2009年04月05日

自然科学と人文科学。どっちもわかっていない自分

だいぶ間が空いたので、しばらく塩漬けになっていてまとまりそうにないエントリを、ひとつだけアップしてみる。タイムスタンプは「2009-02-15 14:10:56」となっている。実は、ほかにもゴマンと塩漬けがあるのだが、ちょっと調べものをしていたら、このエントリが目に留まったので、これでいいのだ。


ノンフィクションと「ファクト」(Chromeplated Rat 2009-02-15)経由で一種の知的活動ではあるのだが、どうもサイエンスとは異質の作業であるらしい(セキュリティ&コンサドーレ札幌 2009.02.15)を読む。

doleさん(でいいのかな。「セキュリティ&コンサドーレ札幌」の主さん)のエントリの方は、少しわからないことがある。多分、冒頭の地団研の話と、最後の方に出てくる池田清彦、福岡伸一、茂木健一郎の話とが、どれぐらいリンクしているのかがわからないから、かな。
ともかく、トンデモやニセ科学とは違う、でも現場の多くの科学者とは決定的な通訳不可能性のある、自然科学のようで自然科学でないような曖昧な分野、しかしなぜか人文科学者や文化人からは人気がある分野って、実際あるんだよね。

で、人文分野としてそんな思想があっても全然よいのだけど、なぜかこーゆーのに限って、世間では自然科学(理科)として扱われがちなのは、理科教育の面から見て困ったもんだと思う。

一種の知的活動ではあるのだが、どうもサイエンスとは異質の作業であるらしい

実際は人文科学領域の話なのに、読み手に自然科学領域の話と受け取られてしまうことがあるという指摘なのか、逆に、そのように語られてしまうことがあるという指摘なのか、そこがよくわかんないのかもしれない。「理科教育の面から見て困ったもんだ」というのは、どっちの場合でも変わらないようにも思うけれど。


ブックマークでは
kamezo [メディア][ニセ科学][科学]〈自然科学のようで〜なぜか人文科学者や文化人からは人気がある分野〉脳や心理、生命に関するあたり? 解釈としてではなく事実として語れば、いろいろと突つかれるだろうなあ。
http://b.hatena.ne.jp/kamezo/20090215#bookmark-12131525
なんて書いた。書いたんだけど、だんだんと「そういうことでもないのかな」という気がして来た。

poohさんの結論には、別に異論がない。
それがノンフィクションである(あるいは消極的に「フィクションではない」)と云うスタンスを標榜しているものは、自然科学系だろうと人文科学系だろうと原理としては広義のサイエンスにのっとったものでないとまずい(し、不誠実)だと思う。
で、それを意図的(法的用語で云うところの「悪意」)に混同する、あるいは心裡留保するような言説は、やはりニセ科学にとても近い性格を持つもの、として捉えるべきではないかなぁ。

ノンフィクションと「ファクト」
ぼくのブコメと同様に、事象の解釈を語っているにも関わらず、事実を語っているのかような主張は、困ったものだと思う。また、事象の解釈に触れた時にそれを事実に関する主張だと理解してしまうのも困ったものだ……といった話だよね。

などと思いながら、「そういうこととも、なんか違う話なんじゃない?」などという居心地の悪さが抜けない。


地団研とプレートテクトニクス理論の受容のことは、以前、ちょっとだけ調べたり、あれこれ考えたりしたことがあった(避難所のメモ当時のmixi日記のコメント欄)。日本の地質学や地学の世界がプレートテクトニクス理論をなかなか受け入れられなかった背景の一つに、マルクス主義の影響があるのではないかというような話がある。こういう思想・信念や願望、使命感などが考えることの筋道に別なベクトルを与えてしまって変な結論になったりすることは、一般論としてはあり得る(もちろん、それは飽くまで背景の一つに過ぎないのであって、それだけに単純化してしまうような理解ではまずい)。

それはそれで由々しき話ではあるのだけれども、今日の話題はそういうことではないようだ。そこら辺に足を取られるから、混乱してわからなくなるのだろうか。

もっと根本的な、人文科学としては「あり」な手法なんだけど、自然科学ではそれは「なし」なんだよな、ということだろうか。「自然科学と人文科学はテーマが違う」ってことはあるよね。でもそうじゃなくて、「手法も根本的に違う場合があるのだ。だけど、そこがわかってないよね」みたいな話。

