2009年01月02日

不信心ものの初詣

#ラジオドラマ風(?)に

(SE:柏手「パン、パン」、さい銭を投げる音「チャリン」、鈴の音「がらんがらんがらん」)

えー、今年こそ、なんとか身に付きますように。

たとえば、どうにもならんことはアタフタしないで受け入れられる、
そのぐらいの気持ちの余裕とか。

あと、変えにゃならんことは変える度胸
てか、きっちり変えおおせるぐらいの思い切りとか。

なによりも、そもそも目の前の出来事が、
変えようもないんだか、変えられるのかぐらいは見極めがつく、
その程度の分別とか。これ大事だよな。

どうかひとつ(あれ? みっつか?)。
なむなむ(あ、しまった、ここ神様じゃん・汗)。


気分としては「不信心ものの初詣」なのだが、実際には初詣には行っていない。年によっては行くんだが。春ぐらいになってから、なんかの拍子に神社に行って「あ、これ初詣じゃね?」となることもある。

この初詣はだいぶ低調だが、原典は格調高い、とっても有名な「ニーバーの祈り」。
THE SERENITY PRAYER

O God, give us
serenity to accept what cannot be changed,
courage to change what should be changed,
and wisdom to distinguish the one from the other.

Reinhold Niebuhr
ぼくは信心をもたないので、神様を持ち出さないで、できるだけ日常語で無理矢理に訳してみたらこうなった。台無しかしらん(汗)。ニーバーさん、新年早々ごめんなさい。

ちゃんとした方々の超有名な訳は、ちゃんと格調高い。お口直しをどうぞ。
神よ、

変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。

大木英夫 訳
神よ、私にお与えください
変えることのできないものを受け入れる平静な心を
変えることのできるものは変える勇気を
そしてそれらを見分ける知恵を

中村佐知 訳


引用元:
ラインホールド・ニーバーの祈りの言葉(大木英夫訳。大木英夫氏が理事長を務める学校法人聖学院のサイト)
平静の祈り(中村佐知訳)
THE SERENITY PRAYER(大木英夫訳や原詩にまつわる情報)


このお祈りを思い出したのは、元日に下記のエントリを読んだから。

HIV否定論者Christine Maggioreの訃報(忘却からの帰還 2008年12月31日)

はてなブックマーク - 忘却からの帰還: HIV否定論者Christine Maggioreの訃報

こういう話を読むと、ほんとにやり切れない。おとそ気分はぶっ飛ぶ(かもしれない)けど、新年を迎えるにふさわしい(かもしれない)厳粛な心持ちにはなれる。かもしれない。

関連記事:
ニセ科学「AIDS再評価運動」とID理論(忘却からの帰還 2007年07月05日)

併せて読むと「たけまつ話 幸せなお産」とか、911陰謀論の宣伝マンであられるきくちゆみ氏がほかのトンデモないさまざまな主張にも高い親和性を示していることも思い出されます(まあ、きくちゆみ氏は多分に商売がからんでいそうですけど)。


「トンデモだのニセ科学・疑似科学だの、好きに信じさせておけばいいじゃないの」なんていうおめでたいことを言う方がしばしばおいでだ。もちろん、それに対して「トンデモで人が殺されることは、あまり知られていない」なんていう指摘もときどきされますが。誠にその通りで実害がないなら信じていていただいてもいいんですけどね、自分とか家族とかが死ぬんですよ、こうやって。昨年も、水デトックスで死んだ人とか、ホメオパシーを信じてただのケガなのに治療を拒否したあげくに死んだ人とか、いましたものね。

ええ、そうです、こんなところで、こんなふうにぼやいていてもムダです。「そういう人」には、きっと届きませんよ。しかし、新年早々ぼやかないではいられない。

だってさ、「海の向こうの誰かが、妙なものを信じて死んだ」って話はさ、ぜんぜん他人事じゃない。年賀状とか年始とかで、身内の近況とかがわかるじゃないですか。実家のオヤジが、なんかボケはじめているってこととかさ、義理の妹の心身症が快方に向かっているみたいだとかさ、別の義妹がジャズダンスの講師だったはずなのにいつの間にかヨガやってるとかさ、いろいろとダブってくるんだよ……。


ところで、「届かない」とか「それじゃムダなのか」とかいう意味では「ゲシュタルトの祈り」なんていうのも、大変に含蓄がある。ニセ科学なんてものについて悶々とし続けている身には、身につまされる部分が多い。

しかし、「ゲシュタルト療法の生みの親であるフレデリック・パールズが、その療法の考え方を織り込んで詠んだ」って文脈をはずすと、なんか全然意味が違ってきそう。原詩が英語なのかドイツ語なのかも定かにわからない。あれこれ後日談があって、一番弟子かなんかが「返歌」みたいな(パールズを越えて)をこしらえたりしている。しかも、どうも「パールズを越えて」辺りはゲシュタルト療法がどうとかいう文脈をはずしているように見えてしまう。そんなはずはないんだが。ややこしい。

というわけでゲシュタルトの祈りは、ぼくにとっては「どう考えていいのか、よくわからない」という大きな問題を抱えている。だから、「初詣」には使わなかった。

まあ、あの、ググるとね、好き勝手な読み取り方をして「こっちがいい!」とかやってる人もいっぱいて、なんかそれでもいいかあとかいう気もするんだけどさ、それでは尻の据わりが悪い私がいるのであります。堂々巡り。


とか言いながら、原稿を放り出して家族でピザの食い放題(新春割引)に行くことになりました。5日、6日の〆切は、なんとかちゃんと、ええ!(大汗

どうにもならんことはアタフタしないで受け入れられる、そのぐらいの気持ちの余裕とか! いろいろ! ひとつ!


おまけ(15:00)。
友人から連絡が入って、今日しかチャンスがないようなので夜に会うことに。
ピザは妻子だけで行くことになった。

おまけのおまけ(15:30)。
ピザをやめて焼き肉に行くとか、焼き肉は明日から行くカアチャンの実家で食うだろうから出かけるのはやめたとか、スイーツ食べ放題とか、なんだかもうわからん。

なんかしらんが、勝手に変わってゆく。
肝心の原稿以外はなんとかなったような……仕事しよう……
posted by 亀@渋研X at 14:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 渋研X的日乗 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする はてなブックマーク - 不信心ものの初詣
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