カワバタさんの選択を支持します。
って、ぼくはカワバタさんのような「呼ばれてしゃべる」立場にはないので、おかしな話かもしれません。また、そこまで杓子定規に考えなくても、という気も少しするのですが、ほんとに「なし崩し的に義務になっちゃってること」が多いと思うので、これはけっこう大事だよな、なんて思うわけで。
ぼくは講演会ではなくて、学習会や説明会みたいなことをやる(主催側で同時にしゃべる側)ことがあるのですが、なんであれ、実際には選択肢があるのにそれを隠してしまうようなことは異様に感じます。意識したことはなかったけど、会議で周知するときも「役員の方もお時間の都合がつくようなら、よろしかったらぜひ」と言ったことはあるけれど、「可能な限り来てくれ」などとは言ったことがない。どっかで、本が売れないのを誰かのせいにしたり、ムリヤリ買わせたりするわけにはいかないのと同じだ、と考えているのかもしれません。
まあ、必要だと思うからやってるわけで「役員はほとんど来てないなあ、いろんな意味でこりゃあかんわ」なんて思うこともあるんだけど、一方では「とっくに理解していることについて、応援ってわけでもなくて形だけ来るなら、そんなことしなくてもいいのに。忙しいだろうに」なんてこともあり。来ていただけるのはありがたいんですけどね。
講演の場合、「動員しないと失礼だ」と考える主催者や講演者もいますよね。まあ、そういうのは形式主義だと思いますし、そう言って斬ることも簡単なようにも思います。が、「それが誠意の表し方だ」と考えている人を無視しづらかったり、あえて押しとどめるなんてのは難しいこともあるに違いなくて。
また、お義理で足を運んだら思わぬ収穫が、なんてこともあります(そういえば、義理とは思っても、義務とは考えていないことに今気づいた。得な性格だ)。そういうところへの出席も義務というか「仕事のうち」だと考えている人もいる。宣伝と動員の区別がついていない人も、人が集まらなければやる意味がないと考える人もいそうだ。だからまあ、ひとしなみにどうこうと言う気にもなれないのですが。
しかし、それでも「聴きにいかなければならない」「出なければならない」ではなくて、「あの人(たち)が勧めるってことは、ちょっと期待しちゃおっかな」「うん、これは宣伝にかんでやろう」などという感じで行動したくなる……というのが理想です。それで人が集まらなかったとしても、非力ではあるにしても間違っているわけではない(お題や人選、曜日や時間帯、会場や宣伝手段などの選択は間違ったのかもしれないけど)。強制的な動員は強力ではあるかもしれないけれども、選択の自由を奪うのはいろいろ間違っていると思われてならない。
間違いだと思っている方法をとるくらいなら、自分たちの非力をかみしめて、周知が足りなくてごめんなさいと講演者にお詫びするほうがずっとマシです。それでは浮かばれないという講演者もいるでしょうけれども、理解を示してくれる方もいるでしょう。
もっとも、人を呼べなかったことを主催者側が開き直っちゃいけない。無理矢理の横並びじゃない方向で努力・工夫をしたいものであります。
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途中から直前のエントリの話題とか、みつどんさんちのこのエントリのこととか、二重写しのようになっていたりもするなあ……。
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もちろん石田は、仮に PTA やらその他の集まりで、講演会の手配をする立場になったとして、上記のような苦労をするのはすごくイヤですね。
そうならないためには、みんなが万難を排して聴きたくなるような講演会を開くというのが、もっともスマートな解決策でしょうが、これは「言うは易し、行うは難し」の類ですね。
もし、石田が講演会の手配をする立場になったときは、石田自身がぜひお話を伺いたいと思う方にご登壇願うことにして、石田がいちばん熱心な聴講者として、聴講させていただくことにでもします。
もちろん、周囲の人に薦めて回ることも、力の及ぶ限りやるでしょうが、その効果を期待するには、まずは石田が周囲に信頼されてなきゃならんですね。これはちょっとハードルが高そうです。。。
そうですよねえ。
もうひとつ、できたらやりたいなあ、と思うのは、役員の人に「あなたも実は選択してるんだ」と追いつめないで、「あなたも選択していいんだよ」みたいなことを伝えたい。
ついつい「義務だから私は行かなくちゃ」みたいに思ってる人に、「ほんとに、それ義務? オレは行こうと思ったのしか行かないよ?」みたいなことを伝えたい、というような。そんな言い方でいいのかはわかんないんだけど。もし「同じ立場のみんなにとっては義務ではなくても、私は私の義務だと考える」とかいうことなら「それは立派な選択です、どうぞどうぞ」なんですが。