そんなことがあるのだろうか。


そもそもぼくは「自然科学ってなあに、どんなもの」とか「人文科学って」ということが、よくわかっていないのではないか。少なくとも、専門に勉強した人じゃないし、ガッコーを離れてから久しいのでわかってなかったり忘れていたりしても、ぜんぜん不思議じゃない。

どうなんでしょう、自然科学は自然を、人文科学は人間を扱う学問だ、なんて言いますけど、じゃあ、その人文科学の一部である「思想」「哲学」といったものは、事実や事象そのものではなく、その「解釈」だとか「信念」のたぐいを扱うもので、結論を正解として確認・共有できるようなものではない……というような理解でいいんですかね。どうも、そうでもないような気もする(っていうか、以前「そうでもないよ」と技術開発者さんに教わった……のだと思う⇒「科学」なんだから共有しようよコメント欄2008年01月29日 17:09あたりから)。


たとえば不協和音や不快な和音を「不協和」「不快」と感じるのは、生理的な理由と文化的な理由があるとする(もちろん、ほかにも理由があるかもしれない。そうそう。やりがちだけど、どちらかの理由だけで足れりとするのは危ういですよね)。というのではですね、音楽の世界では、不協和音だの不快な和音も文脈というか使いようによっては「かっこいい」「すてき」だったりしまして、そうなると「協和」と「不協和」「不快」の境界って、よくわからなくなる。そういう素人理解からの例示なので、適切な例じゃないかもしれないけど。

まあ「文化的な理由がある」という問題設定は人文科学のものだと思うのです。が、それを仮説とみなして確認することはできるはずで、そうなってくると、もうサイエンスの手法ですよね(飛躍があるかな?)。

ただ、その説明では自分の感覚とは整合しない、とかいうようなことがあると、「統計的に導かれた結論は、個別の人や小さな集団には必ずしも適合しない場合がある」というのと同じもどかしさが、どうしても残る。

だからとて、「それはつまり、個人の問題や内心の問題だからして」などと規定してしまった場合、どれほど「あるある」と思えるような解釈であっても、確認することは今のところ不可能で。

しかし、人文科学の場合、それでも十分な論理的整合性があり、ある段階までは確認されていれば、学問として成立しているような気がします。少なくとも、ぼくはそういうものだと思ってしまっているようです。


実際のところは、人文科学でもほとんどの場合は、よく自然科学で言う「いまのところ最もよく現象を説明できる仮説なので採用されているだけ」というような位置づけなのではなかろうか、とも思う。けど、それとは異なる場合もありそうな。

「○○学派」なんていうのが、あるじゃないですか。あれって、「最もよく説明できる」の判定が割れて決着がつかないケース、つまり「違う場合」の例じゃないのかしら。「『経験の理解』について、デューイはこう考えたが、カントはこういう立場で、ヴェーバーはこういう立場で」とかなんとか、そんな話もありますよね(人名はオヤジの本棚で見た方々ってだけで適当です)。

まだ確認できないような最先端の仮説なんかに関しては、自然科学だってそうなる場合があるのかな。

そういう状況って、ドグマみたいなものになったりせんのだろうか。自然科学の場合は確認可能になるとともに、廃れていったりするのだろう。人文科学だと、いつまでも確認可能にならなくて、ずーっと生き延びていたりもするのかな。


そういうことは、ありそうな気もする。なんかイヤだけど。人の営みの限界ってヤツなのか。
posted by 亀@渋研X at 04:58 | Comment(9) | TrackBack(1) | 渋研X的日乗 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする はてなブックマーク - 自然科学と人文科学。どっちもわかっていない自分
この記事へのコメント
こんにちは、亀@渋研Xさん。

>その人文科学の一部である「思想」「哲学」といったものは、事実や事象そのものではなく、その「解釈」だとか「信念」のたぐいを扱うもので、結論を正解として確認・共有できるようなものではない……というような理解でいいんですかね。どうも、そうでもないような気もする(っていうか、以前「そうでもないよ」と技術開発者さんに教わった……のだと思う

