この話題、ずーっと気にはなっているのですが、悶々とするばかりでなにも書けず。このエントリの最後にご紹介しますが、何人かの教職経験者や現職の教員の方の議論への参加もあって、かなり膨大な量のテキストが書かれています。さまざまな論点が上がっており、おそらく、単行本ぐらいのボリュームがあります。これをいきなり読みこなすのは至難の業で(それどころか、追っていくのもかなり大変)なので、黒猫亭さんの提起した問題の要約を再度ご紹介します。
黒猫亭さんの疑問は、極論化すると「【1】どれほど理想的な環境にあっても、『受け手の程度を踏まえて教える』という方法は、一定の『誤りの混入』を許すのではないか」「【2】教えることに慣れている者は、『誤りの混入』にも慣れ、その問題を軽視するようになるのではないか」「【3】その結果、ニセ科学的なものなどが入り込みやすくなる事態が起きるのではないか」2でこう要約したときに、黒猫亭さんからご意見はいただいているものの、まあ大筋では合っているんだと思っています(いただいているご意見については、2のコメント欄をどうぞ)。
ただ、最近のやりとりを読むに、ぼくには本題と異なると思われる部分でちょっと気になる話題があるので、本日は交通整理のつもりでそこら辺について少し。うまくできるかどうかわからないけど。
●「まず教育現場から」は正しいか
最初のエントリで、黒猫亭さんは「何故水伝の蔓延はまず教育現場から火が点いたのか」と書かれています。田部さんやfilinionさんから黒猫亭さんの事実誤認が問われている部分です。後だしジャンケンのようで本当に気が引けるのですが、ぼくは全然引っかかっていなかったんです。しかし、この文に含まれる認識は、妥当ではないように思われます。
ぼくは「授業の素材にされたことが、広く議論を呼ぶきっかけになった」という意味にとっていましたが、これがどうやらぼくの不注意による誤読で、黒猫亭さんの意図はそうではなかったようです。これが「まず教員が『水伝』に引っかかった」「教員が広めてしまった」という意味なのだとすれば、先のエントリ「水からの伝言」浸透と批判の経緯でも触れたように、それが正しいとは考えていませんし、少なくとも、世間に広がる前に実践があった等といった事例がなければ言えないぐらいの強い主張だと思います。また、それは容易には確認できないでしょう。
また後述するように、どっちが早かったかが重要とはぼくには思えません。
●教育現場には虚偽が蔓延しやすいか
また、黒猫亭さんは「何故教育現場には虚偽が蔓延り易いのか」とも書いていて、これを言い換えたものが先の「何故水伝の蔓延はまず教育現場から火が点いたのか」としています。
この表現は、後の(ぼくには本題ではなく周縁と思われる)議論につながる問題をいくつも含んでいます。ぱっと考えても(a)何を「虚偽」あるいは「嘘事」と呼ぶか、(b)それらが本当に教育現場には他の場所以上に蔓延しているのか、そして、(c)特に教育現場には蔓延しやすいという事実があるのか、といったところで議論が膠着してしまう可能性があります。(a)「虚偽」あるいは「嘘事」をどのようなものと想定するかは、事例を挙げれば済むかもしれませんが、(b)(c)を明らかにするのは、かなり困難でしょう。
前述の「まず教員が『水伝』に引っかかった」「教員が広めてしまった」と同様に、「教育現場には虚偽が蔓延り易い」の真偽を問うのは、かなり難しい。それだけでなく、不毛で、あまり意味がないと思われます。いや、教員の方々には無意味どころか名誉に関わる問題ですし、仮に事実だとすれば大問題でしょうけれども、そこを棚上げにせずに明らかにしないと問題を正しくとらえられないかというと、必ずしもそんなことはないのではないでしょうか。
教員のなかにも一般の人と同様に受け入れてしまった人が一定数いたということは言えますし、それはそれで問題ではありますが、だからと言って、教員だから引っかかった部分があるに違いないとも言い切れないと考えています。
ぼくのとらえ方は、せいぜい「ニセ科学をはじめとするアヤシい言説の類いが、なぜ、教育現場にも容易に入り込めたのか。さまざまな原因(前エントリ参照)が考えられるが、これまでに指摘されていなかった『教える立場、説明する側に特有の原因』といったものも、一因としてあるのではないか」といったものです。
●では、黒猫亭さんの提起は無意味か
上記2点が確かでないとなったら、黒猫亭さんの提起は無意味なのかというと、そんなことはないはずです。
これまでもあちこちで例に挙げたような、たとえ話や、煎じ詰めた要約、結論部分だけを取り出したような説明は、ぼくが標題にしているような「発達段階に応じた教え方」だけでなく「理解の程度、興味関心の程度に応じた説明」としては一般的なものです。したがって、そうした説明に慣れてしまうことが、ある種の感覚の鈍摩を招くのではないかという指摘は、ぜんぜん他人事ではない。自分自身の問題です。
教員などよりも、にわか説明者というか勝手説明者というか、半可通やアマチュアが陥りやすいということはあり得ます。マスメディアなどはとくに、その問題の専門家ではないにも関わらず説明する役を担うことも頻繁にあるわけですから、ものすごく生々しい問題提起です。
ぼくは、その辺にばかり関心が行っていたために、前述の事実誤認かもしれない主張にも気づかなかったのだろうと思います。ですから、開き直りめいてもいて気が引ける部分もあります。しかし同時に、だからこそ黒猫亭さんの疑い自体は有用だと考えています。仮に、先の「まっさきに教育現場が」といったことが完全に否定されても。
●黒猫亭さんの主張は「仮定に基づく仮定」かもしれない
もうひとつ。
仮に先に紹介した要約がそれなりに適切なものだとすると、まず【1】【2】がそれぞれ事実か、という検討が行われるべきではないでしょうか。【1】も【2】も妥当なようだ、となったら初めて【3】は妥当か、という検討に入れるわけで。
【1】についてはぼくは提起の形で書きましたが、黒猫亭さんは疑いのないところだと考えているかもしれません。ここはぼくも、疑ってはいるわけではありません。自分でも「伝えるため」と考えて、かいつまんだ説明やたとえ話をすることもあるので、「そういう傾向はある」と考えてはいます。
しかし、filinionさんなどは、事実とは異なる説明となるとうまい例が見つからないとされていますよね。
ですから、【1】はまず事例を検討することが有用ではないでしょうか。「ああいう説明って、話をはしょってるよね」とか「正確な説明じゃないけど、それでよしとしてしまうことがあるよね」という例を挙げてみる(たとえば、ぼく自身が挙げた事例に地動説がらみのものがありますが、これも2カ所ほどにバラけているので明瞭な話にはなってません。あとでひとつにまとめたエントリにしてみようと思います)。
一方で【2】については、なかなか事例とはいかないかもしれません。外から見るとそういう印象があるといった類いの話は事例として採用できないとまでは言わなくても、偏見や勘ぐり過ぎなどでない保証もないし、だからと言ってほんとかどうかを確認するとなったら、長期的に誰かを観察するとかいうことになりかねないですもんね。事例と言ってもなかなか適切なものを拾いだすことは難しいでしょう。
ですから、「説明する人の実感」の有無でしか語りえない部分もあることでしょう。
実感に関しては、ぼくのケースで言えば「かいつまんだり、たとえ話に置き換えたりすると不正確になっちまうことが多くてなあ」などという悩ましい気持ちは常にあって、もどかしい思いもしてきた。十分に正確な説明ができていないという自覚はありながら、正確さを欠くということが、毎度気にはなっている。だから、「慣れちゃうかなあ? そうかなあ?」と疑う気持ちはあります。とはいえ、実際に自分がそういう「かいつまんだり、たとえ話に置き換えたり」をする以上、明らかに違うとは言えないし、「それはないよ」とまで言える論拠にも欠ける。自分ではわからないというのが正直なところかもしれない。そのレベルです。
いずれにしても、職業的な教員の方々はまた違う意見をもっているかもしれないし、一例としてであれ主に問題とするのであれ、「教育現場では」を問うなら、教職経験者か教員を身近によくご存知な方などのご意見が聞けなければ始まらない(まあ、だからこそ2度に渡ってエントリにしたわけですが)。
繰り返しになりますが、少なくともぼくの立場だと、まず前提条件である【1】【2】が確かめられなければならない。【1】は、いくつかの事例とともに傾向として確認されればいいのだろうと思います。もし、【1】について共有できる事例が見つからず、教職にあった方々の実感としては【2】が否定されるようであれば(その実感が正しいかどうかはさておき)、その方が【3】だけ肯定するなんてことは、たぶんあり得ないので、その方との議論としてはそこで終了するしかないでしょう。ただし、【1】や【2】について「違うと思うよ」という意見の根拠に、どうも整合性がない部分や思い込みに基づいていることを疑わせる部分があるとでもなれば、議論の余地はあるでしょう。
●黒猫亭さんへのご提案
黒猫亭さん、いっぺん事例やら論点やらを箇条書きにしてみてはどうでしょう。いや、そこまではしなくても、新しいエントリを挙げる際には、もうちょっと細かく小見出しをつけてみるとか。
また、上記以外にも確認困難な点について断定的な書き方をしている部分があったり、なぜ相手がそう書いたのかについて忖度することで必要性の低い回り道をされている部分がありそうにも思えています(「広義の嘘/狭義の嘘」とか「日本の首都」あたりをめぐるやりとりなんかが典型でしょうか)。
さすがに全体を再読三読する余裕はないので、こことここに引っかかるよ、というご指摘を逐一することまではできないのですが、できるだけ認識を共有できる範囲にしぼって議論ができれば、より実りの多い議論が可能なのではないかと。
