まずは法律関係の誤りを確認できたところの訂正。
その後のエントリで、それを踏まえたあれこれ書きかけ中。随時アップの予定(考える速度が遅いので、ぜんぜん議論に追いつけていない気がするけど)。
前エントリを読んで、「法律的にも、今回の高校のやり方はおかしいんだね」と思われた方がおいでだったら、お詫びして訂正する。また、ご指摘下さった方々、ありがとうございます。
前のエントリの法律に関する記述で間違っている部分は多々あると思う。多分、apjさんからいただいた応答が、かなり漏れなくご指摘下さっていると思うのでご紹介。
アホと貧乏は別の話(Archives 2009/03/06)
先にこのエントリを挙げることができていれば、apjさんの手間を減らせたかもしれないと思うと、申し訳ない(ぼくが調べ直す前にapさんが書いてくれれば、ぼくの手間が省けたなんて思いませんよ! 結局、自分でだって調べるし)。
◆
未成年者の法律行為能力、入学や学費に関する規定などを見る限り、「高校入学に際しては高校生自身が契約の主体」「したがって学費の未納が生じたら、高校生が不利益をこうむる」ということは、法的には問題ではないようだ。「ようだ」というのは中途半端だが、2つの理由から。ひとつは、ぼくの理解能力についての留保。もうひとつは、より上位の理念との矛盾があるとしか考えられないため。最高裁にでも行くとわからないと思いたい。コメント欄の田部勝也さんの表現を借りると、〈授業料未納を理由に生徒を退学処分にする事が、教育基本法や児童の権利条約に抵触する可能性が高い〉と見ているからだ。しかし、コメント欄でご指摘いただいた「入学金返還裁判」の前例から考えると最高裁に行っても問題なしとされるのかもしれない。「返還」では問題の質が違うとも思うのだが、そこもしっかりと理解できてはいない。
いずれにしても、「卒業証書を渡さない」という選択や全保護者に通知という方法や表現の適切性が問われるにしても、「払わなかったら卒業できない」は、たぶん法的には正しい。しかも県の条例レベルではなく、民法とか刑法とかのレベルで正しい。
なお、下記の法律に絡む部分は、まだ間違っている可能性もある。昨日から当たったものは、島根県の高等学校に関するいくつかの条例、教育基本法、民法、少年法、児童福祉法、刑法、児童虐待の防止等に関する法律(児童虐待防止法)、児童の権利に関する条約、それらに関わるweb上の雑多な解説、手元の『法律学小事典』(有斐閣1980年。古い・汗)などなどだ(国の条文については、総務省の法令データ提供システムが便利)。それでも、にわか勉強なので誤りや不適切な表現があるに違いない。条文を読むのは初めてではないが、素人の考察であることは疑いもないので、専門の方から見たらボロボロの可能性がある。例によってお気づきの方にはご指摘いただければ幸い(毎度、中途半端ですいません)。
■未成年者による契約と保護者の責任
先のエントリで「入学時に学生が未成年や年少者だった場合、法的には単独で契約の当事者になることができないのではないか」と書いた。
これは民法の話になるんだと思う。で、この記述はたぶん半分しか正しくない。原則として単独では契約ができないという理解は合っている。契約時には保護者か保証人(条文では「親権者または後見人」とか「法定代理人」)の「同意」が必要なわけだ。同意がない契約は、無効とできる。
まず未成年者の契約意志があって、保護者などはそれを認める役回りということになる。だから未成年者が契約の当事者になるわけで、責任も未成年者が負わされることになる(という理屈なのだろう)。
ただし、未成年者に責任を果たさせるように監督するのは、保護者などの義務である。未成年者が責任を果たせない場合は、保護者などが肩代わりすることになる。
■民法上の「未成年者の保護」
上述のような仕組みになっているのは、未成年者は十分な判断能力をもちあわせていないことが多いとみなされているためだ。なかでも、12歳未満の者は判断能力はないことになっており、たとえば本人による不法行為の責任を負わされることはない。
民法では、未成年者が判断力不足などからうかつな契約をしても、保護者などの同意がなければ無効にできるようにしてあることをもって、「未成年者の保護」としているようだ。
■「善意の第三者」という用語
この用語の使い方も、不適切だったようだ。今回のようなケースでは、保護者が授業料の支払いをしていないことを知らない、あるいはそういう意思を持っていることを知らないという場合には「善意の第三者」と言い得る。
■参考:島根県の条例など