なんていうか、人文学な思想とか哲学というのは、自然科学より遙かに我々の実際生活に大きな影響を与えると言う事ね。poohさんの所では「ガリレオが振り子の等時性を発見する前から振り子は同じ時間で触れていた」みたいなことを書いたけどね。一つの思想というのは、我々の生活を変えてしまうだけの力を持つことがあるわけです。

私は労働組合の中で、時々、労働運動史について語ったりもするんだけどね。単に機械を壊したり、工場を封鎖したりして、処遇改善を求める事しかできなかった労働者が、人民憲章を請願する流れの中で「自分たちも選挙権を持って、議会に自分たちの代表を送り込んで、労働者を守る法律を作ろう」なんてね流れになるのに、オコーナーなんかが「考え方」を示して扇動した事って大きいのね。

今の世界不況だって、もともとはフリードマンという経済学者が「市場に任せれば全ては最適化される」と言い出した事が大きい訳です。チリでしくじり、アルゼンチン経済を破滅に追い込んでも、つい最近まで、米国民の多くはこのネオリベラリズムの考え方を「正しい」と思っていた(まだかなりの人が思っているかもしれない)。日本でも中谷さんは転向したけど、竹中君当たりは、まだ「シカゴ学派の言うことは正しい」と思っていると思う訳ね。

なんていうかな、思想は現実を変える力があるわけです。良い方向に働けば、ハッピーも呼び込むし、悪い方向に働けば多くの人が不幸になるけど、それだけの力をもつというのが人文学的な「思想」なんです。
Posted by 技術開発者 at 2009年04月06日 17:55
一アマチュアのプレートテクトニクス研究者として記します。
泊 次郎氏の「プレートテクトニクスの拒絶と受容−戦後日本の地球科学史」は本屋で立ち読みしただけですが、
プレートテクトニクス(PT)を受け入れなかった日本の地質学会(地団研)については、上田誠也氏のNHK人間大学の放送及びそのテキスト「地球・海と大陸のメカニズム」(1994年)(p103)でもさらりと触れられていました。
確かに、地団研の頑迷さは、凄く、旧ソ連のペロウゾフの理論は根強く、そのドグマから、地質学会はずっと抜けきれなかったようです。

私が中高生時代、大学時代以降においても、まだ、PTが世に広まらなかった時代、それまでの「地向斜」などの学説による日本列島の成り立ちの説明(図)には、どこか納得行かない部分があり、1990年代にPTを知った時、視界が開け、頭にすっきり入り、納得行くもので、以後、色々文献をあさり、その理論の正しさを確認し、今日に至っています。

それまでの学説に頑迷にしがみつく学会と云う組織は、他の理系の分野においても同じように思えます。
私は、世の中の「絶対な理論」と云うものは、その時代での(もしくは地球上でしかの)現在形の一仮説でしか無い!との<疑義>を常に持たないといけないと思います。
PTも今はプレートプリュームと云う学説で、より発展した理論に進化しています。

アインシュタインの相対性理論も、絶対的な理論か?は、宇宙が解明しない限り、まだまだ、検証すべき理論かも知れず、やはり、「絶対的な理論」と云えないかも知れないと考えるべきと思います。
(それに変わる理論を考え出す能力は、私にはありませんが…。)

人文(科学)分野の各種の学説・理論については、特に経済については、その根本の部分について、私には良く理解出来かねますが、
自然科学と同じで、絶対な理論と云うものには、<疑義>を持つべきと思います。

しかし、人文(科学)分野においては、その理論の中には当たっている部分があり、自然科学と違い、全否定出来ないのがやっかいだと思います。
もちろん、自然科学においても、一度否定されたものが復活する場合があり、完全に全否定できない部分は、どこかにあると思いますが…。
Posted by mohariza at 2009年04月06日 22:37
こういった文章を読むたびに、研究者とそれ以外の人の温度差を感じざるを得ません。

たとえばmoharizaさんのコメントにある相対性理論についてですが、少なくともまともな物理学者は「絶対的な理論」などとは言わないでしょう。そして、今現在も常に検証され続けています。
と言っても、それは「相対性理論は間違っているかもしれない!」という研究ではなく、相対性理論が適用可能な研究の場において、実験結果が理論とブレがないか、あったとすれば理論がおかしいのかそれとも実験に他の影響があったのか、と言った形です。

