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「国境なんかない。ぼくらの頭の中にあるだけだ」てなことを歌ったのはジョン・レノン御大でしたよね。彼のパートナー、オノ・ヨーコは「ひとりで見る夢は夢でしかない。でも、誰かと見る夢は現実」と言ったとか。
どちらも詩としては一面の真実を写し取っていて優れていると想う。けれども、やっぱり「一面の真実」であって、金科玉条のようにしてしまうと危ういとボクは思っている。
「国境」というのは人間の決めごとなのだ、そんなものを覆せないものだと思い込んで縛られるのはバカバカしい。しかし「ないと思えばない」というのは、かけ声でありエールではあっても、事実を正しく写しているわけではない。「ない」と思ったときに消える国境は、本人の心の中の国境だけだ。
また、どんなに優れたビジョンでも、1人が心の中で思い描いているだけであれば、現実世界にはなんの影響も及ぼせない。でも、それを誰かと共有できればなにか影響を及ぼすことができる。しかし、共有するためには「言語化する」とか「行動する」といったアクションが必要だ。
テレパシーや、物理現象ではない方の「波動」なんて便利なものがあれば、そんな苦労はしなくていいのかもしれない。けれども、それが期待できない以上はなんらかのアクションがなければ、そもそもどんな主張も、どんな世界観も、共有も共感もできない。
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思い返せばジョン・レノンもオノ・ヨーコも、ミュージシャンやアーティストの通例の範囲を超えて、積極的に街頭に出て、あるいはステージで、行動した人たちだった。それゆえ批判も非難もされた。
ジョン・レノンに至っては反国家的活動に手を染めているということで、いったんアメリカ国外に出たら二度と入国できなかったのだとさえ言われている。
それでも彼らは黙らなかった。
冒頭の歌や言葉は「アクションを呼びかける」「ともに立つ」ためのイメージを提供したのだと言ってもいいだろう。大声で出そうとか、積極的に人を引き込もうとかってことではなく、まず、口ずさみ、自分の中にある思い込みから自由になり、共感できる人と声を合わせ、そこら辺からボチボチとゆるゆると始めよう、というぐらいかな。でも、それは立派な「アクション」なのだ。
言葉も行動も、誤解される余地はふんだんにある。それでも、それしかぼくらの道具はない。これはかなりつらい状況だ。「行動しよう」「呼びかけよう」「最初から多くの人に振向いてもらえなくても構わない」「少数から始まる」というストレートなかけ声だけでは、正直しんどいし耳タコで心が動かない。
だから「行動によって何が起きうるか」をうまくイメージ化した、ジョン・レノンやオノ・ヨーコの言葉は大きな励みになる。行動するためには、行動を続けるためには、最初の点火剤としても、継続するためのガソリンとしても、「思い」が重要だ。イメージが重要だ。
しかし、それだけではなにも始まらない(なにも変わらない)ということを忘れると、大きな誤解を生む。「金科玉条のようにしてしまうと危うい」というのは、そういうことだ。
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このブログでは何度も触れているけれども、水や米飯に「ありがとう」とか「バカヤロウ」と言うだけでなにかが物理的に変わる(ということは、つまり世界が変わるということと同義だ)という話がある。『水からの伝言』や『水は答えを知っている』という本や、その類書で展開されている。
同じ想いを共有している人が一定の数になったら、閾値を超え、さらに多くの人に思いが自動的に伝播するという話もある。『百匹目の猿』というエピソードとともに広まっている。
こういった主張が看過できないのは、ジョン・レノンの歌やオノ・ヨーコの発言の貧弱な劣化コピーだからとか、論理的にあり得ないから、事実ではないからというだけではない。
『水からの伝言』『水は答えを知っている』『百匹目の猿』は、すべての主張し行動する人に対して「苦労して行動したり発言したりしていないで、ただ家に引っ込んで想い描いていればいいのに」と言っているのと同じだ。
つまり、先の「イメージや思いが発言や行動の源泉になり得る(あるいは源泉そのものだ)」という認識が間違っていなければ、こうした主張はイメージがもつ力を無に帰す、イメージの力を壊してしまう。「表現」「行動」などの「人間の営み」に対する侮辱だとさえ思う。
もう一度。
『水からの伝言』『水は答えを知っている』『百匹目の猿』を「いい話」だとおっしゃるみなさん、教えて下さい。いったい、この話は本当に「いい話」なのですか。なにもしない言い訳のタネになり、なにかをする人をおとしめる話になっていませんか。