2008年11月30日

「正しさ」について語ることと単純化すること

「倫理」を語る人間が立つ場所(科学ニュースあらかると 08年11月29日)

ここで挙げられているのは児童ポルノ法の話だけど、教育の問題やニセ科学批判なども、当然同じような問題を含んでいるわけで。

末尾の部分を引用します。
「正しいこと」を主張するのは容易いのですが、その主張が正しく利益をもたらす様にするためには、より慎重な考察が必要とされます。善意に基づく行動が正しい結果をもたらすとは限らない、というのは歴史の中で何度も繰り返して証明されていますので。

この話で守られるべきなのは「子ども」であり、「自分が正しいと考える基準を法律として他人に押しつける事」などでは無いのです。

この事例などは本当に微妙ではあるのですが、だからこそ、そういう微妙な部分で「そうであるべき」という主張を振りかざす人間の主張が通ってしまうと、それを挽回するのは難しい事になってしまいます。

法律で取りしまるべき犯罪の部分と、法律で取り締まってはいけない「思想」の部分、「倫理」として社会の中で扱うべき部分をセットで「同じ話」として主張するというのは、とても危険な事なのです。

ヒトデナシである私は、「善人」が迷い無く突き進む事によって作り出す「特定の人間の思想が絶対である社会」よりも、自分が神や仏では無く、弱さを持つ人間である事を認識する「悪人」が作り出す、「他人に危害を及ぼさない限り、思想の多様性を認める社会」に住みたいと心から思います。

「倫理」を語る人間が立つ場所

ぼく自身は、自分が常にある種のマイノリティであった、現在もそうあり続けているという自覚もあって、こうした視点の重要性をみじんも疑うものではありません。同時に、その同じぼくが別の集団ではマジョリティであったりもするわけで、そういう重層性みたいなものからも逃げられない。

一方で、倫理や規範を問うような指摘/主張/運動などは、「すべて」こうした視点をもっていないからできるに違いないとも考えていませんし、そのような考え方には反発します。そうした考え方はたとえば、主張=折伏とみなすとか、批判と非難を区別しないとか、なにかの「運動」なのだと感知したとたんに「市民運動」と分類するとか、そうした粗雑さ乱暴さと、とても近いものに思われます。

なんて書くのは、前述の引用部分に共鳴すると、返す刀で「倫理や規範を問うような連中は、みんな同じ誤りを犯しているのだ」なんて言い出す人も、いそうだなあ、と思ったからで、実際にそういう例を見たわけではありません。


とりあえず念押し。

リンクした「科学ニュースあらかると」の主張には賛同します。また、現在「子どもと青少年の性的搾取に反対する世界会議」で取りざたされている議論についても、「科学ニュースあらかると」の主張を支持しますし、ここで引用した部分については、原理的に正しい、ほとんど自明で議論の余地もないぜ、とか口角泡を飛ばして言いつのりたいぐらいに同意します。

しかし、それは「倫理や規範について語る、すべての人が同じ過ちを犯していると信じている」という意味ではありませんし、そんなことを言い出す人がいたら、個別の事例をちゃんと見ようよと言ってあげたいと思います(実際に言うかどうかはわからんけど)。

また、ニセ科学について語る人間は、そういうことに気づいていないだろうとか、そんなことにも気づいていないと思うなよ、という話でもありません。論者によっていろいろでしょう。継続的に言及している人の多くはとうに気づいているでしょうし、最近言及し始めた人だって侮ってはいけません。もちろん、同じ言葉を使っていても、「うわ、そんなこと考えたこともなかった」という人だっているに違いない。だって、その気になれば小学生だってニセ科学という言葉を使えるのだから。


関連して、「単純化」について連想したこと。

単純化されることで抜け落ちるものもあれば、明白になるものもある。なんだったら尖鋭化すると言ってもいい。

逆に、先入観との兼ね合いで、よけいなものがくっついてくる場合もある。どんな言葉でも、歴史的な経緯とは無縁でいられないし、あらかじめできる配慮には限界があるし。

すべてを理解しておくことは原理的に不可能である以上、おそらく大事なのは、「なにについて語られることなのか」といった対象をあいまいにしないこと、なのかもしれません。なにかを読むときも、それについて考えるときも、自分が語るときも。


単純化すること、図式化することは、常に乱暴さや粗雑さと隣り合わせです(この辺、「発達段階に応じた指導」とニセ科学その2の話など、思い浮かべています。続きのエントリを書きたいとは思っているのですけどね、なかなか)。

しかし、単純化が常におかしな結果を生むというわけではないでしょう。多くの場合、おかしな結果を生む単純化・図式化は、まったく異なるものを同じものとみなしてしまう類いの間違いを含んでいるのではないかと考えています。カテゴリーミスみたいな。「たとえ話」の難しさのひとつの側面だと思います。そうでなければ大丈夫、などというつもりもありませんが。

単純化することで理解のコストを下げることは、重要なライフスキルだということを疑うわけではないのです。常にややこしいことを丸ごとそのままで咀嚼するなんていうのも、できそうにないことですから。

おそらくは、どういう問題ならどの程度単純化してもいいか、あるいはどの程度に単樹化すべきか、ということが歴史的にもずーっと問われ続けているのです。重要性や問題の質に応じて。


しかし、単純化に関する明確な基準があるわけでもなく、仮に「生命や利害に関わるような重要な問題については、ぐっと単純化して飲み込みやすくすべき」といったおよその基準が自然発生的に生まれていたとしても、「どれぐらいならちょうどいいか」は不変ではないのでしょう。

100年前の単純な説明では不足だという問題もある。一方で、100年前には「ややこしい語られ方」をしていた部分だけれども、今こそもっと単純に語られることを必要としている、そうでないと人心に届かないような問題もあるに違いない。100年前と今では、重要さの見積もり方にズレが生じているのかもしれません。あるいは、かつては重視されなかったけれども、現代は「あれも重要だよね」「これも重要だ」と、ポイントが増えているだけかもしれません。

現代、100年前に比べれば生きていくだけならたやすいというこの時代の日本では、「生命を維持する」ということの価値よりも、「人生を豊かにする」ということの価値の方に敏感だったりもすることでしょう。「安全」ということの意味も、かつては「生命を失うかどうか」ということだったかもしれませんが、それだけでなく、もっともっと広がりをもっているに違いありません。こうした変化は、どっちが重要かという判断が変わったのではなく、重要なものが増えてしまっているようです。

100年が50年でも、30年でも、10年でも、そうした変化は少しずつ少しずつ、ぼくらの周辺でも内部でも、静かに進んでいることでしょう。

そうした変化のなかで、なにかを単純化して考える、決めるというのは、思いのほか難しいことなのでしょう。




posted by 亀@渋研X at 13:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | 渋研X的日乗 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする はてなブックマーク - 「正しさ」について語ることと単純化すること
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