2009年01月19日

【FAQ】「科学の問題であるかどうか」は、提唱者が「科学」と呼んでいるかどうかではない

「科学の問題であるかどうか」は、提唱者が「科学」と呼んでいるかどうかではないですよね。再現可能な客観的事実として提示されているのであれば、ポエムと呼ぼうがなんと呼ぼうが、科学者の検討対象になります。「物質の性質についての事実の言明」であるかぎり、そうなります。
もうひとつ言うと、彼らの白衣と顕微鏡と冷凍室というセットアップは「科学に見せかけるための道具立て」なわけだから、「ニセ科学」と呼ばれてもしょうがないでしょう。
自称「ポエム」なだけです。
(略)
by きくち (2008-06-15 23:54)
上記は、冒涜がまたひとつ(Chromeplated Rat 2008-06-13)のコメント欄から、阪大のきくちくんのもの。

元エントリは「水からの伝言 4」の刊行にからんで書かれたもので、ご覧の通りエントリもコメントも半年前のもの。いまさら半年前のコメントを引っ張り出してきたのは、下記のエントリ関連で立て続けに「江本は科学じゃないと言っている」みたいな主張を見たから。ブックマーク・コメントなども見て、ちょっとクローズアップしておいた方がよさそうに思った。

詭弁者(Interdisciplinary 2009年1月19日)

「水からの伝言」は科学を自称していないから疑似科学ではない?(NATROMの日記 2009-01-19)

はてなブックマーク - Interdisciplinary: 詭弁者

はてなブックマーク - 「水からの伝言」は科学を自称していないから疑似科学ではない? - NATROMの日記


今回の2つのエントリやコメントを読んで「あれれ、この話は何度か出てるFAQだよなあ」などと思ったのだが、どこで読んだのか定かでない。で、ちょっとググってみたのだけれどもすぐには見つからない。ムチャクチャ単純な説明は、うちにもあるんだけどシンプル過ぎるような気もする。

Q:著者は、これを「科学的な事実」だとは言っていないのでしょう?

A:江本氏は「いずれ証明される」としています。

江本勝氏は、雑誌『AERA』(2005年12月5日号)のインタビューで、「これはポエムでありファンタジーであって、科学的な主張ではない」としながらも、「現在の科学ではわからなくても、いずれ証明される」という意味のことを言っています。
つまり、「できごととしては本当だ」と言っているわけで、これは科学的主張とみなされます。

『水からの伝言』の基礎知識 基礎編:【主張】
江本氏のインタビューは、NATROMさんも挙げている下記記事で読める。

■「水からの伝言」江本氏の主張(2005/12/28)(水商売ウォッチング)

さらにそこには、apjさんによるこういうツッコミも加えられている。
 「水が情報を運び得てその情報が微細な振動」というのは、ポエムとしては誤解されるものではないか。江本氏は正直なのだが、ポエムと科学の区別がついていないように見える。ポエムならポエムとして閉じた方がよい。発表したポエムが科学と誤認されるようでは、ポエムの表現として失敗ではないのか。
(略)
 江本氏の主張が、江本氏のポエムとして完結しているのであれば、何も問題はない。ただし、表現の仕方が「科学である」という誤認を招きやすいものになっているので、その点だけは今後も強調しておく必用がある。


この手の話が見つけにくいのは、ひとつには検索語の問題があるだろうなあ。「科学じゃないと主張すれば科学ではないことになるのか」という問題って、どう検索すれば引っかかるのよ、という感じですよね。少なくとも「科学とは」とかで検索してヒットするような話ではない。

だったらこうしてアップしておくのも、悪いことではないだろう。

posted by 亀@渋研X at 21:08 | Comment(11) | TrackBack(0) | FAQ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする はてなブックマーク - 【FAQ】「科学の問題であるかどうか」は、提唱者が「科学」と呼んでいるかどうかではない
この記事へのコメント
言及いただいて、なんかぼくが混乱させたのかもしれないとも思うので、コメントしようと思ったのだけど、どうやってコメントしたらいいのかわからない。しかたないので、ここに。読んでもらえるかどうかは心もとないけど。

よく分からなくなってきた(のではなく、きっと最初から分かっていなかった)(不連続ブログ 2009年01月24日)
http://discontinuous.blog44.fc2.com/blog-entry-80.html

きくちくんのコメントの解釈をぼくがするのは変かもしれないんですけど。
前段の〈「物質の性質についての事実の言明」であるかぎり、そう(=科学者の検討対象に)なります〉を〈「水伝は科学を装っている」の根拠〉と読むのは無理があると思います。飽くまで、本人が科学じゃないと言えばそれで科学的な主張ではないことになるのかということについてのコメントでしかないと思いますよ。

