実のところ「前編」の記事は、ほのぼのとした話をしたくて書いたわけじゃない(これも誰でもわかるか(^^;;)。
ぼくにとって最も興味深い点についてお話ししたかったからだ。
ぼくが最も興味深いと考えているのは、この「無我夢中プロジェクト」とでもいうような意味のイギリスの記事を紹介するに際して、GIGAZINEがタイトルにわざわざ選んだ単語「無表情」、そして両者が使用している写真だ。写真は英日でかなり似通ったものもあるが同じではない。それぞれがキャプチャしたものだろう。「無表情」とは言い難いカットもあるが、それでも前編で示したような感情がわかりやすいカットは、1点もない。
一連の流れの中から「ある断片を切り出す」ってのが、どういうことなのか。そこに(意味ありげな)タイトルをつけるってのが、どういうことなのか。そんなことを考えてしまったからだ。「ウソではない」ということと「事実」や「本当」の間には、どれぐらいの開きがあるのか……と言ってもいいかもしれない。
ぼくの先の記事での写真の選び方は、GIGAZINEやTelegraphよりはよほどニュートラルだと思うけれども、それでも全然公平ではない。アンフェアな点は、どっちかという気持ちが悪いと言いたいぐらいに焦点の定まらない表情をしている子どもや、表情が変わらない子どももいて、その写真は掲載していないところだ。
もしもその辺の写真が見たかったらGIGAZINEやTelegraphの記事を見るといい。
The Immersion project(Telegraph 22/11/2008)
ゲーム中の子どもの無表情をとらえたアート(GIGAZINE 2008年12月03日)
……っていうのも不親切か。
こんな感じだ。

目が据わってんじゃねーの? 口あいちゃってない? だったりします(^^;;
食事を忘れてテレビに見入ってるときとかって、こういう感じだったりするよね(食事中はテレビを消そう!)。あと、おとなでもこんなんなってるときって、きっとあるよね。
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わかっている人には当たり前の話なんだけれども、「なにを見せないか」によっても、提示された「事実」から受ける印象は、かなり変わる。それを確かめる、いい素材なんじゃないか、とか、そういうことを考えたわけ。
前編で紹介した動画やGIGAZINEの記事を見た人は、とっくにいろんなことに気づいていたんじゃないだろうか。もしも動画もリンク先も見てなくて全然気づいていなかったのであれば、まあ、これからは「そういうこともある」ということを念頭に置いてメディアに接するのが吉だと思う。紙でもWebでも。GIGAZINEだって元記事へのリンクはある。ライアル・ワトスン的なアリバイ工作かもしれないけど。
リンクをクリックする人は1割ぐらいとかって話もあるけれど、紙メディアと違ってWebでは出典に当たるのは楽だよね。せっかく出典がリンクされてるときぐらい、確認したいよね。
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で、ぼくが前編で「変化を示す組写真」だとか動画だとかを掲載したのは、実はほとんど反射でしかない。もっとセンスのある人なら、たとえば1人の子を5秒おきにキャプチャして、それを組写真で見せるとか、なんか「より実態に即した写真の見せ方」を思いついているかもしれない。
表情のはっきりした写真を選んでいるのも、実はかなり反射的だ。というのは、紙メディアでも記事に掲載したいような写真っていうのは、ふつうこういう「わかりやすい表情を見せているカット」であって、それを選ぶのはもうほとんど編集屋の本能なわけ。たいがいの写真って、これだ! って表情のある写真じゃないんですよ(この辺は実は腕にもよる。子ども写真の専門家は、どうやれば表情豊かな写真を取れるかを心得ていて、捨てカットがない。その職能には敬意を払いつつ、それはそれで実は不自然だということでもある)。
GIGAZINEでは「アート」というのだが、スチールがアートなのか、動画がアートなのか、そこは記事に書かれていない。文脈からすると、動画が「作品」なんじゃないかなと思うのだけど、ぼくも原文でそこまで探っていない。プロジェクト名から察するに、「無我夢中になっているときに、子どもってどんな表情をするものなのか、その変化を追ってみた」ということなんだろうと思ってるんだけど、どうなのかしら。
まあ、いずれにしても、Telegraphはもちろん、GIGAZINEも動画から新たにキャプチャを撮り直しているようだ。ということは、ぼくが上に挙げたような「表情の変化」を見逃しているとは考えにくい。
もっとも、動画を見るとまじめっぽいけど面白みのない表情(すっごく真剣味が出ているとまではいかない)や、表情が動かない時間がかなり多くて、「これはふつうのときの子どもの写真」とはだいぶ違うな、と思う。だから、そういうカットに目が行くのもわからなくもない。
