デメリットにもリスク(危険性)とハザード(毒性とかなんか)があんねんで、とかいう話に立て続けに遭遇。なんでみんなカタカナやねん。
で、以下、思いつくままに書いていたら長くなった。短くまとめ直すのも大変なので箇条書きにすると、こんな感じ。
・メディアはもちょっとちゃんとバランスに目配りせんといかんよなあ。と、自戒とともに思う。
・この毎日新聞の記者は他力本願。手抜きが常態化していると白状しているようなもんで、開き直りと自覚してないところが鼻持ちならん。
・そもそもメディアが恣意的だということは、もっと広く知られていい。
・恣意的だとしても、最後の一線として「落としちゃいけない注釈」には、もっと神経使おうよ。それを落としたら、外注や下請けなら責任問題だぜ。
・整理部とか校閲部とかいうもんが、もうちょっと機能してほしいよなあ。
・いっそ査読目的の第三者機関でも作ったらいいんじゃないか。権力の介入を招くよりはましだろう。
・査読済みシールとかって、意外に商品価値まで高めるかもしれないよ。
ご用とお急ぎでなくて、関心がおありでしたらボチボチとお読みください。
さて、では改めて、出くわした記事の紹介から。
ひとつは「ある編集者の気になるノート:経営者には、「毒」を飲むことも必要か?(007-03-05)」経由で
ほぼ日刊イトイ新聞:「問わず語りの青春論。」第8回 リスクとハザード(2007-02-23)
http://www.1101.com/mori/2007-02-23.html
んで、ちょうど同じような話を、半日ほど前に読んだばっかりでした。シンクロニシティとかいう?(笑)
その、もうひとつのちょうど同じような話はこちら。
「理系白書ブログ:メディアと科学」(2007年3月2日)のコメント欄「ぴら」さんの投稿(3月3日 0:40)経由で
「アルミニウムと健康」連絡協議会:報道の実態(内幕)と対応方法 毎日新聞・小島正美記者講演より
(その1)(2006年1月1日)
http://www.aluminum-hc.gr.jp/p_1/p1_bn.html#20
(その2)(2006年3月1日)
http://www.aluminum-hc.gr.jp/p_1/p1_bn.html#21
(その3)(掲載日不明)
http://www.aluminum-hc.gr.jp/p_1/p1_main.html#2
講演自体は2005年8月だそうな。
■メディアも世間も「リスク評価」を忘れがち
そんでまあ、どっちの話も「毒性の強さみたいな『ハザード』ばかりが語られて、それに遭遇する確率なんかの『リスク』評価がされてないことってあるよね」という話をしているわけです。
読んでて、まずはきくまこ氏がしばしば「程度問題」として採り上げていることと似ていると思ったのだ。
例えば「電磁波の発癌リスクってのは、ないわけではない。だけど、ウン万分の1だとかそういう点を考えると、いまのところその危険をどれぐらいに言うのが正しいか、ってことは考えないといかん」とかって件。こなみさんも、この話でちょっと関連のある話をしていますね(中心的な論点は違うんだけど)。
これ、異論はないどころか、「おお、そうだよな。忘れがち」とドキドキします。耳が痛い。
上記リンク先では、前者は「世間一般」を問題にしていて、後者はメディアの姿勢を問題にしているという違いがあります。
で、世間一般っていうのは、とかくそういうもんですよね。そういうのはある種の保守性と言うか生活の知恵と言うか「触らぬ神に」とか「もの言えば唇寒し」とか「君子危うきに」とか、まあ「用心しすぎるぐらいでいいんだよ」っていうわけです。
これはまあ、健全ですよ。少なくともぼくはそう思う。だって、ふつうに生活しているときに、そんなに細かいリスク評価とかしてられんもん。
■毎日記者講演の気持ち悪さ
ここでは、報道では「リスクよりもハザードを重視してしまう」と語られ、メリットに対応する言葉としてベネフィット(恩恵)が出てきます。で、ベネフィットがあるならあるって、業界の人は言わなきゃ、なんて言う(ふつう言ってるだろ)。(あの、この講演の内容を全体に見ると、こういうふうに、あちこちで責任転嫁のような気持ち悪さを感じるんですよ。※)。
前者「ほぼ日」の対談の主は、あえてまとめると「それは必ずしも十分な情報じゃないということを体験的に知った」と言ってて、「メディアの側の人間(というか、クリエーターってやつか?)ていうのはそれじゃいかんよね」とまで言ってるように思う。
