団まりな『細胞の意思―“自発性の源”を見つめる』(NHKブックス)という本がありまして、ラジオで著者自身がこの本についてお話をされていたそうです。
体細胞に脳はありません。(憂鬱亭日常 December 5, 2008)
ブログの記事を読む限り、「ええええ? それって、どういうトンデモ話なの?」という代物としか思えません。
ちょっと調べてみると、どうやら著者は一般にイメージされるような「意思をもつ」とはいささか異なる意味で「細胞には意思がある」とおっしゃっている模様(どういう意味でなのかは、ぼくにはつかめない。でも書籍では「意思」の定義から入っているのは確からしい)。しかし、書籍はともかく、放送はそれが伝わるようなものではなかったらしい。しかも、あれこれ見て行くと、どうも際どい言い方をしばしばなさる方のようだ。
部分を取り出してしまうと、ひどく危うい印象だ。以下、上記のエントリをきっかけに渉猟した記録と感想など。
◆
まずは、団まりなって、どういう人やねんと思ってググりました。
団まりな | 人名事典 | THE 21 なんでもランキング | お楽しみ | PHP研究所
うわ、PHPか、やっぱりそっち方面の人なのか? あれ、でも経歴は別にちゃんとしてるみたいな……。工学系や医学系の方々が晩年にイってしまう、アレなのかしら……。「専門は発生生物学」……発生学じゃなくて? あ、発生学って古い言い方なのか。
さらにググる。
うわ、茂木健一郎氏が尋ねて行ってる。だいじょうぶか<失礼な偏見
◆
ロング・インタビューがいくつかあったので読む。
細胞が感じるストレスを解明−−団まりな氏(前編) あなたのその命、数えてみたら“60兆”(NBonline「ストレス革命」 2008年10月9日)
細胞が感じるストレスとは−−団まりな氏(後編)セックスを生み出した細胞(NBonline「ストレス革命」 2008年10月16日)
団まりな かしこい生き方のススメ - COMZINE by nttコムウェア(2006年3月号)
んんんん? ちょっと微妙な気がする部分もある。が、大筋は別に変なことを言う人ではなさそうな……。
微妙な気がする部分ていうのは、たとえば前者(前編)のここ。
−−論理的に筋が通り、反論もないにも関わらず、それを足がかりに考察する科学者がいないとは不思議ですね。これは、あの、えと、行ってしまった人たちに特有なフレーズと共通するものがありますよね。でも、ここだけ取り出すと「そういうよろしくないことが起きていても、おかしくない」とも言える。某芸大で助教授をされておいでだった女性も、似たようなことを言っておったなあ、などと思ったり。
団:ストレートに言うと、どうやら日本人の学者は日本人の頭を信じていないようです。天才的な発想を「すごい」と賞賛しても、それが日本人の言ったことだと分かると「なんだ」となる。そこに女が言ったということが加わると、もう1つ面倒なことになります。
学会全体に「外国の偉い先生が言ったことだから、日本人がその教えを覆してはいけない」という無意識の縛りを感じることが多いですよ。じゃあサイエンスって何なのと思います。「だって教科書に書いてあるじゃないか!」と真顔で言う人が時折いるのですが、教科書が正しいとなぜ決められるのか。それを覆すのがサイエンスの進歩でしょう。
でも、困ったことに、まだある。後者に出てくる「新しく出てきた悪条件を逆にテコにしながら、うまく工夫して生き延びる者が出て、更にまた困った状態が起きて…というのを積み上げながら、生物は進化してきているのです」とか「大きな卵子というものを作る傍ら、それと出会える、そこまで辿り着けるハプロイド細胞を作らなければならなくなった」っていう説明なんか、「キリンはなぜクビを伸ばそうと思ったのか」みたいじゃないですか。
ここなんかは、さらにあからさまだ(強調はぼく)。
