2008年12月26日

実は「図書館を市民の手に取り戻そう」運動?

前エントリ理想の図書館に反社会的な本はあるかの続き。

前エントリで描いたような、所蔵能力無限で無差別収集型の図書館がまさしく「理想の図書館」なのだとしても、実際には次善の=所蔵能力有限の図書館を考えざるを得ないわけだ。そうなると無差別収集というわけにもいかず、早晩どうやって所蔵するコンテンツを選ぶか、その優先順位が問題にされることになる。

私設図書館であれば、優先順位は難しくない。ジャンルでも書き手でも地域でも形態でもなんでも、図書館の所有者が決めればいい(所有者にとって簡単な問題かどうかはどうでもいい)。ちゃんと収集方針に合った名前がついていれば、誰も文句を言わなかろう。

問題は、公共の図書館の場合だ。

誰でも思いつきそうな優先順位で、あまり異論の出なさそうなものを挙げてみる。

 ●みんなの役に立つコンテンツ優先

この場合、「みんなの役に立つ」をどうやって判断するか、という問題がある。


これは素朴には「誰が決めるか」だ。利用者か、それとも専門家か。具体的には、利用者のリクエストを優先するか、専門家の判断を優先するかだろうか。さらに、専門家が「住民の要望が大きいコンテンツを優先する」と考えたら? という問題もある。

おそらく、公共図書館に対して「ふつうの市民が、楽しみと、ときどきの勉強のために利用する」というような限定的なイメージを持つか、「可能な限り『その地域の資料収集』の視点を失わず、歴史研究や風俗研究などの専門的用途にも対応できるようにする」といった汎用性の高いイメージを持つか、といったことも関係してくるのだけれども、そういう路線選択も含めて、まずは誰かが決めないといかんわけだ。

地方自治体が運営する公共図書館の場合、利用率を上げるべし、という傾きもあるに違いない。利用されないならいらない、と言い出す人が必ず出てくるから。地域の文書館=アーカイブという側面もあると思うので、必ずしも「地域市民の利用率が高いことが必須」だとは、ぼくは思わないんだけどね。ま、それはきっと別の話。

また、地域市民の要望に応えることは、単に市民に媚を売っているわけではない。図書館に親しんでもらう、図書そのものや知る調べる考えるということに親しみを持ってもらう、それが後々の「知の扉を開く」ようなことにつながり、それは「市民社会の成熟」につながって行くに違いない、というような期待もあることだろう。本当にそんな期待を感じさせるような取り組みも、たくさんやってるし(ああ、いや、単に住民サービスの一貫として「知的楽しみ」を提供しているだけです、って場合もあるんだろうけどさ)。

そうした路線選択は、これまでは地域市民が関わるところではなかった。だから当然、図書館の自由とかいう話も知らないし、利用者のリクエストと専門家の判断のどっちを、なんて天秤にかけてみたこともない。


「役立ち度」の判定を考えちゃう人のなかには、「公序良俗を乱すようなものは、資料性があるとしても、要望があるとしても、優先度が低いだろう。低いはずだ」と考える人が出てくる。っていうか、「なんでそんなもんを入れたがるか。そんなヤツはおかしい」的な意見になってしまう人もいるに違いない。

この人たちは、先の「ぶっちゃけ」だとか「図書館の自由」とか、そういう話を知らないせいかもしれない。でも、知っても説得力を持たないのかもしれない。

また、「入れてくれ」というリクエストには応えて、「入れてくれるな」というリクエストに応えないのはおかしいなんていう議論だって、可能かもしれない。実際には、我が国の場合、選挙にだって「不適格な候補には×を投票する」なんていう方法はないので、「イヤだ」には応えなくてもおかしくないとも思うんだけどね(最高裁判事だけ信任投票として近い方法がとられるが、まあ例外だよね)。

権力たるお上や一部の御用学者が勝手に決めた方針が、どっか上の方から降りてきているのではない。そうではなくて、ぼくらやあなたたちが知らないだけで、ふつうの市民が、権力と戦い、営々と議論してきた果てにある「ぶっちゃけ」なのだ。けれども、そんなことは知らないもんねという勢力の前では、そんな偏ったイデオロギーに毒された話は受け入れられないとか、既得権者の横暴とののしられてしまうのかもしれない。


