2007年01月05日

ニセ科学が教育に使われると困る理由

「[3tkss]三鷹:教育ウォッチング」というブログにこんな記事がある。

【主張】ゲーム脳だの脳内汚染だのという話が困る理由
http://3tkss.seesaa.net/article/14486525.html
「誤った考証に基づく指導は、なぜ困りものなのか」
というエントリだ(2009年6月追記:元記事はすでにない。Internet Arichives参照)。
ここに書かれている話、ゲーム脳だけじゃなくて、「水伝」でも「百猿」でも「EM菌」でも「マイナスイオン」でもなんでも、ニセ科学を根拠に求めた教育の全般に当てはまるのではないか、と思ったのでちょっとアレンジしてみました。

(このブログを採り上げることについて、なんじゃんかんじゃあるかもしれないけど、申し訳ないがスルーします)

●真の問題が置き去りにされる危険性
問題の原因を求めるに当たってマトハズレをしでかしているのだとすれば、当然だ。

●子どもにウソをつくことになる危険性
これは説明不要ですよね。

●問題行動が陰に隠れていく危険性
なにかの問題行動があるからこそ教育的現場に持ち込まれるのだろうと思います。しかし、合理的な話でさえも、同じ危険は抱えている。いわんや、不合理な説明であれば危険性は増大するのではないでしょうか。

●オトナを軽んじるようになる、信頼関係を損なう危険性
ウソというか誤りだと露見したら、って話です。これも説明不要ですよね。

●思考停止を真似られてしまう危険性
内容を検討しないで教育だの説教だのに使ってたら、それだけでも思考停止ですが、先の記事にも書いたように「思っただけでかなう」みたいな話の場合(水伝も百猿もそうですよね)、なお甚だしいですよね。

●科学に対する信頼を著しく失墜させ、また、本当の因果関係がわかっても、信用されにくい下地を作ってしまう
これはコメント欄にビジターの方が残しておられたもののアレンジ。上述のいくつかの問題点をまとめたものとも言えるかも。

●そのニセ科学によって(精神的な、あるいは経済的な)均衡が保たれていた場合、そのニセ科学的言説が批判または否定されることで大きな負荷にさらされる危険性がある
乗っている船が泥舟だと気づいておらず、その船に大きく依存していたら……商売にしていた場合は経済的な破綻、心のよりどころにしていた場合は精神的な破綻……コワイです。

●そのニセ科学的言説を批判することによって、誤った原因へ誘導してしまう危険性
「ゲーム脳」の場合、うかつな批判は別の犯人探しとして「結局、保護者が悪いのだ」になりかねない危うさがあります。「水伝」も、子どもたちの言葉遣いに対する指導と考えるのであれば、同じ問題があるかもしれません。これは「批判の仕方が問題になる」のではなく、やはりニセ科学には「因果関係を混乱させ、問題の本質を忘れさせる原因を作る」という問題があるのだ、と考えたいところです。

●その仮説が事実でないことが明らかになったとき、主張のなかの正しい部分まで否定されかねない危険性
たとえば、「人を傷つけるような言葉を使わないようにしよう」という指導や、「ゲームなどをやりすぎないようにしよう」という指導自体は、別におかしなものではありません。しかし、その根拠が誤っていた場合、その指導の目的自体まで誤っていることになってしまいかねません。

もうひとつ。上記の記事には出てこないのだけど、これは大事だ。

●親と学校や教師との関係や、親と子どもの関係がおかしくなりかねない
「水伝」を使った授業を子どもが受けちゃった、子どもにどう説明するか。先生や学校にどう話をするか。これは実にしんどいものでありました(その辺の話はこことか)。放ってはおけない。しかし……難しいです。
子どもの先生への信頼を損ねるような話は、できることならばしたくない。
また、授業にこうした話を取り入れる先生は、思慮不足だとしても「よかれ」と思っての善意の行動であることは疑いない。
つまり、学校に持ち込まれた途端に「誤謬を指摘すれば済む話ではなくなってしまう」のです。勘弁してほしいです、ほんとに。
posted by 亀@渋研X at 07:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | 学校とか教育とか | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする はてなブックマーク - ニセ科学が教育に使われると困る理由
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