2つの個体からの遺伝子をミックスすることで、強い遺伝子が残せるという考え方は、良く言われていますね。それに加えてディプロイド細胞がハプロイド細胞と違っているもう一つの大きな点は、細胞に個々の役割を持たせることができるようになったこと。だから卵と精子という別の性質を持つ細胞を作り出したのです。そこで話をもう一歩進めて、卵と精子を作る個体を別にしたほうが、効率が良いということになったんですね。栄養をいっぱい持った卵を作るのと、命からがら走り回ろうという精子を作ろうと言うのでは思想が全く違うじゃないですか。それを、個体レベルで分業しようという工夫があった結果、雄と雌の分化が生まれたのです。こういう、あたかもニンゲンがモノを考えるかのように細胞がモノを考えてどうするかを決めたという類いの説明は、わしら素人が進化論やら動物行動学やらの知見に「関心をもつ」のには役立ったかもしれないけれども、「理解する」にはかなり邪魔になっているような気がするんですが、どうなんでしょうね。
しかしまあ、わしら素人向けの説明としては、こういうレトリックはよくある。うん。そう思えば、全体としてはかなり順当なような……。うむむむ。微妙な言い方を多用する人だなあ。これが「わかりやすさ」なのだろうか。
◆
さらにググる。
『性のお話をしましょう ―― 死の危機に瀕して、それは始まった』[魂の本性 2](哲学書房 新刊書のご案内)
団まりなさんを館山のご自宅に訪ねる(雑誌『談』編集長によるBlog 2005年06月07日)
んむ。なんかこう、生命の研究が「DNA、遺伝子、ゲノム」とかいう細かい「物質」に入り込み過ぎていて、細胞がないがしろにされていることに対するいらだちというか、ルサンチマンというか、そういうものがある……のか? ていうか、あるよね?
◆
今度は書名でググる。レビューの類いがけっこう上がっている。
435.細胞の意思(raccoon21jpのブログ 2008/10/16)
細胞の意思 : 書評 評・米本昌平(科学史家)(本よみうり堂 : YOMIURI ONLINE 読売新聞 2008年10月27日)
読書:「細胞の意思」(五月兎の赤目雑記 2008年 11月 08日)
細胞の意志って(kamane 2008-09-05)
『細胞の意思』 ◁ 読書 ◁ 森羅情報サービス(2008年10月06日)
ぬううう。独自の定義で「意思」という言葉を使っている模様。
もしここで読者が違和感をもつとすれば、認識論を扱う独立の一章があった方が親切だったかもしれない。著者は、意思という言葉を「自律的に何らかを考え行うこと」と定義し、この定義が、人間にも猫にも細胞にも同等に当てはまるがゆえに、その限りにおいてこの表現を採用する。時間や空間という日常概念を次第に一般化していったのと同じ、科学の常道である。って……ううむ。そういう話なのか?米本昌平細胞の意思 : 書評(本よみうり堂)
細胞は知らないが、ネコがニンゲンと同じような意味で「考え行う」のか? 「同等に当てはまる」って、そういう意味ですよね? 動物がなにかを判断する、行動を決定するって、そういうことなの? ぼくはネコの研究家ではないけれども、そんなことを自明のように言われてもなあ……。なんかこう、「動物の本能」ってなんだとか、「ニンゲンの本能は」とか、「ニンゲンのメスにはもともと母性本能ってものがあってね」なんていう話が実は19世紀だかに発明されたもので、なんてことをとりとめもなくを思い出して、戸惑ってしまう。
「時間や空間という日常概念を次第に一般化していったのと同じ」って言うけど、そうなの? 「素朴な日常の概念→自然科学や人文科学における、限定的な文脈に合わせた学術的定義(再定義)→日常概念への逆流(というかフィードバック)」みたいなことを指してるのかな。そういうのを「一般化」って言うのか? なんか三段跳びみたいだけど、言えなくはないか……。