そんなこんなで、これまでも通俗ベストセラー、マンガ本、「買春ツアー」本、「ちびくろサンボ」などというのは、ボーダーとして「いいんだ」「いや、それよりも」なんて議論が時代時代に起きてきたわけだ(その前にも、敵性図書とかいうのも戦時中にはあったかもしれない)。

そういう議論の果てに、日本では地域の図書館は、市民のリクエストに応えるべきだ、市民のリクエストに人数の軽重はあっても質的な軽重はない、というような方向にずーっと来ていた(おかげでベストセラー文芸書の複本購入は、著者や出版社を苦しめるからやめてくれだの、公共図書館としてはリクエストに応えるためにはやむを得ませんだのという嘆かわしい議論も起きている)。前述のきっかけになる、というような考え方もあるだろうし、地方自治体とは、公共サービスとは、という意識が徐々に変わってきた結果でもあるのだろう。

仮に、そんなふうに「どうやって決めるか」が解決されても、理想の図書館の血を引いて「社会通念上の適否なんかは判断材料にしないよ」ということになった場合、その次に「ゾーニングする?」という問題が来る。っていうか来てしまった。

つまり、「そのコンテンツが高邁な道徳に適っていようが他愛のないヨタだろうがエロだろうが反社会的だろうが等価です」「その市民が学識豊かだろうが裕福だろうがアホだろうが外道だろうがなんだろうが、リクエストは等価です」「市民の誰かからリクエストがあれば、どんな本でも買います、所蔵します」「非常に高価な本とか、古くて破損の恐れがある本とか、稀覯本といった例外的なものでない限り、閉架図書にはしません」という答えは、すでに出てしまっている。

BL本騒ぎについては、まさに「いまここ」という感じ。たまたまBLだったけど、そうじゃなくても同じことだっただろう。

図書館自身が右往左往してしまっている、新たなステートメントも出てきてなさそうということを踏まえて考えると、いま改めて出てきている問題は、次のようなことではないのか?

いま「公共図書館はこれでいいのか」を蒸し返し、遡って検討するとしたら、どこまで遡る?

BL本がふさわしいかとか、多すぎないかという話じゃない。公共図書館には、どのような機能を担ってもらうかを議論すべきで、それを「どう決めるか」まで遡る気があるのか? そういう話なのではないのだろうか。


どう決めるかまで遡らないのであれば、話はまだしも簡単なのだ。

国民にふさわしい政治が与えられるように、市民にふさわしい図書館と蔵書が与えられるのだ。なにがより必要かとかいう話ではなく、国民にゴミが増えれば蔵書にゴミが増えて行くのだ。そして、それが正しい状況なのだ(厳密には、図書館人にもそこは議論があるところだろう。でも大勢としてはそっちで推移している)。

もしその状況に不満があるのならば図書館に意見を言うのではなく、市民に働きかけるしかない。「これこれこのようなリクエストはしないでください。それは、かくかくしかじかの理由です」と。その働きかけに説得力があれば、状況は改善されるかもしれない。

でも、多分、そうじゃない。どう決めるかまで遡りたい、あるいはもっと遡りたい人たちがいるのだ。図書館の外にも中にも。そういうことなのではないか。

そして、そうだとすれば、これは、「改めて、公共図書館を市民の手に取り戻そう」という運動だと捉えることも、可能なのではないだろうか。その市民が愚民であろうがなかろうが。


ぼくは、堺市の問題にしてもそれ以前からの問題にしても、要は上記の2点「理想の図書館には、あらゆるコンテンツがある」を前提にできるか、そして「理想が達成できないときに、優先コンテンツをどうやって決めるか」の問題なのだろうと考えていた。それで出口のない思いを抱えて悶々としていたわけだ。でも、ちょっと違っていたのかもしれないと考えはじめている。

きっと、「理想の図書館にはエロ本(あるいは残虐な描写のある本)なんてあってほしくない」とかいう人もいるのだ。また、「あってもいいけど、適切なゾーニングを」という人もいるのだ。管理したいのか管理されたいのか知らないけれども、ある存在が「より適切なのか」を選べると考えている人たちだ。それを無茶とか無知とか呼ぶべきでは、きっとない。それが現代なのだろう。