自然科学において理論が傍から見ると絶対視されているように見えるのは、そうした世界各地で行われた数限りない検証の上で残ったものだからです。

その上で理論同士が対立し相容れなかったならば。「こっちの方が正しそうだから」で決着がつくはずがないことは理解できると思います。高々数回の実験では、「理論の方がおかしい」と決められないのはなんらおかしいことではないのです。

蛇足かと思いますが、これは地団研の態度を擁護する文章ではありません。ただ、ここで言う「一種の知的活動ではあるらしいが、どうもサイエンスとは異質の作業であるらしい」ことをしている人たちと、いたって普通の科学に携わっている人たちが混合されているように見えたので、コメントさせていただきました。

扱う分野の問題ではなく、扱っている人が「自然科学的な思考」か「人文学的な思考」かの違い、といったところでしょうか。
Posted by omikata at 2009年04月09日 00:27
わたわたしておりまして、焼酎のエントリは書けてもこちらへは反応できずですいません。

技術開発者さん、いつもご教示ありがとうございます。

>poohさんの所では「ガリレオが振り子の等時性を発見する前から振り子は同じ時間で触れていた」みたいなことを書いたけどね。

poohさんからトラックバックをいただいている下記エントリでのコメントですね。

■歩くか、泳ぐか、グライダーに乗るか。(Chromeplated Rat 2009-04-05)
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2009-04-05

見つける前から、それ(その法則)はそこにあって、機能しているわけですよね。自然科学では、そこは見えやすいけれども、人文科学でも同様なことはあるわけですね。

大学時代に、歴史学をやっている連中とつきあいがあって「時代的制約」とか「歴史的制約」なんて概念を知りました。およそは「今の知見を前提にして過去を見る誤り」「ある時代までは○○という概念は、まだなかった。それを引き合いに出して批判するのは的外れ」といった話として記憶しています。

おそらく、どの分野の知見についてでも、後代の人間であるぼくらはそうした誤りを犯しやすいのですよね。

あーうー、なんかズレた話をしているような気もします(汗
Posted by 亀@渋研X at 2009年04月09日 03:30
moharizaさん
>私は、世の中の「絶対な理論」と云うものは、その時代での(もしくは地球上でしかの)現在形の一仮説でしか無い!との<疑義>を常に持たないといけないと思います。

基本的にはぼくも同様に考えているつもりですが、その「現在形の一仮説」にも、確かさの度合いがそれぞれにありますよね? まったくの仮説の段階なのか、ある程度は確認がとれているのか、逆に例外や解釈に苦しむような事態がほとんどまったくないほどに「ほぼ確実」とみなされているのか、といった具合に。

>アインシュタインの相対性理論も、絶対的な理論か?

うーん……そもそも自然科学の理論に対して「絶対」という表現が適切か、って話もありますよね。ドグマと言い換えてもいいのですが、自然科学において、ある理論がドグマになることって、滅多にないことだと思うのです。プレートテクトニクスの件が示すように、絶対ないなんてことは言えませんが。

アインシュタインの理論だって、確か、根本的ではないにしても微修正は何度もされていますよね? 別に絶対視されていたりはしないと思うのですよ。なんで「絶対視されている」と思うのかは、興味がありますが。

実験等には一定の精度が要求されるので、自然科学の場合にも技術開発者さんへのコメントで書いたような「時代的制約」があり得ます(ニッポニウムの発見の話とか、典型ですよね)。しかし、基本的には実験等で再確認が可能なのが自然科学の分野の特徴ですよね。例に挙げておいでの相対性理論についても、無数の追試や応用技術によって「少なくとも、その理論に則って作ったものはその通りに動くし、確認できる事柄とも整合性が高い」ということになっているわけです(たとえば、「マイケルソンとモーリーの実験なんて100年も前のものじゃないか」なんていう主張をしばしば見かけますが、その後、誰も確認してないなんてことではないわけで)。

