教育の窓・ある退職校長の想い:育つ初任者(9) パワフル算数!(2007年03月10日)
http://blog.livedoor.jp/rve83253/archives/936115.html
小学校2年生の算数の授業でのできごとがつづられている。部分的な引用をすると伝わりにくいと思うので、あえて引用はしない(TBできなくなっちゃうかな?)が、発展的に学ぶというのはこういうことだろうと思う。必ずしも発展的教材を用意するということではないはずだ。
以下、若干の飛躍を含むけれど。
結局、ぼくらは「学ぼうとする主体を育てる」しかないのではないか(自分のなかにも、第三者にも)。自然科学は道徳やしつけの根拠にはなりはしないとぼくは思う。しかし、それは科学やロジックという「方法論」がぼくらの道徳や倫理(あるいは道徳観、倫理観)に対してなんの働きも持ち得ないということではない。初等算数であっても、そこで科学あるいはロジカルであろうとすることを学ぶ姿勢は成長を促すに違いない。
こうやって考える力を磨くこと、異なるレベルの理解をぶつけあって次のステップ(どの考え方が理に適っているか=合理的かを判断する)へ進む体験を重ねた子どもたちは、自分には理解できないあやふやな「ロジックもどきの言説」に盲目的に頼ろうとすることはしないに違いない。少なくとも、そのように育つために有効な体験だろうと思える。
「ロジックもどきの言説」とは、もちろん『水からの伝言』や『ゲーム脳』などといった「ニセ科学」を含むが、それだけではない。統計の恣意的な利用なども見抜けるようになっていく、少なくとも異なる立脚点に基づく議論を自分のなかで再現できる人間に、齟齬を見抜ける人間に近づいて行けるに違いないと思える。
「自然科学が道徳やしつけの根拠になりうる」といった期待も、「科学者はニセ科学摘発(あれはニセ科学だという裁定)をもっとちゃんとすべきだ」とか「マスコミは間違えてはいけない」というような責任論も、根はひとつのように思えてならない。
「もっと有能なリトマス試験紙(のようなもの)が欲しい」
そして「リトマス試験紙を使うだけで済ませたい」あるいは「試験結果だけを知らせてほしい」ということだろう。これは怠惰だ。
逆に「マスコミなんか話半分だと聞いておけばいい」というような諦念も、思考停止だという意味で実は同根なのではないか。
世界は玉石混淆だ。どれほど手を尽くしても間違いは残る(自分も、他者も)。すべてをあらかじめ理解しておくことはできない。
世界は中途半端なのだ。世界のすべてを善意に基づくと考えることも、逆に悪意に基づくと考えることも正しくはないように(そう考えることはできるし、一定の有効性はあるだろうけれども、常にどちらか一方であるわけではないことを誰もが気づいてはいるはずだ)。
そして歴史は繰り返す。人類はある日突然に飛躍的に賢くなったりはしない。しかし、こうしたことは必ずしも「世界は(あるいは人類は)でき損ない」であることを意味しないだろう。これは多様性のひとつの側面でもあるのだから。
冒頭の子どもたちが、同じような体験を積み重ねて行けることを願わないでいられない。実際にはそれは困難だろう。すばらしい教師とだけつきあって生きていくことはできない。世間には常にさまざまな人がいる(親も友人も上司も隣人も通りすがりの人も)。しかし、こうした体験が一度だけでなく、二度、三度に増え、より印象に強く残れば。
彼らは中途半端な世界と対峙して行くことができるようになるのではないか。少し中途半端さを減らすことに貢献もできるかもしれない。それができなくても、中途半端を中途半端なままで受け入れることができるようになるかもしれない。そこにも意味があると理解できるだけの下地ができるかもしれない。
404 Blog Not Found:道徳やしつけの根拠は自然科学にある(2006年12月24日)
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50721940.html
や
痴呆(地方)でいいもん:ニセ科学と宗教とか道徳について(多分つづく)(2007-03-11)
http://d.hatena.ne.jp/osakaeco/20070311/p1
を読んで暗澹たる気分になったところで読んだので、なお「よい話」に見えたのかもしれない。けど、彼らへの反論になっているような気はしないし、彼らと渡り合える文章力も気力もないヘタレなので、そっちにはTBなし ;-p
タグ:教育
【学校とか教育とかの最新記事】
こういうのを紹介されますと、自分のことではないんですが、たいへん嬉しく思います。このような算数授業のよさを世間に分かってもらえることを期待して、いろいろと書きこみをやっておりますので。
この授業では、子どもたちが、自分が知っている知識を総動員して、算数の言葉で議論を重ねていきます。教師から知識を注入されるのではありません。
ここには、数の概念、単位の考え方、まとめて見ることの便利さ、いろいろな算数の内容が駆使されています。それぞれ教えられてすぐに理解できることではありませんが、こうして積み重ねていくことで、血となり肉となっていくと思います。
そうして、社会が、計算の速さを競うのではなく、こういう学習の成果が評価されるようになってくれるとよいですね。
toshi先生のブログは、いろんな意味でうなづける記事が多く、教育関係のブログの中では白眉だと思っています(大した数のブログを見たわけではありませんが)。
とりわけ今回の記事は格別でした。
ご同業でらっしゃるようなので、よろしかったらほかのエントリもご覧いただくと共感できることが多々あるのではないかと思います。
大変すてきな内容で、ただただ感謝しております。また、勉強になるヒントもいただきました。
そんなわけで、つたない記事ですが、貴ブログに触発された面も多々ありましたので、まとめさせていただきました。TBさせてもいただきましたので、どうぞ、よろしくお願いします。
年度末のお忙しい時期を投稿時刻が物語っているようで、二重三重に恐縮です。
新しい記事に、また考えるヒントをいただきました。
「教える技術」ってどういうことなのでしょうね。少なくとも「法則化」や「教材依存」ではまずいとは思っているのですが。
この辺は、また記事にしてみたいと思います。
亀@渋研Xさんの記事によって、『主体的な学びと道徳性の涵養との関係』が、わたしにとって、強い関心事となりました。
それで、今回、その点を中心に記事にまとめましたので、TBさせていただきました。
よろしくお願いします。