また、「物質の性質についての事実の言明は、仮にそれが科学的に見て正しくなくても、科学的に検討されたものと誤解されやすい」というのは、当たっているのかもしれません。しかし、言明の内容が誤っているだけでは単に間違った主張や強過ぎる主張なだけで、慎重な人はニセ科学とは呼ばないと思います。

私家版「ニセ科学用語の基礎知識」β1:未科学
http://shibuken.seesaa.net/article/52939434.html#%E6%9C%AA%E7%A7%91%E5%AD%A6

私家版「ニセ科学用語の基礎知識」β1:間違った科学
http://shibuken.seesaa.net/article/52939434.html#%E6%9C%AA%E7%A7%91%E5%AD%A6

水伝を「科学を装っている」とみなす根拠としては、実験で確認されたとか今後確認可能であるかのごとく主張していることや、ファッション、道具立て等で十分ではないでしょうか。
Posted by 亀@渋研X at 2009年01月25日 01:59
亀@渋研X さん、はじめまして。すみません、あんな「しばらく様子見しよう」とか暢気に書いているエントリに素早いコメントを頂いて恐縮です。

> 前段の〈「物質の性質についての事実の言明」であるかぎり、そう(=科学者の検討対象に)なります〉を〈「水伝は科学を装っている」の根拠〉と読むのは無理があると思います。飽くまで、本人が科学じゃないと言えばそれで科学的な主張ではないことになるのかということについてのコメントでしかないと思いますよ。

 あ、そうなんでしょうかやっぱり。ふと「こうも読めるのでは? もしや、ニセ科学批判においてはそう読むことが前提で皆さん話しているのでは?」という疑念が兆すとむくむくとそんな風に読めるような気になってしまいまして。

 元のエントリの方にもここでコメントを頂いた事を追記しておきました。ありがとうございます。
Posted by kaqu11 at 2009年01月25日 13:43
遅ればせながらコメント。「何度か出ている問題」なのになぜ解決(疑似科学側と疑似科学批判側の間で)を見ないかを考えるべき。

それは一方の見方を他方に押しつけているだけだからだよ。この記事の冒頭の菊池さんの発言にしても「我々(科学側)は、このように見なす」と宣言しているだけだ。

まあ科学側の言い分としてそれを述べるのは悪くないが、疑似科学や宗教側にもそれなりの言い分はあるだろう。普通はこういう場合両者の「すり合わせ」を試みるものだよね。お互いどういう定義が良いのか認識を共有しましょう、と。それをしないから、いつまでもこの問題は続く。

とはいえ疑似科学側と疑似科学批判側がこの問題について共通の認識にたどり着けるとはとうてい思えないのも事実。それが分かっているから疑似科学批判側も「一方的な宣言」をしてそこで止まっているのだろう。

解決しないのは確かだが、解決しない理由は明白だ。疑似科学と科学の間で共通な用語の統一などできるわけがないからだ。にもかかわらず疑似科学批判側は疑似科学に対して科学関連の用語・用法はすべて科学側の都合に従えと求め続けている。

それならば逆に宗教側の要求も受け入れないとダメだろう。宗教が「こういう言い回しを科学でされては、それは宗教的な意味に誤解されるからやめてくれ」と科学に対して求め来たら、科学側はそれを受け入れるのだろうか?たぶん受け入れないだろう。にもかかわらず科学は宗教側には受け入れろという。

このような場合両者は互いに不干渉を貫くのが一番だ。実際長らくそうしてきたはず。宗教や疑似科学について科学は立ち入らないという姿勢だった。むろんそのために疑似科学の跳梁を許してしまい、その反省から疑似科学に対する積極的な批判の動きが始まったわけだが、それが本当に正しいのかもう一度疑ってみるべきだと思うよ?

科学が疑似科学や宗教に干渉するなら、それらが科学に干渉することも認めなければならないだろう。つまりそれは科学と宗教の間に共通の用語や概念を作るということだ。そうしなければ「どうあるのが正しいのか」を互いに話し合うことなどできない。

しかし科学と宗教の共通化などあり得ないよね?そんなことは仮にできたとしてもすべきではない。

用語や概念の共通化ができないと言うことは両者の間で話し合う基盤が作れないと言うことであり、それは話し合うことが不可能を意味する。つまり互いに無視し不干渉を貫くのがもっとも妥当な選択だと思うよ?

