(未熟)なぜ、しつけの根拠を自然科学に求めるのはおかしいのか
http://shibuken.seesaa.net/article/32252594.html
(拡張子が間違ってました。lが抜けてました。コピペミスです。直しました。ごめんなさい m(_ _)m)
を書いたときに、長過ぎると思って削った部分も上げちゃえ。ちょっと重複があるはずで、そこはお見逃しを。
ツッコミ希望。反応は数日後になっちゃうかもしれないけど(汗
そこの文化の文脈によっていろいろだろうけど、「ごはんを作ってくれた××さんに感謝」「お米を作ってくれたお百姓さんに感謝」「私たちに生命を提供してくれた、この生き物に感謝」「日々の糧を与えてくれた神様(とかなんとか、そういうもの)に感謝」「ご飯が買えるように頑張った××さんに感謝」ってあるじゃないですか。だから「せっかくの食事をおろそかにしない」「食べ物をだいじに」「出されたものは全部食べよう」になるわけで。
いや、ここの順番はどっち(どれ)が先だってよいし、「感謝」「礼儀」でなくて別のものでもいいのだ。そこが論点じゃないので。
これは合理的な理由があるとすれば「相互依存」だとかってのもあるかもしれないけど、基本的にはやっぱり文化とか規範意識の問題でしょう。そこをはずしてたとえば「資源の無駄」とか「健康への悪影響」とか言い出すと、「残したものの有効利用ができれば残してもいいんじゃないか」とか「偏食してもサプリかなんかで栄養を補給すれば体には悪影響はない」「いや、サプリではすべての栄養素は補給できなくて」とかっていう「別の話」が出て来ることになる。
でも、もともとそんな話とは関係なく存在しますよね。経済学や栄養学の話じゃないんだもん(ああ、なんか経済的理由もなく給食費を滞納する親なんていう話を思い出しちゃったぞ)。
ゲーム脳で考える。たとえばコンピュータゲーム体験が程度によって心身に影響を与えようと与えまいと、まずは「どんなにおもしろくても、そればっかりしない(家の内と外でいろんな体験をしよう)」「遊んでばっかりじゃダメ(けじめはつけよう)」がまずあるはずです。
これは心身の健康への影響って側面はもちろんあって、自然科学の知見が補強してくれた部分はあると思います。でも、経験的に得られて来たバランス感覚やら規範意識やらを、子供に身に付けさせようってことが先にある話です。
遊び⇔勉強っていうんじゃなくても、そこは運動でもペーパーワークでもボードゲームでもなんでも同じはずなんです。なんでも適度にならいいけど、度を超しちゃいかんでしょう。なので、場合によっては約束も必要になって「約束したら守ろう」って話もある。
それを「子供が言う事を聞かないから、そうはできない」って理由で、認めたくなかったけど許していたとしましょう。そういうことはあるかもしれない。いや、なんでもうまくいってる親子関係なんて、そうそうないだろうから、きっとあるに違いないです。でもだからと言って、それを「脳に悪いっていう話が出て来たから」ってことで方針変更っていうのはおかしな話ではないですか? 「『けじめだ、約束だ』って言っても効き目がないけど、これなら子供に対しても説得力があるから採用」っていうことかもしれないけど、それでもいろんなことが置き去りにされていませんか?
親が考え直すきっかけ、親子が真剣に話し合うきっかけとしてはいいかもしれません。
例えば「トウチャンも、もともとやりすぎるのはよくない、けじめは必要だと思ってはいたが、お前にうまく言えなかった。でも、今度こんな話を聞いた。正しい話かどうかはわからない。だけど、それでもう一度考えるきっかけになった。約束を作ろう(あるいは「どうして約束を作れないのか、一緒に考えよう」とか)」というなら、これはきっかけとして利用したに過ぎないので「ゲーム脳仮説」がどれほど妙チキリンでも問題はないと思います。
でも、子供に対して「脳に悪いからダメ」なんじゃないはずなんです。「脳に悪いからダメ」じゃあ「心身によいとされていることなら、とめどなくやってもいいのか」っていう話にもなっちゃう。最初に書いたように、もともと「悪かろうと悪くなかろうと」の問題のはずなんです。
そういう側面があるから「これはもともと生活習慣の問題にすべきであって」だとか、「そもそも延々とゲームばかり『やらせておく』っていうのはどうなの」という話が出て来て、一見「親がダメだ論」に見えちゃうんですよね。
このケースでは背景には、親子間で前述のような約束が成立しなかったり、親のバランス感覚や「けじめを」とかって発想を重視できなかったりという問題があるわけです。それは単にダメ親だからってことでは済ませられない。
例えば「トウチャンの過重残業だとか共稼ぎだとかのときに子供との関係をどう作るか」とか、例えば「利益があることなら心身への影響は無視しちゃうなんていうことはホントにありなのか(仕事や勉強だったら過度にやってもいいのか、しかたないのか)」とか、例えば「オトナでも容易にハマるような、しかも高額なおもちゃを、低年齢の児童に子供が好きに使えるような形で与えることの是非」とか、例えば「子供の人格・人権・個性を尊重するということと子供の言うなりになるということとの違いをどう考えるか」だとか、いろいろあるはずなんです。
こういうのは「親だから考えなきゃいけない」のか。そうじゃないんじゃないか。「親だったらよけいに考えなきゃいけない」ではあるでしょうけど。
そんなアレコレをなにも検討しないで「脳に悪いから」はいかにもズレてる。
> (未熟)なぜ、しつけの根拠を自然科学に求めるのはおかしいのか
