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2つ前のエントリ【FAQ】なにを調べれば「効果あり」と言えるのかは「具体的に」と言っても一般論の範囲を出ない話だった。で、それを踏まえて、今ちょっと悩ましい思いをしている話などしちゃう。思案投げ首中なので、ご意見募集。お気軽にどぞ。
なにかの現象をちゃんと確かめたと言えるためには、前記のようないくつかの条件をクリアしている必要があるということに異論がある人は、ほとんどいないだろう。じゃあ、そういう条件をクリアできていないテストの類いは、「実験」とか「検証」「実証」なんて呼んでもよいのだろうか。多分、ほとんどの人には断るまでもないけれど、4つ前のエントリ『MONOQLO』vol.2発売中【追記あり】で〈「検証」「実証」という見出しをつけてしまうのは問題〉と書いたのは、そういう問題意識からだ。コメント欄には「それでなにが問題なのだ」という意見と「あれは問題だと思う」という意見が1つずつ寄せられている。
辞書的には実証でも検証でも同じようなものだ。実験もかなり近い。たとえば三省堂「大辞林 第二版」@goo辞書で見ると「実証」「検証」「実験」となる。で、前述の条件がクリアされていないようなものを「検証」「実験」なんぞと呼んではいかんだろう、という気になる。それをテレビで「検証!」なんて言われてたら「検証になんか、なってないやん!」と即座にツッコミを入れるだろう。
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あわてて言っておくと、「ぼくは記事でそんな表現は使ったことはない」なんてことじゃない。むしろ、自分でもどっかで使ってそう。カアチャン(やっぱり編集者でライター)にも話してみたけど、同じ意見(見たらよくないと思うけど、自分でも無自覚にやってそう)。メディアづくりに関わる人間って、反射的にキャッチーな言葉を求めてしまうのだなあ、という点で、自戒ってえか、怖いなあ、って話。で、さらに、世間の人ってどういう受け止め方をするんだろう、って感じでこのエントリなのだ。
もひとつ念のために断っておく。自分の関わっている記事以外には、なんの権限もぼくにはない(自分が書いている記事だって、編集権は編集部にあるんだけど、まあそこは置いておいていいよね)。編集部の人が、このブログを読んでいる保証もできないし、ここに寄せられた意見を編集部に伝えることはできても、それが反映されることを約束なんかできない。
極論すれば、担当外の記事というのはよその雑誌でやってる記事と同じようなもので、口出しできる理由は特にない。その編集部に知り合いがいれば、よその雑誌だって、気になることについて聞いたり意見を言ったりすることはあるわけだけど(滅多にしないけど)、それと大して変わらない。いやまあ、大人気連載とかもってる人は違うかもしれないけど、それは少なくともぼくのことではない(^^;;
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で、昨夜(21日の夜)からあれこれ考えているのだけど、一般の理解は辞書とはちょっとズレがあるのではないか、なんてことが気になりだしてしかたがない。「一般の理解」なんて調べようもないヌエ的なものを持ち出しちゃ、話がおかしくなりかねないのだけど、気になる。編集部の人や読者は、ほとんどそっちだろうからね。
昨夜までのぼくは、「実証・検証・実験なんて言えないじゃん」と考えていた。昨夜から、ちょっとそこがゆらいでいる。辞書的にはほとんど同じ意味のはずの言葉なのに、「実証」はアウト、「検証」は基本的にはアウトだけど文脈次第ではセーフ、「実験」はセーフなのかな、と考えたりもしている。
以下、身内びいきとか保身のような心理を働かせないようにしようとはしているのだけれども、そういう心理は絶対ありませんよと言えるかと考えると、ちょっと心もとない。なんかダブルスタンダードになってるような気もする。その辺も、なにかお気づきでしたらツッコミを。