疑似科学がもたらす弊害は科学側が解決すべきものではない。それは警察や民事、行政の仕事であり、「科学を装っている」とかなんだかんだと無理に理由を付けて科学が首を突っ込む問題ではない。

俺はそう思うけどね。
Posted by titton at 2009年02月06日 15:26
titonさん、感想をありがとうございます。

お書きいただいたことには無数の論点が含まれているように思われますが、ここではできるだけ2つの点だけにしぼって、簡単に書かせていただきます。

ひとつは、引用した菊池君のコメントをどうとらえるかということ。もうひとつは、疑似科学やニセ科学と科学の問題を、宗教と科学の問題になぞらえて考えること。

ひとつめ。

上に引用した菊池君のコメントを、ぼくは「ある特定の文脈Aで語られていることに見えるかもしれないが、実際には別の文脈Bを混線させながら語られていることがある。その場合、文脈Bの使い方がおかしければ文脈Bの立場から批判される」という指摘だと理解しています。

これは、「ある特定の文脈で語られていることを、その文脈を無視して別の文脈で語っている」といったこととは区別できるでしょう。

ふたつめ。

疑似科学やニセ科学の問題については、非常に広範な視点・論点があると考えています。科学と宗教(あるいは信念・信条)という対立軸を立てて考えることも可能かと思いますが、ぼくはそれでは問題の一部しかとらえられないのではないか、ヘタをすると矮小化してしまう可能性もあるだろうと考えています。

たとえば、ぼくにとってニセ科学問題は「自分や家族などがどう行動選択するか」という問題です。各人の信念や信条・経験によって認識が歪むことがあり得るという話ではありますが、幸か不幸かいわゆる特定宗派への信心はもちあわせていません。特定の信仰をもたない人は現代日本では少なくありませんが、科学 vs 宗教という対立軸を据えてしまうと、自分が属するそうした層が見落とされかねないと考えています。

少なくともこのエントリが扱っている論点についていえば、宗教や信念との関わりは極めて薄いのではないでしょうか。単なる勘違いに関する話とまで言うと語弊があるかもしれませんが、基本的にはそんな程度の話題だと思います。

Posted by 亀@渋研X at 2009年02月07日 10:17
以下は特にtitonさんにというわけではないのですが、関連してもう少し。

疑似科学やニセ科学と呼ばれるものの一部には、実際に宗教や信仰と関連が深いものもあります。しかし、多くは誤認や論理的整合性といった問題です。

たとえば、自分の信じるところに反する結論は飲み込みにくいとか、願望に沿った結論に飛びつきやすいといった人間の心理傾向の問題がありますが、これも宗教や信念とはまた別の問題でしょう。ひとつの主張のなかにいくつもの問題が含まれることもありますし、信念などによってそうした心理的傾向が強化されることがあることも確かです。けれども、特定の信心などをもっていなくても十分に起きることでもあります。

また、なにを事実と考えるかという問題は、信仰心や信念とも関わることがありますが、科学的思考と呼ばれるものと信仰が常に排他的にしか機能しないというものでもありません。

ぼくが話をしたことのある方々からの類推でしかありませんが、はっきりとした信仰心をもっている方々は、科学的思考法がどのようなものであるかを知ったところでゆらぎません。それどころか、多くの場合すでに彼らはそれなりに科学的思考法を理解し、また使いこなしています。思慮深い信仰者は「教義の記述は実話としてか考えるべきか、寓話として考えるべきか」とか「自分の信じる神やその教えはドグマなのだろうか」などと悩んだ過去をもっています。

程度の差はあるにしても、なにかを信仰しているからと言って、たとえば「実証的に考える」とか「根拠に基づいて考える」といったことを決定的に無視する人には、まだお目にかかったことがありません。そのうえで、折り合えるところというか最も妥当と考えられる立ち位置や考え方を見つけたり、見つけようとしています。

そうした経験からぼくは、科学と宗教や信仰・信条といったものの関係を考えるについては、抽象化された「科学」「宗教」「信仰」「信条」を考えることと、具体的な人の営みは区別する必要がありそうだ、と考えています。ひとくくりに「宗教」「信仰」という設定できるほどさまざまな宗教や信仰を知らないという理由もありますが。

また、人の営みについても、たとえば「信じる」ということをひとつとっても「信仰」と「願望」や「好悪」「誤認」といったことはそれぞれ区別して考える必要がありそうだと考えています。それぞれに関連がある場合があっても元々は別のものですし、たとえば先入観から「あらゆる信仰は好悪感情や願望、誤認に基づいている」といった間違った前提を立てた論考をしでかしかねませんから。

