http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?mode=comment&UID=1166547413#CID1168615878
こなみさんちのこの記事とか
http://www.cs.kyoto-wu.ac.jp/~konami/diary/?date=20070115
読んであれこれ考えるのだけど、うまく言語化できない。
まだ整理できていなくて、飛躍やら何やらがあると思いつつも書いちゃうと、僕の場合は「あれを放っておくと、身の危険を感じる」という危機感に尽きるようだ。
総じて言ってしまえば、ニセ科学的言説ってのは非論理的だというか論理的破綻がつきまとうというか不合理・非合理だというか、つまるところ「言ってることがメチャメチャ」なわけだ(部分的にであれ)。
列挙すれば、「ウソ」「間違い」「飛躍がある」「論理が破綻している」というようなものを「間違っているかもしれない」とか「確認はできていないけど、そうだといいなあ」とかいう但し書きなしで、あたかも正しいこと、確認されたことのように言うのがニセ科学だ。それを「個人的信念」で留めておかない、あるいは教育の現場に持ち込む、あるいはマスメディアで普遍的事実であるかのように垂れ流すってのは、どう考えても問題ですよね(但し書きがあったって、そこに気づかない人がいっぱいいるのだけど、それはまた別の問題だろう)。
それが広告ならJAROがあるかもしれんが、広告じゃないときは自力で各個撃破(はおおげさだけど)めざして指摘していくしかない。そんだけなんだが。
一般に、「論理的でない」とか指摘すると「冷たい」と言われたり「理屈よりも重要なものがある」だのという反論がある。その反論が重要な指摘の場合もあるけれども、ニセ科学の場合は論理的な振りをしているだけに妥当な批判なはずだ。なかには(しかも少なからず)、そう考えない人もいるのが困りものなのだが、それも含めて「『論理的』ということへの信頼が後退している」というような問題があるようにも思う。
それって、すごく危険だと思うのだ。
kikulogで柘植さんがさきのこなみさんちの記事を話題にしつつ、ニセ科学なのかどうか「そのもの」が問題なのではない、その線だけで行くと「科学的に正しいか」だけに問題が矮小化されると指摘していた(このコメント)けれど、それも気になる点のひとつ。
例えば、まさにそこで話題にされていた「あるある大事典」ないし納豆メーカーによる、番組内容の大手スーパーへのリークについても「正直何が問題なのか分からない」と言っちゃう人もいる。考え方は人それぞれなのだけど、法的にも手続き的にも非を問えないかもしれないが、これは弱者を顧みない行いではないか、だとすると道義的には問題ではないか、と僕なんかは思ってしまう(PJニュースの元記事参照「上」「下」)。そして、その是非を考えるためには、やっぱり論理が必要だ。
「論理的であろうとすること」を捨ててしまえば、法も秩序も何も維持できないのだけどなあ。おそらくは対話(意思疎通)や人情さえも、おおきく損なわれるのじゃないだろうか。それでええんか。わしゃ困ります。
権力や権威や親や上司や行政や大メーカーや教育や、そういったあらがい難いいろいろなものがムチャクチャを始めたときに、僕らはなにをもって対抗できるのか。
衆を恃んで声を集める? 選挙? 抗議? そのどれにしたって、「論理による説明や説得」が必要ではないのだろうか。
「論理」は、権力も金もなにも持っていない者が身を守れる、ささやかな手だてだと思うのだ。
トラックバック下さった方もありがとう。
「根拠」の合理性が重要じゃなくなって、「信念」や「信仰」だけでオッケーになったら社会生活ってムチャクチャ大変ですよねぇ。と思わない人もいるのでしょうけれども。
「自分で考えなくて済むのは楽だ」という話がありますよね(信仰や宗教がなくならない理由のひとつにされていたりしますよね)。あれも関係あるのかなあ。
考えるのが面倒だったりつらかったりする場合、「これは合理的です(あるいは科学的です)」と言ってもらう「楽さ」を選んでたら、それだって信仰といっしょだという指摘もよくあるわけです。
うーん「楽を求めるとリスクがつきまとう」なのかな。
なんて言いますか、「このままだと大変な事になりますよ」で高額契約させる悪徳商法と戦い続けてきた副作用で、「このままだと大変な・・・」とかいう警告を聞くと「身構えてしまう」様になりましてね(笑)。ニセ科学批判をしていて、まあ最初から「科学の内部の問題ではない、社会が病み始めている事の一つの症状がニセ科学だ」とかは言っている訳ですが、じゃあ社会がどういう病気なのかは今ひとつうまく表せない訳です。ただ、その部分をきちんとしないと「ニセ科学批判」が「自分の商売に差し支えるから科学者が言っているだけ」と見なされかねないので、少し話題を出して見たわけです。
