。という理解。
こういう理解で合っているのだという前提で、「深く同意」なのでありました。
自分(や社会)という乗り物は、思い込みや願望、恐怖なんていうエンジンで動いてるって側面がある。それを乗りこなすには、自分(や社会)は「どういう考え方をするヤツなのか。どういう感じ方をするヤツなのか」にも目配りしていないといかん。そうじゃないと、暴走を防げないこともあるから。そして、その目配りには「科学の営み」や「科学の営みに対する理解」が欠かせない(もちろん、それだけで済むわけでもない)。そういう話でもあるよね。
リンク先、オススメです。ご一読あれ。<大事なことなので、二度言いました(爆)
◆
ところで「価値観の多様性を受け入れ、価値観を共有しない人との間でこそ信頼関係を築く方法」は、科学だけじゃないよ、ということも上の文章は(言外に)言っておるわけで。
「だけ」じゃないにしてもナニにしても、いろんなことを考えちゃいますね。
「各地にあるナニカ混沌としたもの(ということは、あなたのところにもあるかもしれない)と、公立学校やらそこに学ぶ生徒たちやら保護者やらその地域の人との関係」の話として、はたまた「ニセ科学とかオカルトとか『水からの伝言』みたいなものに、なすすべもなく撃たれちゃう人(ていうか、むしろ歓迎している人)と撃たれない人」の話として、どう進めたらよかんべ、ということと直結するはずなのであった。
特にユタさまの件は、まだ悶々としています。
少なくともぼくにとっては、単に「沖縄だから」じゃないっつうに。実際にある個別の事情以上に拡大特別視してないか。沖縄の人も、沖縄じゃない人も。もっと普遍的なところのある話でしょうよ。一律に均質化、都市化、近代化すべきとかって話でもないよ。
悶々。
複雑に関係しているいろいろなことを、自分なりに整理してみたのですが、熱烈なご紹介をありがとうございます。
>失礼ながら、こんなふうに理解した、ということでちょっと表現をいじってみる。
私の拙い文章の改訂をありがとうございました。完璧と思います。今後の作文の際の参考にさせて頂きます。