〈私家版「ニセ科学の基本用語・簡易版」β1〉を改題しました。(2007.12.12)
〈β1〉を〈β+日付〉に改題しました。(2009.03.27)
[初公開:2007.9.1 ときどき更新 最終更新:2013.5.3(更新履歴)]
- ニセ科学 permalink
- 見かけは科学のようでも、実は科学ではないもの。科学者ではない一般の人たちには科学と区別がつかない(かもしれない)が、科学の専門家から見れば荒唐無稽なもの。科学的に確かめられた事実がないにも関わらず、科学的な裏付けがあるかのように主張される事柄。
→参考:「ニセ科学」と言い出したのは菊池誠ではない(2008年08月03日) - 非科学(的なもの)permalink
- 科学ではないもの。科学的な外観を持たないもの。たとえばオカルトは、そもそも科学としての外観を備えていないのでニセ科学とは呼ばない。また、個人的な体験や信念・信仰に基づく主張など、定義不能なもの、検証不能なものは科学でもニセ科学でもない(ただし、科学的な裏付けがあるかのように主張されればニセ科学の仲間入り)。
- 未科学 permalink
- 今後「科学的な主張」として認められる可能性があるが、十分な科学的検証を経ていないもの。現段階では検証不能なため仮説の段階に留まっているもの。ニセ科学ではない(ただし、科学的な裏付けがあるかのように主張されればニセ科学の仲間入り)。
- 間違った科学 permalink
- 科学的な手続きに則って検証された過程で否定されたもの。科学の発展は仮説と実証の積み重ねであるから、中には「間違った仮説」も「正しくなかった実験」もあったし、今後も新たに生まれるが、いずれも「ニセ科学」ではない。にもかかわらず根拠なく「間違っていないはずだ」と強弁しているとニセ科学の仲間入りを果たすことができる。
- グレーゾーン permalink
- 白から黒に至る連続的な変化のうち、白とも黒ともつかない「どっちつかず」の領域。科学とニセ科学のあいだにもグレーゾーンがあるが、当然ながらすべての事象がどっちつかずなわけではなく、大半はどちらに属するか明らか。当然ながら「ほぼ真っ黒なグレ―」を「真っ白」と同等として扱う理由はありません。
- ビリーバー permalink
- ある主張が正しいと頑なに信じて疑わない立場。信じる根拠はさまざまだが、主に「信じたいから」であって論理的に否定されても態度を変えない。六さん。
- 個人的な体験 permalink
- 個人的な体験は、否定することはできないが、逆に一般化することもできない。錯覚、思い込みなどによる勘違いである可能性が排除できないうえに再現・検証が困難なためである。
→過度な一般化 - 悪魔の証明 permalink
- たとえば「Aという物質が存在するだろう」という仮説は、その物質を見つけ出すことで「正しい」と証明できたことになる。しかし「Aという物質は存在しないだろう」という仮説は証明できない。まだ見つかっていないだけだという可能性を捨てられないためだ。つまり、科学の手法では「ないこと」は原理的に証明できないわけだ。このような命題を「悪魔の証明」という。
- 極端な相対主義 permalink
- 「検証を経ていない仮説」と「否定された仮説」は同じではない。したがって「間違いだという確証が得られるまでは、間違っていない可能性が残るので『否定された』と考えるべきではない」とする立場。実際には、命題によってはどれほど検証しても「間違っているという確証」は得られないケースがあり得る(「悪魔の証明」参照)ため、十分な検証を経ても裏付けるような結果が得られない仮説は、事実上否定されたも同然である。
- 科学教信者 permalink
- 科学万能主義者。科学原理主義者。
- 科学万能主義 permalink
- 「現代科学で解明できない現象はない」「すべての事柄は科学的に説明可能だ」などとする立場。科学に関する代表的誤解のひとつ。当然だが、未知の事柄や解明されていない事柄はこの宇宙に無数にある。地球上の生物種さえまだ把握し切れていない。また科学史は「なにかがわかると、その先にわからないことが見えてくる」という繰り返しという側面ももつことから考えると、すべてが解明される日というのは来ない可能性さえある。→科学依存症