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ぼくは中高2人の子持ちだけど、うちにはゲーム機はない。でも、卒業しちゃった小学校にも関わり続けているモノズキなので、この動画の子どもたちを見て思い出すものがある。学校だ。
学校といっても、遊んでいるときじゃない。授業中。
たとえばボールゲームで遊んでいるときの子どもたちの表情は、状況に合わせてクルクルとよく変わることが多い。あれはもっと表情がしょっちゅう変わるんで、ここで見られるものとはだいぶ印象が異なる。でも、教室で授業に集中できている子どもって、こんな感じに「真剣←→破顔」を繰り返すことがけっこうあるのだ(ときどき、授業の様子を撮影するお役目があるのですよ)。
ただ、放心したような表情は、授業でも出てこないと思う。たぶん、動いているものに神経を集中してよく見よう、見極めようとするときとか、一度に複数のこと(見る、判断する、動かすとか)をしようとしているときとか、そういうかなり限られたときに出てくるんじゃないのかなあ、よくはわからないけど。
なんていうことを考えると、TelegraphやGIGAZINEの写真の選び方は、「あまり子どもを観察したことがない人が選んだ」という可能性も、出てくる。可能性はそれだけじゃないけどね。
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それだけじゃない、っていうのは、別に意図的な印象誘導をしたかったのだろうとかってことじゃなくて(いや、それはそれで疑えるんだけど)、たとえばこういうことだ。
この一連の動画に収められた子どもたちの表情の動き(「ほとんど動かない」というのも「動き」の一種)や、視線が定まらないように見える理由とか、大人の場合の写真とかなり印象が違う理由とか、そういうことについては心理学者だとか医者だとかといった方々が、説明をつけてくれるかもしれない。それがわかりやすい説明かどうかはともかく。
どの瞬間を切り出すことが、そこで起きている一連の事態を最もよく現しているか、つまり象徴的なカットのかは、「直感で決めていい場合」もあれば、そういう「専門家の意見を聞いてみないとわからない場合」もある。
もしもこの写真をもとに「ゲームに熱中しているときの子どもの表情って、おもしろよねえ、こわいぐらいのときもあるよねえ」なんていう話をしたいんだったら、その写真を恣意的に選んだっていいのかもしれない。それは感想みたいなものでしかない。写真を選ぶのに、たいした理由はいらないだろう。
だけど、もしも「ゲームをやるときの子どもって言うのは、こういうものなんだ」なんていう話をしたいんだったら、なぜその写真を選んだのかに合理的な理由が必要だ。それは主張になっているのだから。
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しかも、事態をちゃんと説明するためには、「長い時間、継続的にその表情だ」ということと、「短期的に現れる表情」のどちらが重要かなんてことは、「決まってる」なんてことはない。ないのだけれど、慣れっこになっていると、やっちまうのだ。
たとえば、これはぼくが今てきとーにこしらえる話だけど、「一般になにかに熱中したとき、人間は、(A)「長時間の、まじめで感情の読みにくい表情=集中と緊張」と「短時間の、喜怒哀楽の明瞭な表情=集中の解放または破綻」をいったり来たりするか、(B)「継続的な、一見すると放心したように見える表情=弛緩=緊張からの解放」をすることが多い。(B)は極度の集中を現すと考えられる。こうした表情は顔だけでなく全身(首や肩などの筋肉や姿勢)からも窺える。しかし、ここでは××分に1回ほど、明らかにどちらでもない表情(C)が見られ、それが一部の子どもにのみ共通している」なんていう話になったら、全体ではほんのわずかしか出てこない表情(C)が大事だってことになる。
(C)が印象に残るような表情なら、たまたま直感で選んだカットと合致することもあるかもしれないけど、目立たない表情の差なら、そうはならないこともあるだろう。
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そんなことが原理的にはあるんだってわかってても、ついやっちまうのだ。自分が知っていることがらで説明がつくと思ってしまったり(これは、新聞記事でもブログ等でも、本当にしょっちゅう見かける。この記事だってそうはならないようにいろりろ考えているけれど、取材までしているわけではないから「ぼくの理解」の範囲を超えていない)。あと、こういうケースでは考えなしに元記事の傾向に合わせてしまった、なんていうことも疑えるだろう。