そう考えると、信仰をもつ方々と、漠然とした「なんとなく、この話が好き」とか「こうだったらいいよね」という方々は、はっきり区別して考えたいところです。漠然とした基準であっても、それを行動規範として強く意識している方もいますから、またこれも別の層として考えるべきかもしれません。可能であれば、商売上の都合で特定の主張を採用している方々も識別したいところです。

そうした個々のさまざまな違いをも宗教や信念といったことばでくくってしまっては、どちらの方も迷惑でしょう。迷惑ではなくても、的外れな考察にしかならない可能性が高くなりそうです。

いずれにしても、思慮深いということが美徳の一つに数えられるのであれば、彼らが信仰の道に至るのであれ、そんなことは考えてもいないのであれ、多様な文脈があり、それぞれの文脈で答えは違うということを事例に沿って知るのは、誰にとっても有用でしょう(「知らないでいられる方が幸福」という考え方があることは知っていますが、ぼくは基本的にそういう立場をとりません)。

引用した菊池君のコメントのような考え方に馴染めない方・共有できない方がいることも理解はしていますが、なぜ共有できないのかを第三者が考える際には、前記でいえばどの方々に当たるのか、またどれにも当たらないのだとすれば、どういう方なのかも含めて考えたいところです。
Posted by 亀@渋研X at 2009年02月07日 10:29
菊池さんの文脈の件について。ちょうどいいので菊池さんのコメントを題材にしているけれど、以下の話は菊池さんに限ったことではないし、また菊池さんには当てはまらないものも含まれている。疑似科学批判をしている人々全般によく見られる傾向という事で。

文脈Aと文脈Bという判断の基準がすでに科学側のスタンスを前提としている。「科学的にみて正しい」という言葉は「科学の世界」での意味と「科学以外の世界」での意味は必ずしも一致しない。科学の世界の中ではかなり限定的な意味で使われる。いい加減なことを「科学的に正しい」とはいわない。しかし科学以外の世界ではもっとおおらかに使われるはず。

「科学的に正しい」という言葉を科学側が科学以外の世界に対しても、そこまで用法を限定していいものなのか。ある宗教が「この言葉は我々の教義の中で特別な意味を持つから、それ以外の意味にみだりに使わないでくれ」と主張したら、その宗教の信者以外の人間も含めて世界中の人々はそれを受け入れなければならないのだろうか。ある宗教が「汝みだりに神の名を口にするなかれ」と主張したらそれに従うべきなのか。、

もちろん用語の混乱が著しく社会に害悪をもたらすものについては、きちんと制限しなければならない。医療や医薬品の説明などがどのような表現を使っていいか法律で定められているように。しかし逆に言えば、最小限のものしか制限していない。みだりにあれこれ制限すると文化や経済活動の発展を妨げると経験的にわかっているからだ。

「科学的」という言葉を科学の世界での意味とは別な意味で宗教や疑似科学側が使うことは、それに匹敵するほど社会にとって重大な害をもたらすといえるのか。確かに宗教や疑似科学はしばしば社会に害をもたらす。カルト事件やオカルトグッズによる詐欺、宗教上の理由で輸血を拒否した事件、議事科学療法を信じたがために適切な治療を受けない等々。しかしそれらは個別に問題化し対処すべきであって、根本的な解決と意気込んで宗教や疑似科学そのものを悪とするのは行き過ぎだと俺は思う。

またこれらの問題は疑似科学とは無縁の活動でも生じるわけで、疑似科学の側面があれば叩くが、疑似科学的側面がないものについては、たとえ生じた問題が同じでもノータッチ、というのもおかしな話。まったく科学を装わないカルトも事件を起こすし、円天事件のように疑似科学とは無縁の詐欺事件も起こる。というかそちらの方が多い。

つまりこれらの社会問題は疑似科学的側面を含むか含まないかは、ほとんど重要ではない。性犯罪者の部屋から、美少女ゲームが発見されたからといって、美少女ゲームを弾圧したら「行き過ぎだ」と反論する人は少なくないと思う。それがなぜ疑似科学では「どんどんやっつけて社会をよくしよう!」という方向に簡単に暴走するのか。たぶん美少女ゲームが減ると困る人はいるが、疑似科学がなくなっても困る人は少ないからだろう。しかし自分が困らなければ、安易に弾圧していいという考えは危険だ。
Posted by titton at 2009年02月08日 13:27
疑似科学や宗教(とくに先鋭的な新興宗教やカルト)は、しばしば人に不幸をもたらすのは事実。何らかの手段で対抗したくなるのは人情だし、人情というような生やさしいものではなく、社会正義に則った活動といえるのかもしれない。疑似科学への対抗(攻撃)材料として、その(疑似)科学的側面への攻撃を手段を多用したくなるのはわかるのだが、そう単純な話だとは俺は思わない。

