疑似科学批判批判批判批判(王様は裸だ!Annex 2009-04-16)
イノセント(王様は裸だ!Annex2009-04-17)
すでに、いくつかの応答があちこちで書かれている。先方のコメント欄やトラックバック欄をご覧あれ。
両エントリの半分ぐらいは、なんだかわかるような気がする。それへの応答も、特に大きく「違うだろう」という気はしない。例によってもやもやとしているけれど。「くだらん」とは思わないけれど、「くだらん」と思う人もいるだろうなあ、というような。
ぼくあたりが反応するのはなんか筋違いのような、いやいや、そんなことはない、むしろなんか積極的にエントリを書くべきでは、などと考えたり、しかし、なにをどう、となると、ぜんぜん考えがまとまらない。ええい、まとまらないままに書くことにする。と、読んだ初日に書きかけていたものは、ブラウザが落ちて消えてしまった(-_-)
性懲りもなく、また書く。てんで応答にはなってない……ような気がするけど(オレ、最近コメント欄でもそんなことばっか言っているなあ)。
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イノセントに書かれたような権謀術数渦巻く世界には関心がもてない。敬して遠ざければ済むってものでもないので、その世界を気にしないわけではないのだけれども、そこにターゲティングして語る気はない。その器量も度量もない、と言うところか。
商業誌に原稿を書いたりもしているので、それなりにリスク計算はする。でも、自分がそういう「計算」が得手だとはまったく思えない。そのせいだかなんだか、「じょうずに立ち回る」ということに、あまり関心がないのだ。別にネットに限らず、地元でもそうなんだけど。根回しとかもさ、ダメなのよ、その発想が身に付かない。まあ、好きでもないから身に付かないのだろうけど。
なんつうか、田舎のおばあちゃんのような(ちょっと違うか? あ、リアルに田舎のじじいではあるのだが、なんかもっと違う気もするな)、「朴訥なんだか図太いんだか身勝手なんだか」とでもいうようなスタンスでぼそぼそとやるしかないのだろうとかなんとか思ったり。イノセント(無垢)というよりはナイーブ(素朴)? まあ、わからないけど、技巧を凝らすことができないという点では同じようなものか。ただ、不器用に生活しているのです。
だからまあ、ど素人のしでかすドジも踏むことでしょう。踏まないように気をつけようとは思っているけれど、ハラハラドキドキされたりも、しているに違いない。
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「動機も論点も一人ずつ違う」という話は、なにもニセ科学批判に限ったことではないですよね。どういう議論についても、そういう部分はあるに違いない。ただ、それにもかかわらず、それをわざわざ言わねばならない理屈っぽさというか脆弱さというか、そういう部分が今の「ニセ科学の蔓延を問題視する側」にあるのだということについては、まあいろんなことを思います。どこに届けたいのか、届きやすいのか、なんてこととともに。
細かく見ていくと、一定の共通項は探し出せるのかもしれない。けれど、ニセ科学にまつわる議論については、いまのところは「ニセ科学を批判する人、批判的に見る人」という以外の共通項が見つからないので、個別に異なるという話しかできないだけかもしれない、なんてことも思う。
ニセ科学的なものに惹かれてしまう理由だって、違和感がある人の違和感の中身だって、人それぞれ違う……よね。きっと、かなり多様なはずだ。その辺を「ニセ科学批判はニセ科学に似ている」というような角度から書こうとかと思って、果たさないでいる。また、先般(もう2年ぐらい経ったかも)、filinionさんに「疑似科学批判とニセ科学批判はイコールではないんですよ」とか言ってみたものの、どう違うかを書こうとしても、これもいまだに書けないでいる。区別してなくても、別に問題ない場合もあるよなあ、とも思ったり。
ニセ科学側の人も、ニセ科学批判に違和感をもつ人も、そんなに自分と遠い存在だとは思わない。ちょっとなにか条件が違っていたら、ぼくがそっちにいるだろう。というよりも、現に今のぼくが同じような勘違いやらなにやらをたくさんしでかしているに違いないし、個々の議論を見ていくとどっちに違和感を感じるかは、そのときどきで異なる。はたまた、ニセ科学という言葉を選んだ人と、疑似科学という言葉を選んだ人のなかには、はるかに遠い位置にいる人がいそうだなあ、なんていうことでもある。しかし、どのケースにしても「だから話しかけるか」となると……そりゃ別の話で。
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「働きかけ」として見たとき、そういう曖昧さやゆるさが「いい方」に機能するときもあるだろうし、そうじゃないこともあるだろう。現状、ぜんぜん世間には共有されていないマイナーな概念だということは確かなのだけど、だからといって「はっきり明確になる必要なんかない」とは言えない。明確になれば共有されやすい、ということだってあるだろう(まあ、人口に膾炙するようになれば自動的に変質するってことも同時に起きるに違いないのだけれど、だから意味がないなんてこともないはずで)。
以前、黒影さんが「科学というモノサシ」というエントリを上げておいでだったけれども、いわば「ニセ科学というモノサシ」は、まだまだ不完全なモノサシなのかもしれない。でも、「ニセ科学というモノサシ」を当てたときに、ぼんやりと浮かび上がってくるものがある。人間なら誰しもしでかす間違いのなかのある種のものを考えるときに、それなりに役に立ってくれるモノサシではある。
ところで、そういう「働きかけ」のことを、ぼくは「運動」と呼んだりもするのだけれども、そうはみなさない人もいますわね。