書き方や考え方のスタイルに口を出すのは本意ではないですし、議論のための負担をいたずら員増やしたくもないのですが、分量が多い上にどうにも話があっちこっちするので(というおつもりもないのでしょうけれども)、まじで話を追い切れなくなってます。
黒猫亭さんに限らず、議論に参加されている方々は、上記を読んで「教育現場の話だからこそ問題だ」とか「そんな一般化は無理がある」とか「そんなのは亀@渋研Xが自分の興味関心で議論をすり替えているんだ」といったご意見がおありかもしれません。その場合は、まあどうしようもない。そんなことはないと頑張っても不毛だと思うので引き下がります。
しかし、もしどういう動機からであれ、じゃあ亀のいう観点でもういっぺん考えてみようかと思われるようでしたら、せめて、いったん「最初が教育現場だったのか」とか「教育現場にははびこりやすいのか」については脇にどけておけないものでしょうか。
議論を拡散させず、より実りの多いものにするためにも、ご一考いただければ幸いです。
◆
関連エントリに、いまのところ下記があります。それぞれのコメント欄でも濃い話がてんこもりだったりします。
元エントリ:
教育と嘘事(黒猫亭日乗 2008年10月 4日)
同エントリについて:
「発達段階に応じた指導」とニセ科学(うち 2008年10月 5日)
一定レベルの理解を得ることの難しさ(アグリサイエンティストが行く 2008年10月 9日)
「発達段階に応じた指導」とニセ科学2(うち 2008年10月 9日)
「真」善美。(小学校笑いぐさ日記 2008年10月26日)
どっちかというとワキ筋:
技術開発者さんへのお返事(黒猫亭日乗 2008年10月18日)
教育と嘘事(の※欄の続き)(黒猫亭日乗 2008年11月12日)
filinionさんとの議論:
前出「真」善美。(小学校笑いぐさ日記 2008年10月26日)
filinionさんに応える 〈概論〉(黒猫亭日乗 2008年11月17日)
filinionさんに応える 〈各論〉(黒猫亭日乗 2008年11月17日)
filinionさんに応える 〈考察〉(黒猫亭日乗 2008年11月17日)
「水からの伝言」の授業について思うこと。(小学校笑いぐさ日記 2008年11月26日)
科学というのは、歴史と共に「精度を上げてきた」のだから、発達段階に応じて精度の低い結論から教えるのは間違いではなく、正当な流れなんだと思います。
それが誤りに見えるのは、個々の内容よりもむしろそこから想像できる全体像の話で、結局パラダイム論なんかになるんじゃないかと。
http://d.hatena.ne.jp/sivad/20081117#p1
再び強調しておくと、元議論を読んでないので、思いっきりずれた話かもしれないですね。やる気がでたら、きちんと追ってみたい話なんですけど。
P.S.
ちょっとリンク先を確認したら、案の定、私の話が明後日を向いてますね。
>科学というのは、歴史と共に「精度を上げてきた」のだから、発達段階に応じて精度の低い結論から教えるのは間違いではなく、正当な流れなんだと思います。
いってみれば、科学史をなぞるようなことですよね。
そうだよな、と思うぼくと、そうなのかなあ、と思うぼくが、そのときいました。
あ、読んだときに系統発生は云々みたいな話が頭をよぎったです。
ああ、酔っぱらいはやっぱり使い物にならん(泣)
血液型と性格3
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/%7Ekikuchi/weblog/index.php?UID=1202024086#CID1228988668
『子供の科学』の血液型性格判断の記事をどう評価するか、というもの。
「これはトンデモだ」とまで言う人がいる一方で、きくちくんは、こう書いています。
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/%7Ekikuchi/weblog/index.php?UID=1202024086#CID1229159926
>読みました。
>心理の人はかかわってなくて、あくまでも生理学の立場で書かれているようです。血液型についてのいろいろな話なのであって、「性格判断だけの話」ではないのですね。
>性格判断を否定する根拠はメカニズム論一辺倒なので、われわれの立場からすれば、感心しません。これで性格判断が否定できるかといえば、できません。
>しかし、「性格判断はできそうにない」と思える生理学的な理由を並べたものになっていますし、読者層を考えると、これはこれでいい特集なのではないかと思います。
>大人向けだと思っちゃうと、まずいのですけど。
いろんな意味で「子ども向けだから」だけではないし、きくちくんも有用性と不十分さを天秤にかけて考えている。
こういう考え方はぼく自身もよくやる。「それでいいのか」と考えると、「万全ではないかもしれないけど、ここまでしかできないでしょう。むしろ上等かも」と考えることは、しばしばある。
ぼくや黒猫亭さんが考えているのは、「そのことの是非」そのものじゃない。「説明する側の人間は、こういう思考方法(判定方法)に慣れてしまうということはないか」「もしもあるならば、それは『十分ではない説明』に対する耐性を下げてしまわないか」「その結果、『水伝』的なものを用いやすくなったりしないか」、というようなこと(ですよね?)。
だからとて、80点の説明はダメで常に100点の説明を、ということでもない(それは現実的じゃない)。もしもそういうことがあるならば、教室にも入り込みやすい理由がひとつわかるし、ぼくら自身が自分の危うさに気づくこともできる。
80点で満足しているうちに、70点でも60点でも気づかなかったり満足するようにならないか、なんてことは……多分ないんだとは思うんだけど、なんとなく危ういかなあ、と思ったりもする。
が、定かなことはわからない。悶々。
>lets_skepticさん
>>科学というのは、歴史と共に「精度を上げてきた」のだから、発達段階に応じて精度の低い結論から教えるのは間違いではなく、正当な流れなんだと思います。
それはそうなんですね。※欄のほうのやりとりでは、まさにそう謂うお話もさせて戴いています。
>>人間の学問や社会活動というのは、古代の単純明快な段階から時代が下るに連れて次第に複雑難解化していくわけで、それはつまり、先人の遺した実績に対して批判や修整を加えながら知を追加し蓄積していく形で学問が進歩していくからですが、それは一人の人間の知的発育のプロセスとも近似しているわけで、それ故に一般的な教育の体系は学問の歴史をなぞるような形で構成されていると思うんです。
(中略)
>>ですから、当然学校のカリキュラムで地動説を教えないということになれば、それまでに教えられた天文学の知識は天動説の時代までのものなのですから、そこから学問の歴史がアップデートされないままに教育を終えるということになります。その教員の方が「天動説で教えている」と仰ったのは、大略そういう意味だろうと思います。
>亀@渋研xさん
>>あ、読んだときに系統発生は云々みたいな話が頭をよぎったです。
前掲の箇所でオレも、同じようなことを考えました。
>>ここで「個体発生は系統発生を繰り返す」と謂うのもちょっと喩えとして妥当かどうかはわかりませんが
ですから、lets_skepticさんが指摘されたような事柄も一応は押さえているつもりではいるんですね。その上で、そこを足掛かりにして、たとえば「天動説で教えている」というのはどう謂うことなのか、と謂うことを一通り説明させて戴いたつもりではいるわけです。
しかし、この説明がまったく踏まえられることなく「天動説で教えているなんてことはない」と謂うふうに反応されてしまうわけで、端的に言って「読まれていない」わけです。
難しいなと思うのは、たとえば亀さんんのお勧めに従ってこの辺のことを整理要約しても、それはやっぱり結論だけを提示することになり、「天動説で教えているなんてことはないよ」と謂うふうに切り換えされちゃうでしょう。
で、それに対して「これこれこう謂うことなんです」と同じような説明をすると、説明をした相手には伝わるかもしれませんが、その分だけ説明の分量が増えるわけですから、後から読む方はやっぱり読まないかもしれない。
それを何度も繰り返しても好いんですけれど、結局それを黒猫亭一人がやっていると、「こいつはなんだか現状の教育に文句がある奴みたいだ」みたいな大雑把な認識で片付けられてしまうのかもしれない。そう謂う危惧があります。
たとえば「児童教育と謂う行為に不可避的に不正確さが混入すると謂うなら実例を示せ」と言われたりすると、率直に言って「それはすでに一応提示しているつもりだし、説明もしているつもりなんだけど、それを踏まえないで言われてもなぁ」と、ややげんなりするわけですね。
要するに、すでに一通り工夫して料理したものがあるのに、それには見向きもせずに、その人向けに新たに別の料理を作れと言われたような気になるわけです。それはそれでも好いんだけど、最初に作った料理すら手を附けて戴けないのに、新たに作った料理を召し上がって戴けるのかどうかどうにも心許ない。
最初の話ではよくわからないからもっと踏み込んだ説明をしろと言われたのであれば、幾らでも説明を追加するんですが、「この辺でそう謂う話をしていますよ」と申し上げても一切それが踏まえられずに話が進むと、これで前提を共有した話が出来るのかどうか、かなり心許ないと感じるわけです。