一方の、後者、毎日新聞の記者は「大新聞で報道に携わる記者も、その点世間一般と同じなのだ」と暴露ゲキハク告白しちゃっている。なんつーか内部告発(なのだが、そういう悲壮感はない。当たり前の話のように語っている、いや「そこに気づいているオレはえらい」かのような口調に思える。これも気持ち悪い)。
実は、前者だってテレビ番組の現場の話をしてるわけだから、番組制作現場も同じような「ジョーシキのクビキ」のなかで仕事していると言ってるようなところがあるんだけど、少なくとも自分はそれに与したくないと読める。おもしろい番組にしたいからだろうけど。
これは大きな態度の違いだ。
悲しいのは、なんかバラエティ系の番組を作っている人が、そういう限界を乗り越えたいって話をしてるように感じるのに、報道記者の方は、恥ずかしげもなく、そういうもんだから配慮しろと言ってるところではあります。
■メディアは何を報じようとしているか
メディアが限られた紙面で採り上げられる事柄というのは、一断面にすぎない。珍しさだとかわかりやすさを追求すると、なおそういうことが起きる。
プロであろうとアマチュアであろうと、情報を取捨選択するのは、執筆や編集の最初の一歩なんだもん。学校の作文教育でも、「朝起きた、歯を磨いた」で始まる必要はない、って話は出てくるじゃないですか。あれと同じですよね。
「犬が人を噛んでもニュースにならけど、人が犬を噛んだらニュースになる」っていう言い古された話を思い出す。
なにがニュースなのかは、メディア=報道機関が決めてるんだよね。
いい例が、まさにいまの「犬が人を」の話。
たとえば「住宅街に獰猛な大型犬がいて、近所の幼児がかまれて大けがをした」とかいう話だったら、三面記事に出ますよね。飼い主の管理不行き届きが原因で、しかも飼い主が大企業の重役とか役人とかヤクザなんかだったら、社会面のトップかもしれません。
たとえば、この人たちに共通する属性って、なんでしょうね。公人とか責任が重い人たちとはくくれないよね。無理矢理くくると「叩いても怒られない人」か?
そこをポイントにするのはズれてるかな?
どういうものを報道したいかは、いろんな意味で「どういう文脈で起きたことか」で判断してるんだけど、先の犬の話はそこを端折ってる(あるいはねじ曲げている)わけだし、そういうことはあまり言われない。
■メディアは恣意的かつ選択的だ。だがしかし
よく「重要な事柄を選択して」とかいうんだけど、こういう例を考えると「そうなのか?」と思っちゃいます。言い換えれば、「どういう文脈だと重要なのか」ってことは、実はあまりちゃんと評価されていない。「社会的な影響が大きいこと」とかいうんだけど、それがすべてじゃないことは、芸能関係やスポーツ関係のニュースなんか見てるとわかるんじゃないか。そこら辺にはほとんど関心がないので強く思うのだけど、メディアが社会的影響を大きくしてるんだよね。ああいう「趣味の問題」を一般紙なんかが採り上げるのって、売り上げ対策でしょ?
これがどういうことかというと、実はメディアってすごく恣意的だってことですよね。メディアも所詮営利企業だからとか商売になるとか読者が喜ぶとかっていう言い方もされるけど、要は「自分たちが報道したいものを報道しているだけ」だってことも言えるのではなかろうか。
これ、メディア内部の人間とか本づくりをしているような人でも気づいていないことがあるんです。二十代の頃、私よりも年かさの編集者に似たような話をしたときに「単行本やなんかはともかく、新聞なんかの報道までそういう見方をするなんて、かめさんはヒネクレすぎ」と言い切ってくれた人だっていたもんね。
先に、作文教育の話を出しましたが、あれは「不要な枝葉を刈り落とす」みたいなことですよね。
でも、「不要な情報は整理して削る必要がある」からといって、それでうっかり「必要な注釈が端折られた」とときに、その不備が免罪されるわけではない。そりゃ整理が拙いってことだ。
仕方ない側面がないとは言わない。掲載できる紙面も放送できる時間も限られているんだから。だけど、フリーランサーや編集プロダクションの人間がそういうドジをやっちゃったら、仕事を切られるかペナルティもんかもしれないと思うぐらいの話ですよ(もちろん、媒体の性格や記事の内容にもよるんだけど)。
■整理部や校閲部を見直すべき?