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『MONOQLO』vol.2の二特では、いろんな商品がテストされているのだけど、商品によりテスト内容によって「検証」「実証」「実験」「実測」「証言」などとうたわれている。どういう基準で使い分けられているのかは、記事からではよくわからないけれど、まあ「測ってみた」のを「実測」というのは問題ないよね。体験者などの意見を「証言」とするのも問題ないだろう。問題は「検証」「実証」「実験」といったところ。
二特のトップバッターはナノイー製品なので、先のエントリのコメント欄にSSFSさんが登場しているけれども、ぼくは別にナノイー製品が気になるわけではない。ただし、おかげで思い出させてもらえたことがあって、ナノイードライヤーは『家電批評monoqlo』vol.10でも採り上げられたことがあった。ちなみに、執筆者は違うけど結論はどっちも同じ。「原理とかはともかく、試してみた範囲では効果はあるようだよ」というようなもの。
やってるテストは前回も今回もどちらも似たようなもの。「本当にそうなるのか、実際にやって比べてみた」の類い。前述の条件を全てはクリアしていないので、科学の世界では「単なる個人的な見解・感想だね」と言われちゃうようなやつ。
自分でも気持ちが悪いのは、ぼくはvol.2の二特で「検証」と書かれると「えー、これは検証と言えないんじゃないの?」と引っかかり、vol.10のときは引っかからなかった。前回の記事は知り合いが書いていて、今回のは知らない人が書いているけど、どう首をひねっても、そこに原因がある気がしない。やってることも結論も同じなのに、なぜ以前は自分が引っかからなかったのかを考えていて、「文脈」ということに思い至ったわけ。この辺、実際に記事を見ていない人にはわかりにくいですよね、すいません。ちょっとだけ写真など。
▼『MONOQLO』vol.2
▼『家電批評monoqlo』vol.10
読めるようにアップしちゃうとまずいかなあと思うので、雰囲気だけですがちょっとでも参考になれば幸い。
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文脈次第ってのは、こういうことだ。たとえばメーカーが言っている効果を、簡単にできる範囲ででも確かめてみるといった文脈で用いられる場合、それを「検証」と呼ぶのは、一般的には必ずしも間違っているとは言えないのではないか。その文脈が明らかならセーフなのではないか。
もうひとつは、大々的に「検証!」なんて大書されるとインパクトありすぎで、さすがにまずくないか、って感覚がある。でかいか小さいかは、問題じゃないよ、そういう言葉が使われているかどうかだ、という立場があるのは理解できる。だから、これは編集者に独特の感覚かもしれない。
▼『MONOQLO』vol.2
こんぐらいだと、「大々的」とは言いにくいけど、それでもちょっと引く。ヤバいだろ、と思っちゃう。
そんな感じ。いや、まだ迷ってるんだけど。
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文脈ってことが気になるのには、下記のようなからみもある。
「メディアがやってるのは演示実験で、デモンストレーション」と言われることがある。演示実験というのは、ふつうは授業などで先生が生徒たちに見せる、模範演技のような実験のことですよね。前エントリで触れた「対照実験になってない」という辺りも関連してるのだろうと思う。
ただ、演示実験は、どうなるかがわかってて「やって見せている」わけで、どうなるかが不明なことを確かめるというようなものではないはずで。そうだとすると「どうなるかがわからん」という問題について答えを出して見せるようなものを、「演示実験だからオッケー」とは言えないよね。
ってことは、文脈によって「対照実験になってなくてもいい」「演示実験でオッケー」なときもあれば、「対照実験になってなければならない」「演示実験ではアウト」なときもあるってことにならないか(おそらくこれは、主張の強さ・新奇さとも関わる)。前者の際には、それを実験と呼ぶことには、なんの問題もないだろう。後者の場合には、「そんなもんを実験と呼ぶのは印象誘導だ、けしからん」と言われてしまうことになるだろう。
っていう理解が合っているのなら、別の言葉ではあるけれども、そして「実験」よりも強い表現だとぼくなどは思うのだけど、「検証」という言葉についても同じような機微があっても、おかしくないようにも思う。