uumin3さんからトラックバックいただいた下記エントリで、茨城県県立学校授業料等徴収条例の内容を知った。
卒業証書をあげないといった高校(uumin3の日記 2009-03-05)
それで改めて島根県の高校に関する条例を、特に「未成年者が契約当事者か」という点を念頭に置いて端からめくってみた。コメント欄で何人もの方からご指摘をいただいている点でもあり、憂鬱亭さんから追記について疑問を示された部分でもある。直接的に明らかにしている条文はなかったが、あちこちで「そう解釈しないとおかしなことになる」「高校生が契約当事者だという前提で書かれている」という記述に出会った。端的には、次のページが決定的だと思った。
平成20年度 就学・修学・就職のための給付・貸付制度等のご案内(島根県)
http://www.pref.shimane.lg.jp/jinkendowakyoiku/syuugaku/
「校種別 利用できる制度」として、3つの制度が挙げられている。
- 小・中学生の保護者等を対象にした制度
- 中学校等卒業後に利用できる制度(在学中の予約制度も含む)
- 高等学校等卒業後に利用できる制度(在学中の予約制度も含む)
中学校を卒業した後は「保護者等を対象にした制度」ではないのだということ。進学しようとする本人を対象にした制度なのだ。正直、とても驚いたし強い違和感があるのだが。
もちろん、制度を利用するためには保護者もしくは保護者に代わる保証人(の同意)が必要と明記されているのだが、これは「未成年者による契約と保護者の責任」で述べたような民法上の規定に基づいているのだろう。
■参考:その他の法律での未成年者への保護や保護者の義務
直接は関係のない法律でも、「日本の法律というものが、未成年者や保護者というものをどのようにとらえているか」を学ぶことはできる。法律ってものは、それぞれまったく独立して存在するわけではなく、相互に矛盾がないようになっている(か、そうであろうとしている)はずなので。
刑法には「老年者、幼年者、身体障害者又は病者」を保護する責任のある者について、遺棄罪だの不保護罪だのというものがある。「幼年者」が具体的に何歳以下なのかを記したものも見つけられていないが、高校生が含まれるとは思われない(18歳未満については、労働法でいう「年少者」という概念がある)。また、少年法では非行少年については「要保護」という記述がある。
保護者が保護責任を果たさないと、ひどい場合には親権を奪われる。たとえば児童虐待防止法は、心身に危害を加えたり、危害が加えられるのを黙過したりした場合について親権の剥奪を定めている。対象となる未成年者は「児童」とされている。この辺、小学校の生徒を「児童」と呼ぶとかいう慣例(?)とは違う。18歳以下が児童と呼ばれ、次の三者に分類されている。「乳児 満一歳に満たない者」「幼児 満一歳から、小学校就学の始期に達するまでの者」「少年 小学校就学の始期から、満十八歳に達するまでの者」。
◆
ぜいはあ。
「未成年者のできること、しなければならないこと」と「保護者の責任」というのは、ぼくにとってはかなり錯綜していて、予想よりもずっと厄介な問題だった。法律に詳しい人は、これでスッキリなのだろうか。いや、これはこれでやむを得ないとか、歴史的経緯とかあるのだろうとは思うけど。
次エントリで
【学校とか教育とかの最新記事】
>中学校を卒業した後は「保護者等を対象にした制度」ではないのだということ。進学しようとする本人を対象にした制度なのだ。正直、とても驚いたし強い違和感があるのだが。
これは、むしろ、児童を守る方向に働く制度だと思います。
私のblogでも指摘があったのですが、たとえば、経済的に困っている家庭の保護者が、何らかのプライドにこだわり、学費免除の申請をしたがらないというケースがあるそうです。もし、学費免除の対象が児童ではなく保護者だということになっていたら、そのプライドが優先することによって申請がなされず、児童に援助が届かなくなる可能性があります。児童を対象とした援助制度であれば、児童の意思表示があれば、保護者が難色を示していても社会の側が援助することが可能になると思います。同意の署名についても、親ではなく叔父叔母でも書類が通ったり、ということになるでしょうし。
つまり、親のアホのツケを児童に回さないためにそうなっている、と私は理解したのですが、いかがでしょうか。
一方、義務教育では、親がアホでも何でも、教育をするのは社会の側に課された義務ですから、それにのっとって親のワガママを許さないような児童に対する援助システムを作ることもできるのではないかと。