これに答えを出すのは、簡単じゃない。いや、図書館人は答えを出している(なんでもあるべき)んだけど、それを知らないのではなく、知っていてもそれでは納得できない人が増えているということなのではないのか(「専門家の軽視」だとか、「体感治安の悪化」みたいな不安神経症的な反応、ゼロリスク信仰みたいなことも関係あるかもしれないとも思う。しかし、それが背景にあったとしても、議論としては論点が遠いんじゃないか)。

さらにそういう考えの人が増えて行くということになれば、やっぱり「蔵書はどうやって選ぶべきか」「そもそも図書館はどうあるべきか」まで遡らざるを得ず、そこで新たなコンセンサスを形づくる必要がある。

それには時間がかかるだろう。戦後60年ほどをかけて作り上げられてきたコンセンサスは、図書館を運営する人たちが作ってきた。今度は図書館を使う人たちがコンセンサスを作ろうとしているのではないか。歴史の歯車を戻すことになるかもしれないけれど。

まだしも限られた範囲の人々が議論してきたから、50年足らずでおよそのコンセンサスができたのかもしれない。そうだとすれば、次のコンセンサスを得られるのは、どれほど先だろう。

ネット時代だから、意外に時間はかからないという可能性もあるけれど。


それが歓迎すべきことなのかどうかはさておき、上述のようなことが起きているのだとすると、これは市民が公共図書館の運営方針を自分たちが納得できるものにしようとしている、ということだと言えないこともない。単に無知なのだと片付けられないのは、当の堺市図書館が右往左往しているからだ。また、堺市図書館に対して図書館人たちが「なにをやっておるか、基本的な考え方を説明して終わりじゃないか」と苦言しないようでもあるからだ(繰り返すけど、ぼくが見つけていないだけかもしれないという留保つきで)。

もしもそっちの意見が多いなら、日本の公共図書館はそっちに流れて行かざるを得ないだろう。

それがイヤなら、図書館人はとっとと発言してくれ。メディアを使ってでも、声を大にして宣言してくれ。BLはなあとか思ってるなら、そんなことは忘れてくれ。

図書館は道徳に縛られません。っていうか、「知」というのはそういうもんなんだ。だからかつては、「書物」自体が権力にも庶民にも煙たがられたのかもしれないとさえ思う。


そこまでの話ではないにしろ、実にその通りなのだ、ということであるにしろ、今のところ図書館というのは「リクエストがあればなんでも置くところ」なのだ。それはきっと1年やそこらでは変わらない。

であれば。

図書館にだって置かれてしまうに違いない「どうしても子どもに見せたくない本」をどうするか。それは利用者が考えることだ。図書館は、地域市民の「市民レベルの鏡」ということになっていくだろう。

出版社に「成人向けマーク」を入れてもらうというのもよいかもしれない。そうすれば、図書館だって「成人向けコーナー」を作るかもしれない(マークのないボーダーな本だって生まれるだろうけれど)。

「子どもに見せられないような本を、図書館にリクエストするのはやめよう」という運動を起こすのもよいかもしれない。図書館にはどのような本が「より」ふさわしいか、という議論もそこでされることだろう。「運動=政治勢力=悪」とか「運動する人=変な人」という偏見も減るかもしれない。

たとえば「悪書があるような図書館には行くのをやめましょう」とか、「図書館にはよくない本もあるから気をつけましょう」などという主張も出てくるかもしれない。どれがいいかはわからないが、なにが的外れかという議論までできれば、「町を歩くときには」とか「ネットを利用するときには」「メディアの記事を読むときには」といった情報リテラシーにまでつながった話も、できるようになるかもしれない。

BL本が云々ではなくて、そこら辺の話までできるようになっていくのであれば、堺市の件もムダ騒ぎではないことになるのではないだろうか。
 
 
タグ:図書館
posted by 亀@渋研X at 02:27 | Comment(6) | TrackBack(1) | 渋研X的日乗 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする はてなブックマーク - 実は「図書館を市民の手に取り戻そう」運動?
この記事へのコメント
興味深いエントリを教えてもらいました。