- 科学原理主義 permalink
- 「科学的に確認された事柄だけが事実で、それ以外の主張はみんな間違いだ」とする立場。「極端な相対主義」の裏返しのような立場か。これも明白な誤り。前述のように、科学が答えを出せない問題は山のようにある(例:道徳)が、科学が扱えない命題であることは、その命題が誤っていることを意味しない。→科学依存症
- 科学依存症 permalink
- 「ニセ科学」信奉者のなかには、科学っぽい外見に安心してしまい、内容を吟味していない結果引っかかった……ということが少なからずありそうだ。科学教信者、科学万能主義者、科学原理主義者のなかにも、「科学的である」ということに安心感があるのかもしれない。なにか「科学に頼らないでいられない」とでもいうような不安でもあって、こうした初歩的な誤りから抜け出せないのかもしれない。そうだとすれば、これは科学依存症とでもいうべき状態である。心霊現象を「非科学的だからアウト」などと一言で切って捨て、返す刀で高価で怪しげな浄水器商売などに引っかかる……といった事例は、この種の症状ではないか。(この項、科学万能主義、科学原理主義を修正していて思いついた言葉なので、後で取り下げるかも)
- 奇跡 permalink
- あり得ないほど低い確率の現象。しかし、たとえば1万分の1の確率でしか起き得ない事柄は、10万人の人間がいれば1年間に10人に対して1度ずつ起きることになる。きくこま博士的には「奇跡は必ず起きる。しかし、それはあなたのところではない」。
- マイナスイオン permalink
- 大気イオンのことだという人もいれば陰イオンのことだという人もいるし、そうではないという人もいる、つまり「なんだかわからない」もの。定義されない以上は、少なくとも「科学的」とは呼べない。それだけなら非科学か未科学かもしれないのだが、定義も定かでないのに「ある」「一定の効果がある」「計測できる」と主張し続けることによって晴れてニセ科学の仲間入りを果たした例。国民生活センターは「測定方法や評価手法が定まっていないため、センターとしてはマイナスイオンの効果に肯定、否定の判断を下すことはできない」としている(2002年)。
- マイナスイオン三人衆 permalink
- 堀口昇・山野井昇・菅原明子。ここ数年のマイナスイオンブームの立役者。マイナスイオンの権威として扱われることが多い。
- 波動 permalink
- なんだかわからないが高額なもの。思念が物質に影響を与えるとか個人個人には特有の波動があって、などという文脈で根拠として使われる「波動」は、物理学上の「波動」とは名前が同じなだけで全くの別物。単なるオカルトに科学用語と同じ名前をつけ、計測できると主張することでニセ科学の仲間入りを果たした。
- 科学的でない permalink
- 科学以外のものや、科学が要求する一定の手続きを経て確認されていないものに対する評価語。科学という方法論で問えない命題や科学的手法では確認・検証できない主張などは無数にある(たとえば道徳的命題などの内心の問題について科学は答えを出すことができない)。そのため、「科学的でない」や「ニセ科学である」ということと「主張が間違っている」ということは同義ではない。
- 線引き問題 permalink
- 「どのような要件を備えた主張(命題)が『科学的である』ないし『科学的でない』と言えるのか」といった問題。またはこうした問題を扱う議論の総称。科学哲学上の大きな問題設定のひとつで、素人にとっては迷宮と化している。カール・ポパーなどの反証主義に基づく立場が有名。手出しをしようとするならば科学哲学上の多様な概念を理解していることが求められるため、うっかりすると大やけどをする(Wikipediaで関連項目の多さを見るだけでめまいがすること請け合い)。ぼくなんぞでは「反証可能性」に関する例文を作ろうとしてもできない。
- 反証可能性 permalink