日常語と同じ言葉が、より限定的な意味やちょっと異なる意味で専門家の間で使われることは、しばしばある。法律用語なんかでも、ありますよね(実は、日本語ではそれほど多くないんだけど、英語なんか日常語と専門語が同じ語彙ってことがかなり多い。だから、翻訳書の編集時にはそれで困らされることが多い。どっちの意味で使っているのか、文脈で判断した上で訳し分ける必要があるからだ)。
だから「意思」という言葉を再定義した上で使うこと自体は、それほどおかしな話ではないのだろう。その文脈で理解されるように、配慮さえすれば。
しかし、「私が本書で伝えたいことは、細胞が私たち人間と同じように、思い、悩み、予測し、相談し、決意し、決行する生き物だということです。」とまで言われると……。少なくとも、そこだけ取り出しちゃうと、なんというか「歯は臓器だった」とか「肩こりを治すと自律神経失調症の9割は治る」とか、そういう世界の発言にしか見えない。
文章では、特別な意味合いで使うときに「 」や〈 〉でくくることで区別しやすくするなんて方法をとったりする。しかし、これをしゃべるとなると、毎度「その意味での意思は」とか、えらくまだるっこしいことになる。勢い、ふつうに「意思は」と語ることになる。そして、テレビだのラジオだのは、ある部分だけ突然、耳に飛び込んでくることがある。
あ、危ういなあ……。
◆
レビュー類を見ると、著者は擬人化の不適切さみたいな観点からの批判は織り込み済みで、そこへの反論も展開しつつ「細胞には意思がある」という話に持って行っているようではある。ちゃんとその話に関するスペースをとっているようだ。多くのレビューがそこに言及するということは、かなり強烈な物言いだということの反映だ。誰もが引っかかる部分なのだろう。
スペースを割いていれば、それで十分なのかというと、よくわからない(前掲「細胞の意志って(kamane 2008-09-05)」は、その辺も読んだ上で違和感を表明している。「意思」が全部「意志」になっちゃってるみたいで、その辺を弁別していないことが原因かもしれないのだけど)。どう説明されているのか、それ次第なのかもしれない。
でもまあ、ふつうに表明される違和感はわかったうえで、敢えて「意思」を定義し直してでも「意思がある」という話にしているようではある。強い強いこだわりがあるのだ。
たとえば、生命活動という観点から見たときに、DNAやなんかまで遡っちゃうと見えなくなるものがある。その意味で細胞っていうのは「生命の最小単位」と呼ぶのにふさわしいとかなんとかいうような話だったら、ごく素直にうなづける。で、細胞ひとつだけでも、生命活動と呼び得る活動がなされており、これはまさに「細胞には意思がある」と「呼びたくなってしまう」とか「言いたくなってしまう」とかいうなら、まあわからなくもない。なんだろ、「まるで目的があり、その目的がわかっているかのように振る舞う」ってことは、動物や植物でもあるっていうじゃないですか。そこから類推できる。
だけど、それはふつう「そのように見える」という話だったり、「ニンゲンのような意味で意思があるっていうのとは違うんだけど」という注釈がつく。団先生の場合、逆に「ニンゲンやネコと同様に」という話になる。
ううむ。
◆
とまあ、あれこれ思いを巡らせながら、もう一回「憂鬱亭日常」さんに戻ったら、コメントがついてた。へ? 「TAKESANさんのところ経由でここに来た方へ」って、あっちでもなんか語られていたのかしら……と見に行ったら、あったあった。
今はもう大丈夫だろう的な雰囲気(Interdisciplinary 2008年11月12日)のコメント欄だ。
ぬ、議論になっている。えええ、文脈によっては許容できそうな方もいるんだ。ああ、本としてはどうかという話と、ラジオでの紹介の仕方が適切か、というのは別の話だというのは、誠にその通りで。
あ、読んでないレビューが紹介されている。
細胞の意思 〈自発性の源〉を見つめる NHKブックス 1116「ヒトデの細胞が可愛い、けなげといきなり言われても、なかなかすぐに共感するのは難しいだが・・・。」(オンライン書店ビーケーワン)