こちらのほうでも、「オレが書いたことを全部読んで適切に理解しろ、話はそれからだ」みたいなことを申し上げているわけではないんですよ。「仰っているようなことに対してはこの辺で説明していますから、そちらを踏まえてご意見を戴ければ」と謂うようなお願いをしているわけですが、結局それはスルーされて全然別の観点から反論されてしまうわけです。
相手を言い負かすと謂うゴールが想定される議論ならそれでも好いんでしょうけれど、前提を共有した上で互いの立ち位置でどうそれを考えるのか、その論をどう叩いて揉んでいくのか、と謂う形の議論を望んでいるわけですから、少なくともこちらの側が相手を言い負かすことを目的視して反論しても意味はないし、有り体に謂って無益な争いになる可能性が高い。
で、多分結論自体に対して不満がある場合は、結論だけを幾ら整理して提示してもやっぱり伝わらないんですよ。前提を共有する為には、或る程度突っ込んでプロセスを説明するしかないんですが、それが議論負荷を高め議論の継続を困難にすると謂うのであれば、結論を異にする者同士の間で実のある議論を交わすのはかなり難しい。
今の段階では、互いの論を理解し合った上でそれを踏まえた意見交換が交わされているわけではなく、互いの支持する結論を別々の経路でプレゼンテーションしているに過ぎないと感じるわけですね。それはそれでも構わないんです。オレとfilinionさんでは目的も動機も異なるわけですし、支持している結論が違うんですから。
しかし、オレが最初のfilinionさんのご意見に逐次反論させて戴いたのは、それが一見オレの論に対する逐次反論に「見える」からで、オレから見れば、それはオレの言葉を足掛かりにしてfilinionさんがオレの論それ自体とはまったく関係ないご自分の論を陳べておられるだけに見えたのですが、おそらくその論だけを読まれる方はそう考えないでしょう。
それはオレの書いたパラグラフのかなりの部分を拾っておられるからで、普通にそれだけを読めば大概の人は、黒猫亭の論自体は読まずに「黒猫亭は大略そう謂うことを言っていて、filinionさんはそれを適切に踏まえてこのように反論しておられるのだろう」と解釈するのが当たり前でしょうから、「そうではないですよ」と謂うことを一通り説明する必要を感じたのですね。
なので、それは一回やれば充分なので、それに対してfilinionさんが再びご自身の論を陳べられたのであれば、そこで議論を打ち切っても構わないわけです。一応の手続として「filinionさんの論は黒猫亭の論を踏まえたものではないですよ」と謂うことは説明させて戴いたのですから、後は読み手の判断に任せても構わないと考えます。
ただ、折角言及戴いたのであれば、こちらの論を理解した上で、それに対してどのようにお考えになるのかを聞かせて戴きたい、専門の方にこちらの論を揉んで戴きたい、と謂う望みがまだこちらにはあるわけで、結局議論を継続するか否かと謂うのは、そこの見込みにかかってくる問題なんですね。
>>科学というのは、歴史と共に「精度を上げてきた」のだから、発達段階に応じて精度の低い結論から教えるのは間違いではなく、正当な流れなんだと思います。
「時代が下るに連れて次第に複雑難解化していく」だけでなく、発展するに従って見通しが良くなり洗練されむしろ単純明快になる事も多いのではないでしょうか。
そして初等教育で学ぶのは、むしろそういった事柄だけなんだと私は思うのですけど……。「精度の低い結論から教えなければならないような分野・事柄は、その発達段階でのカリキュラムからは外す」というのが、初等教育の最も根本的な方針なんだと私はずっと思っていました。
>>人間の学問や社会活動というのは、古代の単純明快な段階から時代が下るに連れて次第に複雑難解化していくわけで、それはつまり、先人の遺した実績に対して批判や修整を加えながら知を追加し蓄積していく形で学問が進歩していくからですが、それは一人の人間の知的発育のプロセスとも近似しているわけで、それ故に一般的な教育の体系は学問の歴史をなぞるような形で構成されていると思うんです。
中学・高校の教育現場で理科を教えている人間で、「一般的な教育の体系は学問の歴史をなぞるような形で構成されている」と考えている人は少ないのではないかと思うのですけど、どうなんでしょうか。
たとえば、たびたび出されている「天動説」「地動説」の話だと、(子ども自身が自分の体験や思索の結果、授業に臨む前にどのような世界観を持つのかは別として)日本の「一般的な教育の体系」では「天動説」を一切教える事なく、いきなり「地動説」を教えますよね(そもそも「天動説」は最後まで教えないし――百歩譲っても「地動説」が身についた後に「昔の人はこう考えていた」と話題に出すか、世界史の授業で習うかのどちらかしかないんじゃないかなぁ……)。
他にも、音や光の単元とか、電気・磁気の単元とか、力学的エネルギーの単元とか、初等教育の現場で「歴史をなぞるような形で構成」しようと考えるような強者は少ないと思うんですけど……どうなんでしょうか。
正直言って、初等教育の現場にいる理科教員で(みなさんのおっしゃるような意味で)科学史に関心のある人間は、そう多くはないんじゃないかなぁ。みなさんは、ニセ科学初心者に「水からの伝言」の問題点を説明するのに、「水からの伝言」批判の歴史に則って、これまで論じられてきた問題点をその提出された時系列に沿って述べるべきであると主張しますか。
もしかして、みなさんの念頭にあるのは、私がTAKESANさんのところに書いたこの教育論(↓)なのでしょうか。
http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-4781.html#comment-53591730
う〜ん。いまいち、みなさんの問題意識がどこにあるのか、分からなくなってきました。
【追伸】もったいぶってる私のアレなんですけど、かなり手こずってます。一度書いた長文をゼロから書き直す作業はとてもつらい……。
げんなりするのはわかるつもりです。ボク自身、余裕がなくて整理できないでいるものがたくさんあるので、人のことなんか全然言えないですし。「地動説」の件さえ、整理できていない(汗
そんなこんなで、「新しいエントリを挙げる際には、もうちょっと細かく小見出しをつけてみるとか」と書いてもいるわけで。
できる範囲で、敷居を下げられないかな、というようなふうに受け止めていただければ。
田部勝也さん
ご指摘の
>>科学というのは、歴史と共に「精度を上げてきた」のだから、発達段階に応じて精度の低い結論から教えるのは間違いではなく、正当な流れなんだと思います。
については、ぼく自身は判断がつかないでいました(と、上記コメントでも書いているつもり)。
いただいたコメントを読んで、「やはりぼくは、なにがどう教えられているのかをわかってないんだなあ」と改めて思います。
ただ、それだけに、
>「精度の低い結論から教えなければならないような分野・事柄は、その発達段階でのカリキュラムからは外す」というのが、初等教育の最も根本的な方針
とおっしゃっていることが、正しいのかどうかも皆目わからず(疑ってはいませんが)。誠にふがいないのですが。
ただ、いただいたコメントのなかで2点だけ、明確に「そうではないです」と言えることがあります。
「地動説」「天動説」については、田部さんに誤解があります。再度整理すると言って、まだできていなかったのでが、この機会にまとめます。
また、TAKESANさんのところでのお話は、いわゆる構成主義が理科教育に入り込んできているという件ですよね。これはこの問題では念頭にありませんでした。
>いまいち、みなさんの問題意識がどこにあるのか、分からなくなってきました。
うーん、そうですか。
ぼくについていえば、教育の現場や、どのようにカリキュラムが組み立てられているのかを詳しく知らないのは確かなんですが、少なくとも、それが疑念の背景にあるというわけでもないと思っているんですよね。このエントリでも書いているように、そもそも自分の問題だという認識なので。
ご自身で「脊髄反射」と仰っているご意見に即レスするのもアレなんですが。
>>そもそも「天動説」は最後まで教えないし――百歩譲っても「地動説」が身についた後に「昔の人はこう考えていた」と話題に出すか、世界史の授業で習うかのどちらかしかないんじゃないかなぁ……
これ、filinionさんと同じような解釈ですね。文脈から切り離された「天動説で教えている」と謂うパラグラフだけが一人歩きしている、と謂うのが率直な感想です。
端的に謂って、田部勝也さんもこちらがどう謂う意味合いでそう申し上げているのかをお読みになった上でご意見を仰っているのではない、と謂うことだけはわかりました。
なんというか、何をどのように論じても読まれないのでは意味がないなぁ、と痛感致します。やっぱり、一旦手仕舞いにしたほうが好いですかねぇ。
ご意見ありがとうございます。亀さんのご厚意は身に染みるんですが、今はなんかちょっと失望のほうが大きいので、あんまり冷静なことも書けなそうな気がします。
田部さんの仰った「単純・複雑」の問題についても考えはあるんですが、今は上手く書けそうな気がしませんので、また後程。
ごめんなさい。脊髄反射と書いた通り、ここでのコメントしか読んでません。どこを読めば良いのか、または全部読まなければいけないのかを教えていただければ、それに従います。
>亀@渋研Xさん。
「地動説」「天動説」についての私の誤解は、黒猫亭さんが指摘されている点でしょうか。
う〜ん、どこを読めば良いのか分からないまま、大量の文章をサルベージして検討していかなければならないというのは……ごめんなさい、わがまま言いました。もっと、慎重に誠実に気長に取り組む事にします。
改めて、本当に申し訳ありませんでした。
(……はぁ、なおんねーなー、この自分の軽率さ加減)
「教育と嘘事」のコメント欄の、最初の亀さんのコメントから続く「天動説」の流れで、途中でkaqu11さんと仰る方とのやりとりまでで大略説明しております。
