なぜゲルマニウムブレスレットはNGでも護符は良いのか(anond:20090627153809)
はてブ
いまのところ☆3つ獲得、TB5件、72件のブックマーク。共感するコメントも少なくない。「そこで出すなら、なんで温泉じゃなくて護符なのよ」と思われる方もあるかもしれないけど、きっかけがブックマークのコメントだそうなので、まあそういうことで。
指摘されている内容には、基本的に賛同できる。大元の話題については「温泉 ニセ科学」とか「呪術的思考」とかでググると興味深い考察にたどり着けるのではないかと思う。
◆
この増田の記事に限らず、「ニセ科学的なものを批判することに懐疑的な立場からの意見表明」(反論とは違う)には、確かに「議論の流れを追っていない印象論」や単なる書き捨てみたいなものも多い。だけど、この記事からはそんな印象は受けなかった。書かれた方(はてな界隈で言う「元増田」)は、これまでの議論をそれなりに追ってきて、それぞれの議論についてはていねいにお読みになっていると思う。
また、一方的な物言いにならないよう慎重に慎重に書かれている。そのことが、文章のあちこちでわかる。反応にも荒んだ雰囲気のものは目立たないのが、それを示しているのではないか。お手本としてもいいくらいだと思う。
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まず本題についてのぼくの意見を書いておこう。
すでにTBなどでも書かれているかもしれないけど、ダマシが含まれていないなら、つまり「おまじないをおまじないだと公言して売るなら、買う人の勝手だ」とは思うし、その辺の逸脱はすでに法で取り締まれる。十分な運用がなされているかはともかく、これ以上の規制は不要だろう。そもそも法的な規制は、最後の最後の最後の最後の手段だと考えている。
また「ウソまでつかなくても、読み手・買い手の納得力を刺激してミスリーディングするような『匂わせて買わせる手法』は汚い」と思う。けれども、そこに法的な規制を持ち込んでいいのかというとわからない。広告業界やメディアの自主規制みたいなものならいいかな、とは思う。
さらに詳細な線引きや、売買以外の問題となると、ぼくにはいまのところ答えが出せない。売買がらみの問題でも、たとえば、いくら以上なら高額すぎて問題だとか、どういう表現なら恫喝で許しがたいのかとか、容易に線は引けない。これは個別に考えるしかないのだろうと思う。売買以外の問題(陰謀論や創造科学、オカルト、未科学と紛らわしいものなどにどう対処すべきだと考えるかとか)となると、ほとんどぜんぜん手に負えていない。
ただ、そもそも、こうしたあやしげな、あるいはあやふやな話にすがってしまうのは、それなりに理由のあることだと考えている。現代医学の限界にぶつかってしまって、それ以外にしかすがれるものがない、という人が頼る最後の砦まで奪ってしまっていいとも思わない。そうした窮地にある人を嗤うような態度も許しがたい。
そこまで切実でなくても、そこにもっともらしさや頼り甲斐を見いだしてしまうのは、人間ならば仕方がないことでもあるだろう、とも思う。それだけに「知ること」や効率的に知るために「整理されること」が重要なのだというという思いは、日を追って募っている。
◆
本題についてはここまで。実は、[加筆6/30 13:57]主たる関心は[加筆ここまで]この辺の話にはない。すいません。どうしても、別のところが気になってしまって。
一読して、本題以外の部分でどうしても引っかかることがあり、かなり残念な気持ちになってしまったのだ。それでブックマークしないでいられなかった。
最初はこんなふうにコメントした。
kamezo [ニセ科学][議論] かなり近い感覚。/自分たちがどういう理屈(構図とか)に足をとられやすいのかを知っておくことが、明日、困難に遭遇した際に保険として有用であることは疑わない。2009/06/28
しかし、このコメントでは足りなかったと思って、すぐ後で加筆した。
「どん底の人間にワラを差し出す鬼畜」もお忘れなく。
はてブの100字以内という条件では、これぐらいが限界かな、と思っている。
でも、やっぱりもうちょっと書いておきたいのでこのエントリを起こすことにした。
長い前置きだなあ、すいません(大汗
◆
まずは、標題に言う“この記事を書いた「元増田」に訊きたいこと”じゃなくて、自分の違和感について後で気づいたことを補っておく。
「なぜゲルマニウムブレスレットはNGでも護符は良いのか」は配慮のかなり行き届いたエントリであるにも関わらず、最後まで読んだところでかなりつらい思いをすることになった。
ただ、ゲルマニウムにしてもマイナスイオンにしても、あんまり熱くなって批判するのはどうなのかな、とは思っています。笑える余裕を失って批判している人の話は、わたしなら聞きません。「なぜそう判断するのか」というのも、また面白い問題ですけれど。
なぜゲルマニウムブレスレットはNGでも護符は良いのか
これを読んで「ああ、この人にとってはしょせん他人事なのだ」と思わない人は少ないのではないか。
「笑える余裕を失って批判している人」云々は、そうだよね、とも思う。けれども、笑って済まされてしまっても困るんだよな、とも思う。きくちくん(阪大物理の菊池誠)なんかとあれこれ話をしていると、力なく笑って別の話に移るしかなかったりする(しかも苦笑いだったりして)。雑誌の連載(渋研や九段下総研)で、なんとか笑い話としてでも読んでもらおうとしていることの是非も、改めて考えたりもする。
