テレビのどこが問題か──「あるある」外部調査委員に聞いた/平野 日出木
(上)吉岡忍氏「そのひと言いただき、が象徴する事実軽視の体質」(2007-04-21 09:30)
http://www.ohmynews.co.jp/news/20070421/10350
(下)村木良彦氏「無自覚なズルさの複合が、私たちの情報環境を汚染する」(2007-04-28 11:20)
http://www.ohmynews.co.jp/news/20070428/10570
既知の問題点が多いのだが、問題点があまりにも多岐に亘り、また、深部にまで及んでいることに、改めて暗澹たる気持ちになった。
検証報告書は膨大なので読んでいない方も多いだろう。ぼくもその一人だが、新聞報道でふれらて来たようなこととは異質な主張だったということが、このインタビューからわかる。
たとえば(下)で村木良彦が語る、次のくだりなどは「あるある問題」を扱う新聞までも同じ病だという指摘で、もうやりきれなくなる。
「あるある」に関しては、9社(2次制作会社)のうち、2社はちゃんと保管していました。ですから、2社で作ったものは、新聞で叩かれたりしていますが、そのうち1社はしっかりしていました。翻訳台本はきちんとある。意訳も許せる範囲内。デタラメなことはやっていない。専門の科学者に意見を聞いた証拠も残っています。それを、ある新聞が「捏造だ」とデタラメを書き、そこのプロダクションは仕事が止まってしまった。そして、こういう記事を載せているオーマイもまた、上出来な体制とは言いにくいらしい。実は、この記事にたどり着く前に読んでいたのは、市民記者のこんな声だった。
── ほう。そのプロダクションはほかの数社と比べて、質がいい方なんですね。
そうです。驚くべきことは、それを「捏造だ」と報道した東京新聞が、そのプロダクションを取材していないことです。だから私は「なんだ、おまえのところは」と東京新聞に言ってやりました。プロダクションが損害賠償で訴えたら、たぶん東京新聞は負けると思います。証拠がないので。
── スキャンダル報道のときは、その流れに乗じて「このぐらいならいいだろう」という感じで、筆を意図的に滑らせるようなところが記者にはあるでしょうね。
私もだいぶ文句を言ったので、後半では、記者も反省していました。我々は3月23日の報告書に短い要約版をつけて公表しましたが、それをちゃんとそのまま掲載したのは、東京新聞とあと1社ぐらいでした。
今回感じたのは、新聞報道がいかに不正確かということです。今まで私は、重要な問題についてよく新聞を切り抜いてじっくり読んでいましたが、それがいかに怖いことか。報道される側になってよくわかりました。毎日新聞が書いた我々の報告の概要などはデタラメですね。捏造か、捏造でないかということだけに焦点に置いて要約しているから、ほかのことは何も書いていない。ビックリしました。「“天下の毎日”がこうなってしまったのか」と思って、少し考え直しました。
http://www.ohmynews.co.jp/news/20070413/10145メディアというメディアが全部、はたまたすべての制作現場が腐ってしまっているわけではないことは知っているつもりなのだが、暗い暗い気持ちになった。
4月10日に書いた原題は「浅野史郎の弱点」というものですが、
オーマイニュースの編集部が、週刊誌っぽい
「私だけが知る」という余計な前ふりを付けました。
掲載されるまで、どう編集されたか分からないのです。
掲載されたのは4月17日です。
(「都知事選総括 左翼席から〜なぜ、浅野氏だったのか」という記事のコメント欄から「[27449] 「市民派という組織」という勘違い」安住るり 2007/04/29 11:17)
タグ:メディア
実は「収益=金銭に結びつかない」と云う視点に基づく「職業人の矜持を尊重しない風潮」がいろんな問題の根源に横たわっている気がします。マスメディアの話だけじゃなくて。でも実際のところ「職業倫理の高さを金銭に換算する」仕組みがないと、おそらく実効性はないんですよね。
おっしゃることはわかっているつもりです。
でも、職業倫理というほどではないのですが、少なくともかつて私が会社員だった頃(90年代半ばまで)は、「クオリティを維持することが中・長期的には収益の維持につながる」という発想が、出版系のプロダクションにはそこそこあったんです。「安かろう悪かろう」ではジリ貧になる、という意識ですね。
フリーになって、DTP関連の記事を書くようになり「構造不況」と呼ばれる印刷業界の話を少なからず耳にするようになってからは、「クオリティ維持(あるいは顧客の要望に応える、あるいは生き残るための設備投資)のためのコストは、どれぐらいまでなら収益とバランスできるか」というボーダーラインがどんどん低くなってきたとは感じています。しかし、少なくともつい近年までは現場サイドと経営サイドの綱引きが繰り返されてきていました。
また、上に引用したインタビューの中でも「ちゃんとしたプロダクション」の存在が言及されているように、まったく廃れてしまった考え方ではないのではないかと思います。
ただ、それが正当に評価されるような空気が希薄になっているとか、「品質」の意味が経済性だけに還元されて、なにを「悪い」とするかというあたりが「悪ズレ」しちゃっている、というようなことなのだろうとは思います。
キレイごとだけでは食えないけれども、キレイごとを完全に忘れてしまっては、やっぱりそのうちには食えなくなる、という感じです。そういうバランス感をもった人が少なくなっているのかもしれませんが、そういう面にだけ話をもっていくと八方ふさがりなのかもしれませんね。
頂いたお返事のなかにある「中・長期的」と云う視点がキーかもしれないです。こういう考え方がひどく軽んじられる風潮もあるような気がします。
以前勤めていた会社が買収されて外資系になって、急激に経営方針が近視眼的になっていくのを目の当たりにしたことがあります。その時のトップだったアメリカ人は着任してから1年くらいでそれまでの会社が築き上げてきた有形無形の資産を全部売り飛ばして、短期的な業績の急上昇によって一説によると4億円を超えると云われるボーナスを貰って、次の株主総会の直前に自己都合退職でばっくれやがったんですよ。当然次期以降の業績はぼろぼろで。そのときは「おぉ、こういうやり方がぐろーばるすたんだーどなのか」とか軽く感動したものですが。
こういう種類の人間を「勝ち組」として取り扱う文化に、気づいたらぼくたちは住んでいるのではないかなぁ、と。
ちなみにテレビ局(現場ではなく上流工程)の方々は、自分たちの仕事のクオリティが落ちているとは思っていないと思いますよ。評価軸は視聴率ですので。
だから、報道に携わるものの矜持、みたいなものに基づく品質維持が中長期的な収益確保につながる、みたいな発想もないんじゃないですかねぇ。不二家騒動に絡むTBSトップの発言なんか見てると(ちなみにTBSは週刊現代やネットニュースサイトであるJ-CASTに対し取材拒否を行っているようです。これはほとんど報道機関としての自社を否定するのに近いダブルスタンダードのような気がします)。