- ある命題について「検証によって否定すること(反証すること)」が可能かどうか。「疑似科学の特徴として『反証可能性がないこと』が挙げられる」などと使われる。そのためか「反証可能性があれば科学で、なければ非科学(疑似科学・ニセ科学・オカルト等々)だ」という話をよく見かけるが、命題をちょっといじると反証可能性が出てきたりにするので、「科学の必須要件」なのだと考えると迷宮から出られなくなる(この辺、Wikipediaでも見ておいてください)。ワレワレ素人は、「ニセ科学などの特徴として反証可能性がないことが挙げられる(ことがある)」ということを頭の片隅に置き、しかし、これは必ずしも「科学的主張には反証可能性がある」ということを意味していない、両者はイコールではないと理解しておく方が実用的だし重要。
- 信じる permalink
- 辞書的には「疑わないで受け入れる」。「信じる」とはどういうことかという問題は、ニセ科学関連問題についてまわる。ビリーバーの心理を考えたり、ある主張が科学的言明なのか信念の表明なのかを検討したり、自分たちが科学的方法論をどう評価しているかについて内省するときには、避けて通れない。しかし「なにかを信じる/信じない」といった状態が具体的にはどういう要件を備えた状況をさしているのかは、なかなか難しい。試しに議論してみると、驚くほど合意を得難い。きっと心理学や哲学上の重要な命題のひとつに違いない。
辞書的にはともかく、実生活上は「あることがらや人物などを無条件に肯定的に受け入れて揺るがない」といったニュアンスがつきまとうのだが、いい大人はふつうそんなバカなことはしない。なんらかの留保条件がついたり、条件が変われば反古にしたり転向したりするからだ。そのため、特にその強度(揺らがなさや無条件さの度合い)について、論者によってかなりのバラツキがある。こうした特徴をもつ語彙や用語法は無数にあり、議論の際に使用すると無用の混乱を招くことがある。 - 用語法 permalink
- 言葉の使い方・選び方。前述「信じる」の検討時のようなリスクを回避する手段としては、和語を使わないで漢語・熟語の類似概念のなかから言葉を選んで使う方法がある。たとえば「信じる」の場合は「信頼」「信用」「確信」「妄信」「盲信」「信念」「信心」「信仰」などである。多くの漢語は和語よりは新参であって、使われる文脈が比較的限定される場合が多いからだ(そのため、ムズカしい問題を扱う文章は外来語や漢字が多くなる)。安直かつ手軽であり、とっつきやすさは犠牲になるが、こうやって言葉を選ぶと、「実は『確信』や『信念』とはかなり遠い『受容』とか『採用』『傾向』といった心持ちまで『信じる』と言っちゃってたんじゃないか」、なんてことに気づける効用がある(場合もある)。
さらに余談だが、ライター・編集者としての経験から言うと、日常語にもなっているような基本的語彙ほど、こういう「個人のもっているバイアスに由来する、埋めがたいバラツキ」がある傾向は強く、辞書や専門書による定義から遥かに離れてローカルルールだけで議論してしまうようなことが起きやすい。 - 定義 permalink
- 決めよう。決めないと。上述の「信じる」のように、人はそれぞれ同じ言葉から別のものを思い描いていることが珍しくない。「細かいことにうるさい」と思うかもしれないが、定まっていないと議論が成立しない場合さえある。検証や議論のうえでは、できれば一意(ユニーク。ある語彙とある意味が一対一で対応して例外のない状態)なほうが都合がいい。そのため、ローカルルールとして定義を定めることもある。
- 受容 permalink
- 受け入れること。困ったことに、いろんな言説を無批判に受け入れる人のなかには「鷹揚な人」「細かいことにうるさくない人」つまり「定義を気にしないで言葉をテキトーに選ぶ人」が少なくない。鷹揚さは人徳だと思うが、議論や論考の際には鷹揚さは対人関係で発揮して、論題やそこに出てくる要素(つまり自分の使う言葉)に対しては厳密になろうとするのが礼儀だったりルールだったりする。と考えている方が吉。
- ローカルルール permalink
- ある特定の場でだけ共有されている決まり。よその場では通用しない、いわば方言なのだが、実際の方言と同様にうっかりするとそれが方言だと気づかないことがある。自分だけで勝手に定めたものは「マイルール」「オレ様ルール」とでもいうべきもので、独り言や脳内言説以外では無効。
- ニセ科学批判 permalink