新聞記事って重要な話を最初にして、そうでもない話ほど後ろに入れておくのが基本らしいです。これは個々の記事の話だけど、各ブロックでも全体構成でもおおむねそんな感じがしますよね。
で、記者が書いた記事は整理部って部署に回って、そこでレイアウトしながら記事が切り刻まれちゃう。入りきらない記事は紙面全体のなかでの重要度の軽重から判断されて、記事の後ろから削られて行く。
だから整理部のせいにしたくなるときもあるとは思う。それでも、切られたくない注釈な記事中の前の方に入れるとか、独立した注釈にするとか、いろいろ手だてはあると思うんですよ。で、記者さんは日常的にそれをやっているに違いない。
そういう「相互に評価を織り交ぜる」とか「ダブルチェック」みたいな安全弁は、大出版社にもある(ことがある)。
校閲部ってのがそれ。校正には「原稿通りになってるか」とか「誤字脱字がないか」なんてことをチェックするような仕事と、閲読と呼ばれる機能がある。これは例えば故事成句を間違って使ってないかとか、事実関係に明らかな誤認はないか、なんていうような著者・執筆者の責任に帰せられてもおかしくないと考える人もいそうなことまでチェックしたりする(新聞社の整理部も、こういう閲読もやってるって聞いたことがあるような気がする)。
編集者だって、ふつうはそういう目で原稿を見るんですよ。児童書のフレーベル館だったかな、いや東京書籍だったかな、あそこと仕事をしたときに、表中の数字の検算をしてないって叱られたことがあります。編集者はそういうところもチェックしなきゃいかん、てわけです。
ここでも、編集と校閲でダブルチェックするわけ。岩波書店の校閲部なんかが厳しいので有名です。あと、新潮社もかも。
しかし、校閲部に原稿を回すと、当然ながら時間がかかるわけです。ポイントを見逃さないようになるには熟練が必要なわけで、校正者ならだれでも「ちゃんと」閲読できるってもんでもない。
■第三者機関による「査読済みシール」ってどう?
整理部や校閲部は、うるさい読者代表みたいなもんですね。でも、「なにを採り上げるか」までは踏み込まないに違いない。だけど、採り上げるからにはちゃんとしたもんにするために、ダブルチェックをする、って機能はもっているわけだ。
それでもドジは踏む。先日もやらかしました、わたし(泣)。アプリケーションのどのバージョンからある機能に対応しているか、という情報を間違えました。指摘は受けていたのに、赤を入れ忘れたのか、赤を入れたのに直っていないことを見逃したのか……まあ、そうやって、人為的なミスでせっかくのチェックが生きないこともあるんですが(号泣)。
余談だけど、Web媒体の多くはこういうチェック機能をもっていない。テレビだって、どうやらシステムとしてはもっていないっぽい。ま、出版社だって、ほとんどの場合はもってないんだけどね。DTP以降、いわゆる校正を通すことさえ減っているのが実情だし。
で、まあ、整理部や校閲部って、もっと増えていいのじゃないか。で、見るべき部分を変えるべきなんじゃないか。そりゃ誤字脱字なんかも商品としてはまずいんだけど、メディアの影響力ってことを考えると、閲読から一歩踏み込んで「査読」っていうぐらいの観点が欲しいよなあ。
いっそ、査読専門の第三者機関を作って、「映倫」「ビデ倫」みたいに書籍や雑誌にシールを貼るって言うのはどうでしょう。
あ、誰かがそんなNPOかなんか作ってたなあ。予測とかがはずれたときに、印税の一部を返上するみたいな仕組みの保険だったかな? あ、これか。
言論責任保証協会
http://homepage3.nifty.com/genseki/
こういうのも有効なのかも。
まああんまり機能しないんじゃないの、っていう気もするけど、権力の介入を招くよりかはマシでしょう。こういうご時世というか問題意識で考えると、それって、商品の「付加価値」として評価されるかもしれないし。
JISマーク、JASマークって、いまはそんなに意識されてないけど、あんな感じかなあ。いまの日本のメディアは、戦後すぐの工業製品や食品なみの安全性しか保証されてない、ってことかしらん。だとすると退化だなあ……。
※
実は、後者の人が言ってることって、ぼく流に煎じ詰めちゃうと「メーカーや企業の広報は、もっとしっかりしろ」ということなわけです。「リリースを出すときも見出しに工夫を凝らそう。セミナーとかやって、独立したメディアみたいにもっと成熟せんとあかん、じょうずにならんとちゃんと出したい情報が伝わっていかんぞ」とかって。
