2005年09月12日

「百匹目の猿」に可能性を見る人々

kikulogに、百猿関連の続報「百匹目の猿と戯れる」が出ていて、あちこち読み歩いてしまった。

今回のエントリでご紹介のサイトから、ついつい「福田::漂白言論(http://fukudablog.blog6.fc2.com/)」ってところに誘導されちゃって、思いがけず「論争」を生で見てしまいました。
「100匹目のサル」をめぐって(1)
「100匹目のサル」をめぐって(2)
また、mixiの方でもワトソン関係のコミュがあって、そこでも似たようなやり取りがあったり。

やりとりを読んで、改めて気づかされるのは百猿現象を支持して(あるいは信じて)いる人は、「あちこちで論拠とされているワトソンの記述は正しいか」ということは、あまり重視していないのですね。
ワトソン(の書き方や引用)が仮に誤っていた(事実に基づいていない)としても、「百猿現象」が否定されるわけではない(のではないか)、と主張しているかのようです。
また、そこにワトソン擁護が混じってくる場合は、「彼は我々に十分に貴重な示唆を与えた。それに比べれば、大元の話が実話であったのか寓話であったのか、あるいはワトソンが創作したのか、情報を操作したかどうかは大して重要でない」ということでもあるようです。
もっというと、「事実関係に関する記述が誤っているかもしれないけど、意図的かどうかはわからんのだから『ウソをついた』というのはおかしい」とか、「ワトソンは『即興で創作した』と書いているのだから、問題は誤った引用をして話を広めている人たちにある」とか、「百猿の話やグリセリンの話がウソだったとしても、ワトソンをどう評価するかということは、そんな些細な部分で決まるべきでない」とか、なんかそんな類いの論点が無数にあって、めまいがします。

「ワトソンが存在を主張したできごと(百猿やグリセリン)」があって、一見すると論拠になる資料があるように見える記述をしていて、しかし、いずれも当の資料に当たるとそこには論拠になり得るような記述はない。つまり、ワトソンの思いつきか勘違いか意図的な捏造かはともかく、いずれにしろ「そんなできごとは確認されていない」わけです。
しかし、支持者にとっては、主張の内容が「魅力的な考え方」である(それを提示したからすばらしい)かどうかが重要であって、それ以外のことは枝葉末葉であるということのようです。

これは例えば、「あのさあ、いま思ったんだけどさ。こういうことってあったら面白いよね。そうだったら素敵じゃん」という話と同じなんですが。今、不意にジョン・レノンの「イマジン」を思い出したのですが(国境なんかないと思えばない……って歌じゃなかったっけ)、百猿もイマジンもどっちも素晴らしいじゃん、人間の「思う力」って素晴らしいよね、そういう意味で同じってことでいいじゃん……なんでしょうか。

「百猿は寓話だから問題なし」という支持者の方に考えていただきたいのは、少なくとも、百猿(やグリセンリンの話)は詩や思想、信条、信念として提示されたのではなく、事実と確認されたできごとであるかのように提示され、そう受け止めている人が少なからずいるのですが、それは「アホだねえ」で終わりなんでしょうか。

たとえば、百猿からは、「思い浮かべるだけで行動しなくてもいい」ということさえ導き出されそうなんですけど、なにも根拠のない話を素敵だからと信じちゃって、そういうことが起きてもいいってことなんでしょうか。
あるいは、もしも百猿が正しいとすると、旧来の認識はすでに閾値を超えているから共有されているのではないか、つまり、新しい認識は誕生できないのではないか、とかってことはどうでもよいのでしょうか。

「事実かどうか」とか「確認できるかどうか」はどうでもいいのだとすると、素敵なファンタジーがあれば十分なわけですから、ニセ科学やオカルトが蔓延するための準備は完全に整っていますよね(だから「水からの伝言」も広がるのかな?)。
「素敵な話だからよい」のだとすると、それが誤っているとロジカルに解明することは無力なのかしら?「一見すると素敵な話かもしれないけど、実は大変にイヤな話だよ」、つまり「偶像を落とす」ようなことしか効果がないのかしらん?

いや、覆すには「もっと素敵な話」しかないのかもしれない。これはあまりにバカバカしい。そこまでヒドい状況なのでしょうか?
でも……うわあ……だから自民党が圧勝しちゃったのか? なんて暗澹たる気分の秋の夜。
posted by 亀@渋研X at 00:55 | Comment(2) | TrackBack(0) | 渋研X的日乗 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする はてなブックマーク - 「百匹目の猿」に可能性を見る人々
この記事へのコメント
そうなんだと思うよ。彼らにとっては、「信じたい話」であることが重要で、それが事実に基づいてるかどうかは二の次なんだよ。
だから、論争といったって、結論は先にあって、それを覆す気はさらさらないわけ。
論理的な説得を受け入れるためには、論理というもの自体に信頼を置かなくてはならないわけで、そもそも「論理」を「信じたい願望」の下に置いてる人を論理で説得することはできないということのようです。
Posted by きくまこ at 2005年09月12日 12:43
これは百猿に限らない。ゲーム脳でも「水からの伝言」「水は答えを知っている」でも同じ構造なのだろうな。
「惑わされないための練習問題 :: ニセ科学」
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/〜kikuchi/weblog/index.php?UID=1126449378
での相関関係と因果関係の話も同類項か。みんな、これなんだな。「信じたい」がまず先にある。とほほ。
Posted by 亀@渋研X at 2005年09月17日 13:22
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