- ある主張について「これはニセ科学である」と指摘・問題視することを総称して「ニセ科学批判」と呼ぶことがある。しかし、実態は個別のニセ科学的な主張に対する議論であり、動機も問題とされる部分も、論者によって異なる。また、同じ「ニセ科学」という言葉を使っていても、必ずしも共通の認識をもっているとは限らない。
たとえば個々の事例については次のような論点が提出されている。怪しい風説に対する抵抗力など社会規範や常識の問題、科学者として「それを科学だと思われると迷惑」「まともな研究に予算が回ってこなくなりかねない」、教育現場・市民・政治家・企業人の科学的リテラシーの問題、職業倫理・企業倫理の問題、メディアリテラシーの問題などなど。
特定の団体が、一定の合意に基づいて批判に乗り出したという事例も(いまのところぼくの知る限りでは)ない。 - 「ニセ科学批判」批判 permalink
- なんらかの理由で「『ニセ科学批判』はよろしくない」と表明することを「『ニセ科学批判』批判」と呼ぶことがある。しかし、ニセ科学批判自体が前述のような状況のため、有効な批判は困難。構造としては実態があまりにも多様なニセ科学的言説(たとえば陰謀論やマイナスイオン、波動など)に関する議論と似ているかもしれない。いずれも「わら人形論法」と呼ばれる誤りを犯しやすい。
- わら人形論法 permalink
- 架空の論敵を批判する手法。議論において、相手の主張をねじ曲げたうえで、あたかも相手がそのような主張をしているかのように批判することで自説の正しさを示そうとするような誤った論理構造を持つ。実際には存在しない主張をこしらえたり、別々の主張をごちゃ混ぜにして、それを批判することもある。straw-man argument。論理学の用語。参考1 参考2
以下余談。「呪いのわら人形を想起しちゃって違和感が」という人がときどきいます。日本でも、剣術や拳法の稽古やデモンストレーション、戦時下の銃剣術等の演習では、標的となる「わら人形」や「わら束」を自分でこしらえて、それを攻撃するというパターンだったわけだし、「呪いのわら人形」もその点では同じなんで(本人を木に張り付けて釘を打ったわけじゃないでしょ?)、それを思い出してくれれば違和感は減るんじゃないかな。 - 優先順位問題 permalink
- ニセ科学的言説の批判の際に持ち出される「もっと重要な問題があるはずだ」「それを叩くなら、なぜ○○を叩かない」といった問題提起ならびに、それに関する議論。「批判の仕方批判」のひとつ。「ニセ科学批判」批判の一種かもしれない。「ニセ科学批判」が前述の状態である以上、飽くまで個人的な言論の範囲に留まっているわけで、人によって優先順位として合意できる部分がある場合もあれば、ない場合もある。誰であれ、個人的な取り組みとしては「自分の気づいた問題について、自分のできる方法で採り上げ、自分が語れるように語る」しかないのである。
- 批判の仕方批判 permalink
- 「○○を批判するならば、もっと別の方法を考えるべき」といった方法論に関する批判。「別の方法」は「別の論点」「別のアプローチ」「別の論理」などとも交換可能。重要な部分での事実誤認や明白な論理的誤りといった根本的な問題の指摘などではなく、飽くまで「より効果的に伝えるため」の指摘であることが多く、また主張そのものに対しては批判的でないことが多い。方法についての検討が重要であることは自明だが、これが建設的な態度かというと疑問視されている。どのような言説も相手があってされるものであり、すべての欲求を満たすことはできない。また、「この論者に、こういう言説をしてほしい」と期待することは自由だが、個人的な営みである以上は限界もある。したがって現状では、自分がよりよいと考える方法なりアプローチなりで、自力で論を展開するしかないということになる。
- 過度な一般化 permalink
- 少数の特殊な事例が観察されたことを根拠として、全体の傾向を語るような誤り。「さっき、こういう若者を見た→イマドキの若者は」と考えてしまう類い。少数の例から全体を語るためには、錯覚や思い込み、偏りなどの錯誤を排除できるようにデザインされた調査・観察が不可欠(単純に数量や期間の問題ではない。「長年の経験から」等のケースでも、特定の傾向がある事例の記憶だけが鮮明である可能性が排除できない)。しかし特に個人的な体験は強烈な「実感」をともなうために、根拠として無批判に飛びついてしまいやすい。「俗流○○批判」「○○フォビア」などと批判・揶揄される言論の、顕著な傾向のひとつ。
