ケータイ小説(2007年8月12日)
http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_2244.html
元ネタはアメーバニュースのこの辺とか痛いニュースのこの辺とか。
【註】むろんTAKESANさんがアララなのではなくて、元ネタの論旨がアララなのだ。
かつて紙で同じようなことをやっていた身として、思わずコメントを残しつつ、夜になって「踊る新聞屋ー。」さんで関連エントリに遭遇。こちらではウケケと変な快感。
[media]コンテンツは技術に規定される。ではこの先は?(2007年8月12日)
http://t2.txt-nifty.com/news/2007/08/media_0dbd.html
「踊る新聞屋ー。」さんは
いわゆるジャーナリスティックな記事のあり方が、ケータイやいずれ出てくるであろう技術によってどう規定されるのか、変わっていくのか、記事の書き手がどんなリテラシーを要求されるのかと書いていますが、これ当然アリな認識ですよねえ。
おそらく「メディアの形態とコンテンツの関係」は、まだちゃんと論じられていません。電子媒体の登場で紙の媒体はどうなるのだ、みたいなことは『本とコンピュータ』なんかでも繰り返し論じられていたんだけど、それとはちょっと違う。
たとえば日本だけを見ても、たとえば木版印刷で画文一体だった錦絵新聞が、活版印刷に移行してグラフィックとテキストが分かれ、それが写植からDTPへと変遷していくなかで再び画文一体へ進んで来たわけだ。しかし、そういう事さえ、業界内部でも一部でしか理解されていないようなので、それがコンテンツにどういう影響を与えたかなんて研究はされていないのではないか。少なくとも、私は知らない。
活版に移行し、版面が大きくなるに連れて現代のような新聞のスタイル(記事の途中に角判の写真が入る一面8段組み。また見出し処理が発達した)が一般化した。そんななかで「一面トップ」「三面記事」などという表現も社会に浸透したわけだから、「新聞の形態」が少なからず社会になにかの影響を与えている可能性はある。
一方では、Webでは面単位ではなく記事単位で情報が読まれるようになった。また関連記事をリンクからたどれるようになった。数紙を読み比べるような事が容易になった(どれぐらいの人がやっているかはともかく)。「一特定紙の購読者」だったときよりもメタな視点を手に入れたとは言えそうだ。また「誌面に漂う論調」みたいなものは見えにくくなったかもしれない(これはその新聞社のバイアスから自由になったということでは全然ない)。
形や量が変わる事でコンテンツが質的に変わるなんてことはないのかもしれない。ただ、コンテンツの形や量が変わる事で受容され方が変わる可能性は、ないと言い切れないような気がする。
携帯電話の一画面では限られた情報しか表示されない。電光掲示板ニュースほどではないにしても紙媒体に比べれば明白だ。ただし、その気になれば関連情報をたぐる事はしやすい。
掲示板的なフォームで長文の記事原稿を書いた経験からすると「携帯電話で書く」と全体を鳥瞰しにくいってことは言えるんだろうな。
小説などの創作分野では、これがどんなふうに質に関わって来るだろうか。伏線とかってめんどくさくなるかなあ。でも、それは「携帯電話で読む」ということとは違うよなあ。