というのも疑似科学(やそれを入り口にしたカルト)にハマる人間というのは、その(疑似)科学的側面に引かれてハマっている人は案外少ないと思うからだ。ハマる人はその疑似科学が科学的に正しいか否かは実はそれほど興味がない。「世間からまだ注目されていない最新の科学を自分はいち早く目をつけた」「俺は先見の明がある」という優越感。まだそのすばらしさを理解しているのは自分を含めて少数だという選民思想的なもの。世の中に幸福をもたらす理論を世界中に広めよう、という使命感。その使命感の下に結束している仲間意識。そういうものの魅力にとりつかれて疑似科学から離れられないのだ。

つまりこれはカルトが人々を引きつけるのと同じ構図だ。彼らはその思想を広めることが社会のためになると考え、彼らなりに社会正義の社会正義を実現しようと努力し、それに生き甲斐を感じている。水伝にしても、水の結晶が本当に言葉によって形を変えるかなど水伝の支持者の多くは頓着してないだろう。それよりも水伝によって人々が正しい考えを持ち世の中が道徳的になることが彼らにとっては重要なのだろう。

そういう人たちに科学的に何が正しいかを説いて意味があるのだろうか。そういう人たちは仮に疑似科学を此の世から根絶しても、何かしらのカルトにハマることだろう。彼らは「科学的に正しい」から疑似科学を支持しているわけではない。疑似科学にハマっている人は科学に無知な人が多いというのは事実だろう。科学てな考えができない人が多いというのも事実だろう。しかし疑似科学にハマっていない人でもそれは同じだ。大部分の人は科学に無知だというだけのこと。

また多くの優秀な理系の信者が参加していたことで世間に衝撃を与えたオウム真理教事件をみればわかるように、科学に詳しい人間だからカルトにハマらないというものでもない。あの時マスコミは苦肉の策として「世間知らずの理系がカルトの毒牙にかかった」といった調子で報道した。

もちろん疑似科学側の主張が科学的に正しくないのは事実なのだから、それを指摘する行為は正しいし大いにやるべきだと思う。しかし指摘しても彼らが考えを変えないのは、彼らに理解力がないとか、科学に無知だからとか、合理的な思考ができないからという理由ではない。上述のように彼らはそこに自分の自己実現の手段を見いだしているからだ。広い意味では「愚か」に含めることはできるだろうけれど、少なくとも「科学的な思考力が劣っている」から、疑似科学から足を洗えないのではない。

だいたい科学に無知な人間というのは科学に興味がないから無知なのであって、そういう人が疑似科学にハマるのは、その科学的側面に興味をもってハマるのではない。彼らにとって科学などどうでもいいのだ。自己実現の手段を得られれば、それが(疑似)科学であろうと神の声だろうと何でもいいのだ。

で、このように考えていくと、疑似科学的な側面ばかりにこだわってそれを中心に批判を行うことはむしろ問題の一面だけしか見ていないことになる。あなたは「科学vs宗教」という構図でとらえることは問題を矮小化すると語った。それは全く同感なのだが、そこからどの方向に踏み出すかが俺とあなたでは正反対のように見える。あなたは「だから宗教的な面は無視して科学的側面だけに集中すべき」と考えているのかもしれない。一方俺は逆だ。疑似科学がもたらす害悪の大部分は(疑似)科学的側面ではなく、上述のような選民思想や集団への帰属意識、社会的使命感の暴走、などカルト的な側面によって生み出される。つまりカルト(宗教)的側面が主であって、(疑似)科学的側面は枝葉に過ぎない。

それを宗教や思想は叩きにくい(科学のように簡単に白黒決着をつけられない)からといって、(疑似)科学的側面を叩くことが、疑似科学がもたらす社会的問題の解決につながるのだろうか。俺には効果よりも科学側が被るダメージの方が大きいように見える。「科学は正しい。科学的な考え方ができない愚かな人間が疑似科学やカルトにハマり不幸になる」こういうアジテーションは、科学にとってプラス面とマイナス面をもたらす。「なるほど自分も科学的な考え方ができるようになろう」と思う人々もいれば、「なんだ、偉そうに」と反感を持つ人々もいるだろう。そしておそらく前者の人々はその時はそう思っても実際には科学的な考え方ができるように努力などしない(笑)。

