2008年12月13日

【FAQ】「それをニセ科学とは呼ばない」という話

どうみても偏見です - 酔っ払いのうわごと
http://d.hatena.ne.jp/oguogu/20081207/1228635254

なんでかさっき、上記エントリがRSSで引っかかってきた。はてなブックマークで「ニセ科学」というタグを付けた方がおいでだったからの模様。

はてなブックマーク - どうみても偏見です - 酔っ払いのうわごと
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/oguogu/20081207/1228635254

ああ、なるほど、と思ったので走り書き。


最初に断っておくと、そんなふうにニセ科学という言葉を使わないでくれという話を書きたいわけではない。「同じ言葉でも、いろんな人がいろんな意味で使う」っていうだけだ。

なんとなく適用しちゃう人もかなりいるかもしれないけど、それなりに限定的な意味合いで使おうとしている人もいるわけだ。

先のエントリで触れた、「アヒル口」とか「遠くから見れば一緒」の例でもあるかもしれない。「遠くから見れば一緒」とは言ったけど、関心の高い人や継続的に採り上げる人は、「常に」限定的になるのかっていうと、そうとも言えない。「あれもそうだ」「これもそうだ」って、どんどん拡張していっちゃう人もいるから。でもまあ、慎重な論者はだんだんと論を精緻化していって、そのために限定的な用法にたどり着くことが多いのではないかなあ。

いや、「精緻化した限定的な用法です」って断れば「細胞は悩み、考える」とか主張してもオッケーかといわれると、かなり困るんだけど。それでも、できるだけ定義とか対象とかをはっきりしないと、話は伝わらない。誤解も呼べば批判も受ける(ことがある)。

だからときどき「ぼくらはこういうものを××と呼びます」だけでなく、「ぼくらはそれを××とは呼びません」なんていう話もしないといけないのだろうとも思う。共有するためにも、立ち位置を明確にして誤解を避けるためにも。


たぶん、たとえばきくちくんの「ニセ科学入門」だとか、ぼくの書きかけ〈私家版「ニセ科学用語の基礎知識」β1〉で書かれているような意味で「ニセ科学」という言葉を使っている人は、リンク先のブログが引用している毎日新聞記事のような主張を「ニセ科学」とは呼ばない。

じゃあなにかと言えば、単に「飛躍があって妥当性を欠く主張」なわけだ。

なにかの事実に基づいて主張をしようとしたときに、その事実自体は確かにあって、おかしな話でなかったとしても、その事実を自分の主張したいことの論拠にすることが妥当かどうかは別の話だというわけ。「その事実とあなたの主張を『だから』で結びつけるのは無理がある」ということだ。


先の毎日新聞記事の「誤り」は科学の問題でもある(「ある事実を別の事実の原因とみなすためには、どのような確認/検証が必要か」となったら、これは「因果関係を立証するというのはどういうことか」って話になるもんね)けど、もっと素朴に「ある事実からなにが言えるか(そんな事実を根拠にしても、その主張は成立しない)」という問題でもあるよね。それはそれでよくやってしまう間違いだし、それが問題ではないわけではない。実際、ぼくもそういう「論理的におかしいんじゃない?」というような記事なんかを見つけると、話題にすることもある。

前述のタグは、たまたま目に飛び込んできたので話題にさせてもらってるけど、「今回の毎日新聞の記事のようなものをニセ科学と呼ぶのは間違っている」ということではないとも思う(ニセ科学的な構造をもった主張だってことは、いえると思う)。

「主張の根拠にされた事実」が「科学的とみなされる実験結果」だったりすると、ニセ科学とか疑似科学と言いたくなっちゃうというのは、わからないでもない。だって「科学的に根拠があるかのように主張されているけれども、そうではない」という点では共通しているものね。

ただ、「疑似科学」という言葉を使っている人も、こういった主張を捕まえて疑似科学とは呼ばないような気はする(なんでそう思うのかは、自分でもよくわからない。あからさまに間違っているだけだからかもしれないし、断片的な主張だからかもしれない)。ただ、ニセ科学よりももっと伝統的な言葉なので、「間違いとは言えない」とか言うと「いやいや、伝統的な用法から言うと間違いだから」と引っかかる人もいるかもしれない。この辺はよくわからない。


先の話が「科学的な間違い」なのか「論理的な間違い」なのかといったら、両方なわけだろう。ていうか、おそらく科学的手法と論理的手法は、かなりな部分でダブるので、明確にどっちかに分けることなんかできないんじゃないか。「こっちであればこっちではない」というもんでもないだろうし(だからこそ「科学的かどうかはどうでもよくて」みたいな主張に接すると「いやいや、それは」と言いたくなるんだけど)。

「論理的な整合性」と「科学的な正しさ」ってのは、ほとんど同義だと言っていいだろう(15:26追記:この言い方、雑に過ぎました。詳細はコメント欄を参照。どう修正すべきか、まだよくわかってないのですが)。先頃、「自分が立てた仮説を、実験結果や観察結果が支持するかどうかは、統計的にしか語れない」っていう話を読んだんだけど、ここでの論理と科学の関係と、科学と統計の関係は、同じようなもんなんじゃないかと思えた。切っても切れないというか。