こりゃ「メディアの記者を『めんどくさがりの読者や視聴者』と同一視しろ」と言っているのと同じでしょ。そりゃ、横着過ぎるだろう。
ぼくも関わった本を出すときに、リリースを出そうよとか版元に働きかけることがあります。そういうとき、できるだけ採り上げてもらいやすいような見出しとか記述の順番とかに工夫をするけど、それって、編集とかを生業にしているから思うのであって、ふつうの広報とかはそこまでできないよね、と思ってました。
この人は、言ってることは間違っていないかもしれない。だけど、第三者が「メディアをもっとうまく利用しよう」「メディアの制作現場を買いかぶるな」とかって文脈で語るならともかく、慎みがなさ過ぎるつうか。凡庸な見出しのリリースでも、鵜の目鷹の目でほじくり返すのが仕事でしょうよ。
オレだって、恥ずかしながら、目立たないリリースからいい情報を見つけ出そうとかって、いつでもちゃんとできてるとは言わないよ。時間は有限なんだし。でも、ジクジたるもんがありますよ。見逃したら、そりゃオレの問題でオレの責任でオレが拙いってことなんだもん。
それを「あんたらがしっかりしろ」と平気で言えちゃうところが「大手マスコミの傲慢」のひとつの現れだとか思うのは、フリーのヒガミやっかみネタミでしょうか。
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タグ:リスクとハザード
私はJIS規格の策定に携わる研究者だから、JISマークが始まった頃の話などもするわけです、「JISマークとスーパーマーケット」なんてね。
一番、分かり易いのが「不良品マッチ追放運動」とかなんだけど、特に黄リンとかが問題になって、マッチの製法が変わった直後なんてのは、一箱の徳用マッチの半分以上が擦ってもまともに発火しないなんて不良品もあつた時代があるわけです。その時代には今みたいにスイッチひねねば着火するような器具なんて無いわけで、炊事だろうと、タバコだろうと皆、マッチで火を付けていたし、皆貧しいからマッチにかかる費用だって馬鹿にできないだけの家計だった訳です。
その時代は、消費者は「物を買わずに店を買う」ということをしていた訳です。いちいち、「どのメーカー何時製造のマッチはダメ」とかチェックするなんてやはりできないから、そういうチェックをきちんとして仕入れる雑貨屋を選んで買った訳です。ただ、そういう真面目な雑貨屋が全てでもないし、また、雑貨屋が騙されて仕入れる事もあるわけで、主婦連のお姉様がしゃもじを振りかざして国会の周りを請願デモするなんてことも有ったわけですね。
そういう中でJISマークという考え方が生まれた訳でして、JISに「抜き取り検査法」とかも定めて、その検査をきちんとやっている工場の製品にはJISマークを付けることを許した訳です。消費者は「JISマークが付いていたら、無茶苦茶酷くはない」と買った訳です。今や、気にする客なんていないと思いますけどね。
なんとなく、TVや新聞の記事にも「何らかの識別マーク」が必要な時代かも知れないと思ったりします。JISと同じように、「マークがあっても無くても売るのは構わない。ただ、消費者がそのマークを判断の材料にするかどうかでマークの価値が決まる」という世界ですね。
「物を買わずに店を買う」のお話、こなみさんの日記でだったか、うなづきながら読んだ記憶があります。ブランド信仰の源泉といったところでしょうか。
>TVや新聞の記事にも「何らかの識別マーク」が必要な時代かも知れないと思ったりします。
同感です。ぼくの編集した本は不合格になっちゃうかもしれませんが(汗)、公権力による検閲なんでものが出て来る前に、業界の自浄機能を確立しないといかんのではないか、などとも思います。
JISに関わっている私が言うのも変ですが、JISマークというのは、「購入者が気にしなくなったら何の価値もない」くらい弱い規制なんです。実際に消費者が直接購入するような物に関しては、もはや、マークの有無を気にされることはほとんど無くなったと思います。私たちが素案をつくっている規格ももっぱら、事業者間取引のための規格です。
私は、20年以上JISに絡んだ仕事をしていますが、人の生き死にに関わらない国の規制というのは、本来、このように「規制の受益者が気にする分だけ価値が高く、気にしなければ価値が無くなる」という面を持つべきだと思っている訳です。
そういう意味では「査読マーク」があろうが無かろうが出版・報道は自由であり、購読者が「査読マークのあるのを読もう」と思えば価値が生じ、「査読マークなんて関係なく読もう」とするなら価値が生じないというのが理想だと思うわけです。