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ニセ科学や疑似科学という語彙は、とってもマイナーで、世間ではあまり関心を持たれていないと思うよ、という話をしようと思ってブログ検索してみたことが、何度かある。最近では2月22日にやってみた。そのときは、同じぐらいの出現頻度の言葉には、ほかにどんなものがあるのかを探ってみようとした。
Yahooブログ検索で「ニセ科学・疑似科学・似非科学」をチェック。
なかでは「疑似科学」がメジャーみたいですね。でもまあ、どれも少ない。飛び抜けてヒット数が多いのは、安斉さんの「疑似科学やオカルト… なぜ、だまされるのか?」が産経に出たとき。
違う語彙と比べてみた。「古今和歌集・疑似科学・はしか」でチェック。
理科っぽい単語で比べてみた。「疑似科学・エストロゲン・アナフィラキシー」をチェック。
まあ、適切な語彙が思いつかないのと、こういうことだけで何かをどうこう言えるものでもないので今まで眠っていたわけで、ネタでし
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しばらく前から、「いわゆるニセ科学批判的なものに対して否定的な意見」なのかもしれないがよくわからない、といった個人のエントリを、ブックマークやエントリで採り上げるということを、積極的にはしなくなった。
以前、「神の手」を巡ってサンプリングみたいなことをしたら、そこに突撃して「違うで」とカマす人が出てきてちょっと苦い思いをしたなんてこともあって、「これはひどい」系の採り上げ方は躊躇してしまう。
また、たとえばGenさんという方のエントリを巡っては、手応えも、学んだこともあったけれども空しい思いもした(ここら辺から)。別の方だけど、〈「使える/使えない」と科学、あるいは大半の疑似科学は本当に技術か〉なんていうエントリもあった。自分には有用な部分があったのだけど、先方や端で読んでいる人にはどうだったんだろう。
あ、uumin3さんとは実りがあったと思う(こことかこことか)。今も彼のブログは読んでいるし、そういうコミュニケーションで考えを深めることができる場合は少なくないのだとは思う。
しかし最近は、個人のブログ記事は、サンプリングみたいなテキスト引用以外には、批判的に言及することは、あまりない……んじゃないかな。少なくとも積極的にはやってない。あ、マスメディアと呼べそうなところに載ったものについては言及したりもする。これはまあ、かなり意識的にやっている。
自分でどこで線引きをしているのか、あまり自覚できてない。大変そうなことはしていないだけかな。反論されるリスクが低そうな安全パイにだけ手を出しているのかもしれない。少なくとも「オレってそうなんじゃない?」ということは、しばしば考える。多分、個人ブログに関しては、コミュニケーションできそうな人とはコミュニケーションしようとしている、といった手抜きなのだろう(その可能性をどうやって判断しているのかというと……なんだろうね? 経験に基づく勘? 嗅覚? このエントリは?)。
怯懦と手抜き。ううむ。
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傍からコメントスクラムとか言われることがあるような言及の仕方にしても、どう考えるといいのか、とんと踏ん切りがつかない。得策かどうかということでいえば、一定の効果はあるに違いない。必要がないのかと言えば、そんなこともないんだろう。誤解があるのならばそれをなんとかしたいと思うのは人情だし。
先日、知り合いのしまんちゅのブログで地球温暖化論議を巡って「え?」というようなことが書かれていて、あれこれ苦心してコメントを書いて、結局投稿できなかったような……したかな? つまるところ、論戦、論争、説得なんてことが、自分にはできそうな気がしていないのだな(むかしはできる気がしてたような気がするのだけど、今はぜんぜん)。それで済むわけでもないのだけれど、そんな具合。
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たぶん、自分にあまりに近いところのことって、簡単に言及できない。いろいろな細かい違いが見えちゃうし、バイアスが強く生じるから。達人クラスの理解があれば、それをすっきり解説もできるのかもしれないけれども、往々にして異様に長く細かくなって、理解しづらくなる。間違わないかもしれないけど、すごく手間がかかるし伝わりづらいことだろう。
一方で、ぐっと遠いものは細部がまったく見えないので、ややもするととっても乱暴な分類や分析(もどき)をやっちまう。ぼくあたりがスパッと一刀両断にできること(できそうに見えること)っていうのは、そういう遠さがあるのだろうと思っている。だからまあ、その距離を埋めるために調べもするわけだけれど、「知っている」と「理解している」は違うよね、おそらく。
まあ、「それはこういうわけだよ」と適切に書ける事柄って、近すぎず遠すぎず、適度な距離が必要なのだろう。だからといって考えることをあきらめるわけにはいかないので、ここら辺で「こうなんじゃないかなあ、違ってたら教えて」と、おずおずと差し出すしかないのだけど。
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ぼくのいつもの「モヤモヤ」類といっしょくたにしちゃいけないのかもしれませんが、こういうモヤモヤはピンと来ない人には来ないのだろうなあ、どうやって言葉にすればいいのかなあ、などということもまた、しばしば考えます。スパッとやっちゃうことへの違和感とかね。しかしまあ、みんなでモヤモヤを共有できりゃいいってもんでもないのかもしれないし。
やっぱりとりとめもなくなっちゃいました。しかも、なんだか言い訳がましいなあ。
ぼくにとっては、科学的か否かとか、そんなに限定的な話題じゃないんだなあ(いや、Judgement さんがそうだと言ってるんじゃあないのだけど)……なんて、改めて思ったり。
また、なにか書けそうになったら書きます(いや、書くかもしれません、かな)。