法律の解釈は分かりました。
が、授業料の請求書類の宛名、督促状の宛名、授業料免除申請の申し出人は、少なくとも福島県の場合、すべて保護者になっています。
adjさんがおっしゃるとおり、
>児童を対象とした援助制度であれば、児童の意思表示があれば、保護者が難色を示していても社会の側が援助することが可能になると思います。同意の署名についても、親ではなく叔父叔母でも書類が通ったり、ということになるでしょう
という考え方が当初あったとしても、現状では機能していません。
私の経験では、保護者が授業料免除に同意しない場合で、授業料免除が可能になった例というのは、保護者が連絡がとれなくなった場合で、代理者となれるのも入学時に届けた保証人だけ、でした。
解釈の問題ではなく、現実の運用の問題で考えないと、現実に困っている人を援助することは難しいと思います。
で、私の職場の場合の現実の運用ですが……と、ここまで書いて気がつきました。
実際の運用を県教委の了解を得ないままに公開したら、私の守秘義務違反になる可能性がありますね。
すくなくとも、生徒を支払いの主体者にするようなことはしていません。
ああ、今、ようやく自覚しました。
私がここまでしつこく書いてきたのは、実際の運用として、生徒が契約の主体者としては扱われていないことを、日常業務で知っていたから、だったのです。
お騒がせしました。
実務上、生徒を契約の主体者として扱わないのは、大多数の家庭で、実際に金を出しているのが親だからという現実があるからでしょうね。例えば、請求書を生徒に渡し、生徒が親に見せる、というのがほとんどであるなら、最初から親に送った方が一手間省けるでしょうから。生徒の方も、親に請求書やら何やらが送られることについて異議申し立てしていないでしょうし。
ただね、運用がどうあれ、制度の趣旨が活かされることがあるのではないですか。普段は、誰も文句を言わないから、重要な連絡を親にすることで事務処理の手間を省くのが常となっていたとしても、まれに起きるトラブルの時に、タテマエ通りに生徒が主体であるとして運用したことで救われる生徒が出てくるようになっているのなら、その制度の作り方にはきっと意味があるんですよ。仕組み自体が生徒を主体にしないようになっていたら、何かあった時にタテマエでもって生徒が主体だと主張することすらできなくなりますから。
と愚痴っていても始まらないので、「ここら辺までは言えそう」ということろで徐々にエントリをアップしていくようにします。
で、apjさんの最初のコメントについて。
> つまり、親のアホのツケを児童に回さないためにそうなっている、と私は理解したのですが、いかがでしょうか。
そういう意図があったのかもしれないのですが、困ったことに、親権者が不在じゃないと親権者に代わる法定代理人(でいいのかな?)を立てることは難しそうです。この点は、すでに憂鬱亭さんも指摘されていますね(3/8 11:50修正。最初、田部さんと間違えてコメントを書いてしまいました。すいません。訂正します)。
「ケミストの日常」さんが書いておられた、日本の法律は性善説に基づいているんじゃないかというようなことも関連するのかもしれません。親権者が未成年者の監督責任を果たすことでうまくいくからいいでしょう、という流れになっているとしか思えないのです。親権者のサボタージュが想定されていないという問題があるのではないかと考え始めています。
で、ぼくは保護者がいるならそこに責任を果たさせるべきだと考えています。その一つの方法は、サボタージュ保護者から親権を奪えるようにすることなのかもしれません。もっとも判断はかなり難しいですし、社会的合意を得るのも難しそうだとは思いますが。
とりあえず、法律用語などで違和感を覚える部分だけ指摘します。指摘した部分以外で間違いがないことは保証できませんし、説明が不十分なものになってしまうかもしれませんが…
>>
これは民法の話になるんだと思う。で、この記述はたぶん半分しか正しくない。原則として単独では契約ができないという理解は合っている。契約時には保護者か保証人(条文では「親権者または後見人」とか法定代理人」)の「同意」が必要なわけだ。同意がない契約は、無効とできる。
>>
同意がない契約(≒法律行為)は「取り消すことができる」(民法5条2項)です。「取り消し」と「無効」は民法では厳密に区別されているので同一視できません。
>>
ただし、未成年者に責任を果たさせるように監督するのは、保護者などの義務である。未成年者が責任を果たせない場合は、保護者などが肩代わりすることになる。
>>
