kikulog:論文の無断使用って?(2007/2/8)
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1170863459
どこまでやると「論文の無断使用」と非難されるのか、状況がわからないので、誰か教えてください。っていう主旨とは違うけど。
元の報道は
読売
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20070207i313.htm
朝日
http://news.goo.ne.jp/article/asahi/nation/K2007020703670.html?C=S
「無断使用」から僕なんかがすぐに連想するのは、いわゆる著作権法上の「引用のルール」(出典の明記、著作者の明記、引用部分とそうでない部分が明確に区別できること、引用部分がなくても成立する主張などが含まれていること、無断改変の禁止などなど)の問題なんですが、そんな話でないことは明らかですよね。上記のルールに適っていれば、引用は無断でしていいわけで。
2つの記事を見比べてみると、少しようすがわかってきますが、これも問題点の錯綜した話ですね。。。
以下、ぱっと気づいた点。
・番組制作者の問題点
番組側から研究者へ「こういう結論を導きだす文脈であなたの論文を紹介したい」と申し入れ、それに対して「そんな話に使える研究結果ではない」と断られた。それなのに、その文脈のままで、つまり根拠となりうる研究として番組中で示した(すでにどっかで指摘された「最初に結論ありき」の姿勢というか)。
番組中の実験が実験として成立していないのは言わずもがな。
・報道の問題点
上記経緯を「無断使用」と要約した見出しの是非。
「誰にでもわかる表現」ということで、ありそうな思考過程の気はします。が、「明白かつ合理的な理由で断られたにも関わらず、強引な解釈のまま使用したことの是非」ではなくて「論文は断って使用すべきものなのか」という話に読まれてしまう(読まれてしまった)。
・局側の釈明の問題点
「番組なりの仮説を立てて実験をしたんだから捏造じゃない」という釈明ですが、これもどうか。
先の経緯で断られたことをどう考えているのかがすっぽり抜け落ちている。
もちろん、研究者の意図しない目的に研究結果を使ってはいけないという話ではない。そういう使われ方をしてしまうリスク自体はなくしようがない。そこでものすごく低レベルな誤解に基づいて使われちゃうことも防げない(研究者じゃなくても同じ。意図しない目的や文脈で、自分の発言などが引用されてしまう危険は常にある)。
そうじゃなくて、この申し開きでは「仁義は切ったんだから怒るな、法的にはダイジョウブでしょ」みたいな開き直り、すり替えが起きているんじゃないのか。
局側の釈明も含めて、研究者になんのために連絡を取ったのかが決定的におかしいと、僕なんかは考えてしまう。
使うというためだけに断る必要はない。であるからには仁義を切るというなら「こういう文脈で紹介する妥当性」を問うたのではないのか。あるいは、「番組内容に誤りや行き過ぎが混入しないようにしようとした」のであっても同じだろう。そうではなかったわけか?
テレビ屋さんにとっては単なる出演依頼・協力依頼だったわけか? 使うことは既定路線で「番組に協力するか否か」を問うたというつもりか? だったらそういう説明をしたのか?
また「その文脈ではイヤだ」ではなく「その文脈では無理がある」「そんな使われかたは迷惑」と回答された、っていう受け止め方はしなかったし、今もしていないってことになるはずだ。
つまり、局側の釈明でさえ「内容の正確性なんか考えていない」ってことだと言われてもしかたがない内容を含んでいるのだ。
実は、そこが最大の問題かもしれない。
タグ:メディア
実のところ、どう取り繕おうと「捏造」です。「未必の故意」による「捏造」という言い方になるかもしれません。
「・番組制作者の問題点」の部分が一番根拠になりまして、面倒なので判決文風に書くと
「論文を書いた研究者に問い合わせた時点で、被告らの仮説に従った番組と成り得ないことは容易に予見できる状態にあったと思料される。そのような予見状態にもかかわらず被告らは、あえて自らの仮説に基づく番組を作成したのであるから、そこには『捏造となる可能性はあるが、捏造となっても構わない』とする未必の故意があったと推定され、意図的な捏造となんら異ならしむべき判断の要素は存在しない」
となります。
柘植さん、どうも間の抜けた時期のコメントですいません。
「未必の故意」、忘れていましたが確かにそうですね、過失とは言えそうにありません。
なんだか「捏造叩きブーム」になりそうな今日この頃、個々の番組よりもメディアがそうした捏造や限りなく濃いグレ―なあれこれを見逃したり放置したり、さらに垂れ流し続けて来たりした責任も、過失としてではなく未必の故意として問われなきゃいかんな、と思ったり。