Chromeplated Rat:「信じること」で救われること [世間] (2007/03/13)
http://blog.so-net.ne.jp/schutsengel/2007-03-13
と、コメント欄を読んで思ったあれこれ。
言及されている引用文を見ると、ビリーバーな人たちは決して無茶苦茶なことをしているつもりはないんだということがわかります。それなりに「勉強」してリスクを減らしているつもりのはずなんですよね。だからこそ「化学物質は」とか「西洋医学は」とか言いだすわけで。
問題のひとつは、そうした「勉強」のソースを評価する基準が甘い(「科学っぽい」だけで納得しちゃう)と同時に、ヌル過ぎて腐ったようなソースを大量にバラまいているメディアがあり(「科学っぽさ」で免罪されている気になっている)、さらにそれを拡大再生産するビリーバー自前メディアもまたネットを中心に無数に存在するということですよね。
いま不意に「ニセ科学トライアングル」という言葉を思いつきましたが、このトライアングルで互いに「思い」を強化し合っているような構造。
このトライアングルの中で自浄作用を期待できるのは、やはり商業メディアしかないような。
また、評価基準のヌルさは、近代教育において「迷信」が廃棄されていったように、「科学的であること」の要件や「論理的整合性」というものについての知識を市民が獲得していくことしかないのかなあ、とも思う。
このとき、迷信を手放していくなかで無批判に捨てられていった「先人の知恵」があったことを忘れてはいけないだろうとも思う。たとえば「未科学」と「非科学」の違いとか、「信仰」や「信念」といったことと合理的思考の共存とかといったことと、ペアで理解されていかなければならないのかな。これは中等教育以上の課題なのかな。
「楽をして成功したい」と言ってしまうと怠惰な印象しかないですが、「無駄な回り道を避けたい」「リスクを避けたい」と言うと合理的判断に見えるところも、ミソというか悩ましいところですね。
評価基準が甘いとかヌルいとかといったことを書きましたが、これは常にぼくら自身にも突きつけられている問題でもありますよね。
根拠が「kikulogに書いてあったから」「たざきさんのサイトに書いてあったから」等といったこと「だけ」ではもちろん脆弱。同じ愚を冒していると言ってもいい。
また「科学的な知見として疑う余地がない」としても、だからといって、なにか人生を考える上でのお墨付きをもらったような気になっても同じことで。これは、例えば職業上の訓練や経験から人生全般に通じる「摂理」のようなものに気づくといったことと同程度の確からしさしか持ち得ない、きわめて個人的な感慨にすぎないわけで。
「科学的思考方法」への信頼感があるとしても、それは飽くまで「ある範囲で有効な方法論であるという評価」に過ぎないはずで。
ニセ科学を批判している人の多くは、そこまで含めて話をしていることが多いと思う。でも、一度に読むのはひとつのエントリだけだったりする。だからなかなか伝わらない。
これもまた悲しい話ではあります。
ごめんなさい。ちょっと横道ですが。
ぼくはわりと意識的に、トライアングルの最後のひとつに対して対抗言説をネットに放流する、と云うことをやっています(効果測定はできていません。見苦しいだけかもしれません)。
でも、引用されたほうからすると「思わぬ方向からの批判」だったり。これって、ネット上での言説と云うことについての無自覚さと云うのがあるのかなぁ、とも思います。
「誰かに読まれるものだ」と云う意識がないところでは、確かに自浄作用は期待できないですよね。
>引用されたほうからすると「思わぬ方向からの批判」だったり。これって、ネット上での言説と云うことについての無自覚さと云うのがあるのかなぁ、とも思います。
「無批判に信じる」ということと「Blog記事への見知らぬ人からの反響を予想していない」ということは、密接に関連してそうな気がします。偏見かな。
「俺ルール」と「俺の周りルール」と「世間ルール」それぞれの判別が曖昧で、結果それぞれの境界が不明瞭なままになっている、と云う点では共通しているかも、ですね。
昔みたいにネットの怖さをしつこく云ってくれるひともあんまり見なくなったし(嫌がられるので面倒になる)。