これは未成年者が事故などで第三者に損害を与える場合などを想定しているのでしょうか。前述のような場合、民法では個人責任を原則とするため、民法714条での例外を除いて未成年者が責任を負います。
>>
上述のような仕組みになっているのは、未成年者は十分な判断能力をもちあわせていないことが多いとみなされているためだ。なかでも、12歳未満の者は判断能力はないことになっており、たとえば本人による不法行為の責任を負わされることはない。
>>
不法行為で問題となるのは「責任能力」の有無です。判断能力と共通する部分もありますが別の概念です。
また、12歳未満〜の部分は「これまでの判例で責任能力が認められた最小の年齢は12歳である」という事実を前提として書いていらっしゃるのでしょうか。責任能力は年齢から自動的に有無が判断される性質のものではなく、具体的な個人の能力から判断されるものです。
>>
この用語の使い方も、不適切だったようだ。今回のようなケースでは、保護者が授業料の支払いをしていないことを知らない、あるいはそういう意思を持っていることを知らないという場合には「善意の第三者」と言い得る。
>>
「善意の第三者」は本来用いられる条文ごとに意味が微妙に異なってきますが、基本的には問題となる契約に関して「法律上の」利害関係があることを必要とします。
今回のケースでは生徒は保護者に対して契約に伴う対価を支払っていないことから、法律上の利害関係があり、ひいては善意の第三者である、と主張することは困難だと考えます。
>>
もちろん、制度を利用するためには保護者もしくは保護者に代わる保証人(の同意)が必要と明記されているのだが、これは「未成年者による契約と保護者の責任」で述べたような民法上の規定に基づいているのだろう。
>>
どうなんでしょう。この文言だけ見れば単に保証契約において保証人が必要だということを述べているにすぎないと思いますが・・・
>>
直接は関係のない法律でも、「日本の法律というものが、未成年者や保護者というものをどのようにとらえているか」を学ぶことはできる。法律ってものは、それぞれまったく独立して存在するわけではなく、相互に矛盾がないようになっている(か、そうであろうとしている)はずなので。
>>
感想に近いですが、相互に矛盾することがやむを得ない場合には矛盾します。
また、同じ日本語表記が法律ごとに違う意味を含んでいることはよくあることです(酷いときは同じ法律の条文ごとに違います)。そういう意味で、「A法に書いてあるBはCという意味で、D法に書いてあるBはEという意味」と把握するように指導された記憶はありますね。
本文に反映できる部分は反映させていただきます。
法律用語も概念も、ほんとに扱いが難しいですね。今回は前のエントリほどに大きな勘違いはしていないとは思いますが、一晩調べたぐらいでなんとか正確な物言いができるようなヤワなもんじゃないと、改めて痛感しています。
法律の趣旨がどうであれ、レアケースにおいてさえも、私の周囲では生徒を主体にした運用はされていないということです。
分野は違いますが、実験がすでになされているにもかかわらず、実験があることを知らずに「ここは理論で行くとこうなるはずだ」と勝手に決め付けているのと等しいもどかしさを、adjさん他数人の意見に感じます。
もとの制度の趣旨を現場の裁量で変えてしまい、それで良いと思い込んでいるという可能性は無いのでしょうか。
制度はできたけど現場の裁量で勝手にコレまで通り運用していたら違反だった、って話はあちこちから出てきてませんか?
まあこの場合は違反とまで言えるかは疑問ですが。
制度を作って運用するという話に、実験の例えは不適切だと思いますが。
あなたが生徒の時代も含めて、高校であなたがおっしゃるような「もとの制度の趣旨」で運用できていた実例をお示しください。
私が生徒だった30年前もそれ以前も、授業料の請求先は保護者だったし、変っていないはずですよ。
授業料の請求などの書式は、都道府県でほぼ統一されており、学校の事務長の転出先の多くは都道府県の本庁舎の事務畑なので、「現場の裁量で勝手に」ということはありえないと思いますよ。
そもそも「制度の趣旨」どおりにルールを作っていないことなど、この国にはありふれていることではないですか?
「制度の趣旨」どおりなら、最低時給未満で働かされているアルバイトが多数いて、仕事中の怪我には労災が適用されるはずなのに一時見舞金で済まされることも多く、そもそもアルバイトを雇用する際に契約書を作らないことも多いのですが、それと分かっていて労基署が取り締まらないなどの現実をどう思いますか?