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さっき「てきとーにこしらえる」と書いたけど、ヒントになったのはTelegraphやGIGAZINEの記事だ(いやまあ、Telegraphの方はごくざっとしか読めていないのだけどね。翻訳サービスを使っても、よくわからないところが多くて)。GIGAZINEの表現を借りると「Call Of Dutyのプレーヤーは、唇を歯にかぶせる傾向がみられるそうです」なんていう話が出てたので、そこから思いついた。
TelegraphにしろGIGAZINEにしろ、なんかそういう「ちゃんとした理由」があって写真を選んでいる可能性がないわけじゃない。ただ、GIGAZINEの記事からは、それを知ることはできない。理由になりそうなことは、なにひとつ書かれていないからだ(Telegraphの記事には理由がちゃんと書いてあるのかもしれない。ざっと見た感じではわかんなかったけど。でも、もしもそうなら、なぜGIGAZINEはそれを書かなかったのか、そこはやっぱりわからない)。
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ところで、こういう「写真を選ぶ」っていう操作が、『水からの伝言』をはじめとする、江本勝の一連の「水の結晶の写真集」で行われている。確か、1種類の水について50枚ほどのシャーレで作った結晶をそれぞれ何枚か撮影し、そのなかから、江本氏が典型的だと思ったものを選びだす、という操作だ。
そういうわけで、これで動画を示さなかったら、標題は正しくは「ゲームプレイ中の表情 by 水伝方式」とでも付けたほうが正しかっただろう。
おや、そういえばGIGAZINEは、いつもにも似ず動画への直リンクはしていないのね(うわー、わざとらしい言い方だ)。
GIGAZINEは、ゲーマーたたきをしたかったのだろうか。たとえば、記事の最後に「表情豊かな大人の画像を掲載しましたが、子供の場合は真逆になっています」なんてわざわざ書いたり、ぼくのお気に入りのロビン・ウィリアムズ似の少年だって、真剣にゲームしている表情の写真を選び、「二人でいるのに無表情」なんてキャプションにするぐらいだもんね(そのキャプションでなにを連想させたかったのかは、とてもよくわかる気がするけれど)。
でも、いつもの記事の傾向から考えると「ゲーマーたたき」が目的とも思われない。
もっとも、研究ではなくアート(しかも、作家自身によればbad scienceな)であり、動画が作品なのだとすると、動画にリンクもせず、いろんなことを曖昧にほのめかすだけで、最後に
ゲームや映像の内容によって違った傾向が見られるそうですが、撮影者のブログによると「最も無表情な子が、最も極端なゲーマーというわけではなかった」として、結果についてはいまだなんとも言えないそうです。なんて書いちゃうのは、本当にいったいぜんたい、どういう心理なんだろうと、かなりいぶかしく思ってしまう。
あれこれ考え合わせると、わざと若干不適切な、ありがちなバイアスを演出してみせて反響を得ようとする、まさに「釣り」だったと見るのが正しいのかな。
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もしもそうだとすると、GIGAZINEもまたネタ提供メディアでしかないというか、商業メディア一般と同様の信頼性しかない、ネットのみんなの好き?な言葉で言えば「マスゴミ」的なものだってだけなのかもしれない。単に、安直な記者が一人いて、デスクが気づかずにそれを通しちゃっただけ、ってことかもしれない。
もっとも、ある種の表現というのがニセ科学や悪徳商法の「手口」と、ものすごくよく似ていることを、自ら身をもってわかりやすく示してくれたのかもしれないわけで、ある意味めでたいことではある。
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もしもこの記事を読んで、あなたがイヤーンな気分になったのなら、ロビン・ウィリアムズの映画『ミセス・ダウト MRS. DOUBTFIRE』なんか、お口直しにいかがですか?(^^)
で、それでちょっと元気が出たら、資料編をどうぞ。
そうなの、まだ終わらないんですよ。
ところどころで書いているように、前編も後編も元記事をちゃんと読めてない。だけど、資料編ではもっと頑張って読んでみている。おまけに関連情報を探してみたりもしている。
と言っても大したものではないのだけど、ぼくには「げげ、そうだったの!?」なんて部分もあったんですよ。英語が達者な人は、ここまでの文章を読んで「あーあー」なんて思ってたんじゃないかしら。だから、元記事は読んでなかったり眺めただけの人は、資料編も楽しんでいただけるのではないかと思う(^^)
というわけで、資料編をどうぞ。