> http://shibuken.seesaa.net/article/32252594.htm
このurl、クリックしても上手くリンク跳ばないで「該当記事なし」になってしまいます。なぜかは不明です。
以上ツッコミでした....というのは冗談で(笑)しつけの根拠を自然科学に求める人々について、僕の意見を述べます。
その前に、まず話のマクラを振らせてもらいます。
(ここからマクラ)
僕には銀行員の友人がいます。これはその友人から聞いた話です。
ご存知の通り、最近の銀行は外貨預金とか投資信託とか様々な金融商品を用意して、団塊世代の退職金と年金をいかに搾り取るかに腐心しているわけですが(笑)。
その団塊世代のおじ様で、けっこうな額のオカネが入った人の中には、ご自分から資産運用の金融商品の相談に窓口にいらっしゃるかたも多いのだそうです。
そしてそのようなお客様の中には、一部、こういう人がいるのだそうです。
「ねぇ....あれだよねぇ?これ(金融商品)は....大丈夫なんだよね?間違いないんだよね?」
「いえお客様、この商品は元本保証はありませんので当然リスクはございます。つまり...」
「(話を遮って)いやいやいや、分かってるよぉ。分かってるけどさぁ....ね?アレでしょ?ドル建てだしさぁ...間違いないよね?コレなら絶対だよね?(ニヤニヤ)」
と、なんとか銀行員から「大丈夫」とか「絶対」とか「間違いない」とか「保証します」とかいう文言の言質を取ろうとする方がいるのだそうです。当然、銀行員は、そんな口車には乗りません。
で、こういう御仁に限って、いざ損をするとなると烈火のごとくに怒って物凄い剣幕で窓口に怒鳴り込んでくるのだそうです(笑)
(マクラここまで)
このような心理は、団塊世代のにわか投資家だけでなく、現代の日本社会の様々な局面で蔓延しています。
例えば:
・プロ野球のペナントレースで、マジックが点灯するとドッと湧いてくるその球団のファン
・高校野球で準決勝以降になると優勝候補校の試合に押し寄せる追っかけおばちゃん
・ディープインパクトが三冠絶対だと分かるとドッと詰め掛ける俄か競馬ファン
・オリンピック等のスポーツの大会で、大怪我を克服・挫折とスランプから復活・身内が死んだ等の「泣ける」選手に群がるファン
彼らに共通するのは以下のような心理と動機であります。
・勝ち試合だけ応援したい
・勝つバクチだけしたい
・安牌だけを振りたい
・ウマい話にだけ、乗りたい
・“喜び”とか“感動”とかの“元本保証”が欲しい
さて。
しつけの根拠を自然科学に求める人の心理と動機は、昨今のこのような風潮と同根なのだと思います。
つまり、彼らにとって「しつけの根拠に自然科学を持ち出す」ということは「自然科学」に「ベットする」「張る」という意味なのだと思います。
何を張るのか。それは「親の権威」とか「教師の威信」とか「自分が狂信して強弁するトンデモ理論の正当性」とか。
彼らの無意識の言い分はこうです:
「俺は“自然科学”に張ることにした。俺が張ったからには....大丈夫だよね?これ絶対の真理だよね?揺らいだり変わったりしないよね?」
一方的で身勝手で無根拠な虫のいい言い草です。そもそも自然科学に「見返り」を求めること自体が誤りなのですが、彼らはそのような話には耳をふさいで聞き入れません。
つまり彼らは怠惰なのですが、その怠惰は、一瞬にして裏返って、ひどいクレームやバッシングに転化しかねない暴力性と常にペアになっています。
銀行員から頻りに「大丈夫」「絶対」というコトバを引き出そうとし、いざ損をするとなるや猛然と窓口に怒鳴り込んでくる素人投資家のように。
いわば「凶暴なる怠惰」。
かめぞさんが、このトピックに引っかかる心理の裏には、恐らくしつけの根拠を自然科学に求める風潮に対して、困惑と警戒感と苛立ちと、そして嫌悪感があるのではないかと拝察いたします。そしてそれは、しつけの根拠を自然科学に求める風潮の裏には、常に「凶暴なる怠惰」ともいうべき暴力性が透けて見えるからなのではないでしょうか。
長文たいへん失礼いたしました。ご返信のお気遣いは不要ですのでお仕事がんばってください。
これは、かめぞさんの
> これなら子供に対しても説得力があるから採用」っていうことかもしれないけど、それでもいろんなことが置き去りにされていませんか?
> そんなアレコレをなにも検討しないで「脳に悪いから」はいかにもズレてる。
に呼応したコメントです。
>このurl、クリックしても上手くリンク跳ばない
すいません。修正しました。ご指摘感謝。
>「凶暴なる怠惰」
うーん、なんとも言えない、しかし、あるだろうなあと思っちゃうお話ですねえ。
私は「浅ましい」が死語になったとトキドキ愚痴るのですが、まさに「それ」だなあと思っちゃいます。
そう言っちゃうと、なんか最も道徳から遠い話になっちゃいそうですけど(泣笑)。
で、それは伝えたいと思っても伝わりにくいものだとも思う。門前の小僧はいつも聞こえてくる有り難いお経をわざわざ習わないでも覚えてくれたりもするのだけど、いつでもそれが起きるわけではない。
ましてや自分が大事だと思ってないことなんか、伝わらない。むしろ、大事だと思っていなくても自分に染み付いてしまっている悪弊は、ちゃんと受け継がれたりする(「なにがいつでも流れてくるか」の違いだけかもしれないけど)。
自分の道徳の根幹を問うために言語化するのは大事だろうし、それによって知恵の共有みたいなこともできるとは思うけど、「道徳の根拠を外に求める」こと自体は、なかなかうまくできんのではないのんかなあ。