少なくとも、田部さんが仰ったことについては、そこだけお読みになっても一通りの説明はあると思います。
http://kuronekotei.way-nifty.com/nichijou/2008/10/post-801a.html#comments
のやりとりの事でしょうか。だとしたら、自分の誤解の内容はおおむね理解できたと思います。大変ひどい誤解で釈明の余地もありません。申し訳ありませんでした……と思ったら、すでに黒猫亭さん本人からのフォローがありましたね。どうもありがとうございます。
でもちょっと、このコメント(↓)は、現場の教員にとってはやりきれない内容だとは思います。
http://kuronekotei.way-nifty.com/nichijou/2008/10/post-801a.html#comment-33449795
黒猫亭さんが間違っているわけでも教員を非難しているわけでないのは分かるのですけど、私のように感情的にムキになって見当違いの言いがかりをつけるような軽率な人間でなくても、「そうは言ってもねぇ〜」と思わずため息をついてしまう教育関係者は多いんじゃないかなぁ……。
引用は前後しますけど……、
-----【以下引用】------------
世界の物理的実体がどのように在るかという事柄は、人間同士の間の事柄のように人それぞれ真実が異なるわけではありませんから、少なくとも現時点で人間が識っている最新の知識が真であるということになります。その前段階までの知識は不完全であるということになりますから、何処かで適当に恣意的な基準で区切ってその段階までの知識でOKというわけにはいかないはずですよね。
-----【引用終了】------------
そうなのかなぁ。たとえば、ニュートン力学を教えるのはダメですか。熱や温度の事を考えるのに統計力学を用いないのは不完全ですか。化学反応において質量保存則を述べるのは知的不誠実ですか(これらの例は一応上記コメント欄でのkaqu11さんとのやりとりを読んだ上で選んでます。ちなみに後ろの2つは高校までに「アップデート」される内容です。さらに余談ですけど量子論も高校で習います)。
もちろん、黒猫亭さんがそんな事を主張しているのではないという事は分かっているつもりです。でも、初等教育のカリキュラムを作るのに携わる人たちというのは、「何処かで適当に恣意的な基準で区切」る事、その最も「適当」で最も望ましい基準はどこかを決定する事がほとんど唯一の仕事であり、そこに命をかけていると言っても過言ではない――と、私は強く擁護したいです。
「水からの伝言」問題に関して言えば、道徳教育においてその仕事をするべき人間は誰なのか――という事が、私はずっと気になっています。
-----【以下引用】------------
ですから、その段階では、地上からの「見た目」の天文学ではカバー出来ない周差や歳差という問題性の存在は教えないわけで、天動説的な認識でカバー出来る範囲の知識しか教えないということになります。これは、この段階だけ取り出して判断するなら、やはり不完全で不正確な知識ということになりますよね。
-----【引用終了】------------
確かにそうなりますね。おっしゃる事は間違っていないと思います。
ただ、見苦しい言い訳にしかなりませんが、学校教育法第31条に「小学校においては、前条第一項の規定による目標の達成に資するよう、教育指導を行うに当たり、児童の体験的な学習活動、特に(中略)自然体験活動その他の体験活動の充実に努めるものとする。(後略)」とあるんですね。そもそも「見た目」でカバーしえないモノが小学校の指導内容に組み込まれるのは極力避けるべきという考え方があるわけです。
もっと突っ込んで誤解を恐れずに、「小学校教育の主要な目的は“知識を教える”事にはなく、“知識を身につける姿勢・手段・技能を身につけさせる”事にある」と言ったら言い過ぎでしょうか。
まぁ、現実問題として、「お日様は東からのぼって西に沈むね」という事を子どもたちに観察を通して確かめさせている教員に、「不完全で不正確な知識を教えている」という意識はまったくないし、「不完全で不正確な知識を教えている」と指摘しても、「“お日様は東からのぼって西に沈む”という観察結果のどこが不完全で不正確な知識なのだ」と思われるだけで理解はされないだろうなぁ……とは思いますね。
「水からの伝言」に関わる話で言えば、子どもたちに日周運動を観察・記述させる行為が、「単純化した結論だけを受け容れさせる為に、抜け落ちている中間のプロセスの代替と成り得るものを一時的に措定する」事への抵抗感を教員から失わせるという話に繋がるというのは、かなり飛躍のある話だなぁ……とは、どうしても思わずにはいられません。
-----【以下引用】------------
これはやはりまずいことじゃないかと思います。学校で天動説的な段階の知識を教えるのは、それがやがて地動説によってアップデートされることが前提になるからで、地動説を教えないというのなら、精々ルネッサンス期までのレベルの天文学的知識しか持たない現代人が出来上がるということになります。で、天動説的段階の知識が地動説的段階の知識によってアップデートされるというプロセスは、現今の科学的常識から考えるとマストであって選択の余地のあることではないはずですよね。
-----【引用終了】------------
そんなわけで、小学校で天動説的な段階の知識を教えるのは(「観察をさせるのは」と言い換えたいところですけど)、たぶん「やがて地動説によってアップデートされることが前提」になっているからではなくて、単に「自然に親しみ,見通しをもって観察,実験などを行い,問題解決の能力と自然を愛する心情を育てるとともに,自然の事物・現象についての実感を伴った理解を図り,科学的な見方や考え方を養う(小学校学習指導要領における理科の目標)」のに、太陽や月・星の動きを(科学的に)観察するという学習体験がとても好ましいから――というだけの事なんじゃないのかなぁ……なんて、私個人は考えていますけど、どうかなぁ。
つまり、「月は地球の周りを回っていて、その地球と月は太陽の周りを回っていて……」という「知識」を教える事は必須であり、そのためにまず小学校では天動説的な段階の知識を教えている――という認識はあんまりないと思うんですけど、そんなふうに思ってるのは私だけかなぁ。
ちなみに、我が国では中学校までが義務教育だから「精々ルネッサンス期までのレベルの天文学的知識しか持たない現代人が出来上がる」という心配はいらないのでは?――という点は置くとしても、「初めて天体の運動について学ぶ段階で地動説的太陽系像について触れないのは如何なものか」という問題については、さまざまなレベルでだいぶ議論されたはず(どっかに議事録とか論文とかないかな?)。個人的な思い出話だと、たとえば昔niftyにあったフォーラムあたりでもかなり熱い議論が交わされていた記憶がありますけど、確かそこでは「別にいいんじゃないの」で落ち着いたのじゃなかったかな。
ちょっと最後は「水からの伝言」とは関係ない話になっちゃって、すみません。
たびたびお手を煩わせて申し訳ないのですけど、どちらか削除して下さい。
ついでという事で……。
>田部勝也「まぁ、現実問題として、「お日様は東からのぼって西に沈むね」という事を子どもたちに観察を通して確かめさせている教員に、「不完全で不正確な知識を教えている」という意識はまったくないし、「不完全で不正確な知識を教えている」と指摘しても、「“お日様は東からのぼって西に沈む”という観察結果のどこが不完全で不正確な知識なのだ」と思われるだけで理解はされないだろうなぁ……とは思いますね」
そんなわけで今となっては、戦略的には、「天動説」「地動説」の話よりも、「ニュートン力学を教えている」とか「原子を長岡モデルで教えている」とかいった話を持ってきて、「単純化した結論だけを受け容れさせる為に、抜け落ちている中間のプロセスの代替と成り得るものを一時的に措定する」事への抵抗感を教員から失わせている――という話に繋げたほうが、教員にとっては伝わりやすいしダメージも大きかっただろうなぁ……とは思います。
原子の構造を教えるときとか、電気抵抗と温度の関係を教えるときとか、熱と温度と熱容量の関係を教えるときとかのやりづらさと言ったら……本当に毎度悩みますし、だんだん感覚が麻痺してくる事もあるかも知れないなぁと、確かに思いますね。ニュートン力学を教える事については完全に麻痺してます(苦笑)。
それが教員による「水からの伝言」の受容と関わるのかどうかは別として。
じゃ、拙速じゃなくて、もちょっと練り込んでからアップします。
田部さんがニュートン力学や長岡モデルを挙げておいでなのを読んで改めて思うのは、教員の方でもいろいろおいでなのに違いないということです。「それではマズい部分もあるのだが仕方がない」と考えている方がいる一方で、「ある段階まではこの程度でいい」とはっきり肯定的に考えている方もいるだろうし、そもそもそこにはあまり注意を払わない人もいそうだ、という程度のことですが。
カリキュラムとしては(批判されることがあるにしても)、「あとでバージョンアップされるから」といったことで恣意的に選ばれるというわけではなく、かなり練り込まれているに違いないとはぼくも思います。「なぜそこでここまでの内容なのか」をきちんと説明できることが、おそらく常に求められるでしょうし。その意味で「まず天動説」という話にも、十分に合理性があると考えています。黒猫亭さんは「まずい」とお書きだったりしますが、そこについてはぼくは判断しないと言ってもいいです。
