下記の記事を続けざまに見た。
達成の味付け(言戯3 2007年10月16日)
人権教育(14)交流教育 わたし自身の反省と決意(教育の窓・ある退職校長の想い 2007年10月16日)
にがい思い出:にがい思い出(小学校初任者のホームページ)
「知る」「わかる」ということ、それから「信じる」「求める」ということについて、なにかが頭の中で結びつきそうになっている。
ちょっと下記についても思い出したりしている。
きっかけの泡(Interdisciplinary 2007年8月 9日)
信じる(Interdisciplinary 2007年8月11日)
WAKARU(Interdisciplinary 2007年10月14日)
後日まとまるかな、まとまんねえだろうな。
がくしゅう(Interdisciplinary 2007年10月13日)
http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_75ea.html
ご紹介頂いて、ありがとうございます。
FREEさんとのやり取り、改めてざっと見返しましたが、かなり長いですねえ(笑)
自分で言うのもおこがましいですが、FREEさんとのやり取りは、対話の進め方としては、かなり良いものであったと思っています(私が書いている内容はともかくとして。哲学や心理学的には、かなり甘いでしょうし)。FREEさんには、かなり負担を掛けてしまったかも知れませんが…。
それこそ、「わかる」事を確認し合うプロセスの例、と言うか。結局、相互理解出来た、とはならなかったと思いますが、ずれを確認したり、不明な所は訊ねたり、という過程が、丁寧に行えたんじゃないかなあ、と。
関連エントリみたいなものをごそごそ書いてそちらにTBしている間に(しかも、この時刻に)コメントいただいちゃって、なんだか泡を食っています(大汗
FREEさんとのやり取りは、実のところハラハラしながら読んでいたところもあります。「なんとなくわかったような」でいい加減に終わりにしないやりとりってのは、やっぱりギャラリーも一所懸命に読んじゃうから相応の負担がかかるのかな。
で、改めて思うのは、わかろうとする、わかってもらおうとするっていうのは、どんな結果を求めているんだろう、ってことだったり。なんていうかな、別に「仲良くなる」とか「仲良し状態の維持」とか、そういうことでもないじゃないですか(それが含まれないとは言いませんが)。もちろん敵対でもない。
わかり合うとか、相互理解とかって簡単に言っちゃいがちなんですが、わかり合うことが難しいというだけではなくて、それがどういう状態なのかさえも難しいです。
哲学書でも読むべきなのかしら……。