今週の本棚:養老孟司・評 『細胞の意思−−〈自発性の源〉を…』=団まりな・著(毎日jp 2008/09/08)
うーぬーぬー。養老さんの最後の段落って、なんとまあ。しかし〈昔の先生なら、「仕事をやるなら、そこまで行かなきゃダメなんだよ」と一言いったであろう。〉は、確かに「昔の先生」ならそう言ったかもしれんよな、「昔の先生」なら(近頃、どんどん「ノスタル爺」に磨きがかかってきてないか)。
◆
上記のあれやこれやで見る限り、団まりな先生は、発生生物学の世界では高く評価されている方のようだ。特に階層性という考え方を打ち出したところは、ほんとに画期的だったのだろう。また、啓蒙書も多数執筆されているようで、社会にも大きく貢献されている研究者と言ってよいのだろうと思う。
しかし、しかしあまりにも強烈な「あふれる思い」を宿しておられる。誠に失礼な表現だが、痛々しいほどだ、と感じてしまった。学界の外での盛名、その高さと学界での不遇のアンバランスさが、学界の物質主義的な傾向への歯がゆさといったものともあいまって、極端に断定的な物言いをなさるのではないかと思えて仕方がない。
−−生命を階層的に考えるといった先生の研究アプローチも、DNA研究を始めとする近ごろの生物学からすると、珍しい存在に思えます。大筋では合意できるのだが、こうなってくると「みな」「誰も」といった過度な一般化がひどく気にかかる。「こんな学会の逆風はとっくに克服して」いるとおっしゃるが、本当にそうなのだろうか。
団:最近の研究者は、みな細かい分析に走りすぎていています。サイエンスには“総合”と“解析”のアプローチがあって、両方で物事がわかるはずなんですが、総合は面倒くさいから誰もやりたがらない。解析は実験すれば何かやったことになるし、論文にもなるけれど、総合は効率悪いし、まとめるにも手間がかかりますから。
これは科学者に限った話ではありませんが、どうも人の頭は単純なほうが楽で、複雑なものを扱うのが下手みたい。物事を狭めて見ていくことのほうがおもしろいんでしょう。それが生産的な行為だと社会的にも思われるようになっていますよね。それもこれも人間の頭の不器用さが原因だと思います。
なんだか、私のストレス話みたいになっちゃいましたね。でも、こんな学会の逆風はとっくに克服してますよ(笑)。そろそろ細胞とストレスの話をしましょうか。畑で採れた果物を食べながらね。
◆
最初のうちは、素朴に「NHKのアナウンサーも、『それは、ふつう我々が考える、人間が意志を持って行動を選択するというのと、同じような意味で細胞に意思があるということですか?』とか、そこをつっこんで聞くべきだったのでは」なんて考えていた。しかし、インタビュー類を読み、レビューを読むうちに、それでもこの人は「ええ、そうです」と答えそうな気がしてきた(ロング・インタビューを見ると、そう思いません?)。
もう一度、「憂鬱亭日常」さんに戻ってみた。そこに、こんな部分があった。
同じコーナーで昨日は、団先生、それではなんの説明にもなっていません、ただのトンデモさんにしか聞こえません(泣)。
「ゲノムに意志がある」と主張する人の紹介をしていたらしいのだが、
その人のネタをキャスターに振られると
「そんなことはないんですね、あれ(ゲノム)は単なるたんぱく質の情報ですから」
と、非常に強硬に反論する著者。
何度も繰り返していっていた言葉は
「だから、細胞は石ころなんかとは違うんですね。」だった。
書籍のタイトルは、アイキャッチとして優れているかもしれない。また、これが著者の意を曲げるものだとも思われない。しかし、意思の定義や擬人化批判などについて、紙幅を割いて説明している書籍を読み通してさえ違和感が残る人がいる。もちろん、どれほど説明しても伝わらない人がいること自体は、仕方がない。しかし、しかし……その話を断片的にされると、一般的なリスナーはどういう理解をするだろう?