こなみさんの所に「簡単だと面白くない」みたいな話を出したのですが、「人間というのは努力するのが好きな生き物だ。証拠を見たければゴルフ場に言ってみるがいい。」なんて話があります。確かに「ちょっと、きちんと考えてみる」は「考えない」より努力がいる訳ですが、それが必ずしも「辛い」訳ではないという部分をもう少し考えないとならないのかなと思います。
菊池さんのブログに時々お邪魔させて頂いている者です。
私も世間一般にニセ科学が広まり続けている理由を自分なりに考えているんですが、一般の人達の中に物事に対して情報を集めて、結果や答えだけを知って判断するという考えが浸透しているのではないかと思います。
特にネットが普及してからとりあえず知らない事があったら検索して、そこから結果だけ抜き出してその結果を導き出すまでの経過を無視するスタイルが確立されたんじゃないかと。
例えば渋研Xさんもエントリーで触れられているあるある大辞典の納豆の話でも、基本あるあるを見て納豆を買いあさった人達って、それが健康に良いと結論付けるTVだけを見てスーパーに買いに走ったんだと思うんです。
多分ほとんどの人達は、それがどういうメカニズムで体に作用して、どのような実験データから体に良いという結論が出たのか知らないし、ネットで調べても少しでも難しい記述(数式とか専門用語とか、実は私はこの数式等に対する一般人のアレルギーみたいなものもニセ科学の普及に一役買っていると思っています)が出て来たら調べる行為を止めると予測します。
私はこういう「物事を簡略化して捉えてすぐにそれに対して白黒をつけるために結論や答えを先取りする」人達にまず落ち着いて思考し、複雑な物事を複雑なまま捉えられる為の方法論を説く(出来れば教えこむ(^_^;))事が遠回りだけど重要だと考えます。
柘植さん、このエントリ、変な警鐘の鳴らし方になっちゃってるような気は私もします。まだ生煮えだからなんだろうなあ。
しかしニセ科学をはじめとする非論理的なあれこれに対しては、単に「居心地が悪い」「嫌い」とか「困ったなあ」「怖いなあ」ということではないと思えるモヤモヤがあるのです。今のところ、そのモヤモヤは危機感だろうととらえています。
あと、「簡単だと面白くない」というか、ある程度ややこしいほうが楽しいということはわかります。誰もがそうかというと、まあ、ある程度習熟した分野については、なのでしょうけれども。
内海さん、「ネットが普及してからとりあえず知らない事があったら検索して、そこから結果だけ抜き出してその結果を導き出すまでの経過を無視するスタイル」が普及しつつある、とは私も思います。確立されたかどうかは、ちょっと……ですけど(^^;;
一方で、テレビであれネットであれ、情報の断片を得ると、それを「答え」として受け止めて安心しちゃうという即決主義みたいなものも感じています。
それをとっかかりに考える、比較検討する、とはなかなかならないんでしょうね。
軽挙妄動については私も人のことは言えないのですが。
今の人達は「心」に関するものを求めていて、たまたまそれに合致しただけなんじゃないでしょうか。
ほとんどの人は深くは考えてないように見受けられます。
mixiのレビューを見ても、ほとんど詳しくなんか読んでない人がほとんどです。
科学とニセ科学に対比で言えば、現在の科学が「夢」を与えられない分、「夢」を与えてくれるニセ科学に感心が集まるんじゃないでしょうか。
なんて言いますか、ゴルフにはまる人は、その「次こそうまく」に引かれて、練習場でホームを矯正しながら何発も打ち続けたりする訳です。
合理的なものの考え方というのも、その「うまくショットができた快感」みたいな面がありましてね。いろんな事がジグソーパズルのピースがはまるみたいにヒタッと過不足なくはまり込んだ時に「快感」があるわけです。そしてその快感を覚えた者は、いろんな話がピタッとおさまらないと「面白くなくて」、はまり込むまで考え続けるわけです。
私に言わせると「社会の合理的思考の衰退」というのを、なんていうか「合理的思考を苦役としてやれ」と言われてやっている事から生じることの様に見える訳です。ゴルフも「自分なりにショットが決まった快感」を味わわせることなく「うまく打て」と苦役にしたら、やる人はいなくなるのかも知れませんね。