ここで言われている話は、またまた煎じ詰めてしまうと、〈説明役は「たとえ話」や「煎じ詰めた説明」といった手法をよく使う→そのために、不完全な説明をすることに慣れちゃう(のではないか)→だとすると、結論だけ合致している話も方便として使うことに問題を感じにくくなる(のではないか)〉……というような話です。ぼくにとっては、「そういうことが起きているのかどうか」が重要です。学校もそうだとするとえらいことではあるし、教える立場の代表例として先生方のご意見は伺いたいけれども、「教員は」ということも、「教育現場では」ということも二の次にしてもいいというぐらいです。
ぼくは、現段階では〈確かに説明する人はたとえ話や煎じ詰めた説明をよく用いる。しかし、その危うさについては、もどかしい思いをしていることも少なくないだろう。したがって慣れちゃうってことはないのではないか。であれば、「だから入りこみやすい」とは言えないだろう〉……と考えています。ですが、これまた個人的な体験と感慨という以上のものには、ぜんぜんならないんですよ。それを疑わせるような話も、ないわけではない。
下記のコメントでもちょっと書いてますけど、事例としてはありそうです。少なくとも「絶対ない」なんてことではない。
http://kuronekotei.way-nifty.com/nichijou/2008/10/post-801a.html#comment-33464839
しかし、それを教師一般、教育一般にまで広げて「よくある」かのように考えていいのか、というのは、また別の問題だと思うのです。
たとえば、構造としてはあるけれども、逆に公教育では起きにくいといったこともあるかもしれない。それもこれも、そもそもそういうことって起きているのかが必要だと考えています。
なにしろ、一体全体どうすれば「そういうこと(慣れ)が『よく』あるのか、『あまり』ないのか」を確かめることができるのか、そういうレベルのところで途方に暮れているのが、ぼくの実情です。
おとな一般としては、確かに「方便の説明でOK」とか「この段階ならここまでの説明でいい」という考え方はあります。根強いと言ってもいいかもしれない。そこまで「あるのかどうか」と言ってしまうつもりではありませんでした。
そういう傾きが、日常的に説明する側の人にまで起きているか、そしてそれに「慣れてしまうか」というところについて、「あるのかどうか。どうやれば確かめられるか」と考えている、といったところです。
まず、「単純・複雑」の問題からですが、これは実体的に見解の相違があるのではなく、単に表現の違いではないかと考えています。
おそらくlets_skepticさんが仰っていることと謂うのは、学問によって得られた知見の話で、田部さんが仰っているのは学問における認識の状況の話でしょう。それは表裏の関係になっているので、意味としては同じことを仰っているのではないかと思います。
ただし、たとえば国語教育なんてのは、必ずしも学問の発達と相関してカリキュラムが組まれているわけではないですよね。漢字より先に平仮名を教えるのは、それが児童にとって視認しやすく、音素記号なので数も少ないからですよね。それは国語教育と謂うのが知識蓄積型ではなくコミュニケーションに関連した学問に関する教育だからだと思うのですが、現時点で深入りは避けます。そう謂う意味でこの場合に申し上げているのは、自然科学等の知識蓄積型の学問に関連した教育内容の話だとご理解ください。
たとえば、数学で謂えば「1+1=2」よりも先にピュタゴラスの定理が発見されたわけではないですよね。1と1を加えると2になると謂う非常に鉄板な知識が確立されてから、その後の学問の知識がそれを応用して、その積み重ねで発展しているわけです。
この場合、「1+1=2」の段階の学問の状況を考えると、非常に認識が混沌としているわけで、その意味で複雑な状況にあります。そして、ピュタゴラスの定理の段階になると、その混沌が幾分整理されて見通しが好くなり、その意味で単純化した状況と謂えるでしょう。規則性が確立されず、物事が混沌とした状態にあることを「複雑性」と捉える表現は在り得ますし、おそらく田部さんが仰っているのはそう謂う意味だと思いますが、これを学問によって得られた知見の観点で視ていくと、逆の関係になります。
「1+1=2」と謂うのは非常にベーシックな知識で、それ自体は単純ですが記述の対象が広すぎて、それだけでは別の個々の数学的な課題を解決することは出来ないわけです。その意味で、数学の発展に伴って得られた知見の内容が個別の分化した対象を記述することが可能になっていき、それを「精度が上がる」「複雑化する」と表現出来るでしょう。
勿論、教育と謂うのは説明の体系だと思いますから、説明の便宜によって例外はあるでしょうけれど、概ねそのような序列に従って配置されている、と謂う程度の意味です。
そして、たとえば水伝批判について田部さんが仰ったことですが、それを外部の方に伝える場合、まず最初に、最初期の議論の段階で確実に謂えたわかりやすいことから伝えると謂うことになるのではないでしょうか。そして、水伝批判の論が深化するに従って得られた知見は、もっと具体的に分化してそれぞれ深掘りしているいるわけですから、知見自体は複雑化し難しくなっていると謂えるわけで、これは議論の伸展に沿って徐々に伝えていくと謂うことになるでしょう。
亀さんの水伝FAQでも、或る程度受け手の理解の便宜を図って構成を組み立てつつも、入り口としては最初期の議論で得られた鉄板の知見から始めて、そこから徐々に深化した知見に繋げていき、もっと詳しく識りたかったらそれぞれのリンク先にどうぞ、と謂う構成が考えられていると思うんですね。
これを議論の状況の観点で謂うなら、最初期の段階は最も論が混沌としていて、その意味で複雑な状況ですよね。それが議論の進展に従って整理要約され、見通しが好くなるわけですから、それを単純化した状況とも謂えるわけです。それを裏返して考えると、鉄板の単純明快な知見からそれぞれ分化した複雑な知見に発展しているわけです。
なので、田部さんが仰ったこととlets_skepticさんやオレの意見は、別段実体的な意味としては対立しているわけではないと思いますよ。単に、田部さんが状況の問題として捉えておられたことについて、知見の意味合いで逆の表現が為されていたから、一見して真逆の話に見えたので驚かれた、そう謂うことなのではないかと思います。
で、新たに戴いたご意見に対するお返事を書いていたら長くなったのですが、こちらに書き込んでもよろしいですか?>亀@渋研Xさん
>で、新たに戴いたご意見に対するお返事を書いていたら長くなったのですが、こちらに書き込んでもよろしいですか?>亀@渋研Xさん
ここでのコメントへの応答であれば、どうぞこちらへ。
#改めて「長くなった」といわれると、ちょっとビビりますね(^^;;
亀さんのお許しが出ましたので本題のほうに入りますが、お忙しい折柄、長いテクストを読んで戴いて恐縮です。結局このコメントも長くなるのですが、少し御辛抱ください。
田部さんのこれまでの一連のコメントで最も参考になったのは、「おそらく現場の教師には受け止めきれないだろう」と謂うご指摘で、この辺について暫く考えていたのですが、そう謂うところはあるんだろうな、と思います。
当然皆さん、白紙状態の児童に最初に教育を施すのは怖いことだと謂う緊張感はあるでしょうし、そこに局外者的な相対的視点を交える心理的余裕はないと謂うのは理解出来ます。或る種、そのような緊張感の中で拠り所となるのは、教育と謂う行為への強い信頼のようなものではないか、そう謂うふうに思います。たとえばそのような信頼について、filinionさんは「九年間の義務教育カリキュラムに対する信仰のようなもの」と表現されていますね。
一方、たとえば、この問題提起について最初に理解を示してくださったのが亀さんであることには、充分な理由があるでしょう。亀さんはプロのライター・編集者ですから、一次情報(原知識など)をかみ砕いて説明する行為に不可避的に混入する不正確さと謂う問題について日々意識せざるを得ないと思いますし、オレも嘗てライター・編集者をしておりましたから、そこからの発想でこの問題に着目したわけです。
また、オレの友人のがんさんも、学術研究とは無縁の成人(今更知的な伸びしろを期待出来ない階層)を相手に、確実な周知徹底を期待される安全性知識の講習を実施する研究者・技術指導者と謂う立場ですから、リテラシーを低く見積もらざるを得ない相手に対してどのように説明すべきか、わかりやすさと正確さの按分をどうすべきか、と謂う問題意識をお持ちなわけです。
この辺について、教育者もまた同じ事情があるはずなのですが、ライターや技術指導者の抱える問題意識が個々人の考察や工夫に一任されているのとは違って、体系立った学問的研究が根拠としてあり、専門家が長い時間を掛けて組織的に考察を深耕していると謂うプルーフはありますよね。ですから、局外者が児童教育それ自体の信頼性に不信感を覚える必要はないんだと思います。
昨今話題の(笑)信と合理的疑念と謂う観点で謂えば、教育と謂う行為自体の実効や教育者がそれに対して強い信頼を寄せていることについては、一般人もまた充分な信を置いて好いのだろうと考えています。そう謂う意味で、オレは教育問題については「オレ教育論」みたいな粗雑な居酒屋論議が横行しすぎていると感じますし、「教育者の専門性を尊重した上で考えようではないか」と謂うことも申し上げてはいるんですね。
教師の方と対話してみたいと謂うのも、そう謂う専門性に立脚したご意見が貴重な示唆になるだろうと考えたからなんですが、どうもこれが上手く行かないと謂う感触を得ました。これについて知人に意見を求めたところ、「局外者と当事者では問題に対する距離が違う、当事者にはメタ論的な相対的視点を容れる余裕がないのも仕方がないのではないか」と謂う意見を戴いて、それはまあそうなんだよなぁ、と。
