2007年01月11日

消費されないニセ科学批判

ニセ科学批判について、kikulogで「ちょっとこわいなぁ、と思ってるのは、一部の流行として消費されることだったりします。」というコメントがあったのに対して、きくまこ氏は「消費されるでしょう」と応じています。

私も同感です。
この問題に限らない。ネットなどを介した口コミであれ、マスメディアを利用するのであれ、現代社会においてなにかを「消費されない」ようにすることはできないだろうというだけのことなのですが。

「消費されてもやめない」っていうのももちろんありですが、それは消費されることを防げるわけではないし。「やる気」だけで維持されるってことになるとある種の宗教や社会運動と一緒だから、そんなもんはあんまり目指したくない(^^;;

おそらく消費されてしまわない方法があるとすれば、なんらかの形で学校教育の課程に取り入れられるような「常識化」「一般教養としての共有」が必要なのだろうと思います。
しかし、それでも長いスパンで見ればいつかは消費されてしまうかもしれない。というのは、ニセ科学批判のような「知見そのもの」は実験事実のような形で再確認可能なわけではない、つまり不変なものではなくて、社会のありようと関わるものだろうと思うので。

一方、教育に取り入れられるとして、それは果たしてどういう形でなのか。

これまでも「論理的思考法を学ぶ・思考力を養う」「正しいロジックの追い方」というようなことは主に理科教育や数学教育を通じてまがりなりにも盛り込まれているはずだったと思うのですが、それでは足りなくて「正しい間違い方」を学ばないといけないということかもしれないと、漠然と思っています。

kikulogで知った用語を使わせてもらうと、例えば「未科学」というか「古今ところに未確認の仮説が混じっている」とか「ここに飛躍があって論理を追えていない」ということと、あからさまにロジックや再確認可能な実験事実などを無視している「非科学」と、どこかに錯誤が潜んでいるのだが、それが科学的文言などで意図的にカモフラージュされている(節がある)「ニセ科学」、そういったものと「科学」の間にある溝というかグレーゾーンというか境界というか、そういうことを知る必要がありそうに思うのです。

「必要な要件を満たしていない」とはどういうことなのか、いや、それだけではない錯誤があり得る、ということなのかな。
あるいは「本当の錯誤」と「意図的な誘導」?
ううむ。どう捉えればいいのか、まだよくわかりませんが。

それは「科学リテラシー」というようなことと同じなのかどうか? そこも自分ではわかっていません。

もひとつ。「反動でバッシングがあるかもしれない」という指摘。
これもすでに(というか当初から)感じています。その意味では、科学者や教育者の方々はニセ科学批判をすることで自分を危険にさらしていると感じています。どのような主張をする際にも、ある程度のリスクはあるものですが、一般に気づかれていなかったり軽視されているボーダーやリスクを指摘するっていうのは、それ自体、それなりにリスキーなはずです。

しかし、どちらにしても、だからといってなにもせんでもいいわけではない。とはいえムリもできん。だからできる範囲で(仕事につながる範囲や余暇を使って、また、子どもの学校や市教委等で関係者と会話をする機会があるときにはそこでちょいちょい話題にするなどの方法で)こんなことをしているわけですが。地味だが仕方がない。
posted by 亀@渋研X at 02:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 渋研X的日乗 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする はてなブックマーク - 消費されないニセ科学批判
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