◆
これは、これまでぼくが考えてきた「単純化して語ることの問題点」とか「たとえ話の限界」という問題とは、また違うもののようだ。ひょっとすると「先端的な知見を語ることの難しさ」なのかもしれない。自分の分野の知見が、多くの人に共有されていると勘違いしてしまうとか、ある種の視野狭窄を起こしてしまうとか、そういう専門家ゆえの問題なのかもしれない。
ラジオで聞いた話を記憶で再現するとしよう。もちろん、ふつうはそんなところでの正確性まで話者は責任はもてない。そう思います。でも、ちょっと普通の場合の「正確性」がどうのって話とは違わないだろうか? 話者はきちんと限定的に語っているのに、聞き手はそこまでちゃんと記憶できないとか、そういう話じゃないよね? なんというか、あまりにも独特な文脈があって、そこが語られていないというようなことが起きているのではないか、と思える。
だって、再現しようとすると、せいぜい「個々の細胞は考え、悩み、意思をもつ。ヒトやネコと同様の意味で意思がある」って話にしか、おそらくなりませんよ? これ、もう比喩や擬人化じゃないですよ? それ、どういう世界? ディズニー? ってなっちゃいますよ。
いや、そんなややこしい話をラジオなんかでするな、というのは横暴だ。細胞が、ふつうの意味で意思をもつと信じちゃう人が出たって、困る人はそんなにいないかもしれない(実は、お医者さんなんかは困るのではないか、とは思うのですが、よくわからない)。しかし……。
編集屋としては、これが自分の身に降り掛かったお題でなくて、本当によかったと思ってしまう。危なくないように書籍にすることはなんとかなるかもしれないが、雑誌のインタビューや寄稿されたものなんかだと、かなり手だてが限られるものなあ……。
◆
願わくば、団先生が一線を超えませんように。そして、上手な、誤解を与えない要約した語り方を、編み出してくださいますように。
私はラジオで聞こえた表現をできるだけ正確に写したつもりではありますが、なにぶん人間の記憶、しかもあてにならないと同居人に折り紙をつけられる私の記憶なので、間違っていたらすみません。
でも、著者のラジオでの論調は、記事に書いたとおりだったと思います。
一点だけ。
著者はラジオでは「ここで言っている『意思』というのは、人間の『意志』とは違う意味なんです。」とも、語っているんですよ。
なのに、続く話では「生物の『意思』というのは、ひとつずつの細胞の『意思』によって作られていくんですね。」とも語るのです。
私が聞いた限りでは、「細胞の意思」と「生物の意思」と「人間の意志」とを、意図的に混線させて語っているように思えました。
>「細胞の意思」と「生物の意思」と「人間の意志」とを、意図的に混線させて語っているように
ううう。
これで思い出したのが、「疑似科学の話題に言及すると、『疑似科学とニセ科学とは違う』とか言い出す人がいるので困る」というエントリです。同じことが起きているのかもしれない、とも思います。
ひょっとすると、その道の人には了解可能な自明の前提でもあるのでしょうかね。どれもこれも意思とか意志と呼んでいるけれども、対象が違えば意味合いが異なってくるのは当たり前でしょう、みたいな。
と書くと、自分でも「当たり前だ」とは思うのですが、団先生の説明は、その自明な前提をゆるがすものですよね。区別されてるんだかされてないんだかわからなくて、かなり気持ち悪いですね。意図的に混線させているのだとしても、それは飽くまで「説明として」なんだと考えられるのであればいいんですが、あれこれ読むと、ちょっと怖くなる。ふつうの意味で「細胞に意思がある」と信じ込んじゃったんじゃないか、ほんとにトンデモなんじゃないかという疑いさえ芽生えてきます。この疑念は、『細胞の意思』を読んだって晴れないのではないか、なんて思えてしまいます。
毛利子来さんかあ……この辺のお話ですよね。
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1227356415#CID1227766222
難しいですね。
10年以上前にタヌキ先生を知ったときは「おお、いいこと言うじゃん」と思ったことを思い出します。
当時は、「お母さんがたに過重な負荷をかけて追い込むような育児書などが多すぎる」と考えている人がだんだん注目されて、育児を楽に考えることができるようにというスタンスで語る人たちが媒体に目立ち始めたころでした。『大きい、小さい、強い、弱い』なんていう雑誌が生まれて、何冊かは続けて読みました。