間違えることも、間違いを間違いと指摘することも、間違いを恐れずに挑戦することも、科学にとって重要な要素だし、自分の間違いを間違いと認めることは、さらに重要だ(おそらく人生にとっても)。ニセ科学と呼ばれるもののなかには「間違いや未確認のことがらなのに、それを認めない」という過程を経て、「ただの間違い」から「ニセ科学」と呼ばれる領域に至ったものがしばしばある。そういう意味では、先の毎日新聞の主張も、「そうは言うけど、実験ではそうなんだし」と固執し続けることでニセ科学の仲間入りをしてしまうこともあるかもしれない。


kikulogではこういうエントリも上がっている。

僕たちのニセ科学批判ではこうは考えない(たぶん)
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/%7Ekikuchi/weblog/index.php?UID=1227366646

これがまたややこしい構造を持っている。コメント欄をずっと読んでいると、「僕たちのニセ科学批判では○○とは考えない」の「○○」だけが並んでいるので、頭がぐるぐるする。きくちくんもわかりにくいことはわかっていて、そこを狙ってもいる。
きくち December 3, 2008 @15:55:17
ありがとうございます。
レトリックとして、わざとやってる部分がありまして。
「こうは考えない」を読み飛ばしても、読んでいけば「あれ、変だぞ」と思うのではないでしょうか。逆にいうと、そう思わないかたは、たぶんどう書いたって正しく読み取ってくれないのじゃないかなあと・・・
読者を選ぶ書き方になっているのは事実ですね。
 
主語ですが、これはあくまでも「少なくとも僕は(そして、おそらくは仲間の多くは)こうは考えていない」ということであって、「一般に科学者は」かどうかはわからないし、これが本当に「有効なニセ科学批判では」なのかもわからないです。
もう、ある種のトラップよね。

そういえば、finalvent氏が「偽科学」という語を使って「批判者の素養のなさを明らかにするぞ」的なエントリを上げ、「ニセ科学」という概念とのすれ違いが話題になったりしたことも思い出される。けどまあ、そこはまたいろいろややこしいので、また今度<そればっか

激しくとりとめがない(汗
でも、今日はこのままアップ(し、仕事がてんこもりなの〜)。
 
posted by 亀@渋研X at 13:04 | Comment(6) | TrackBack(0) | FAQ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする はてなブックマーク - 【FAQ】「それをニセ科学とは呼ばない」という話
この記事へのコメント
今日は。

▼▼▼引用▼▼▼
「論理的な整合性」と「科学的な正しさ」ってのは、ほとんど同義だと言っていいだろう。
▲▲引用終了▲▲
個人的には、ここにちょっと異論があったりします。

重要なのは、事実に基づいているか、という所、つまりデータがどうなっているか、を見る所で、論理性は科学の必要条件ではあるけれど、他の知識との整合性や、観測・観察によって得られたデータを無理無く説明出来る体系になっているか、という部分も重要なのではないかな、と。

たとえば、ゲーム脳は、その最も一般的な主張は、ゲームが脳に重大な悪影響を及ぼすというもので、「あっても良い」もので、論理的には特に破綻していないですが、実際には、その現象は確認されていないので全く非科学的だと言われている訳ですけれど、それは結局、説を裏付けるデータが無いからですよね。

この文脈での「科学」を、経験科学あるいは実証科学と考えるなら、そういう風に見る事が出来るんじゃないかな、と。
Posted by TAKESAN at 2008年12月13日 14:12
TAKESANさん、ご指摘ありがとう。
自分でもこれを書きながら一度は引っかかっていながら、忘れていました。本文にはちょっと追記しました。

おっしゃるように、「ゲーム脳」説でも、「ゲームのやり過ぎは脳に悪影響がある」という主張自体は、別に論理的に破綻しているわけではないですね。困ったことに、森氏のゲーム脳説は、現象(事実)の確認がダメなだけでなく、説明がキレイに論理破綻を起こしている(って、変な言い方ですが)ので、ついついうっかりした物言いをしてしまいます。

しばしば目にする、「論理的に正しいからといって、事実(真)とは限らない」というような話でもありますよね。

論理的な整合性は、科学的な正しさを構成する重要なパーツ、といった感じなのかな。
Posted by 亀@渋研X at 2008年12月13日 15:37
雑に言えば、以下のように考えていただければいいかと思います。

論理的に可能な仮説 > 物理的に可能な仮説 > 信頼できる仮説
Posted by lets_skeptic at 2008年12月15日 16:32
今晩は。

ちょっとそれっぽく言うと、

 科学にとって、logicとevidenceは車の両輪である

的な。
Posted by TAKESAN at 2008年12月15日 19:29
ニセ科学と云う用語には、「装っている」と云うニュアンスが含意としてあるのだと思います。うそだと云うのが前提だったり(SFにおける「疑似科学」ですね)、検証の完了していない仮説であると云うことを示していれば、あまりニセ科学と云う用語は充てられない。
で、多くの議論はその含意を踏まえつつ、そのアティテュードに批判を向けるわけで。用語、と云うより、使い方がある程度方向付けられている、と云う感じかと。
Posted by pooh at 2008年12月16日 08:13
元記事ですが、第一パラグラフは見聞なので問題なし。第二パラグラフとの接続は強引ですが、第二パラグラフ自体は最後の文以外は学説の紹介として問題なし。白血球タイプが遠い異性の体臭を好む、というのはどうやら本当のようです。第三パラグラフは関係ないもののつなぎ合わせで、結論部の二文はほとんど意味がない。

しかし、この新聞記事についてはブログ著者も正しく指摘しているとおり、「偏見」が問題なのであって、「ニセ科学」と呼ぶようなものではなかろう。

実は興味があるのは、「ニセ科学」というタグをつけた人はこのブログ記事のどの部分を指して「ニセ科学」と感じたのかですね。タグだけからはわからない。
Posted by きくち at 2008年12月17日 15:54
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