以下、もとはこのコメント(TAKESAN | 2007年10月14日 (日) 11:44)への反応として書き始めたもの(なので、エントリとしては文章が変かも)。ただし、自分ちの直前のエントリ「メモ:知る、わかる、求める、信じる」の続き(てか内容?)っぽいものでもあるし、あまりに個人的関心に走っちゃったし、そんでもTAKESANさんはじめ、TAKESANさんちに集う方々にいぢってもらうと、なんかヒントを得られるかもなどというスケベ根性で、ここに投下してTB。<うわ、身勝手
ID:u3+C3Zwz0氏の芸みたいなの大好きなんですが、どうして「おもしろい」「すごい」と思えるのかを考えると、なかなかすっきりしない私です(^^;;
TAKESANさん、コメントで
>私がよく言う、「論理的ではあるが科学的では無い」、という事。
とおっしゃってますが、例えば下記のエントリなんかもその話題ですよね。
科学的、合理的、論理的(Interdisciplinary 2007年4月 5日)
http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_9ac0.html
この辺、ボクにとってずーっと課題のひとつになってます。
当たり前ですが論理的整合性さえあれば事実関係を間違わないわけじゃないし、一方で、知識があっても論理的に破綻したような話にハマる場合がある。自分でもなにについて考えようとしているのか、いまひとつ明確ではないのですが、知識と論理性は相補的とかってことだけでは片付かない気持ちがあって。
たとえばSF読みやかつてのオカルト好きはニセ科学やとんでもない言説に、ある種の耐性があるのではないかって話とも関係あるような気もします。先の話のようにID:u3+C3Zwz0氏の芸や民明書房ネタを楽しめる/楽しめないとか、真に受ける/真に受けないってどういうことかとか、B級SF映画をB級ゆえに楽しめるかどうかとか。そもそもアカラサマなフィクションを楽しめるかどうかとか。
考えていると、「ひょっとすると、こんなことも関係してるんじゃないか」なんて風呂敷がどんどん広がって行きます(広げ過ぎという自覚はあるんですが、たためなくなってます・汗)。
「調べる」「知る」ということに歓びが見いだせるか、それとも単にめんどくさいのか。「知る」の先に「わかる」とか「腑に落ちる」とかがあって、そこに到達できることが快感か否かとか。メタな話や大局的な話に嫌悪感を示す人もいる一方で、微視的な話には「些末だ」とか苛立つ人もいて、両方の間の整合性が気になる人と気にならない人がいたり。
やたらに並べちゃいましたけど、そういうあれこれが全部ひっからまってるんじゃないか、という気がして仕方がないんです。もう強迫観念みたいなもんかも。でも、まさに「ひっからまって」まして、全然まとまらないんですよねー(><)
迷路のような……。
周りの人からの影響というのもあるのかな、と思います。SFとかオカルトの場合、多分、「よく出来た」とか、「それっぽい」という評価の観点がありますよね。それは、SFやオカルトが虚構であるという共通認識があるから、そうやって楽しめるのですよね。で、その認識を鍛えてくれる人が周りにいれば、一段メタになれるのかな、と。
後は、そのものずばり、「科学的知識を持っているか」どうか、という所でしょうね。ある程度メタな認識があっても、現象がどういうメカニズムなのか、というのを知らなくては、「見抜けない」ですしね。
民明書房ネタを楽しめるのも、あれがウソだと「知っている」から、ですものね。実際私は、いくつか信じていた訳ですし(笑)
基本的な世界観とも、関わっているかも知れませんね。実在論的な認識を持っているか、とか。
自分が好きな分野かどうか、というのも、関係あるかも。
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なんか、激しく纏まりに欠けました。
ご指摘の点、いずれも「どうしてああいうものが楽しめるのか」を説明できる要素ですよね。ただ、その要素のひとつ(あるいはいくつか)が欠けていても楽しめるということもありそうですよね。これは、ぼくがエントリに上げている点も同じだろうと思います。
煎じ詰めてしまうと、「ウソを楽しむ」という話なのかな(自分のネタを「かな」もないもんですが)。楽しめるウソと楽しめないウソがあり、ウソを楽しめる人と楽しめない人もあり、TYPE Aのウソは楽しめるけど、TYPE Bのウソは楽しめないとか、いやその逆だとかいうこともあり……。ぜんぜん煎じ詰めてない……。
「楽しめるかどうか」といった快不快を問題に据えるとわかんなくなるのかもしれないとも思うのです。ただ、「わかろうとする」「知ろうとする」というのはヤムニヤマレヌ欲求なのではないか、なにかでおっと思った時に調べる人っていうのは「ついつい調べてしまう」のではないか、などとも思っていまして。
知識の有無は、あるシーンでは決定的な差異を生んでしまいます。それでも、知識というのはつまるところ上記のような欲求の「結果」なんじゃないか。なんて考えると、今度は「知る」「わかる」ってどういうことだ、認識すると理解するみたいなことか、なんて……。
ここまででひとつ気付いたのは、自分には定義しきれない(あるいは国語的な定義以外の定義を知らない)概念が複数入り込んでるからよけいに混乱するんですね、この話。
心理学者が「人はなぜ血液型性格分類を信じるか」を研究する気になるのかということと、どうしてボクがその手の議論を読んでも釈然としないのかが、少しわかった(!?)気がします。ホントに少し。おぼろげに。