ただ「実証」と言われてしまうと、どうしても「実際に確かめて明らかになった」という印象が強くて、対照実験みたいな配慮がされてないとまずいと思ってしまう。
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辞書を持ち出さなくても、昨夜までのぼくのように「どっちだってアウト」という考え方も当然あり得る。
これまた語感や印象の問題かもしれないのだが、マスメディアが「検証した」と言ってしまうと、「ちゃんと確認された」と受け取ってしまう層が必ず出てくるだろう。しかも、少なくないんじゃないか。表現する側としては、この文脈ならギリギリでセーフだと主張できても、読者や視聴者にそれは通じないのではないか。
世間は演示実験も対照実験も区別していないに違いない。だけど、「実験で確かめる」に求めている役割は、どっちなんだろうってことでもある。
実験とか検証作業に詳しい人にとっては、どういう条件で行われたものかという情報が一緒に示されていれば、「ああ、そのレベルの『なんちゃって実験』ね」と適切な評価がしてもらえると思うのだ。しかし、どんな情報が提示されても「実験」や「検証」の内実を問わずに結論を鵜呑みにする層は必ずいる。それを「受け手のリテラシーの問題」と切って捨てるような判断をしてよいのかと考えると、「それでいいんじゃない?」とは思えない。
おそらくは「科学の世界で言う『実験』『検証』と、世間で言う『実験』『検証』には大きなギャップがあるんだよ。そんなに細かく気にしないで、世間相場で使っても問題ないよ」という意見だってあるのだろうけど、さすがにそこまでさばけた感覚にはなれない。
見出しで「検証」とか書いていても、本文が「使ってみての感想」とかいうことに留まっていればいいんじゃないの? という「オトナな意見」もきっとある。が、それも「そうか」と思ったり「それでも」と思ったりする。
単純には、誤解を与えかねない「検証」「実証」「実験」という表現を避けさえすればいいんだろう。「証言」「チェック」「テスト」とかいう表現なら誤解を与える可能性は低いんじゃないかとは思う。
そうは思うのだが……どうでしょうね。それでも同じかしらん。それとも考え過ぎ?
なんかもっと違う線引きも、あり得るのだろうか。
それぞれの科学用語としての定義が分かれば示唆にもなるのかな、と云う気もしていますけれど。
自分の中で信頼できるとこと、全然信用できないところがあります。まずそれがいけないなあ、その先入観で失敗する。どうしても左よりのものを信じてしまう傾向に合って、
だから、9.11陰謀説を信じていたりするんだろうなあ。
たとえば、テレビは信用できない、新聞もバツ。
信用できるのは、かつての「暮しの手帖」、旧版の「DAYSJAPAN」で ダイヤモンドは固いか という記事でレイターの広河隆一が、自腹で買った(と記事にはあった)ダイヤモンドを金槌でたたいたら木っ端みじんだったというのを読んで、これは信用できると思った。
それから、昔の「本の雑誌」にあった、文庫本一冊で飯が炊けるかとか、文芸春秋読むのにどれくらいかかるか というのは信用できると思っていたけど、そういう話ではないのですね。
自分としては、スポンサーがからんでいたりするものは、たとえどんなに公正を装って(実際に公正にやったとしても)書いていても話半分で読みます。
自分で商品を買ってみないとわからないから、後悔することになるというパターンです。
mixiの日記でもご意見募集をしてまして。10人前後の方が反応してくれています。今のところはメディア関係者が多いのですが、自分が読者・視聴者になったときも、検証とか言われても、そんなにシビアには受け止めていないようです。メディアの信頼性が低く見積もられていると考えると悲しいことですが、リテラシーが行き届いているのだと考えると、喜ばしいことですよね(最もまずいのが、メディアを作っている側がルーズで、受け手が素朴に信じているという場合ですが、いまのところそういうことが起きているのかどうかは、まったく不明(^^;;)。
もうちょっと意見が集まったら、感触をまとめたりしてみようかなあ。「知恵袋」とか「人力検索はてな」とかで意見募集してみるのもいいのかなあ、なんてことも思います。