ちょっと前後しますが、そういうことを前提に考えると

>それまでの学説に頑迷にしがみつく学会と云う組織は、他の理系の分野においても同じように思えます。

というお話には、「そうですよねえ」とは言えないものがあります。

ニュートン力学がアインシュタインの力学にとって代わられた、というような話がありますよね。よく言われる話ですが、「ニュートン力学が否定された」と受け止めてしまう人がいるのですが、これは正確には「修正されて、より精緻になった」わけで、別に否定はされていません。地球上の一般的な現象の理解には、ニュートン力学でだいたい足りてしまいますし、天体の運行についても大きな誤解は生じなかったと記憶しています。だって、アインシュタインの理論が革命的とも言えるような部分を秘めているにしても、それまでニュートン力学で用が足りていたわけですものね。別に、ニュートンはおかしなことを言っていたわけではないのですよ。

自然科学の場合、過去の理論に修正を迫るといっても、そのほとんどはそうした「精緻化」だとぼくは理解しています。パラダイム転換だとか言われると、なんかえらく大層に聞こえるのですが、多くの場合は、そういう「微修正」。それまでの理論でも近似値が出る。

ただ、地球や宇宙規模の現象だとか、逆に極微小の世界、素粒子がどうだのというあたりになると、そもそもが仮説の上に仮説を組み立てるような形で理論化せざるを得ず、なかなか確認できないってことは、あるに違いないと思います。それにしても、その理論を用いて過去の事象や観察できる範囲の事象を再解釈することで、確認できる部分は多々あると思うのですが。


さて、一方で、どうやったって確認できない事柄というのもありますよね。人文科学のことに戻ると、内心の問題なんてのは「確認できない事柄」の筆頭だと思うのです。人文科学や社会科学において「世界をどういうものだとみなすのか」なんていう話になると、自然科学のようには「ここをこうすると、ほら、こうなった」なんていうふうに確認できる事柄は、だいぶ少なくなりそうです。

それでも、可能な範囲では「実際にそうなるか」をまったく確認できないわけではないし、していないわけでもない。そしてそこでの確認には、自然科学と同じ手法が使われているのではないか……といった理解をしています。

まあ、自然科学の根っこがギリシア哲学あたりにあるのだと考えれば、当然なのかもしれないのですけれど(その辺で、じゃあ東洋哲学ってのはどうなんだ、なんて話になったのが、前掲の「科学なんだから共有しよう」というエントリと、そのコメント欄あたりのことでして)。


もっとも、人間のやることですから、人文科学であれ自然科学であれ、ついつい「これまで正しいと考えていたことからハズれたくない」「はずれてはならないと考えてしまう」ということは起きることでしょう。それでも、確認可能な事柄であれば、そのうちには「より確からしいもの」に徐々に収斂して行くと考えています。

ただ、人文科学においては「確認しづらさ」が抜きがたくあるのだとすれば、そして、それがために温存されてしまう理論があったり、ドグマ化してしまうことがあるのだとすれば、なかなかつらいなあ、といったところがこのエントリの動機だったように思います(2月の心境を思い起こしているので、ずれてるかもしれないけど、まあ、これも確認できない話のひとつだなあ……)。
Posted by 亀@渋研X at 2009年04月09日 03:53
omikataさん、はじめまして(ですよね?)。コメントありがとうございます。

おっしゃることに、特に異論も付け加えることもないのですが、お書きのコメントを読んだことで、「やっぱり何かコメントをつけておこう」と行動を起こす気になれました。本当にありがとうございます。

余談中の余談ですが、最初にコメントを拝読したときに、「セキュリティ&コンサドーレ札幌」のブログ主の方かと思っちゃいました(^^;; 当エントリの内容についてmohariza氏の意見と同様のものとみなされてしまったのかと、危惧したわけです。

あっちこっち読み返して、そういうわけじゃないよね、うん、と思うに至りましたが、もしも当エントリにも不適切なところがあるという指摘だったのだ、ということがありましたら、誠にお手数ですが改めてご指摘いただければ幸いです。
Posted by 亀@渋研X at 2009年04月09日 03:59
こんにちは、亀@渋研Xさん。

>あーうー、なんかズレた話をしているような気もします(汗

全然ズレてはいないと思いますよ。自然科学と人文学では学問から解き明かされる法則というのが、人の外にある法則か、人の内にある法則か、という違いがあるんです。

例えば、今現代に生きている皆さんは「人は基本的人権を持っていて、それは尊重されなくてはならない」なんて思っている。でもそれは物理法則の様に人間界の外にあって人間にとってどうにも変えられない法則では無いんです。実際に人類の長い歴史は「基本的人権」なんて考え方を持たずに営まれて来たわけです。神に捧げるために、あるいは権力者の死後の世界で奉仕するために、沢山の奴隷がなんの躊躇もなく殺されるのが当たり前だった歴史がとても長い時間続いて来たわけです。