これを田部さんのご意見と考え併せると、おそらく教育者の当事者性において重要なのは、たとえば「説明と謂う行為に不可避的に混入する不正確さ」に考察を巡らすことではなく、その考察をインフラとなる教育学に分担してもらって、現状の教育の体系がその種の不正確さを可能な限り排除し克服していると謂う事実を信頼すると謂う「信」の部分なんではないかな、と思います。
まあ、こう謂う言い方をしても抵抗それ自体はあるんだと思いますけれど、そこまで噛み付かれると対話不能と謂うことになってしまい、専門家集団と一般社会の対話可能性の問題になってしまうと思うんですね。で、現状ではこの対話可能性の次元で躓いている、と謂うのがオレの状況認識です。
で、それを謂うなら、自然科学(科学一般と謂っても好いですが)と謂うのも、現実の事象に対する「説明」ではあるんです。しかし、この場合は説明の規範を厳密に定めて、その規範に厳格に従った理解を要求されるわけで、一定のリテラシーや基礎訓練を大前提に置くわけですし、その「説明」の「たしからしさ」の程度と謂うのは、規範の厳密性や厳格な運用の部分に信頼性の根拠があるわけで、この辺は科学哲学の領分となるわけですね。
一方、この場合にオレや亀さんが「説明」と謂っているのは、そのような厳密な定義や厳格な運用や必要充分なリテラシーを要求出来ない相手に対して、一次情報をかみ砕いて説明する行為であって、そこで不可避的に情報は劣化します。そして、不可避的な問題性だとすればどうすべきなのかと謂えば、これは何らかの大発明で中核的課題の抜本的な解決を図ると謂う形にはならないわけで、対象と目的と実効の兼ね合いの観点で個々の説明の妥当性を点検していくしかないのですね。
本来、児童教育の体系的なプルーフと謂うのもそのようなもののはずでしょう。考え得る限りの想定において、相互に不都合を生じない効果的な説明の体系が考え抜かれているはずですよね。その辺は、学問的バックボーンを持たずに個々人が考えざるを得ないライターやにわか講師の世界とは比べものにならないほど学術的に洗練されているでしょう。オレもニセ科学批判にコミットする以上は、専門家集団の専門性や学問的誠実性に対しては充分な敬意と信頼を抱いているつもりですから、その信を疑えと謂う話をしているわけではない。
だから「児童教育の実践においては不可避的に不正確さが混入する」と謂ったところで、それが問題だと謂う意味ではないんですよ。それは、教育と謂う行為を説明と謂う行為に一般化し問題性を通分する為の手続としての言い換えに過ぎないわけです。
それは具体的にどう謂うことかと謂うのは、たとえばfilinion さんが自ら例示された「日本の首都は東京である」と謂うお話そのものなんですね。局外者的な視点で視れば、「日本の首都は東京である」と謂う説明は、まさしくfilinionさんが説明されたような理由によって「不正確」なんです。オレや亀さんが原稿を書く場面でその事柄に言及するとしたら、その説明の不正確さについて考え込んでしまうんですね。
法的に正式な定義が為されていないことや周辺法によって間接的に定義されていることを注釈しなくても好いかどうかを考え込んでしまうわけで、それを実効の観点で、対象、目的との兼ね合いを点検して漸く「まあしなくて大丈夫だろう」的な感触を得るわけですが、それでも確実な自信は持てません。
その点、児童教育においては継続的・組織的な研究とカリキュラム体系に基づくプルーフがありますから、「大丈夫だ」と謂う信頼が置けるわけですが、これは不正確な説明ではないと謂う意味ではないはずなんですね。
そして、これは教育と謂う行為を説明と謂う行為に一般化した観点における話なので、教育者の専門性とは関係のない事柄になり、専門家集団に信を置くと謂う問題ではなくなるわけです。
だから、「この説明でも大丈夫だ」と謂う言い方は在り得ても、「不正確な説明ではない」と主張されると、それは局外者には通じないでしょうし、そこが受け容れられないと謂う個別の立場や心性は理解出来ても、それが対話可能性の範疇で議論の障害となるわけです。
率直に言って、たとえばfilinionさんが、オレに対する反論として「日本の首都は東京である」と謂う例を引きながら、それが児童教育における説明の不正確さについての例示になっていることにお気附きでないと謂うのは、局外者にとって非常に「異様」に感じると思うんです。
こちらの反論で申し上げた通り、その事実については、首都と謂うものは所詮人が決めた決め事の範疇の事柄なので、「嘘にならない説明」と謂うのは幾らでもあるんです。あるんですが、それは特定の学齢の児童に対する説明として適切ではない、と謂う話だと普通は考えると思うんですね。
ライターが大人に向けて書く場合でも、対象、目的、実効の観点で点検して適切な説明と成り得ているか否かで、注釈を入れるか入れないかを決定しているわけで、この観点では教育とマスコミュニケーションは同次元なんですね。で、その話が通じないのは、おそらくそれが信念に関する問題だからだろう、そう謂うふうに考えるわけです。
専門家集団の特化したリテラシーと厳密な定義の運用、そのような条件においてのみ学問的な「説明」の正確さは保持されるわけですが、そのままでは決して非専門家には意味内容が伝わらないので、対象のリテラシーに合わせて情報を成形するしかありません。そのプロセスによって、非専門家に対する説明と謂うのは必ず一定の不正確さを内包します。
そのような知識伝達の原理的問題性は、説明者と説明対象の間に極端なリテラシー格差のある児童教育において最も先鋭化するはずで、だからこそ教育カリキュラムと謂う説明の体系は、慎重且つ徹底した継続的な学術研究によってプルーフを受けているのだと思います。
そして、おそらくそのプルーフと謂うのは正確性に纏わるものではなく、説明の適切さや実効性に纏わるものだろう、ここまでが現状の考察ですが、これがもしかしたら現場の教育者の信念に抵触する議論なのだとしたら、その対話不能性をどう解消するのか、それとも迂回するのか、そこが課題だと考えています。
おっしゃる通り、SF作家シオドア・スタージョンの有名な言葉「あらゆるものの90%はクズである」は、教員にもあてはまるわけで、いろんな教員はいると思います。
ただ、ここで問題とされているのは、個々の教員の資質の問題ではなくて、構造的・システム的な欠陥なり瑕疵なりがあるのではないか――という話ですよね。いろんな教員はいるけれど、結果としてある程度マシな教育が行われるようなシステムでなければならないわけで、フェイル・セーフ的、フール・プルーフ的な発想から見た教育現場の問題点を考えている――という理解で、私は発言してきたつもりです。
で、私はきわめて個人的な印象として、「結論だけ合致している話も方便として使うことに問題を感じにくくなる」という人間一般に当てはまるであろう「人間の基本仕様」に対して、教育の現場ではそれが極力表面化・問題化するのを防ぐかなり強力な(少なくともマスコミなどとは比べものにならない)フール・プルーフ機構がある程度組み込まれていると感じる――という事を言いたいわけなんですね。
たとえば、そのフール・プルーフ機構の一つに、かなり苛烈な相互批判を経て厳選される強制力の強いカリキュラム・教科書があるわけです。その中で「結論を納得させるために不完全な方便を使わざるを得ないような事柄は、その発達段階のカリキュラムには入れない」というのは、かなり基本的な考え方だと思うんですよ。で、少なくとも教科書通りに教えていれば、教員が知らず知らずとんでもない方便を使ってしまう(使う誘惑にかられる)心配はないわけです(そんな方便など使わなくても理解させられるはずの内容なので)。
で、この点から言えば、繰り返しになりますけど、「水からの伝言」問題に関して、我が国では道徳教育においてそういったフール・プルーフ機構はどうなっているのか、フール・プルーフ機構を作り維持し洗練する仕事をすべき人間は誰なのか――という事が、私はずっと気になっています。
私はこれらの観点から、個々の教員の資質だけに任せる・責任を負わせるだけでは、また同じような問題が生じるのではないかと危惧しています。
「単純・複雑」の問題については、黒猫亭さんの主張は概ね理解できたと思います。
個人的見解では、これはもう個々の分野・事柄によりそれぞれ――としか言えないのかなぁ……という感じですね。そういう分野・事柄もあるだろうし、そうでない分野・事柄もあるだろう……と。
私は物理学科を出ているので、たとえば、エネルギーについての科学史とかをイメージしていました。
物理用語としてのエネルギーが登場したのは19世紀初めだと理解しているのですけど、現在の意味で定着したのは19世紀半ば以降で、さらに各科学者たちがそれぞれ異なった動機・関心から論じてきたわけです(うろ覚え知識なんで要注意)。で、この点に関して、京都大学大学院文学研究科で開かれている院生・学部生の読書会「科学史入門読書会」の記録と関連情報『科学史入門読書会』のエントリ記事(↓)
http://kagakushi.exblog.jp/5480529/
に面白い事が書かれていたので、ちょっと引用。
-----【以下引用】------------
発見者たちは互いに、発見されつつある対象が何であり、
それを自然哲学にどう組み込むかについて同意していなかった。
-----【引用終了】------------
エネルギーに対する理解が深まっていく過程を科学史通りに子どもたちに教えようとするのは、控えめに言っても非効率極まりない話で、現代の教育カリキュラムを策定する人たちは、すでに確立された現代のエネルギーに関する知見を眺めて検討し、子どもたちがエネルギーに対する理解を深めていくのに最も効率的な道筋を改めて再構築しているわけですね。