- 3た論法 permalink
- 「薬を飲んだ→症状が消えた→薬が効いた」「雨乞いをした→雨が降った→雨乞いが効いた」といった具合に、ある出来事の原因を直前の出来事に求めてしまう論法。実際には自然治癒やほかの治療の結果、ちょうど雨が降っただけなど、さまざまな別の要因で起きた現象かもしれないのだが、そこに気づかない、あるいは無視してしまう。体験に基づく思い込みの一種で、これも過度な一般化の例と言えよう。
→「3た」論法 - 相関と因果 permalink
- たとえば、ある値が増減するにつれて別の値が増減する場合に「両者に相関がある」などと言われることがある。こうしたときに、一方の増減がもう一方の増減の原因になっていると「因果関係がある」という。いずれも元は統計用語。相関があれば因果関係があるかのように見えることがあるが、実際にはそうとは限らない。また、どちらがどちらの原因なのか、つまり「AだからB」なのか「BだからA」なのかも混乱しやすい。
→「ゲーム脳」「脳内汚染」など:相関と因果 - 朝食と成績 permalink
- 多くの調査から「成績の良い小学生」には「常に朝食を食べる小学生」が多いことが知られている。そのため、ややもすると「朝食を食べると成績が良くなる」とか「成績を上げるために朝食を欠かさずとろう」と言われることがある。実際には生活習慣の確立した家庭では朝食を欠かさず、また同時に学習環境も整っていることが多く、その結果、両者に相関が生じているだけで因果関係はないという可能性が否定できない。また、逆の因果(成績がよいから朝食を食べる)とも考えづらい。ただし、朝食抜きでは健康上の問題があるだけでなく、授業等に身が入らず、また長時間の集中もできないことは多くの調査でわかっている。したがって、「朝食を食べれば成績が上がる」とまでは言えなくとも、子供が朝食を抜くことが学校生活においてマイナスの影響を与えることはかなり確かだと言える。教育現場では「朝食を食べさせたい」「説得力のある魅力的な理由が欲しい」という心理が働くこともあり、つい「朝食を食べれば成績が上がる」かのように主張してしまいがちなのだと思われる。
→食育:相関と因果 その2 - 交絡 permalink
- 2つの数値の変化に相関がある場合にも、一方がもう一方と直接関係しているわけではなく、両者に関わる別の要因が影響を与えているケースがある。前述「朝食と成績」の場合、「常に朝食を食べる」のも「成績がよい」のも、生活習慣が確立している結果に過ぎない可能性がある。ここでの「生活習慣」のような、相関に影響を与える別の要因を「交絡因子」「交絡要因」などと呼ぶ。統計分析や科学の実験の際には、こうした交絡因子を排除できる調査設計や実験設計が重要となる。
→kikulog「惑わされないための練習問題」と主要なやりとり。
記事には出て来ないけど大事かな、と思う語彙も入れています。他にも重要な語彙があるし、説明が適切でない場合もあると思うから加筆・更新するかもしれません。矛盾・過不足などの不備についてのご指摘を歓迎します。今はとりあえずβ版(ver.0.1)とか「2007.8.31版」ってことで。
ただし、主に渋研や九段研究所の記事、このブログなどでどう扱っているかといった観点で、できるだけ短くまとめています。すべての異論・反論と整合することはできないだろうと思います。
更新履歴
- さっそく修正。ちょっとした推敲 :-p(2007.9.1 4:00AM)
- 「科学的でない」を追加(2007.9.4 0:21AM)
- 「科学教信者」「科学万能主義」「科学原理主義」を修正、「科学依存症」を追加。
↑この「科学万能主義」「科学原理主義」の修正は、ぼくたちのコモンセンス(Chromeplated Rat 2007-10-25)の、主にコメント欄で得た知見に基づく。これまでは「現代においては実際に存在するか疑問」という立場だった。(2007.10.27 2:15AM) - 各項目にアンカーを付けた。単純に項目名をそのまま採用。