「面白い問題」というのもうなづける。だけれども、やっぱり違和感がある。ぼくなら興味深いと書くだろう。
当事者でなければ発言するななどというつもりはない。ぼくだって、なにかにダマされた当事者でも家族でもない。ただし、それは「まだ当事者じゃない」だけだと思っている。
◆
例として挙げられているマイナスイオンとゲルマニウムについても、あれこれ思う。
マイナスイオンでひどい目に遭う人はいないかもしれない(もっとも、確かアトピー改善効果をうたっていた製品もあったので、とても悔しい思いをしている人はいてもおかしくないだろう。あるいはいろいろな効果を信じて製品開発をしてきて、どうしても効果のある製品が作れなくて絶望した人だっているかもしれない。そういう被害者の実例は確認していないけど)。
ゲルマニウムも、肩こりや美容効果を期待して小遣いを使ったぐらいの人の方が多いかもしれない。でも、老化で衰えたり痛む足腰に効くという触れ込みでの「治療」も存在する。それで運良く改善したと思えている人はよいけれど、大枚をつぎ込んでも改善しなかった人が、もともと根拠はないのだと知ったら、どう思うだろう。世をはかなんだりしなければいいけれど……。
もっとも、ここでマイナスイオンとゲルマニウムが例に挙げられているのは、大した意味はないのかもしれない。ゲルマニウムはまさにここでの話題だし、マイナスイオンは多くのニセ科学を批判したり懐疑的に考える者が、わかりやすい例として挙げているに過ぎないのと同様に一例に過ぎないのかもしれない。しかし、「多くの問題を代表させる機能」としては同じなのだが、この記事では問題の全体像を軽くする方向にしか作用しないように思える。
逆に、意図的な選択だったかもしれない。たとえばはっきりと健康被害に結びつくようなもの、生死に関わるようなものを想起させることはあえて避けて、「こういう軽微な問題についてまで目くじらを立てるのは」と言いたいのかもしれない。マイナスイオンやゲルマニウムが軽微な問題なのかはともかくとして、そうであれば、そのように表明してもらえれば、なおありがたかった。
◆
上記のようなもろもろは元増田の意図するところではないに違いない。だからこそ残念だ。
これはおそらく、どんな問題にもついて回る、どうしようもないことなのだろう。
きっとぼくだって、あちこちでしでかしているに違いないと思う。次項のようなことも。
◆
さて、ようやく標題の件。こんなことを書いておいてなんなのだけれど、これを書いた元増田に、ひとつお願いがあるのだ。もちろんスルーされても仕方ない。そもそも気づかないかもしれない。でも、とても慎重なエントリを書く人だと思ったので、お願いしてみる。
元増田は「ニセ科学批判をしている人の一部に、何だかカルト宗教と五十歩百歩の凝り固まった精神が感じられる時があるのは、わたしだけではないでしょう」と書きつつ、その「一部」には、たとえばどんなところで出逢えるのかということが匂わしてもいない。元増田には、それだけ自明なことなのだろう。
でも、この点、できればちょっとヒントでも出してくれないだろうか。
ぼくが、あるいは増田のエントリを読んだ人が自分自身を顧みるために。
ぼくが思いつくのは、たとえば、しばらく前からブログ「王様は裸だ!Annex」でJudgementさんが指摘しておいでのようなことだ。これは、ぼくにとっては自分のバイアスの問題として、解決できない課題になっている(余談ながら、たとえば「ニセ科学と規範」の問題は、ぼくにとってはこの辺が出発点なんだけど、それをたとえばapjさんの「ニセ科学まとめ」での議論のように収斂してしまっていいものかどうか、皆目わからないでいる)。
また、これまでの4、5年ほどのうちではGenさんという方が明かしてくれたケースがあった。彼はこう書いてくれた。
自分は心理学に関わっていたので、「血液型性格論を信じる者たちを見下し嘲笑する風潮」を研究室でしみじみと感じてきたのでした。その経験が背景にあります。(以下略)あ、そんなところにいたのか、これまったく思いつかなかった、という思いがあった。もちろん、「そんな場所のこと、知らないよ!」とも思ったけど、でも、そういう場所もたくさんあるのだろう。
Posted by Gen at 2008年02月01日 21:16
だからまったく想像できないわけではないけれども、いったいどういうケースを念頭に置いているのか。できれば教えてほしい。さしつかえない範囲でいい。ネット上でもそうでなくても。具体的にリンクやアイデンティファイできるような情報で示すと言ったことではなく、たとえば「一部のブログに見られるように」とか「ブコメや2ちゃんで散見されるように」といったあいまいな情報でもいい。
なにかヒントを教えてもらえたらうれしい。
◆
実際問題、ネット上や出版物の一部には懐疑的なものがあっても、ぼくの実際の生活圏には、こうした怪しげな話でも無批判に受け入れてしまうような人ばかりだ。強く広める人こそいないけれども、懐疑的なのは家内と理科の某先生ぐらいだ。ぼくの生活圏では、いささかでも懐疑的な意見を表明することは、かなり難しい。
だから、なんとかしてできるだけカウンターの手数を増やす必要を感じる(そう、いまのところは悪手でもいいから、手数が大事だと思わないでいられない。ニセ科学や疑似科学、いや、そうじゃなくて論理的誤謬、思考のバイアスといった概念だけでも、一人でも多くの人に知ってほしい)。しかし、いろいろな意味で限界も感じている。
日に日に、未完成のエントリがたまり、連載の原稿にも苦戦するゆえんでもある。<って言い訳で終わりかよ!
m(_ _)m。
これは、私が書いたものです。書いた後で、反応としてちょっとぼやけたものかな、とも思いましたが…。
これ書いた時は、品質管理や、素材や効能の表示等の部分も念頭においていました(後、不実証広告規制)。大量に作られるゲルマニムブレスレットのような物は、工業製品でもあるので、その観点は はずせないと思いました。消費者としては、一定のリスクを負いつつも、生産者の過ちについては厳しいチェックを入れておくべきである、と。大量生産の工業製品である、というのは、意外と見落としがちな観点のように思うのですが、どうでしょう。
↑
きっかけとして、つい最近、100円ショップでゲルマニウムブレスレットを見かけた、というのがあります。見かけて、色々オカシイだろ、と思ったんですね。
プラセボの部分については、いつも書くような事ですね。多分誤解されていると感じたので書いてみました。
後、元増田を書いたのは(元増田は、というのが正確かな)、多分 id:yoshikogahaku さんなので、コールするのも手かと。
ニセ科学を批判する人への印象の部分は、まあ、やっぱりそういう印象受けるのね……という感じでしょうか。
▼引 用▼
何だかカルト宗教と五十歩百歩の凝り固まった精神が感じられる
▲引用終わり▲
これ、前後を含めると表現は柔らかですが、その実、ものすごく強烈な批判なんですよね・・。
自分が書いた、
▼引 用▼
私は、ああいうものを本気で熱くなって批判する人がいるのを、とてもありがたく頼もしいことだと感じます。そういう人がおらず、誰も「怒らない」社会を想像すると、不安になります。
▲引用終わり▲
これは、率直な思いですね。皆さんが頑張ってくれるからこそ、実は効果が認められていないのに「あるかのように」喧伝されるのが沢山ある、というのを知る事が出来る訳で。
あれはそうでしたか。お休み中と言いながら、目配り怠りない感じですね。
>コールするのも手かと。
後で読み返して気づきましたが、反応がなかなか来なかったら、と思っています。
>前後を含めると表現は柔らかですが、その実、ものすごく強烈な批判
額面通りに捉えれば、おっしゃる通りです。
>皆さんが頑張ってくれるからこそ
ぼくは自分が問題となるような主張を批判できている気がまったくしないだけでなく、問題(どこがおかしいのか)を見つけ出すことさえろくろくできていません。だからこそ、本当に多くの方のアンテナに助けられていると感じています。
でも、身内を侵される恐怖や怒りのない方には過剰な反応に見えてもおかしくないだろうとも思います。
実際ぼくは、うちの子どもが学校で水伝授業を受けるまでは、なにも動かなかったのです。すでにきくちくんの嘆きや焦り、怒りを(と言っていいのかもよくわかりませんが)、ネット越しにであれ直接目にしていたのに。
>何だかカルト宗教と五十歩百歩の凝り固まった精神が感じられる
というのは、ニセ科学だと指摘している側を通して、ニセ科学を広めている側のカルト性を見ているんでしょう。
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2007-01-13
まぁ古いエントリなのであまり読まれていない、と云うこともあるかもしれませんが、ぼくのスタンスはこのころからわりと変わってなくて、でも「何だかカルト宗教と五十歩百歩の凝り固まった精神が感じられる」ひとからの反論めいたものはいちどももらったことがありません。
>何だかカルト宗教と五十歩百歩の凝り固まった精神が感じられる
私は「五十歩百歩の凝り固まった精神」が気になりました。ニセ科学を批判している人達は、歩み寄る事がないと思われているんですね。
2chのスレッドなので具体的な例として適切かどうかわかりませんが、kikulogの911陰謀論エントリへの感想で「技術開発者を始めとして常連のコメントが嫌みたらしくて不愉快で最後まで読めなかった」というのを見かけました。
リアルタイムで読んでいた時、良くある展開でどうとも思わなかったんですが、何を俎上に載せて議論しているかは問題ではなくて、寄って集って馬鹿にしている(と見える)ことに反感を感じているようでした。
またそのスレッドで911陰謀の大阪フォーラムでの出来事も書かれていました。
山本氏が途中激しく野次ったことで、きくちゆみ氏が泣き出したそうですね(そうなんですか?)。これもまたフォーラムの意味は関係なく、人が発表しているのを馬鹿にして大声で野次る態度に反感があるようでしたね。いい大人のすることじゃない、そうです。
2chみたいな場所で、無責任な言動を繰り返す連中が、妙にナイーブなんです。しかも反応がピンポイントすぎ。
「お化け屋敷では目を瞑っておけばいい」的な話を聞く度に思うんです。お化け屋敷は出ればお終いだけど、目を瞑っていると車には当たるって(当たった事のある人間が言うんだから間違いありません)ね。車に当たらないために、信号やミラーを準備したり、ルールを守ったりした方が良いんじゃないのかなぁ、違うのかなぁ。
規範論も含めて一旦収斂させてみることにしたのは、「共通の規範を受け入れることによって生じている何人かの人達の共通点ある振る舞い」に対して、カルトとか信者とか言い出す人が出てきたから、という面もあります。だから、カルトとは逆の、より一般的な規範に基づくものなんだよ、と明文で書いておこうと思った。
今回、自分の所も含めて新たに追加したのは、元々のニセ科学のカルト性が、正確に批判した場合に、ニセと同じパターンで一種の「上書き」をするような形をとってしまうと、カルトに見えるんじゃないの、という指摘です。でもそれはもともとのニセ科学が持ってたものだよね、と。
今後は、「批判者」を想定してカルト云々を言うのなら、これら2つには当てはまらず、本当にカルト化していることをピンポイントで指摘していただきたいところです。そうでないなら、根拠のない言いがかりで却下でいいんじゃないかと。
うさぎ林檎さん、
2ちゃんねるに書いてる人達が態度云々を問題にするのは、「おまえが言うな」で終わりでしょう。
カルトっぽく見えるというのが、もしも教条主義的とか原理主義的とかいうことや、寄ってたかって非難するように見えるといったことなのであれば、それはぼくもネット上で感じることがあります。ただ、こういう文章を書かれる方が、それをカルトっぽいと表現するような軽率なことをするかな、そうじゃない特徴を見いだすような例があったんじゃないかな、という気もしています。ご本人に聞いてみないとわかんないですけど。
それはそれとして、kikulogでの寄ってたかって批判みたいなのは、最初の頃にあそこのコメント欄で「ギャラリーを意識するというなら、もちょっと冷静に」みたいなことも書いたことがあります。ただ、それはどっちかというと罵倒や嘲笑、揶揄について書いたと記憶しています。多勢に無勢みたいなことが起きちゃうのは、見ていてかなわなんなあとは思うし、マイナスイメージを醸成することも少なくないだろうとは思うのだけど、だからと言ってどうにかコントロールできるものでもない。悩ましいです。
2ちゃんの件は、あそこをちゃんと見たことがないのでなんとも捉えようがないです。無邪気な井戸端会議を衆人環視のなかでやってるみたいなものだと考えればいいのかな、とは思うけど。そんな素朴なもんでもないんでしょうかね。
本当に参加者以外誰も見てないような井戸端会議そのものの所から、
ただ単に暴れまくってるだけのところまで雑多な感じ。
後者のイメージの方がやたら強烈かつ多数(笑)なので誤解されがちですが。
なんで「2ちゃんねるやってる奴が〜」と全部一括りにしてしまうのもどうかと思いますね。
護符といってもいろんなものが有るのに、同じ扱いをしなければならないと思い込むから分からなくなるのだと思います。「ウソ」も「殺人」もそうです。刑法上は「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。」と明確ですが、裁判では、正当防衛ではなかったのかとか、程度を斟酌されます。単純な話ではないわけで。
でも、単純に割り切れないから刑法の殺人罪の規定は間違っているといわれると、首肯できません。ただ、それは「規範」というものを例外のない数学の「定理」みたいに捉えるか、大まかな原則を示したものと捉えるかの違いでしかないのかもしれません。それだけだったら、具体的な個々の殺人(護符)が許されるか否かの判断に違いが有るわけでは無いのです。ところが、いつのまにか「規範はないのだから、総ての殺人(護符)は許されるべきだ」と論理が飛躍することになると極端な相対主義です。
あるいは逆に、ニセ科学批判者が極端な「例外のない規範」を主張しているように感じるのかもしれません。ゲルマニウムブレスレットを批判すると、神社のお守りまで否定する「何だかカルト宗教と五十歩百歩の凝り固まった精神が感じられる」ということなのかも。一切の「ウソ」を許さない女王様のように見えるのかもしれません。
このように見えるのは、興味の対象が違うからなのではないかと思います。ニセ科学批判はグレーゾーンがあることを認めた上で、明白な黒を批判しているわけですが、それが「凝り固まった精神」に見えるのは、白黒が明瞭でない微妙な問題を考えているせいではないかと。明らかなニセ商品ははっきりと断罪してかまわないでしょう。ところが、そのような断固とした態度の批判方法が他の微妙なグレーゾーンにまで敷衍されるのではないかという危惧を何となく感じるのではないでしょうか。明白なウソをウソとはっきりと言い切ることが、カルト宗教に似た凝り固まった精神に見えるのかもしれません。
なんというか、ある限定された文脈の話なのに、適用範囲を広げて取り越し苦労をしているような印象があります。
私が取り上げた2chの板は、一般書籍のものです。私がバードウォッチしているのはココだけなので、他のところの事情はよく分かりません。2chが単体であれば切り捨てるだけでも良いですよね、でもあそこが世間の一部(あくまで一部ですよ)であるのは間違いないと思います。最近では有名企業から、誹謗中傷を書き込んだのがばれた例がありましたよね。2chで議論するのは徒労に終わる可能性大ですが、ここに書き込んでいる人達は、多分自分の隣を歩いている世間の人達です。
>何だかカルト宗教と五十歩百歩の凝り固まった精神が感じられる時があるのは、わたしだけではないでしょう
この"わたしだけではない"というのは、”ニセ科学”について特に何か考えていない層を指しているのかな?と思って2chの発言を取り上げてみました。
どこに目配りして情報発信するのか、世間を相手にするには正しいだけではどうもダメな気がしています・・・「振り込め詐欺」ではあき竹城が割烹着きてキャンペーンしてましたよね。
関心の無い層が持つ感想を無視するってのは、効率が悪い気がするのです。でもだからってそんな労力誰が払うんだとは思いますし。
・・・なんだか内容がgdgdで済みません、「世間」て考え出したらまとまらなくなってしまいました。
「ニセ科学批判のカルト性」ってなんだろうと、もやもや考えていたら、3つほど思い浮かびました。
1つめは、亀@渋研Xさんも仰っているような「教条主義的とか原理主義的」の部分です。確かにそういう人は探せば居るでしょう。しかし私も元増田が言いたい事は別にあるのではないかと考えています(科学的な正しさは相対的なものであるという点は、元増田の文章レベルからみて、充分承知している筈だと思うので)。それが2つめです。
つまり2つめは「科学的な正しさではない部分を絶対視する態度」だと思います。具体的に言うならば「自らの正義を信じて疑わない態度」です。
但し、私はそこを問題視するのは、おそらく「誤解」だろうと思っています。本当に批判者は自らを正義だと信じて疑わないのか。「その様に見える」という事なら(受け取り方の問題もあるでしょうから)敢えて否定するつもりもありませんが「その様に見える」事と「そうである」事は同じではありません。同じに扱うべき時もあるでしょうが、この場合はそうではないと考えます。あくまで個人的意見ですので異論もあるでしょうが、批判者に迷いや葛藤が無いなどとは到底信じられません(もしも「いや、迷いも葛藤も無い人の話をしているのだ」というのであれば、その場合はやはり具体例を示して頂きたいと思うのです)。
もとより「正義」などというのは相対的なものであって、最初に「適用範囲」を決定しなければ「正義かそうでないか」なんて決められないのです。だからと言って適用範囲を決めていない「正義」が無意味になるのではなくて、無定義で言葉を使う場合には共通のバックグラウンドがある筈、という前提を置いている訳です。その前提をわざと崩しまくるのが「極端な相対主義」でしょう。
・・・という様な事は「ニセ科学の批判に継続的にコミットしている人」なら多かれ少なかれ考えた事がある筈だ、と勝手に思っているのですが、私は批判者に甘過ぎるのでしょうか。
そして3つめは、apjさんが仰っている事とも一部で重なる「ニセ科学のカルト性を反映したもの」です。実態を知っている訳ではないので印象論になってしまって恐縮ですが「マル暴担当の刑事は一見すると暴力団と見分けが付かない」という話を聞く事があります。ニセ科学(の中でも特に批判対象となるもの)はカルト性を有している確率が高いです。となると、それに対して正面から有効な打撃を加えようとする者は、どうしてもある程度はカルト性を帯びざるを得ないのではないでしょうか。勿論、だからと言って免責されるとは思っていません。批判者は、この3つ目の意味でのカルト性に自覚的であるべきだと思っています。
しかし、この意味でのカルト性を極端に強く批判する事には、現場で体を張って組織暴力に対抗している警察官に向かって「暴力はいけないんだよ。警察のクセにそんな事も解らないのか」と言い放つのと類似の臭いを嗅ぎ取ってしまいます(元増田がそうしていると言いたいのではありません)。
つまり、批判者は「自らのカルト性を自覚しつつも、敢えてそれを武器として用いる」くらいの図太さが必要でしょう(但しこれは「どの程度の強さの批判をするか」に依存すると思います)。それは、いかに強靭で鋼鉄の様な態度に見えようとも、実際には傷付き血を流しのた打ち回りながら身に付けたものである筈です。そこは2番目の論点とも共通する部分です。
但し、やはり外から見ただけでは、苦労して身に付けたものかどうか、容易には解りません。解らないからこそ、私も、何と言うか、こうして「穴を掘ってまた埋め戻す」様な文章を書いている訳です(この例えも解り難いですね、すみません)。
>zororiさん
私も仰っている事に近い印象を持っています。どうしてもこの手の話になると「解らない訳じゃないけど、レイヤーのズレを感じる」と思ってしまうんですよね。
>うさぎ林檎さん
私も「関心の無い層が持つ感想を無視する」というのが良いとは思いません。ただ、2ちゃんねると言われると、いけないとは思いつつも、どうしても見方にバイアスがかかってしまいます。また、別に2ちゃんねるに限った事ではなく「匿名掲示板」であればどうしても攻撃的な言辞が支配的になりやすいとも感じています。ちなみに、私は匿名とコテハンを区別しています。
ですから、確かにうさぎ林檎さんが示してくださったのは一つのサンプルではあるけれど、もっと他のサンプルも色々知りたいと(贅沢にも)思います。
いわば、「信者」が批判的な意見を封殺するたぐいの事例ですね。もちろん「信者」に対する批判という文脈です。
http://skeptics.geo.jp/diary/200905211411.html
これがカルト認定の必要にして十分な条件かはともかくとして、確かにそういう絶対化みたいなことが起きるとカルトみたいだと言われることでしょう。元増田さんが言ってるのも、そういうことなのかもしれないですね。
リンク先を読んでみたらあまりにも何じゃそりゃな内容で呆れたのでエントリー書きました。
http://www.cml-office.org/archive/?logid=402
apjさんも書いておられますけれど、自分がコントロール出来ない事に基づいてあれこれ言われるのって、かなり理不尽だなあ、と。
私も、ふまに自分のブログのアドレスをあちこちに貼られたりしましたが、ああいうのだって、見る人によっては、ニセ科学批判者のカルト性、なんてのを感じたりすると思うのです。「天羽や菊池に盲従するTAKESAN」、とか。
で、こちらとしてはどうしようも無い訳です。数十箇所は貼られたので、放っとくか、となるしか無く。
ニセ科学を批判し、かつ池内氏の論なども批判する、という人はいる訳ですけど、草野氏はどう考えてるのかな、とか。
て言うか、たとえば私が草野氏を批判したら(もうやってますが)、それを草野氏は、どう解釈するんでしょうね。草野氏自身、疑似科学批判者集合に含まれる訳ですけれども。
(より外側から見たら、「派」が分かれたように感ずるのでしょう)
「私がblogを頻繁に更新できる理由」を、私に訊かずに2ちゃんねるで訊く
ということからして、一体何がしたかったのだ?と思うわけで。
「盲信する奴を引き連れてる」と言われたって、「いやそれストーカーモドキに粘着されてるだけですから」としか言いようが無かったりする場合もあるわけで。
でもまあ、上記のケースは「そう見えることがある」の例にはなっているかと。そんなこと言われても、どうしようもないわけですけど。
どちらにコメントしようかと思いましたが、こちらで失礼します。
私はTAKESANさんの動機を疑いませんが、それをニセ科学にコミットする人全体に引用はできないですよね。負の評価もそれと同じではないでしょうか。
そもそもこの例は、亀@渋研Xさんが仰有っているように「そう見える」印象の話ですよね。反論が必要なんでしょうか?いや、名指しされているapjさんやきくちさんにはその権利はあるかな。でも2chの例はコメントした側は世間話のつもりだったのに、いきなりフルボッコだったので強烈な印象になったのでしょう。ここで反論するとフルボッコ再び・・・雉も鳴かずば打たれまいってことですか?う〜〜む。
ところで、2chが完全匿名ではない事がもう少し浸透すると良いと思いますが、アレの存在が許されている事は支持したいと思います。
理系人生を歩んできた自分としては、世の中の似非科学を受け入れてしまうということが、そもそも感覚的にまったく理解できない人間で、とはいえ血液型(笑)トークぐらいは社交の場では仕方ないのかな・・ぐらいの立ち位置です。
こうした問題ですが、知識を身につければ似非化学は自然に廃れるんじゃないのかなぁと。つまりリテラシーの問題ではないかと今までは考えていました。本ブログのような存在が社会的影響力を強めることが結局一番ハッピーな路線だよねと。
一方で、今回気づかされたのは、「実は似非化学を信じたいという人間の欲求って、根源的なものなのでは?」ということです。
人によっては似非化学ってきっと居心地がいいんです。
以前読んだ認知心理学の本には、人間の判断がいかにあやふやなものか、またその理由についてあれこれ書いてありました。
それを自分なりに解釈しますと、人間の脳回路には、迷信やジンクスを本能的にコミットするようなものが予め組み込まれてて、護符を買って安心するというのは、生物学的には自然な行為なのではなかろうかということです。つまりご飯を食べたり恋をしたりするのと同じ心理で人は護符を買っているということはないでしょうか。
護符にもゲルマニウムにも、「願いをすると叶う」とか「持ってると健康になる」という、ストーリーがあります。護符などは、なぜご利益があるのか、神話みたいな壮大なオマケもついてきてストーリー性十分。フィクションですが、マンガやアニメの延長線上にあると考えればそんなに不思議なことではないですよね。
となると、後はその商品に対しての価格設定なり情報開示のバランスで買い手の満足度が変わってくることになります。護符は古来よりあるため、それがどういったものか、例えば当たらない人もいるとか、神社はボロ儲けしてたりするといった情報開示は十分なされていますし、また価格設定も低めに設定されています。買い手の満足度は総じて高いのではないでしょうか。
一方でゲルマニウムはメーカー側の言い分しか情報開示がないですし、かつ価格も少し高いのでは? 購入後、その商品に対する情報取得が増えたときに、その商品に対する想定価値が下がることは明白で、高止まりしている間に売りつける手法は詐欺といわれても仕方ないのかなと。
いずれにせよ、こうしたフィクションを全部規制化するというのも味気ない話なので、どちらかというと科学的な根拠があると思われる商品のほうを、国が認証制度でサポートをしたらどうかなぁと思います。電化製品や健康器具は全て認証の対象となりますが、マイナスイオンが入ってたら認証は受けられないよ、みたいな感じで。認証制度システムにお金が掛かるというのが難点ですけどね・・・
なんとなく思いつきで書いてしまいました。
では、今後もブログ楽しみにしています。
>うさぎ林檎さん
実際にapjさん関連のスレを探して、ご覧になりました?
ちなみに、私がこの手の議論で過度の一般化をする事はありません。
と言うか、最初のコメントでは、キリが無いから自分は一々反論したり説明しに行ったりはしないが、理不尽は理不尽だ、という話をしたつもりです。
ああ、それと。
私は、2ちゃんねるはよく見る人です。書き込みはしませんけど。
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「見える」のを根拠にどんどん話を進めてもらっては困る、というのが自分の考えです。
>でも2chの例はコメントした側は世間話のつもりだったのに、いきなりフルボッコだったので強烈な印象になったのでしょう。ここで反論するとフルボッコ再び・・・雉も鳴かずば打たれまいってことですか?う〜〜む。
いくら、騙りと煽りが横行している2ちゃんねるでも、話が全く通じないというわけでもないので……。
もし、「ジャパンスケプティクスの偉いさん達は口先ばっかで、公式HPの更新もろくにやらないし本人たちのHPでもニセ科学についての情報を出してる人は少ない。一方apjやkikuchiはblogをちゃんと更新して運用してる。この差って一体どこから来るの」って書いてれば、勝手な意見が飛び交ってノイズが多くなるにせよ、フルボッコにはならんでしょうに。
>TAKESANさん
apjさんの板は見てません(多分今後も見ません)。名指しの板の場合は、大抵はその個人によっぽど興味がある擁護者と批判者の勢力争いだけでしょう?apjさんの研究を語り合ってるわけないので、裁判がらみのこととか動向とか下世話なヨタ話がのってたりするわけで、apjさんじゃなくても見るの気持ち悪ーいです、よ。
>apjさん
まぁ、結論としては2chで火傷したくないなら、お作法として板の空気を読めってことなんですけどね。アソコがバトルロワイヤルなのは否定できないので。でもapjさんのブログに「どうして頻繁に更新できるんですか?」と直接質問するのは、相当の強者でないと無理なのではな・ぃ・ヵ・・・・(小声)。
私が怖いなと思うのは、ニセ科学を批判している事を”なんとなく”肯定的に思ってない人達が、元増田さんが言ってる事や件のブログを読んで「そうそう、そんな感じがしてたんだ」と納得してしまうことです(誰か個人が責任を負うって話ではないデスヨ)。勿論その考え方も理不尽だとは思うんですけどねぇ。
▼引 用▼
大抵はその個人によっぽど興味がある擁護者と批判者の勢力争いだけでしょう?
▲引用終わり▲
「だからこそ」、です。誰が見ても世間話するような場じゃ無かろうに、そこでの話を広げてどうするのだろう、というのを言いたかった訳で。※好意的な事ばかりが書いてあったスレである可能性は否定出来ないですが
それと、細かいですが、板とスレッドは意味が違うかと。
草野さんのブログ記事に関しては、その論理展開に関する評価と、書かれている事実に対する評価を分ける必要があると思います。確かに草野さん自身は感情的になり過ぎる傾向があるし、そのせいかどうか、論理展開もしばしば飛躍し過ぎます。でもそれは、ここでの本題ではないので、詳しいツッコミはapjさんのところに書かせて下さい。
一方で、カルト的に「見える」かどうかという点に限って言えば、私もうさぎ林檎さんの感じ方に近いのですね。実際にはカルト的でないとしても、草野さんが経験した様な事があれば、カルト的だという印象を受ける人も居るかもしれません。
仮に、ふまくんの自作自演だったとしても、あるいは、草野さんの2ちゃんねるへの書き込みがKYだったからだとしても、そういう部分は置いといてイメージを先行させてしまう人も居るでしょうから。
勿論「自分のコントロール出来ない事柄に責任を持て」などと言いたい訳ではありませんし「実際にはカルト的ではない」という事も、ここに書き込まれている方々は十分に承知している事と思います。
しかし、本エントリの趣旨に照らせば「第三者から見てカルト的だと感じる事例も存在しうる」と認識する事自体は、有意義であろうと思います。
■にくきもの 急ぐことあるをりに来て、長言するまらうど。あなづりやすき人ならば……(不連続な茶飲み話 2009-07-04)
http://discontinuous.blog44.fc2.com/blog-entry-127.html
次のエントリも関連しています。
■隠喩揶揄(不連続な茶飲み話 2009-07-08)
http://discontinuous.blog44.fc2.com/blog-entry-128.html
快不快で語られている部分も多いので違和感を感じる方もおいでだと思いますが、「どのように見えているか/感じているか」という情報を提供してくださったと理解しています。
「論」以外の部分というのは厄介ですね。
「ニセ科学批判やってる奴等、カルトじゃねーの?」
「何で?」
「だって、2ちゃんねるのスレの書き込みみてみろよ」
「根拠が2ちゃんかよwww」
で話が終わりそう。
>でもapjさんのブログに「どうして頻繁に更新できるんですか?」と直接質問するのは、相当の強者でないと無理なのではな・ぃ・ヵ・・・・(小声)。
えーと、それだけ訊かれたら何と答えるか私だって迷いますけど、「ジャパンスケプティクスの偉い先生と何が違うと思いますか」という問いがくっついていれば、一応思い当たる節が無いわけでもなく……。
http://www.cml-office.org/archive/?logid=402
のコメント欄にまとめました。
>つまり、いわゆる否定派も
>実はその態度や目的いかんでは
>トンデモさんなのだということだ。
私は理屈では全くそうは思わないのですが、感情ではそう感じることも多々あります。
大抵の人もそうだろうなと。
>「自分は物を知っている特別な人間と思われたい」という「欲得」そのものだろう。
これは社会に認められたいという社会的動物たる人間の特徴で、このような「欲得」は必要だと思うわけですが、悪いことという教育を受けてきたような気がします。なぜ、そんな教育がなされたかというと、「欲得」の行き過ぎによる弊害が多かったからだろうと思います。つまり、コントロールする必要があるということだと思うのですが、少しでもあれば悪いという教育の行き過ぎがあるのかもしれません。人間には「欲得」は必ずありますから、主張している内容には無関係に必ず「動機が不純だ」と批難が可能になるんじゃないでしょうか。
「見える」「見えない」の部分は軽視してもいい、とは思わないので、コントロール可能な範囲については(その範囲がどれくらいあるのか、と云う議論もあるでしょうけど)コントロールを試みるべきだろうなぁ、とは思うんです。できてせいぜいそれくらい。ニセ科学の問題に継続してコミットしている人間はおおむね一度くらい「なぜコミットするか、についての私的な動機」に言及していると思うんですよ。こう云うのも自分の言説に漠然とした「正義」を背負わせないための試みなわけで、「こう見える」と云う見解に対して準備した答えでもあるんだろうな、と思うんです。
難しい部分があって、ある程度強い主張に対して対抗言論をおこなうためには、対抗言論にもそれなりの強さが求められる。ここの部分の制御はあんまり容易じゃないし、正直云って最近のJudgementさんあたりの議論はその部分がコントロールできなくなってるんだろうなぁ、みたいに感じます。ご自分の場所が、ご自分が批判している対象の質の悪いパロディみたいになってしまっている。Judgementさんのように、そもそもは相応に高い意識で言説に臨んでいるはずの方でさえ(自分自身の言動も含め)コントロールできなくなる。いや、ご本人に訊けば「意図的にやっている、コントロールは万全だ」とおっしゃるかもしれませんけど。
どうなんだろうなぁ。
どれだけそれが不安定なものでも自分の立ち位置、自分の言説との距離を何度も確かめながら主張を続けていく、みたいなことを続けていくしかないのかな、みたいにも思います。
2chだから、と云う特殊な部分はもうあんまりなくて、世間並みの良識と不見識が渦巻く場、でしかないのではないかなぁ。
神社で売っている護符との違いは、騙して売っているという点以外では、買う側にとって買わないという選択肢が精神的に本当に確保されているかでは無いでしょうか。ゲルマニウムの何かが「評判のお守りです」という触れ込みで売られているのなら、「霊験あらたかな評判のお守り」と全く同等ですが、仕組みは良く分からないが何に効くという効能をうたうか、ゲルマニウムは体にいいらしいというデマを否定することなく売ることは批判されて当然でしょう。寝ても覚めても何かの苦痛から逃れられない人間にとっては、もう何の選択肢も無い状態で、買うかそれとも買わずに何の救いも無い現実に打ちひしがれるかのどちらかを選ばされているのです。そのときに根拠はともかく、「効能」とやらに騙される人が食い物にされるのです。「お守り」だったら気休めとして分かっていて買うものです。
自分のところでエントリーを上げたので下にTBしたんですけどね。
結局、
・ニセ科学言説が持つ強さ=現実の被害を発生させる強さ
・ニセ科学へのクレームが持つ強さ=現実の被害を食い止める強さ
だと思うんです。
いわゆる「批判批判」「批判の仕方批判」は、対処すべき「現実」を持たないから弱くて当たり前。その弱さを、論の強さでカバーしようとすることがそもそも無理なのでしょう。そのことを自覚できるかどうかが、バランスを維持できるかどうかの分かれ道じゃないですかね。
ニセ科学へのクレームが引き起こす実害が、今のニセ科学と同程度のものにならない限り、「批判の仕方批判」が強さを持つことなどないんじゃないですか。
で、あのエントリで草野さんが言ってることのメインは、応援してるつもりで足を引っ張るなんてことも置きかねないからね、とも取れるので、そこについては本当に謙虚に考えるしかない。そんなレベルでのうっかりで「カルト信者集団」みたいに受け止められちゃったら、ひどく悔しいことでしょう。
LiXさんのもどかしさは、多分、ぼくが元増田のエントリに感じているものと同質なのだろうと思います。ただ、お守りやおまじないに対して、気休めと言い難い十分な説得力を感じてしまう人たちが一定数いるんじゃないか、とぼくは考えています。そして、ぼくらのようにニセ科学を問題視する人間が、その人たちに対して直接できることって、あまりないのだろうし、それが信心に類することなら口出しすべきことでもないのだろうなとは思います。
apjさんのおっしゃる「強さ」は、なんだかわかるようなわからないような。「現実の強さ」対「論の強さ」という構図だからピンと来なくて当然なのかもしれませんが。
ってか、「仕事しないでblogばっかりやってる」って中傷されることが現実にあるわけ。まあ、そういことを書くのは匿名の奴ばっかりで、書いた奴が突っ込まれない立場に居られるから書けるだけなんだけどね。
現実は、まあ、グズなテメェの作文能力や文章を書くスピードで他人を測るな、ってだけの話なんですけどね。
応答ありましたね。
そこにあった、「怖い」という思い、これについては、あるだろうな、と感じるし、自分もそういう感じは持った事があります。もちろん、そういうのって、議論を戦わせているのを外から見れば感じる、という一般的なものでもあるのでしょうけれども。
応答全体に関しては、そもそもニセ科学に纏わる議論を詳細に追っておられなかったようですし、議論をしたくない、と仰っているので、特に触れませんが、一言申し上げるとすれば、詳細に調べていないなら、いないなりの「言及出来る範囲」があると思う、それくらいでしょうか。
個人的には、元増田(よしこさんとお呼びした方が良いのかしら)のお気持ちも解る気がします。
推測でしかないのですが、おそらく、他者を批判したり攻撃したりする事に対する「本能的な嫌悪感」みたいなものが先にあって、その心情を分析した結果、ああいう言い回しになったのではないかと思います。ですから、心情的には理解出来そうなのですね。
例えば(あくまでイメージですが)ニセ科学の批判行為には「イイ大人が馬鹿みたいな能書きを真に受けて大枚をはたいたって、効果が無かったとか当たり前。それなのに、本人とは何の関係も無い奴がしゃしゃり出てきて、逆ギレ気味にいきり立ってる」みたいに受け取られかねない側面もあるかもしれません。そういう所ばかり見ていれば、距離を置きたいと思う人が居ても仕方ないでしょう。
でも。
そういう局所の印象で決めるのでなく、もうちょっと批判側の心情も忖度して欲しい様な気もします。私自身について言えば、必要があれば幾らでもやりますが、本当は他人を攻撃したり争ったりするのは嫌いなんですね(競い合うのは好き)。
それでも、必要だと思えばやる訳です。
但し、その「必要性」も、正義感とか義憤といった動機はむしろ副次的であって、中心になっている感情はちょっと違うのです。それは、強いて言うならば「ウソを流布する事に対する本能的な嫌悪感」ないし「このままにしておいたらどうなってしまうのだろうという、想像力に基づく恐怖」ですね。
私が時々「自分がニセ科学を批判する最も大きな動機は、個人的な感情である」と書くのは、そういう意味です。
あまり自分語りはしたくないのですが、時にはそれも必要なのかな、という風に今回は思いました。
ただ、私は自分の意見を押し付けるつもりはありません。意見交換と言うか、議論は必要だと思いますが「統一見解を打ち出さなければならない」という風には考えません。「カルト的に見えるかどうかなんて気にしない」という意見の人が居ても良いし、個々人の意見はそれぞれあると思います。
これは別に私がヘタレだからそう言っているのではなくて、意見の多様性を認める事こそが、非カルトである何よりの証拠だと思うからです。
その意味で、こうした問題について議論が成されている状況は好ましいと思いますし、機会を提供してくださった亀@渋研Xさんや、議論に参加されている皆さんの存在は、有り難いものだなあ、と感じています。
現状、ものを考えるのが、まだ大変なんです。どうもすいません。別エントリでも少し〈離脱症状で集中困難〉なんて書きましたが、人に「それは離脱症状だよ」と教わるまで「オレは認知症なんじゃないか」というような不安に襲われるようなひどい状態だったんですよ。情けなや。
一読したときのぼくの読み取りはズレていた部分も多々あったと思いつつ、「ゆるくないことへの嫌悪感」「漠然とした印象」「あれもこれも一緒くた」「おだやかだが、はっきりとした拒絶」みたいなものが改めて読み取れて、一定の収穫ではあったかと思います。
また、難儀だなあという思いとともに、そこにどれだけ配慮する必要があるだろうか、といったことも考えなければならないのかもしれない、などとも思いました。無用な誤解を呼ばないような配慮はしつつ、できる範囲のことしかできない、というのと同様に。
もっとも、これはまったく逆な思いもあって、「半信半疑な層」と彼らはそんなに違わないポジションでしかないのではないか、ひょっとするとかぶってさえいるのではないか、だとすると、彼らに届かない言説は「半信半疑な層」にさえ届かないのではないか、なんてことも考えます。
また、あの応答そのものよりも、応答への評価(☆のつきかたとか、ブコメとか)が、同じ人がいくつもスターをつけていたり、「強い支持だが偏っている」といったことも起きているのかもしれない、なんてことも。一部の人に、ものすごいストレスを与えているのかもしれない、といった感覚です。
もうちょっと時間が経つと、集中力も戻ってくるかもしれないので、そのときにまた新たにエントリに起こすかもしれません。
詐欺商売のターゲットになる人に、この商品には期待される効能はない上に「科学的」と称する説明に根拠はありませんと、口で説明することを怠るべきではないと強く感じました。『「笑える余裕を失って批判している人」云々は、そうだよね、とも思う。』と、日本人は空気を勝手に読んでついつい言ってしまいがちですが、ダメなものはダメです。
犯罪まがいの商売をとりあえず叩き尽くして、全て「おまじない」であると宣言させて「護符」と同じ土俵で勝負させたとき、元増田氏も私もきっと同意できる世界になると思います。そのときこそ、「マイナスイオンで髪を乾かしながら、歳をとってい」く元増田氏を腹の底から「笑える余裕」が私にも生まれることでしょう。
その昔、悪徳商法批判者として霊感商法なんかも扱っていた身としては「護符なら許される」なんて言われるとカチンと来ますね。許されない護符売りがあるから、毎年かなりの霊感商法(開運印鑑とか壺とかね)の販売者が摘発されている訳です。確かに、個別に摘発はするけど、わざわざ「印鑑に開運効果が無いことが宗教的に示されました」なんて報道発表はしないけど、それだって分からないわけです。例えば、どこかのカルト宗教に人気がでて、そのカルト宗教がコマーシャルメディアをつかって、「うちの30万円の壺を家におくと開運します」を大々的に宣伝したら、おそらく公取委あたりが「不当表示」を宣言しないとならないんじゃないかな?