そんなわけで、現場の理科教員たちは、科学史の現実や学問の発達の歴史よりも、カリキュラム策定者の作る指導案のほうに興味がある――というのが、上のコメントで私が言いたい事でした。
本題のほうの話について。
ちょっと難しく考えすぎですよ。私のコメントを深読みしすぎだと感じます。
以下、私の主張を箇条書きにしてみますね。
【1】「一次情報をかみ砕いて説明する行為」や「結論だけ合致している話も方便として使うこと」は、確かに教員にとっては耳に痛い話だと思う。この問題提起は教員に受け入れられ建設的な議論に発展する可能性は高いだろうと思う――というか、filinionさんもその点に言及されている事からも推察されるように、むしろ多くの教員にとってかなり関心の高い問題だと思う(それが「水からの伝言」問題に繋がるかどうかは別として)。
【2】しかし、その例として亀@渋研Xさんがおっしゃる「天動説」「地動説」の話を持ち出すのは、あまりにも筋が悪すぎる。その理由は少なくとも3つあって、
【2-1】そもそも教員は、子どもたちに日周運動を観察・記述させる行為を「一次情報をかみ砕いて説明する行為」とは理解していない。むしろ「一次情報を正しく得る事」を身につけさせるのが目的であり、「地動説」を教えるために、「アップデート」を前提として、天動説的な段階の知識を教えている、とは考えていない。
【2-2】「初めて天体の運動について学ぶ段階で地動説的太陽系像について触れない」事については、「円周率を3とする」などとともに大きくマスコミに報じられた事もあり、すでにかなり議論が尽くさせれていて、教育の現場ではおおむね問題はないというコンセンサスが得られている。さらに不幸な事として、(主にマスコミの無責任な報道のため)「天動説を教えているわけではない」「天動説を教えるのが目的ではない」という弁明を繰り返さざるを得ない状況があったため、教育関係者はこの手の批判・言及に対してかなり辟易としてしまっている。
【2-3】少なくとも現代日本において、天体の日周運動を観察・記述させる事で、子どもたちが明確な形で(「アップデート」が必要な形で)「天動説」の世界観を持ち得るという事態・危惧が、現場の教員には想像・理解できない。それを言うなら力学の授業はほぼすべて「天動説」的宇宙観を持たせるという事であり、(すでにfilinionさんが示唆されているように)もはや問題のレイヤーが著しく異なる話になってしまうだろう。
【3】つまり、提出された具体例が他のものであれば、「説明と謂う行為に不可避的に混入する不正確さ」についても、「その考察をインフラとなる教育学に分担してもらって、現状の教育の体系がその種の不正確さを可能な限り排除し克服していると謂う事実」についても、その他の論点についても、教員との有意義な議論は十分できただろうと思う。
――以上です。
現状は、教員としてはまず何よりも、提出された具体例(ここでは亀@渋研Xさんのおっしゃる「天動説」「地動説」問題)に対して「そういう指導をしている事に問題はない(もちろん教員がいう事ですから、ここでいう“問題はない”は“子どもたちの不利益にはならない”という意味です)」と擁護しなければならない・そこにまずこだわらなければならない状況になってしまっている――と、私には感じるという事です。
まぁ、いろんな教員はいるでしょうが、私はそう感じました……という事で。
だから、最初からここのエントリ記事で亀@渋研Xさんが書かれたように、
-----【以下引用】------------
実感に関しては、ぼくのケースで言えば「かいつまんだり、たとえ話に置き換えたりすると不正確になっちまうことが多くてなあ」などという悩ましい気持ちは常にあって、もどかしい思いもしてきた。十分に正確な説明ができていないという自覚はありながら、正確さを欠くということが、毎度気にはなっている。だから、「慣れちゃうかなあ? そうかなあ?」と疑う気持ちはあります。
-----【引用終了】------------
という話から、「教育現場では、そのへん、どうですか?」という話に振っていけば、有意義な議論になったのかなぁ……という印象はあります。別に、黒猫亭さんの本来の問題提起は、「教育者と謂う職業人の非常に重要な信念に関わる事柄」ってわけでも、教員のレーゾンデートルを否定しかねない問題ってわけでもないと思いますし。
地動説うんぬんについては、そうか、そうですね、筋が悪い。確かに「有名なうんざりネタ」であろうとも思いますし、そうすると話がよじれかねないということもわかりました。
おとな一般にあるに違いない危うい傾向が教育現場でひょいひょい出てこないように、「教科」「教育課程」は工夫されているというのもおっしゃる通りなんだろうと思います。
この件を考えていてずっと気になっているのは、filinionさんご指摘の「確かにシステムへの強い信頼がある」ということと「結局、個々人の問題なのではないか」という2点です。「教員一般」とか「教育のもつ原理的な限界」とかじゃなくて、無条件な信頼感が、ある弱い部分(というと変かも知れませんが)に作用しちゃうと、危ういことになりやすい……なんていうこともあるのだろうか、などというぼんやりとした思いですが。
それが、さらにここで田部さんに「道徳教育はどうなってるんだろう」というお話をうかがって、「そういえば道徳は教科じゃないんだなあ」「実は『精緻なカリキュラムを持たない道徳教育だから起きた』という部分は、これまで考えてきたよりも大きいのかもしれない」などと改めて思いを巡らしたりもしています。
>という話から、「教育現場では、そのへん、どうですか?」という話に振っていけば、有意義な議論になったのかなぁ……という印象はあります。
そうかもしれないですね。なんか「オレも同じ同じ」という人しか現れなくて、「あー、そんなふうに考えたことはなかった」とか「別にそれでいいじゃないか」という人が出てこないような気もしますが(^^;;
んー。地元の小学校で聞いてみようかなあ……。
え〜っと……私は暗に批判されているのでしょうか(苦笑)。
>亀@渋研Xさん「それが、さらにここで田部さんに「道徳教育はどうなってるんだろう」というお話をうかがって、「そういえば道徳は教科じゃないんだなあ」「実は『精緻なカリキュラムを持たない道徳教育だから起きた』という部分は、これまで考えてきたよりも大きいのかもしれない」などと改めて思いを巡らしたりもしています」
個人的には、このテーマでカリキュラムの有無について語るのならば、むしろ「専門家を持たない道徳教育だから起きた」という点に思いを巡らせたほうが見通しが良いように感じています。
現場の教員は、たとえば理科の教員ならば「理科教育の専門家」としての自負はかなり強いと思いますし、他の教科でも同じでしょう(もちろんいろんな教員はいるわけで、私のコメントはあくまで「一般的な傾向として」という断り書きを常に補って読んで下さい)。
その自負は当然カリキュラム策定者・教科書執筆者にも向けられていて、現場の教員とカリキュラム策定者・教科書執筆者は互いに監視・批判しあう緊張関係にあります。現場でカリキュラムに対する不満が話題になる事は決して少なくはないですし、「教科書通りに教える教員は未熟者」とか豪語する教員もいたりしますよね。私個人の話だと、私や私のまわりの教員は授業中に教科書を使う事はほとんどありませんでしたし、「物体の運動で、鉛直投げ上げと投げ下げに別々の公式を当てはめさせるなんて、バカじゃないの」とか公言してました。
さらに言えば、教科書採択の話はマスコミでもたびたび報道されていますし、イオンや遺伝の法則などが指導要領から削除された事に対して現場から強い非難の声があがった(で、これらは脱ゆとり教育で復活する)という話もわりと報道されましたよね。あまり知られていないだろう事で、私が象徴的だと思うエピソードを一つあげるとすると……。
2003年(平成15年)の学習指導要領改訂に伴って、物理Tではそれまで「運動とエネルギー→波→電気」の順序で教えていたのが「電気→波→運動とエネルギー」になったんですね(正確には「そういう順序で教えても良い」となった)。で、これに現場の理科教員が猛反発。各地の理科教員の研究会・サークルなどでは「指導要領の内容をどう配列してどう教えるのが最も良いか」という議論・検討が巻き起こり、多くの理科教員が教科書の配列を無視して授業をするという状況になりました。その後の展開は、中高一貫校に転勤したので詳しくは追っていないのですけど(その中高一貫校ではほぼ独自カリキュラムで教えていたので)、現在では物理Tの教科書の多くは「電気(序章)→運動とエネルギー→波」となっているようです。
――でも、こういうシステム・構造が成り立つのは、現場の教員が(本人たちが意識的であれ無意識的であれ)「教育の専門家」というだけでなく「教科の専門家(もちろん研究者には劣りますけど、少なくとも“1教えるには10知っていなければならない”という条件をクリアするほどには“専門家”)」でもあるからなんですよね。……というか、日本の教員資格そのものが、「教育の専門家」としての能力を認めるというよりも「教科の専門家」としての能力を認めるものという性格が強くて、「教育の専門家」としての能力はon-the-job trainingによって鍛える(鍛えるほかない)というシステムになっているわけで。
「1教えるには10知っていなければならない」という点はとても重要で(と私は考えていて)、それは「結論だけ合致している話も方便として使うことに問題を感じにくくなる=慣れてしまう」事に対しては無力かも知れませんけど、少なくとも、不適切な方便が蔓延するのを防ぐシステムとしてはかなり強力に働いているとは思えます。
そんな中で、たとえば「“総合的な学習の時間”を実施しろ。内容は任せる」とか完全丸投げされた現場の悲喜劇はご想像いただきたいわけで……。