ex http://shibuken.seesaa.net/article/52939434.html#非科学 という具合。(2007.12.11) - 〈私家版「ニセ科学の基本用語・簡易版」β1〉を〈私家版「ニセ科学用語の基礎知識」β1〉に改題。(2007.12.12)
- 不細工になっていたところを修正。各項目にlinkを追加。各項目語に参照リンクを貼りたいときは
「link」「permalink」で示されるURLを使えばいいんだからね>オレ (2007.12.13) - 「線引き問題」「反証可能性」「信じる」「定義」「受容」「ローカルルール」を追加。「線引き問題」を書き始めたら止まらなくなったのだが、なんだかどんどんニセ科学問題からずれてきて、しかも辞書的記述からも離れてきたような気がするのでいったん停止。どれかはあとで消すかも<こればっかり(2007.12.14)
- 「ニセ科学批判」「『ニセ科学批判』批判」「わら人形論法」「優先順位問題」「批判の仕方批判」を追加(2007.12.18)
- 「ニセ科学批判」を微修正。〈指摘・問題視することを「ニセ科学批判」と〉→〈指摘・問題視することを総称して「ニセ科学批判」と〉(2007.12.26)
- 「link」→「permalink」に修正(2008.4.3)
- ニセ科学の項に、参考リンクを追加。(2009.3.5)
- 過度な一般化、3た論法、相関と因果、偽相関、朝食と成績を追加。(2009.3.27)
- 「偽相関」「朝食と成績」の項目を修正、項目「偽相関」は「交絡」と変更。(2013.5.3)
この後、書こうかなと思っている用語の覚え書き(順不同)。「ゼロリスク指向/ゼロリスク信仰」「愚行権」「他者危害原則」「規範としての正しさ/事実としての正しさ」
これって、カテゴリとしてまとめといて、見出し語ごとにエントリにすべきだったか?
ま、育ったらそうすっか。
今月中には楽工社の『懐疑論者の事典』(仮)が出たら用済みかもしれないし(ほんとに出るのか?)。
久しぶりに楽工社のサイトを確認したら「刊行時期:2008年初頭(予定)」となってました。
http://www.rakkousha.co.jp/info/index.html#2
やっぱり難航するよね。
何度も発売時期を遅らせるのはいろいろまずいので。
商売になる偽科学と、権威付けの為の偽科学というのも、有ると何故それが必要とされるかが分かりやすくて面白いかも知れません。
何の特にもならない偽科学って、実際に有るんでしょうか?
うーん、「商売になる偽科学」「権威付けの為の偽科学」は、なんか項目として馴染まないような気がします。でも、「なぜニセ科学的な主張をするのか」という動機に関する説明はあるとよさそうですね。おもしろいかどうかはともかく(^^;;
>何の特にもならない偽科学
単に間違ってるだけのものを間違いと認めないことでニセ科学の仲間入りをしちゃうケースもありますから、必ずしも「ニセ科学はみんな利益目的」とは言えないと思います。あ、自説の否定という不利益を避けるためにしがみつく、っていうことはあるか。
んー、ということは「ニセ科学と利益」っていう考察も可能か……。
でも、ニセ科学的な主張って、結局は誰の得にもならないとは思うんですけどね(^^;;
「生活がかかっている人もいるのだから、企業名などを挙げたニセ科学批判は不適切」という主張がときどきあるのです。
そこら辺も含めて「ニセ科学の経済効果」みたいな項目にするといいのかもしれません。100字に収まりそうな気はしないけど、どうせ300字以上ある項目がすでにいくつもあるし(^^;;
ニセ科学のトンデモ度合いを評価するレーダーチャートとか作ると面白いかもしれないですね。
どんな座標軸がよいかなぁ。
本気――ショーバイ
世界のために――俺様のために
批判に寛容――不寛容
これを対角線上に置いた 六角形なんかどうでしょうか。
でも、その評価軸は、おもしろいんだけどトンデモ度合いの評価にはならないような気がします。
トンデモ度合いを計るには、どんな項目がいいんだろう。
・効果効能が第三者に確認可能--------不可能
・用語や統計の使用方法が適切--------不適切
・説明に飛躍や誤謬がない--------ある
そんな感じでしょうかね。
やぶいぬさんのアイディアだと、トンデモな製品でも製品ごとにいろんな図形ができそうですけど、ぼくのだと、「トンデモ度合いが強いと一方に大きく偏る」「まともなものだと、逆に偏る」って感じか。
