市川ジュンの、明治維新のころの洋食事情を扱った作品だの、戦時下や終戦直後の女性像だの参政権だの、そういう話。
驚いた。
しらふで、冷めた目で読んでいるときには気になってしかたがなかった「この時代の人が、こんな言葉遣いをするか?」とか、「なんでどの短編も主人公は同じようなキャラクターなんだ」とか、そういうことが気にならなくなって、たぶん作家が言いたかったんだろうことが、素直に届くように思えた。まさに、ノイズがクリアになるような感覚を覚えた。
そしたら、ぐぐぐっと、胸を刺されてしまったのだな、これが。いや、ごもっとも、と思ったのだよ。何時間か何日か前には、ぼんやりと「なんだかな」と思ったものに。
あんまりびっくりして、台所で立ち飲み立ち読みしながら、カアチャンに「市川ジュンの読み方がわかった!」なんていって、話題にしちゃったよ。ああ、ええと、市川ジュンには失礼かもしれないが仕方がない。
そうしたあとで、ぼんやりと思った。
書き手の拙劣さは、興を削ぐ。その結果、言いたかったであろうことも、ある種の読者には届かないという事態を招く。しかし、読み手はおのれの興趣を削がれたことで書き手の意図するところに目が届かなくなるという愚を犯す。
ぼくらは評論家として人の書いたものを読むのだろうか。巧拙を見極めるために審査しているのだろうか。
いやまあ、気になってしまうものはしかたがない。読む意欲が削がれるのも仕方がない。狙ったんだかなんだかわからないが、維新期にこんな言葉遣いをするヤツがいてたまるか、と思うと(ぼくの知識が正しいかどうかに関わらず)「そんなことも知らないヤツが書いている」と思うわけで。
なんだろうね、10代の感受性の豊かさというのは、ある部分においては無知が支えているのかもしれませんね。
いやまあ、一仕事終えた酔っぱらいの、ぐだぐだ話ですから、その程度に。
> なんだろうね、10代の感受性の豊かさというのは、ある部分においては無知が支えているのかもしれませんね。
あたたたたた。(^^;;;;
なんか突き刺さるものがありますね。思い出すと、切ないというか恥ずかしいというか。
あー、「恥ずかしい過去」に慣れ過ぎている「おじさん」は、痛くもかゆくも……ないこともないんですけど(^^;; 鉄面皮になってゆくのでしょうか(汗々
自分が無知であるということを知るというのは、なにか(感受性とか)と引き換えなのかもしれませんね。もちろん、それで新たに獲得することはいっぱいあるわけですが。
市川ジュンは好きだったね。いつからか、まったく読まなくなったけど。