しかし、その後、ずーっと発言を追って行くと、極論すぎるとしか思われないことをどんどん言うんですね。主旨というか、狙いはわからないではなかったし共感もできなくないんですが、じきに「それは乱暴すぎるだろう」とついていけなくなってしまいました。
アレルギーやインフルエンザについてのタヌキ先生の書き方も、「ああ、この人はこういうふうに言うことで、『過剰反応しないように』『必要以上に恐れないように』ということを、いまもやっているんだなあ」と悩ましく思います。
そういう毛利先生の来歴というかスタンスを知らないで、あの説明だけ見ると、どうしたってトンデモねえことを言う医者だ、と見えてしまう。
団先生にしても、毛利先生にしても、少しばかり深堀りしてみても、どうも「説明がブレる」ような気がします。違うレイヤーでの話を混ぜてしまっているような。論の全体像を理解している人には伝わるのかもしれないけど、かなりもどかしく、かつ気持ち悪いです。
なにかこう、門外漢に説明するときのバランスというか、比重の置き方というか、「門外漢のわかってなさへの理解」というか、そこら辺が噛み合わない読み手へ断片的に届くと、かなり危うい理解のされ方をしかねない。そんなことなのかもしれません。
団先生にしろ毛利先生にしろ、世の中にはほんとに突拍子もないことを言い出す人がいて、それと一緒にされかねないなんてことは、想像だにしていないだけなのかもしれませんね。「ふつう、そんな意味に取る人はいないでしょう」というような。
「すべての人にちょうどいい説明というものは、ない」なんていう話も思い出しますね……。
別件の話題との関連で考えてみると、やはりこう謂う問題に関しては、「ダウングレードして説明する」と謂う行為一般に付随する問題性が関係してくるのかなと思います。
件のラジオ放送や著作について何も識らないので、口出しするのも烏滸がましいんですが、亀さんのお書きになった通りだとすると、ダウングレードして説明する行為が逆に循環して思考自体に影響を及ぼしている、と謂うようなことも考えられるのかもしれません。
ぼくも本そのものは読んでいないし放送を直接聞いたわけではないので、かなりあやふやではあるのですが、「関係してくるのかな」という思いはぼくにもないではないです。
ただ、この場合、ひょっとすると錯綜しているのかもしれない。事項Aについてはアの層に向けて、BCについてはそれぞれイウの層に向けて説明していて、それぞれはおかしくない範囲での説明なのだけど、互いに密接に関わるのでよくわかってない側は混乱する……なんていう構図だったりしないのだろうか。なんていう想像をしている、という程度ですが。
団先生は、普通は人間に使う意志という言葉を、思いっきり還元して、「行動を選択する能力」として使っているのかもしれません。
そうすると、ヒトでもネコでも確かに何か行動を選択していて、その最小単位であるのは細胞だとなるのでしょう。
逆に細胞から出発して考えると人の意志とやらも、ただ複雑さと規模が大きいだけで、意志と「意志の素(細胞)」との明確な境界線を引くことは出来ないとなっちゃうんでしょう。
その境地に一度立ってしまえば、細胞以上のレベルはみんな「意志」を持っているのだと言い始めるのも分からなくもありませんが、やっぱり普通の人には伝わらないでしょう。
おっしゃるような可能性はありますね。
記事中でリンクだけして内容を紹介していないビーケーワンでのレビューに、こういう一節がありました。
http://www.bk1.jp/review/0000468248
> 著者の見解は「生き物」というものについてとても深い、何十年もの研究生活をとおして得た、細胞とはどういうものかの考えが集大成された結果なのだろう。細胞、という「生きている単位」が自発的に判断、行動、調整している、ということは、たしかにある。それを「細胞の意思」という言い方で著者はまとめて表現している。これは、ある程度発生生物学や細胞学を知っている人には、「一つの提言」としておおきな意味を持つ話として伝わるのではないだろうか。
>
> ただ、読めば読むほどこの哲学的な、認識論ともいえる境地にたち、著者の説に共感するためにはある程度同じ道を歩まないとわからないのでは、とも感じて仕方がない。
A-WINGさんの「専門家にはわかる」というご意見にも似ています。
また、この方も危惧は表明されていて、その意味ではここで違和感を表明している方と近い感覚なんですが、それでも〈自発的に判断、行動、調整している、ということは、たしかにある〉なんて書かれる。ぼくは「判断」なんていう辺りで、うっと詰まってしまいます。