まともなものだとバランスのいい形になる、なんてのを目指すと「水伝」の仲間入りしちゃう?(^^;;
「ニセ科学の経済的効果」とかいう項目にまとめることができるかなあ、なんて思ったり。効用とか効能とかいうのもありかな。
む。悪用されたらやだな。いやいや、ここにそんな影響力ないか。じゃ、書いても平気か。うーむ、どうなんだ。どうしようかな。
事例は、あんまり扱わない方がいいのかなあ……。む。項目をジャンル分けするか? 「基本的な概念」「ニセ科学的事例」「議論に際して」みたいな感じで。
関係がないとは言えないが、あまりの内容のなさに削除。
あ、引き写されていた内容自体は有用だと思うので、そっちへのリンクを残しておこう。
「いっちょ有効なニセ科学批判批判論でも考えてみるか→すぐに挫折」から考えたこと(思索の海 2007-12-18)
http://d.hatena.ne.jp/dlit/20071218/1197947031
批判されること(Chromeplated Rat 2007-12-18)
http://blog.so-net.ne.jp/schutsengel/2007-12-18
内在(Interdisciplinary 2007年12月18日)
http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_7aca.html
あれ? 元ネタは引き写されていないのか。じゃ、追加しておこう。
今の「ニセ科学批判批判」が使えないのはなぜだろう?(事象の地平線 2007/12/17)
http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=7157
しかし、どうしてseesaaの「※言及リンクのないトラックバックは受信されません。」機能は、こういうのが素通しになるんだろうなあ……。
引っ越すべきかしら。
ニセ科学の定義と判定について考える(事象の地平線 2007/12/25)
http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=7215
暫定版とのことだけれども、「ニセ科学批判」というカテゴライズや、それに対する批判についてかなり踏み込んで論じられている。
「である・べきである問題」や「隙間の神論法」、「個人的猜疑心に基づく論法(○○だなんてシンジラレナイ!)」など、議論の仕方にまつわる問題も扱っていただけるとうれしいです。
「面白かった」といわれると、うれしいですね(^^)
「人に紹介しやすい」は、項目ごとにリンクをつけたりしてそれなりに意識しているつもりですので、そこを褒められると「えへへ」という気分になります(^_^)
>「である・べきである問題」や「隙間の神論法」、「個人的猜疑心に基づく論法(○○だなんてシンジラレナイ!)」
「隙間の神論法」は知りませんでしたが、これはなるほどでしたね。確かにそういう論法はしばしば見かけます。ID理論なんかも、同類のようで。
また「である・べきである問題」というのも知りませんでした。「Is-Ought problem」ですか。ちょっと勉強してみます。
「個人的猜疑心に基づく論法(○○だなんてシンジラレナイ!)」はわかるような気がします。信じたい主張であるがゆえに(それだけが理由で)信じてしまうという現象の、ちょうど逆のようなものでしょうか。
と書いてきて、「エビデンス(根拠)」なんて用語も、ちゃんと書いておかないといかんのかも、なんて思い出しました。まだまだ重要な用語で抜けているものは、たくさんありますね。
横にロジックツリーを書いてみるとか。
http://shibuken.seesaa.net/article/52939434.html#%E5%81%BD%E7%9B%B8%E9%96%A2
だいぶ以前にご指摘をいただいて、いろいろ教えていただいたのですが、いまだに改善できていません。
とりあえず、いただいたご指摘をまとめてくださったtogetterをご紹介しておきます。
http://togetter.com/li/42981
ブログ記事本体の方を修正せねばならないのはもちろんなのですが……ううう……いつになるやら……すいません