基本的人権という概念一つとっても、それは人間の社会の内で育まれた概念なんです。大事にすれば将来もあるかも知れないけど、捨て去れば将来の社会には存在しない概念かも知れないものとして、皆さんは扱っているのだろうか?と問いかけてみたくなったりするんです。
Posted by 技術開発者 at 2009年04月13日 17:42
技術開発者さん

> 大事にすれば将来もあるかも知れないけど、捨て去れば将来の社会には存在しない概念かも知れない

なんとなく体験のなかで気づいていはいることなのに、そういうふうに明確に意識したことはなかったですねえ。

で、どういうことについて感じていたのかと言えば、ひとつは道徳・倫理に関わるようなこと、もうひとつは慎重さとか……と書こうとして気づきました、「生活態度」なんだ。

あ、あ、あ。それって、自然科学でも起きること、ですよね? 自然科学系の成果が日常生活におりてくることで生活が変わると、世間に対す見方が変わるというか。

えーと、たとえば技術的な発達で、ぼくらはいろんなことができるようになったわけで、たとえばぼくは定規を使っても直線を引けないようなブキッチョなんですが、パソコンとDTPの登場のおかげで、チラシぐらいはそれなりに御茶を濁せるようになった。それで学校や友人の役に立てることもあるのだけど、同じ技術でたとえば「剽窃」なんてことも容易になったわけです。泥あそびのチラシに、主催者が公開している会場案内図を部分的に使っていたりするのですが、こういうのって昔は特殊技術を持っていた人しかできなかったんですよね。

で、善くも悪くもできることが増えてみると、なんか「できる人」「強い人」になったような錯覚に陥ることがありますよね。実際には敷居が下がっただけなのに。自我が肥大すると言うか。

で、こっから乱暴な飛躍になるのですが、ある年齢以上の現代人って多かれ少なかれそういう体験をしているんじゃないでしょうかね。いや、ドッグイヤーなあれこれを考えると、年齢に限らないのかな。だとすれば、万能感は言い過ぎかもしれませんが、成果をすぐに求めるように拙速になり、ひどいときには特別扱いを望むようになり、などとモンスター化して行く……

いかんいかん。いくらなんでも飛躍が過ぎる。

でも、そうだなあ、直接的に思想や考え方を扱う人文科学がぼくらの内面を変えるのと同様に、直接・間接に自然科学の知見がぼくらの内面を変えるということもありそうですよね。前者は明示的に内面を扱うのだけれども、後者は結果的にそうなるだけで、いつの間にか影響を与える、みたいなところがある。それって、個々の人間のなかでは混乱のもとになりそうですよね。ふうむ。

あ。今度こそずれ始めている……かな……そうでもない、ですよね?(汗々

いかん。もう寝よう(大汗
Posted by 亀@渋研X at 2009年04月14日 03:38
こんにちは、亀@渋研Xさん。

>でも、そうだなあ、直接的に思想や考え方を扱う人文科学がぼくらの内面を変えるのと同様に、直接・間接に自然科学の知見がぼくらの内面を変えるということもありそうですよね。前者は明示的に内面を扱うのだけれども、後者は結果的にそうなるだけで、いつの間にか影響を与える、みたいなところがある。それって、個々の人間のなかでは混乱のもとになりそうですよね。ふうむ。

自然科学も人文学も学問でありそれは人間の文化だからね。人間の特殊性というのは「変化する」ということなのね。我々は言葉を作り、文字を作って「伝承」という事を可能にすることで、「変化できる」様に成ったわけです。伝承がなければ、古代の誰かが数を発明してもその代で終わりでしょ(笑)。伝承があるから、次の代はその数を使う方法を積み重ねることができるよね。やがて数学になり、経済学になり、って、自分たちは文化を進める存在何じゃないかな。
Posted by 技術開発者 at 2009年04月16日 14:27
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Excerpt: 亀@渋研Xさんの自然科学と人文科学。どっちもわかっていない自分と云うエントリで、こちらにちょっと言及いただいている。
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Tracked: 2009-04-05 09:03