なんというか、ある開発に成功した技術者に対して、調子に乗ってその人の専門性を無視した開発指令を出して、失敗すると「それでも技術者かっ」とか罵倒する経営者みたいな構図を思い浮かべてしまうんですよね……って、なんだかありふれた話になってしまいましたが。
このへん、亀@渋研Xさんのブログのエントリ記事「学校教育になにを期待するか」(↓)
http://shibuken.seesaa.net/article/87906746.html
の問題に繋がってるのかも。
確かにそうかも知れない……(苦笑)。
でも、意見の交換は出来なくても、こちらの声が現場の教員に届きやすいという事は間違いなく言えそうです。わざわざコメントはしなくても、内心「あー、そんなふうに考えたことはなかった(ちょっと自省してみる必要があるかも……)」と思う教員はいるかも知れません。「別にそれでいいじゃないか」という教員本人は出てこないかも知れませんが、「ウチの職場にそういう教員いますよ」とかいう声はもしかしたら上がるかも知れません。少なくとも、わけのわからないトコで意思疎通が妨げられて、不要な敵対感情を生じさせられている状態よりは、はるかにマシです。
――っていうか、むしろ現役の教員でこんな長文を読んでブログに書き込みするような人がいたら、正直すげーって思います(苦笑)。自分が現役の頃には、そんな時間を捻出する事なんて考えもしなかったですし。
そもそも「不正確な説明」を教員がしている――という前提に納得できていないので……。もちろん、学校で実際に行われている各々の「説明」を「不正確な説明」と見なして議論する事は当然可能です(「悪しき相対主義」ときわめて親和性の強い見方だとは思いますけど)。でも、そういう前提だとすれば、体重を尋ねられたときに世の中のすべての人がせいぜい0.1キログラムの単位までしか答えないのに慣れているのと同じ程度に、または速さを尋ねられたときに世の中のすべての人が絶対静止系の設定を無視して答えるのに慣れているのと同じ程度に、教員も「不正確な説明をすることに慣れている」という至極当然で当たり前過ぎる回答しかできませんし、それが「教員の職業的特殊性と“水からの伝言”受容の問題」にどう関わるというのか、ちょっと理解できていませんので(ここまではすでにfilinionさんがご指摘されている通りです。繰り返しになっちゃってごめんなさい)。
ただ、なんらかの示唆になるかも知れないので、同じように「一次情報をかみ砕いて説明する行為」を生業とするマスコミ人と比べた教員の特殊性の例を、思いつくままいくつか提示してみます。
【a】教員は、「一次情報をかみ砕いて説明する行為」の結果を常に目の当たりにさせられる立場にある。授業中の生徒の反応・顔色が気にならない教員はいないだろうし、テストの結果を見て「あの説明(授業)は良かったかな」とか「あの説明(授業)はまずかったかなぁ」とか考えない教員もいないだろう。
一方マスコミ人は、読者や視聴者に自分の説明がどう伝わったのかを直接的に知る機会は圧倒的に少ないし、自分の説明を見聞きした人に理解度のテストをする事はまったくない。
【b】教員は、自分の説明が伝えた相手にどう伝わったのかを内外から厳しく問われ、自分の説明に対する自省を強く求められる立場にある。「説明(授業)の上手い教員・下手な教員」といった直接的な評価が、子どもからも保護者からも同僚からも常につきまとう。
一方マスコミ人は、どちらかと言えば「どう伝えたか」よりも「何を伝えたか」で評価される傾向が強い。
【c】教員が「かみ砕いて説明する」内容、つまり教員が扱う「一次情報」は基本的に毎年同じである。つまり、同じ「一次情報」をどう「かみ砕いて説明する」かについて長い間実践を通して検討し続けていかなければならない立場にある。
一方、マスコミ人にとって一度伝えた「一次情報」は基本的に「古いネタ」であり、マスコミ人は常に新しい「一次情報」を求め続けなければならない立場にある。
【d】cに関わるが、教員が扱う「一次情報」の「かみ砕き方」の多くはすでに十分な検討・実践を経たものであり、様々な「かみ砕き方」が洗練される一方、まずい「かみ砕き方」についての蓄積もそれなりにある場合が多い。
一方、マスコミ人にとって自分が扱う「一次情報」の「かみ砕き方」は基本的に自分の頭の中だけで考えなければならず、その「かみ砕き方」が読者・視聴者にどういう影響を及ぼしうるか直接参照できる前例はない事が普通である(――というか他者と同じ「かみ砕き方」をしたら「盗作」になってしまう)。
――とりあえず、こんなところかな。偏見も多分にあると思いますけど、そのへんは厳しく指摘して下さい。
「単純・複雑」の問題についてはおおむね意味が通じたようですので、手短に済みそうですね。田部さんとオレの間の認識の食い違いとして残っているのは、
>>エネルギーに対する理解が深まっていく過程を科学史通りに子どもたちに教えようとするのは
ここと、
>>そんなわけで、現場の理科教員たちは、科学史の現実や学問の発達の歴史よりも、カリキュラム策定者の作る指導案のほうに興味がある
この辺りのニュアンスですかね。まず、「単純・複雑」の話は一般的な法則性のようなものについての言及ではありません。結果論的な傾向の話ですから、当然例外もあるでしょう。そこを確認すれば本質的な対立点はないと思います。
次に、この話は「科学史の流れに沿うことを目的視してカリキュラムが策定されている」と謂う意味ではなく、「説明の便宜を目的に据えてカリキュラムを策定した場合、それはおおむね科学史の流れに沿うような形になるだろう」と謂う程度のニュアンスの話で、これまでの説明は、何故そう謂う傾向になるのかと謂う話だったのだとご理解ください。
また、念の為に言及しておくと、田部さんが挙げられたリンク先で陳べられているのは、まさに学問の状況の話であって、仮説史の変遷を巡る話題ですよね。これは学問で得られた知見の話ではないと思いますので、おそらく反論と謂う意味で挙げられたのではないと理解します。
あとは、本題のほうのご意見ですが、これについても現時点で思うところがないわけではないのですが、たとえこちらの考察に反する結論が陳べられているとは謂え、現時点では反論すべきご意見ではないと判断致します。と謂うか、オレが最初に「専門家のご意見を拝聴したい」と申し上げたのはまさにそう謂う具体的な情報が欲しかったからであって、田部さんのコメントには豊富な情報が盛り込まれていると感じました。
ここはまさに、以前田部さんの論考に期待したところで、田部さんの立ち位置としては、教育者の実情について当事者的な情報をお持ちでいながら、直接の当事者性に立っているわけでもなく、ニセ科学批判の議論をも踏まえたご意見を期待出来ると謂うインタープリター的なものになると思います。
欲を謂えば、教育者集団内部で諸処の事柄について、どんな議論が交わされてどんな理路に基づいてどんな結論がコンセンサスとして確立されたのか、そこまでの情報があれば申し分なく有り難いとは思いますが、過剰な負担を要求してもアレですので、まあそこは追々に。
そう謂う専門家集団内部の情報が、世間一般の人々にとってアクセシビリティの高い形では流通していないのが一つのネックかな、と思います。ここは専門家集団と外部社会の間の説明責任や良好な連携に関わってくる問題でもあるのではないかと思います。困難であることは理解出来るんですが、その一方で喫緊の必要性があることも事実だと思いますので、これは新たなテーマだろう、と。
現時点での直観としては、実情を踏まえた形に考察を修整すれば、田部さんのご考察との摺り合わせは可能かな、と漠然と考えています。最初のほうで「当初の持論には拘らずに、戴いたご意見を元に考察を叩いていく」と申し上げたのはこう謂う形を想定していて、まあ、発端から算えるとえらく長い時間がかかりましたが(笑)、ようやく一段進んで面白くなってきた感じですかね。
前提を確認しておくとですね、こちらは外部社会に属する局外者の立場で専門家集団内部の事柄を考察しているのですから、そもそも手持ちの材料から論理的に類推して「こうではないか」と謂う推論を陳べているわけです。ですから、率直に申し上げて、専門家の方がその推論の論理的な整合性の部分で争ってこられてもこちらにはまったく益がないわけで、逆に謂うと、その論理性のレベルでは折角の専門家としての特権的なアドバンテージが効かないんですよ。専門性とは無関係な一般則の部分なので。
ただ、別のエントリで話題になっていますけれど、推論が整合的に成立するだけではまったく意味がないわけで、事実と合致していなければ「それは面白い空想でしたね、でも違いますよ」と謂うだけの話です。
ですから、推論の整合性の部分で「そこはおかしいだろう」と謂う議論と謂うのは、基本的に「決定的情報を持たない局外者同士の間で推論を揉む過程」において必要な手続であって、謂わば仮説の整合性を検証する段階の話ですね。ですから、決定的情報をお持ちの専門家がその段階の議論に附き合う必要はなく、専門家は事実性の次元で議論されたほうが効率的であり双方に有益だ、と謂うことは確認しておいたほうが無駄がないのかもしれません。
整合しているはずの推論が何故事実性を剔抉していないのか、と謂うのはおそらく事実性と照らし合わせてこちら側が考えるべき事柄であって、そこを指摘しないと反論出来ないと謂うことではないんだと思います。
これはごく初期の頃から感じていたことなんですが、どう謂う形で表現したものか考えあぐねておりまして、多分、これだけを申し上げても角が立つだけで真意が伝わらないんではないかと懸念しておりました。期待通りの形で進展した今回のやり取りが具体例となるでしょうから、好いきっかけになったと思います。