ところが、LiXさんのように「行動を選択する能力」と言われると、ほとんど違和感がないのです。あれこれと表現を思い浮かべると、ぼくの感覚では「選択」以外であれば「決定する」ぐらいまでが限界かなあ、なんて思ったり。これは定義というよりも、素朴なイメージのギャップみたいなものなのかもしれないですね。そうだとすると、なお改め難い。
もっとも「行動を選択決定する」なんていう表現ではインパクトもなくて、「そりゃそうだろう」で終わっちゃいそうです。団先生としてはもっと踏み込んだ表現を必要としたのだろうなあ、とも思います。
個人的な事情から、できるだけコメントしないように、と考えていたんですが、
団氏の考え方でどうしても気になる点があるので、そこだけは書いておきたいと思います。
「細胞が自発的に判断、行動、調整している」というのは、言葉の定義の仕方も含めて私には受け入れがたいのですが、
そこを百歩譲って、団氏が望むように表現してもかまわないと認めるとすると、その先に何が来るのでしょうか?氏がラジオで言っていたように、みんなが「細胞の声に耳をかたむけるようになる」のが望ましいんですよね。で、その先に何を目指すんでしょうか?
わたしは、この研究(?観察?感得?)がどこにつながるのかが、最初にラジオを聴いたときからずっと気になり続けてます。
「だから細胞が喜ぶような世界を作ろう」とか、「細胞が喜ぶような生活をしよう」とかいう話にはつながっていないのでしょうね?
ご指摘いただいて改めて気づいたのですが、団先生の気持ちとしては一般の人に語りかけているのでしょうけれども、実際に団先生が気にしているのは「研究者の態度」みたいなことばかりなようにも思えます。もちろん、番組も聞いておらず本も読んでいないので、インタビュー等から受けた「ルサンチマン」的な印象を引きずっている、ぼくの誤解かもしれないのですが。
ただも、もしも「一般の人も細胞の気持ちを考えるといい」とかってことまでは、考えていないんだとしても、どうしてもそういう話に聞こえてしまいますよね。だから「その先」を考えると確かに怖いですね。「細胞が喜ぶ食事」とか「施術」ってアホなことを言い出す業者に利用されそう……。
もっとも、それ以上にはうまく想像がつかないです。ふつうの人には「細胞が喜ぶような××」って、思いつくことができなさそうだし、そんなことを言われても、さすがに「それなに」って思いそうな……。楽観は禁物ですけど、だからこそ、「根っこでは研究者に向けたメッセージなんじゃないか」という気がしてしまうわけですが。
ブログ「liber studiorum」さんが、この本を読まれて「後でじっくり書きます」とおっしゃっているので、その評を読んでみたいと思っているのですが<ううう、他力本願(汗
その上で、団先生ですが、結局、細胞を基本単位として取り扱えるような生物像を描きたい、ないし、細胞を基本単位として生物を見て欲しい、といったお考えがもとにあるのだろうなと思っています。それよりも下の階層に相当する、分子を基本単位とした描像よりも優れたものになるという思想をお持ちなのでしょう。
その目論見がどの程度妥当かは、僕には判断しかねますが、仮にこのようなお考えでの話であれば、それ自体はそう問題はないのではないかと思います。あえて書くなら、「それなりに価値のあるグレーゾーン(それに足る描像はまだ提出されているわけではないので)の言説」といったところかと。
なお細胞「が」何らかの振る舞いを「する」「したがる」といった表現は、論文などでは使いにくいですが、日常の研究の場などでは、観察の第一印象を伝える際などにときおり使います。もちろんこうした表現には、「そう見えるにすぎない」という含意がありますが。
ただ、この辺りは難しいです。たとえば「好気性」「嫌気性」バクテリア、などの用語も、「好む」「嫌う」という含意のもとに決められたのはたぶん間違いない。これを「そう見えるに過ぎない」などと言っていいのかは、迷うところですね。そのうえで、たとえば「光を好むバクテリア」がいたとして、そのメカニズムがたとえば「ある蛋白質に誘引されて遊走する細胞」と、大きく隔たるものであるとも考えづらい。こうした用語法や生物学の論理の表現にまつわる問題などでは、いっそ生物学を研究対象とする科哲の専門家などにご登場いただきたいくらいです。
なお、団まりな先生のプロフィールですが、日本動物学会の有力者ですね。流れとしては理学部系の人です。
こんにちは。
お元気でしょうか?