俺は、科学的な考え方というのは人間にとって特殊で不自然な思考だと思っている。だからこそ科学"だけ"が成功している事柄が多い。人間が普通に自然に思考するとそうはならない。人間は努力して苦労してわざわざ「科学的」という不自然な思考をしているわけだ。したがって大部分の人間は科学的思考をできないし、する必要もない。科学的な思考ができなくても疑似科学やカルトにひっかかって不幸な結果を招かないような方法こそを考えるべきで、「みんなが科学的思考ができるようになれば、(疑似科学やカルトにハマって)不幸にならなくなります」という主張は受け入れられないだろう。おそらくどこかで支持者の率は頭打ちになるはず。
Posted by titton at 2009年02月08日 13:28
最後の話題。十分賢く思慮深ければ信仰と科学は両立できるはず、という件。それは全くその通りなのだが、上の話にも通じるが、世の中の大部分の人はそこまで賢くないし、そもそも賢くなるのを望んでいない。人は別に「科学的に正しい考え方ができるようになる」ために生きているのではないのだから。物事を深く考え真理に近づくことを無情の喜びと感じる人もいれば、別なものに人生の価値を見いだす人もいる。がんばれば両立できるはずなんだから、両立できるようになれ、というような主張は、一定以上の支持は得られないと思う。

オウム事件が起きた前後にも疑似科学批判ブームがあった。と学会の「トンデモ本の世界」(やそれに先行する宝島の記事)が火付け役だったと思う。それまでは疑似科学の本は売れるが、疑似科学批判の本は売れない、というセオリーを破った画期的な本だと思う。それはいいのだけれど、今振り返って当時のブームが残したものは何だったのか?

現在行われている疑似科学批判は、健全なものもあるけれど、多くは疑似科学信者を嘲笑したり見下したり、ヒステリックに叩いたりと、とても健全な状態ではないように見える。つまり10数年前のオウム事件の頃の疑似科学批判ブームを通して、「あるべき健全な疑似科学に批判の仕方」は確立できなかった事になる。

なぜ確立できなかったかを考えた時、俺は上述のような結論に至った。疑似科学には「科学的側面」と「カルト的側面」がある。科学的側面に科学的な批判を加えることは悪いことではない。正しい事実を示すことは有意義なことだ。しかしそれによって疑似科学がもたらす社会問題を減らそうとするなら、それは手段が間違っている。間違った手段をとっているから成果が上がらず、ますますヒステリックで先鋭的な批判へと流れる(大槻教授などがいい例だ)。これではどちらがカルトかわからない。

疑似科学が生み出す社会問題を減らしたければ前述のように刑事・民事・行政的な問題としての対処に専念すべきだし、もし心理的な面からのアプローチならば、疑似科学にハマる人が求めているモノをもっと健全な方法で提供してやるのも一つの方法だ。彼らが求めているのはカルト的なものなのだから、代替えとして穏健な宗教を推奨するのも選択しとしてはありだと思うよ。あるいは彼らが生き甲斐にできるような、人はどう生きるべきかを示唆するような思想教育をするのも選択肢だろう。

宗教や思想教育というと拒絶反応が高い。でも案外、そういうものを社会の表層から排除してきたからこそ、人はそれをカルトや疑似科学に求めるのかもしれない。むしろワクチンのように毒性の弱い宗教や思想に一度"感染"させて、免疫をつけさせるべきかも知れない。

水伝に基づいた自由研究を生徒が夏休みの宿題に提出したという話題があった。これこそ学校における科学教育の崩壊だ、というのはその通りかも知れないが、では水伝を教育現場から排除すれば「正しい科学教育をした」ことになるのだろうか。それでは解決になっていないと思う。その自由研究のどこにミスがあり間違った結論を導いてしまったのかを指導することこそが、「科学的な考え方」を教育するということだろう。

もちろん「そんな余裕はないんだ!今はとにかく水伝を排除することが先決なのだ」という考えも一理ある。同様に社会、特にテレビ番組などから疑似科学を排除することが先決だと考え、活動している人もいるだろう。しかし10数年前の疑似科学批判ブームは結局そこの段階で終わってしまった。まあ、疑似科学との戦いは永遠のモグラたたきをするのが正しいのかもしれない。上で述べた毒性の弱い宗教や思想で毒を以て毒を制するというのはリスクがある。俺自身今すぐそうなるとすれば、むしろ反対を唱えるだろう。