もう4,000冊くらいBL小説があっても良かったのかもしれない??(かたつむりは電子図書館の夢をみるか 2008-09-11)
http://d.hatena.ne.jp/min2-fly/20080911/1221128343
>仮に堺市立図書館が一切の選別を行わず、単に国内の出版物を資料規模に合わせてランダムに収集していった場合、所蔵資料数に見合っただけのBL小説の冊数は
>
>593 / 77417 * 1302918 ≒ 9980冊
>
>9980冊!
>
>なんだ、堺市立図書館もう4000冊くらいBL小説持ってても別に問題なかったんじゃね?

(^◇^;)

バランスというのも、いろいろな考え方があり得ますね。
Posted by 亀@渋研X at 2008年12月27日 02:43
なんか、図書館戦争みたいな話ですね。

…すいません、誰も言わないので、今がチャンスだと思いまして(笑)。
Posted by 黒猫亭 at 2008年12月28日 03:16
黒猫亭さん、どもです。
ひそかにそう思っている人は、少なくないようです(^^)
Posted by 亀@渋研X at 2008年12月29日 02:16
初めまして。いつも楽しく読ませて頂いております。

>図書館人はとっとと発言してくれ。メディアを使ってでも、声を大にして宣言してくれ。

既読かもですが、こんなブログエントリーを見つけました。

 日々記―へっぽこライブラリアンの日常―
http://hibiki.cocolog-nifty.com/blogger/2008/11/post-c222.html

日付は11月27日ですね。
むしろ声を上げる人が少ないことの傍証になりそうですが。ご参考までに。
Posted by T-3don at 2008年12月29日 14:55
T-3donさん、こんにちは。
情報提供ありがとうございます。

図書館人で、早々に声を上げている方はいないわけではないのは理解していますが、このエントリは未読でした。

しかし、この方はまた〈というわけで、一図書館業界人としては、この問題、どんどん叩いちゃってくださいって思っているのでした〉って、すごい腹のくくり方ですね。

>叩けば叩くほど、「図書館の自由」という概念がいかに脆い足場に立っているかについても、その脆い足場をどうやって強化していくかについても、議論を深めることができるのではないか、という期待を持っています。

この辺は、自分にとってのマスコミ問題と、瓜二つというか、とっても共感してしまいます。無茶苦茶な話をそのままメディアに載せ続けるってえのは、ある日「そんなメディアはいらない」「許認可制にしよう」なんて話を呼び起こしかねない。
実際に、テレビがオカルトや血液型性格判断を肯定的に(あるいはあいまいに)紹介するたびに、そんな反応が出てきます(電波メディアは紙メディアやWebと違ってすでに許認可制なので、あとは内容の検閲しかないんだけど)。「図書館から悪書を追放」ってのも、似たような構造だと思ったりもします。
Posted by 亀@渋研X at 2008年12月30日 10:29
ちゃんと図書館関係者が問題視しているという話を発見。

■堺市BL問題とオタク云々。(猫と羊と図書館と。 2008-12-30)
http://www.madin.jp/diary/?date=20080923#p01
>で、この問題を図書館関係者―具体的には図書館系の団体や、あるいはそれに属する研究者―の方々が注目しているということが大きい。
>
>私は現在図書館司書課程を履修中で、某先生方(名前を出していいのか分からないので伏せますが)の授業ではこの問題のことを何度も聞きました。
>
>多分そのうち、どなたかの論文がでるんじゃないかと期待してます。

論文……わあ、それはいかにも学者さんのアプローチだ……。
「○○が△△に効く(と言い出した学者が一人いる)」とかいう論文ぐらいには、注目されるといいなあ……。
Posted by 亀@渋研X at 2008年12月31日 02:14
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Excerpt:  えーと、中略・太字強調は以下引用者で。もうこれどこかに張っておこうかしら。  今更なのかもしれませんが。PSJ渋谷研究所Xさまのエントリー理想の図書館に反社会的な本はあるかで知りました。こんな話題..
Weblog: みつどん曇天日記(仮)
Tracked: 2008-12-28 22:48