とても興味深く、エントリーを拝見していました。
私も亀さんちから誘われるままにリンク先をあちこちと見て回りました。
確かに「悩ましい」ですね、、、
団先生については、多分ご自身のお育ちの環境も大なのかもしれませんね。
なにしろあの団ジーン先生のお子様だから。
私が勉強していた頃はジーン先生はそりゃ「神」のような存在(これオーバーに言っているだけです)、というか発生学を勉強している時は「鑑」として必ずジーン先生のお名前が出ました。
まりな先生よりジーン先生が言いそうな台詞「細胞の意思」って。そりゃ、生物を愛されていたと言うか、実験検体を大切になさっていた先生でした。
まりな先生は今、館山にお住まいだから、ますますご自分のお育ちの環境から純粋に「生命って凄い」感をお持ちなんだろうと推察します。
生物を扱っていると検体を愛おしいと思う事は普通の事だから、結構話しかけたりして実験ってする方が多いかもしれませんね。
亀さん言われる所の「普通の人の発想」やら「普通の人はそういわれても、、、」と言うところがお分かりにならないかもしれませんね。
ただ、そうは言っても一般向けに書かれた本だから、執筆者はきめ細かいところまで気を配ってほしいとは思います。
それからそれから毛利先生。
子育て中はお世話になりました。
なんというか新米で、ついつい神経質になる母親にとっては有り難い存在だったのですよ。
私も、子育てが終わって、随分,毛利さんから離れていましたが、
この頃は、果たしてどうなんでしょうか???
いずれにしても、私個人は懐かしいお名前の方々だったので、非常に興味深く読ませていただきました。
また、届かせるということの必要性(あるいは届かせたいという切実さ)から、あえて強すぎるかもしれないぐらい強い表現を選ぶということは、きっといろんなところであるだろう、なんていうことも。
こんなの見つけちゃいました。
■福井 学の低温研便り: あれも、これも
http://desulfonema.blog.ocn.ne.jp/lowtemp/2007/02/post_3f25.html
>かつて、発生生物学者の団ジーン博士(注1)が、こんなことを言っています。
>
>「一つの論文を書き上げることは、子供を一人産むのと同じくらいのエネルギーと苦しみを要する」
なんかタヌキ先生とつながっちゃったような、不思議な感じです(汗
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1127866706#CID1230718897
>#264. デザイン ― December 31, 2008 @19:21:37
>考えてみてください。
>
>つまり、デザインと言うのは自分で理解と言うのがあってそれを組み合わせて行うことなのです。
>
>これは何か物事を認識してそれがこのようなものだからこれと組み合わせてこういうデザインにしようかとか、そういうものがあって行われるのですね。
>
>ですから、これをこう使ってみようというのもある。たまたま、生き残るのに役に立ったって言ってもそれで役に立ったからこれを使って生き延びようとする。これはもうインテリジェントデザインなわけです。
>
>それで、生きたいとなぜ思うのか?それはそういう意思が生物に働いているからです。
こういうものに援用されたら、団まりな先生もかなわんだろうと思うんですけどねえ……。
■『細胞の意思』団まりな(liber studiorum 2009年1月12日)
http://a-gemini.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-4e99.html
やはり、ある種の混乱があると見ておいでです。さらに、困った連鎖も起きているようで……。
■団まりなと福岡伸一(1)(liber studiorum 2009年1月12日)
http://a-gemini.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/1-f160.html
(1)ということは、まだ続きがあるのでしょうorz