しかしネットなどでこれだけ疑似科学批判をしている人がいるのに、みんな判で押したようにほとんど一つの思想「疑似科学は科学を装っているから悪なのだ」に染まっている状況というのはちょっと気持ちが悪い。俺が挙げたような、あるいはもっとユニークなアプローチ方法を唱える人が出てきてもいいと思うのだが。

なぜ出てこないのかといえば、疑似科学批判をしている人々自身がある種のカルト化してしまっていて、自分では考えない人ばかりなのだろう。「疑似科学は悪であり、それを社会から排除することが社会をよくすることである」という絶対的教義が中心にあり、それを守るためにその場その場でそれを正当化する理屈を考え出している。誰も「本当にその教義は正しいのか」を考えない。むしろ疑うことがタブーになっているのだろう。自分たちの教義に疑問を抱くなど、それは敵(疑似科学)を利する行為以外の何者でもない、と。疑い、考えた上で「やはり俺はあくまで疑似科学は社会から排除することが正しいと信じる」というなら、それはそれでいいのだけどね。
Posted by titton at 2009年02月08日 13:28
tittonさん。
お書きいただいた文章を追って行けば行くほど、tittonさんが論じたい対象が、どんどんわからなくなっていきます。ある一文だけ部分的に取り出すと、一般論として同意できる部分もないことはないのですが、前後とのつながりを考えるとおかしな話になっていたりするので、なんとも理解しに苦しむことになっています。

tittonさんがおっしゃる「疑似科学批判」について、今後も同様のご指摘をし続ける必要があるとお考えでしたら、あちこちのコメント欄に出没するよりも、どこかにまとまった形で主張を展開されたほうが、よいのではありませんか? 事例を挙げながら、論点を明らかにしながらであれば、問題意識も伝わりやすいのではないでしょうか。

人の行動スタイルに口出しをするのは本意ではありません。どなたであれ、なにについてであれ、多くの場合はなんらかの理由があって行動を選択しておいでしょう。理由がある以上、説得して誰かを翻意させるなんていうことは、並大抵のことではないと承知しております。ですから、スルーされても別に不満もありませんが、ご一考をお薦めします。

それだけでもなんですから、次のコメントで、2月8日の1つめのコメント(2009年02月08日 13:27)について、どう理解に苦しむのかのご説明を。
Posted by 亀@渋研X at 2009年02月09日 04:21
>文脈Aと文脈Bという判断の基準がすでに科学側のスタンスを前提としている。

という辺りは、前述のぼくのコメントを引いているのだということはわかります。しかし、「ある特定の文脈Aで語られていることに見えるかもしれないが、実際には別の文脈Bを混線させながら語られていることがある。その場合、文脈Bの使い方がおかしければ文脈Bの立場から批判される」なんていうことは、別に科学を持ち出す必要もない話です。

科学どころか学問分野である必要さえありません。実写ドラマとアニメでも、散文と韻文でも、プロサッカーとアマチュアサッカーでも、なにについて語った時にでも起きうることです。

それはそれとして。

>「科学的にみて正しい」という言葉は「科学の世界」での意味と「科学以外の世界」での意味は必ずしも一致しない。科学の世界の中ではかなり限定的な意味で使われる。いい加減なことを「科学的に正しい」とはいわない。しかし科学以外の世界ではもっとおおらかに使われるはず。

おっしゃる通りですが、これも分野を問わずに起きていることです。そして、誤解を招きかねない事例があったときに、それに気づいた人が指摘するのもよくあることです。もしも科学に関する事柄だけ指摘をつつしまなければならないとするのであれば、それには別途理由が必要でしょう。

また宗教の例がお好きなようですが、たとえばキリスト教に関する話だと誤解されそうな文脈で「スピリット」や「予言者」などという言葉を使って転生や終末の話などが出て来たら、「それはキリスト教の話としては適切ではありません」「キリスト教の一般的な宗派では、そういう言葉づかいはしません」「転生という概念はキリスト教にはありません」「総じて、そのお話はキリスト教の話としてはおかしなものだ」などという指摘を受けることでしょう。

ここでもしも「キリスト教では」という制約を設けなかったら、その方がおかしな指摘になりませんか?

