2007年07月10日

不安解消装置 2

前項の続き。

自分の日常の不安や恐怖など「不安解消装置」のお世話になりたくなりそうなものについて考えてみる。

■日常のなかの恐怖
子どもが巻き込まれる事故や事件の報道に接して、ぼくが最もつらいのは保護者の眼前でそれが起きているケースだ。目の前で命を失う我が子と、一瞬のことに、なす術もなくそれを見ていなければならない自分が、そこにダブるのだ。
もしも現実に、我が身にそうした不幸が起きたら?

ぼくはクルマを運転しない。主な理由は飲んべえだからだ。
だから、子どもと自転車を連ねて出かけることがしばしばある。子どもたちが小さいときは、前や後ろの補助席に座らせていた。
自分が後ろを振り向いた瞬間に子どもの運転する自転車が横転して、子どもの頭がクルマに引き潰されるイメージが脳裏をよぎることがあった。クルマと自転車が、どうしてもそういう位置関係にあるのだ。
道を走っているとき限定だ。すぐに振り返って安否を確認したい衝動と、急激な動作は危険だという自制心がせめぎあう。見たくない、という気持ちが幾分混じる。
クルマの排気音やエンジン音が不意に近くに聞こえたときや、道路状況がよくないことに気づいたとき、それがイメージ再生の引き金になっていたと思う。

突然、無謀運転のクルマが飛び込んで来ることを避ける術はない。そこに思い至ると、子どもたちに「気をつけろ」などという言葉をかけようが、道ばたに停車しようが、なにをしてもどうしようもないことに気づく。しかし、そのときには上記のような不安が生じるわけではない。
「危険が近づいている。危険を回避できる手だてはある。しかし、その手だてをしていないのではないか」という不安なのだろうと思う。

つい数年前まではこの悪夢のような瞬間を頻繁に体験した。その都度、心臓が潰れそうな思いをする。ぞっとするなどという生易しいものではなかった。
この部分を書きながら「その瞬間を何度も幻視した」と書いてしまいたい思いに駆られる。これはもはや不安や危惧というレベルではない感情なのか、それとも強い不安や危惧は、それほどに強烈な体験なのか。

■自動化と鈍化の恐怖
我が身を振り返っても「怖い」「恐ろしい」という瞬間は無数にある。

子どもが大きくなっても同じだ。自分が年齢を重ねても、それは変わらない。確信なんかもてないままに、通りすがりの人の、友人知人の、家族の「将来」と向かい合っている自分に否応なく気づかされる機会は少なくない。

しかし、本当に恐ろしいのは、そうした瞬間そのものではないのだろう。

どのシーンであれ、その都度ごとに、首をひねり、頭を悩ませながら答えを探っていると、本当に言えるか。「自分は可能な限り考え、手を尽くしている」と言えるか、と自問する。自動化している部分はないか、摩耗して鈍化している部分はないか。
その自動化や鈍化のなかに、「幸せなお産」と同じようなメカニズムが忍び込んでいないかと考えると、まさに他人事ではない、その自動化や鈍化こそがおそろしい。

とっさの判断が必要とされるときであれば、そうした自動化や鈍化は許されるに違いないが、それもまたおそろしいことかもしれない。

なにを主張するのであれ、選択するのであれ、ただ「自分が正しいと信じることを、できるだけ行なうしかない」とだけ言い続けるのであれば、「幸せなお産」の父親と、あるいは彼にそのような道を歩くことを勧めた医師と、なにも変わらない。
posted by 亀@渋研X at 13:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 渋研X的日乗 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする はてなブックマーク - 不安解消装置 2
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