現実を見ようとしないで条文解釈で答えを見つけ出そうとしているのは、
机上の空論をもてあそんで実験の結果を見ようとしないのと同じ程度に、
本質からずれている、
と私は考えて、あのような例えを持ち出しました。
理科系のあなたからすれば、実験の話を持ち出されるのは不愉快でしょうが、
現場の私から見れば自己の経験さえも忘れて現実を無視しているあなたの姿勢も大変不愉快です。
> あなたが生徒の時代も含めて、高校であなたがおっしゃるような「もとの制度の趣旨」で運用できていた実例をお示しください。
ちょっと誤読していると思いますが。
・制度を作る前は主体は保護者になっていた。
・一応、生徒が主体になる形にしてみた。
・でもやっぱり保護者のまま運用している。
という感じになってるのでは?という疑問です。亀@渋研Xさんがリンクで示された先の、どうやら主体となるのは生徒らしい、という話を一体だれがどうやってねじ曲げているのかを考えないといけない。
>そもそも「制度の趣旨」どおりにルールを作っていないことなど、この国にはありふれていることではないですか?
これを堂々と言うことが無自覚さの現れでしょう。私は、まさにそのことを問題にしているんです。その「ありふれていること」を許してはまずいだろうという話です。
主張すべきことは、現実はこうだ、という話ではなくて、「制度の趣旨」通りにきちんとやれ、ということになると思います。
例として示されたアルバイトの契約にしたって、契約書を作れという人が多数となって、現実に作ってないことが問題になれば、作るようになるはずです。制度はただ作っただけでは機能せず、機能させるには、制度の趣旨通りに機能させて使おう(場合によっては争ってでもそうしよう)という人の存在も必要だと思うんです。そうでないと、誰か、大抵は力のある方の誰かが都合のいいように現場でごまかしてしまう。
もともと、弱肉強食にならないためにいろいろ規制したり法整備したりしているわけですから、力のある側が隙あらばズルしようとするのはある意味必然ではないかと。
じゃあ、高校の問題に戻って、亀@渋研Xさんが指摘したタテマエ通りに現場がなってないのはどうしてか、ということを考えようとしているのですが、「現実はそうなってない」「これまでそうしてきた」と言われても、何とも返事のしようがありません。
授業料の問題にしても、「もし、保護者に送ることが書類上の契約の主体でない人に送る結果になっているのだとしたら、現状がそうなっているのはどうしてか」を知りたいのです。亀@渋研さんの示されたリンク先からは、どうやらこの問いが成り立ちそうなので。ですから、なぜ憂鬱亭さんが不愉快だと考えておられるのかがわかりません。
これは少し別の話になりますが……。
タテマエ通りにやらないのが当然だ、現実を優先せよ、などという考え方を学校で教えちゃいけないんですよね。現場の裁量でタテマエを変えているようなところを見せてもいけない。なぜなら、そういうものを見ちゃった生徒は、社会に出てから、タテマエ通りになってないそのアルバイトの弱者にとって不公平なあり方を抵抗なく受け入れることになるでしょうから。
本当に現実に合わなくてダメなら、運用はこうだから、と開き直ったりせずに、規則の方を変えればいいんです。
亀@渋研Xさんはかつて「学校教育になにを期待するか」(↓)
http://shibuken.seesaa.net/article/87906746.html
で、「文科省や教委が理不尽で無意味なお題を学校に持ち込んでも、それをなんとか有意義なものに変質させて教室で展開しようとしている教員たちを、何人も見ました。カリキュラムがアホアホなことになっても、エラいさんが客受けをねらって余計な仕事を増やそうとも、子どもたちが教室で過ごす時間をアホアホなものにしないために必死になっている教員たちが、8割とかの「まっとうな市民」予備軍を育てたんだと考えています」と書いていました。
これは憂鬱亭さんがおっしゃる「“制度の趣旨”どおりにルールを作っていないことなど、この国にはありふれていることではないですか?」の一例と言えるかも知れません。もともと日本は、お上の無茶な方針を現場の創意工夫で柔軟にやりくりしてきた文化であるという見方だって、それほど的外れではないでしょう。
ところが、今回の件が象徴的なように、現実は(医療崩壊と同様に)「現場のルール」や「献身的な創意工夫」では支えきれず、このままでは現場を疲弊し崩壊させるような事態が生じている――という認識を持っている人は、私も含めて少なくないでしょう。
このような事態において、現場だけがすべてを背負い疲弊し崩壊してしまう事を避けるためには、apjさんが主張されるように、法律や制度の厳格な適用(条文解釈)を考えていくのも「ありうる解」だとは思います(「あるべき解」かどうかは分かりません)。
「現実を見ようとしないで条文解釈で答えを見つけ出そう」とするのであれば問題だと思いますけど、現実を見据えた上で、現場の献身的な努力だけに頼らないで、条文解釈で答えを見出す――望ましい答えが条文解釈で見出せないのなら条文を変える――という考え方はありうると思っています。
どんな困難や理不尽が現場を襲ってきても、それを現場に背負い込ませずに、法律・制度が現場をまもり、現場は本来の仕事に専念できるような社会システムを整備する――という方向を模索する事ができれば良いなぁと思います。
> そもそも「制度の趣旨」どおりにルールを作っていないことなど、この国にはありふれていることではないですか?
世の中、法律、契約、習慣、常識、などなどいろんな仕組みが組み合わさって回っていると思うのですが、どれかが機能しなくなったときに、どのように補完されるかという事だと思います。
0.理想的状態
ルールも適正で、「世間の常識」も働いていて特にルールを持ち出さなくても済んでいる状態。
1.死文化したルール(学校と親が常識を共有)
ルールは実情に合っていないが、「世間の常識」で世の中うまく回っている状態。
これはこれで良いと思います。
2.死文化したルールを学校側が適用(学校の常識が無くなった)
実情にあっていない悪法を強行に適用して混乱を引き起こしている状態。
悪法を改正する必要があると思います。
3.親の常識が無くなった
ルールは適正だけど、「世間の常識」が崩壊してルール違反がはびこる状態。
ルールを厳しく適用せざるを得ないのでは。
学校が今回のような措置を強硬せざるを得なかったのは、学校運営に支障を来す財政状況になっているからでしょう。1.のように多少の未納があっても運営に支障は来しておらず、ルール違反という倫理的問題も「世間の常識」で処理できているのなら、学校側が契約関係を持ちだして強行に取り立てする必要はないわけです。
多分、仰られているのは2.に近いような印象を受けます。
つまり、授業料と引き替えに教育を提供するような契約はそもそも教育の理念から外れているが、今まではそのような契約を盾に貧困家庭から取り立てるようなことはされていなかった。ここに来て取り立てが行われた、と。
これが事実なら、授業料制度を変える必要があると思います。既に学校側には「世間の常識」が通用しなくなっているわけですから。ただし、学校運営費用を納税者が今まで以上に負担する必要が出てきます。
今までの議論を見ると、apjさんが2.で良いのだと主張されているように憂鬱亭さんは誤読されているように思うんですが、3.じゃないでしょうか。
授業料未納しても卒業できて、かつ授業料制度は変えないという方針はどんな場合に可能かと考えてみると、未納が許されていても、ただ乗りすべきでないという倫理観が保護者に共有されているような場合でしょう。現実を見てみるとそのような倫理観がもはや薄れてきているので、今回のような事態になったわけですから、この方針では学校運営は行き詰るのは必至だと思います。本来許されることではないと思っていながらも、ごね得が通用するから未納をしているのが実態だとすれば、教育の理念上許されるとアナウンスすれば、さらに未納は拡大するんじゃないでしょうか。最終的にすべての公教育は成立しなくなると思います。未納を認めることと授業料制度は両立しませんから、授業料制度を放棄するという方針変更が必要だと思います。
次に、未納者は卒業させないという方針は、今回実施されたわけでその結果をみると、ほとんどの未納者は授業料を支払い、卒業もできたわけです。少なくとも、子どもから教育の機会を奪うという結果にはなっていません。
が、「現場の徒労感」がまったく理解どころか想像もされていないことに関しては、落胆するばかりです。細かく書きたくなりましたが、これも「守秘義務違反」の恐れがあるし……。
ところで、
>adjさん
>0.理想的状態
ルールも適正で、「世間の常識」も働いていて特にルールを持ち出さなくても済んでいる状態。
と書きながら、
「最初からそのルールが適用されたことがなかった」
とか
「世間はそのルールを適正と認めてはいないのに、詳しくチェックしなかったのでそのままになっていた」
とか、ケースとしては考えないのですね。
そういう例として、私はこの話題を論じています。
この国の学校行政は、思想としても生徒を「教育指導の対象」としか認識せず、契約の主体を保護者と扱って論じてます。
誤解のないように書き添えますが、
私は「生徒を教育の主体にすべきだ」と考えています。しかし、現状では、日本のルールも、世間の多数派(少なくとも声が大きい人たちの)も、教育の主体は国家だという形で「改革」が進んでいます。
そういう立場からモノを見ると、
これまで意識されず、使われても来なかった条文を引っ張り出して、状況の改善を求めることには賛成できません。