>またこれらの問題は疑似科学とは無縁の活動でも生じるわけで、疑似科学の側面があれば叩くが、疑似科学的側面がないものについては、たとえ生じた問題が同じでもノータッチ、というのもおかしな話。

tittonさんはお忘れかもしれませんが、先日のブックマークコメントでは、真逆のことをおっしゃっていましたよ。

http://b.hatena.ne.jp/titton/20090126#bookmark-11814940
>titton この人はどこまで自分のテリトリーを広げていくのだろうか。9.11と科学は関係ないよね?どんどん政治の領域に踏み込んでいる

ご主旨がどちらなのだとしても、賛同できません。どのような問題につていでであれ、あるものを批判しているからという理由で批判すべき対象の選択を云々されるべきだとは考えにくいです。2つの主張をしていて、そこに矛盾が生じているとでもいうなら別ですが。

ちなみに、「叩く」という表現が適切なニセ科学批判の例を、ぼくはすぐに思い浮かべることができません。ブックマークコメントの「これはひどい」タグや、同様に散発的・断片的に行われる罵倒めいた主張のことかな、とは思わなくもないですが、そのような感想と、ある程度のまとまりをもって論じられた批判をひとくくりにして論じるのは無理があるとも考えます。

世間に暴論は数々あります。ぼくはマスメディアに載ったようなものに気づけば採り上げようと思っていますが、個人によるどうしようもない記事は、そもそもできるだけ読まないようにしています。そのためかもしれません。

>つまりこれらの社会問題は疑似科学的側面を含むか含まないかは、ほとんど重要ではない。

それはそうだと思いますが、そこを「つまり」で結ぶのは無理があるのではないでしょうか。疑似科学ないしニセ科学的な要素を含まない社会問題があるという事実だけで、「その要素を含むかどうかは重要ではない」という主張は説明できません。

>性犯罪者の部屋から、美少女ゲームが発見されたからといって、美少女ゲームを弾圧したら「行き過ぎだ」と反論する人は少なくないと思う。

美少女ゲームに限らず、因果関係の混乱した主張を批判する方は少なくないでしょう。疑似科学を批判されている方はどうかわかりませんが、ニセ科学的なあれこれを批判している方々の多くも、同じようにそれを問題視しています。同根あるいは同質の問題だと考えているためだろうとぼくは考えています。

>それがなぜ疑似科学では「どんどんやっつけて社会をよくしよう!」という方向に簡単に暴走するのか。

それがなぜ、疑似科学を批判しているように見えると、「疑似科学批判者は『どんどんやっつけて社会をよくしよう!』という方向に簡単に暴走」しているように見えるのか、まったく理解できません。

>たぶん美少女ゲームが減ると困る人はいるが、疑似科学がなくなっても困る人は少ないからだろう。しかし自分が困らなければ、安易に弾圧していいという考えは危険だ。

これは、もしも2つの不当な主張があって、一方は批判されるがもう一方は批判されないということであれば、ひょっとすると一部にはそういう理由があるかもしれません。たとえば、「疑似科学を批判する主張のなかには、明らかに根拠のない思い込みに基づいたものが混じっている」あるいは「疑似科学を批判する主張は、なべてそういうものだ」などという事実があって、しかも、それを批判する声がないのであれば、ということです。

実際には、おかしな批判があれば同様に指摘を受けています。もちろん、マスメディアに載るような記事ほどは衆目を集めていないとは思いますから、批判が目立たないでしょうけれど。

「弾圧」という言葉の選択は、かなり不適切だろうと思います。弾圧と言い得るような実態を持った行動が、どこかで展開されていて、ぼくが知らないだけなのだという可能性はありますが、ぼくの知る限り、Web上や書籍などでのさまざまな方々による論考には、個々のつながりは定かではないでしょう。また、強制力もないでしょう。同調圧力を形成しているというほどに人口に膾炙したものでもないだろうと思います。
Posted by 亀@渋研X at 2009年02月09日 04:25
先にも書いたように、上記は基本的に2月8日の1つめのコメント(2009年02月08日 13:27)についてだけ言及したものです。ぼくの上記の読み解きが必ず正しいなどというつもりはありません。なんらかのバイアスがぼく自身にあって、誤読している可能性がないとは言えませんし、主に、なにを対象にしているのかが不明瞭なため、自分の誤読可能性を吟味するのが困難なためです。

そんなこんなで、とりあえずはここまで。2つめのコメント(2009年02月08日 13:28)以降についてコメントをすると保証はできません。おそらく書かないでしょう。

今回いただいコメント、とくに2つめ以降は、基本的には最近あちこちのコメント欄やブックマークにお書きのことと同じ内容の繰り返しのようで、その度にいろいろな方々にされている指摘をここで繰り返す必要があるのか疑問なためもあります。かなり不毛な印象を受けています。
Posted by 亀@渋研X at 2009年02月09日 04:27
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック