これは、「百猿」と同じ構造だ。
「そうであったらいいなあ」と思う気持ちはわからないではない。
特に、善意に基づいた行動や主張をした人(しようと考える人)には「福音」に響くのかもしれない。相手に伝わるように慎重に言葉を選んだり、誤解を与えたために反撃されて苦しんだり、そんな苦労は不要になるように思えるのかもしれない。
言ってみれば、「信念をもって行なえば、真意は必ず伝わる」ということを科学者(かなにか)が援護してくれたように思うのかもしれない。
しかし残念なことに、「水伝」や「百猿」は間違っている。これは「主張している内容が、確認可能な事実ではない」というに留まらない。
科学者の(あるいは科学の)立場からは、「これこれこういうわけで、それはあり得ない」という説明がある。あるのだけど、それはなかなか届きにくいようだ。
何度か行なわれているのだけど「もし事実なら」を、しかも科学者の立場ではないところから考えてみたい。すでに渋研Xの連載には書いたことも含まれるけど、まあいいや。
発語であろうと文字であろうと、その行為者の心のありようが「水」に影響を与え、水が人体の多くを占めるために人間にも影響を与えるのだとすれば、つまり「水伝」がもしも事実であったとすれば、なぜ善意に基づく行為にも誤解や諍いがついて回るのかが説明できないのではないか。
文字でも発語でも思念が影響を与えるのであれば、文字のみのコミュニケーションでも、それは有効なはずだ。ところが実際には、文字だけのコミュニケーションになりがちな電子メールや掲示板上のコミュニケーションは荒れがちだ。
どこかで読んだ話では、水溶液を使用した実験は、すべて実験者の思念の影響を受けて結果が変わってしまうというのもあった。「氷の形が変わる」という主張なわけだから、低温下で行なわれる繊細な実験であれば、確実に影響を受けることだろう。寒さや上司への不満などを抱いたりして実験をする、なんてありそうなことなのだけどね。
一定数以上の人がある知見を得ると、それがなんの脈絡も関連もなく別の集団や人間に伝播するというのが「百猿」の主張だ。(言い出しっぺのライアル・ワトソンは作り話だと言っているが)もしも事実だとしたら、すでに多数派を占めている程度に広がりを得ている認識は、決して覆されないことになってしまう。それは歴史的事実に反する。
ニセ科学に関する議論が紛糾しやすいことをもってしても、「水伝」や「百猿」が事実ではないことを十分に証明しているのではないだろうか。
「よい言葉の選択だけ」や「よい思念だけ」「人数だけ」では、必ずしも意思の伝達はできないし、考えていることを共有することもできないということは、改めて説明する必要もないことのはずだ。どんな善意が背景にあっても、それがなんらかの媒介を通じて相手に「自動的に届く」などということはない。伝えるためには具体的な行為や、意図を伝えるに足りるだけの文脈をもった言葉が必要なのだ。
ところが「水伝」や「百猿」は、「そんな伝達のための努力はしなくてもいい」という主張になってしまっている。これは危険だ。ぜんぜん「いい話」ではない。
では「信念をもって行なえば、真意は必ず伝わる」とは言えないのか。そうではないだろう。それは別の話だ。信念をもって継続すれば、道は険しいかもしれないけれども、成就する可能性は高くなる。それだけで十分ではないか。
しかし、もしも「努力不要」「思うだけでOK」という考え方が蔓延した場合、社会はどうなっていくか。コミュニケーション不全が増え、改善や変革の可能性は減ってゆく。無気力がはびこっていくことにならないか。
「水伝」や「百猿」に共感する人たちが、そんな社会を待っているのだとは思いたくないのだが。
タグ:水からの伝言
「百猿」って、"思いさえすれば、行動しなくてもいい"っていう教えだよね
なんていうか、安直にすぎる
これが受けるってのは、結局その安直さのゆえでしょう。行動する気のない人にとっての福音
きちんと「比喩」として捉えられるならいいのだろうけどね