主に「関本」なにがしと名乗っている人が主張している。
煎じ詰めれば、「ニセ科学と似ているが、実はそうではないものがあり得る」という主張と言っていいだろう。
これはかつて、同じkikulog上であった「ニセ科学ではない『水からの伝言』や、道徳的に問題のない『水からの伝言』もあり得る」という想像上の主張に関する議論の再演のようなものだ。今回は「どういう条件を満たせばニセ科学か」を語りながら、実際の主眼は仮想の「いわゆる血液型性格判断」について「どういう条件を満たせばニセ科学ではないか」を論じることにあるという仕立てになっているわけだ。これは瓜二つの構造と言ってもいいだろう。
今回の主張をしている人は、かつてその主張をしていた人と同一人ではないかと疑われているので、焼き直しと言うほうがふさわしいかもしれない。
ここで主張されていることを吟味しようとすると、たとえば「かつてニセ科学であった主張が、内容はそのままでニセ科学ではなくなることがあるだろうか」といったSFのような世界に迷い込みかねない。
また、「ニセ科学か否かは主観的な問題だ」という主張もされており、これは、やはり当時同じ人が主張していた「ニセ科学かどうかということそのものは大した問題ではなく、社会的に悪影響があるかどうかこそが問題だ」という主張が対になって思い出される。
いずれの場合も、こうした主張をするのであれば、具体的な主張を採り上げて、それがどのような理由でニセ科学である(またはニセ科学ではない)と考えるのかを、主張する側が明らかにする必要がある。さもなければ、吟味に加わる者は、相手の主張を想像して吟味する無理をすることになる。しかも、言い出しっぺはいくらでも条件を変更したり加えたりすることができる。これは不毛だ。ニセ科学に関する問題提起や議論を矮小化・たこ壷化させて、衰弱させることだろう。
ニセ科学問題のある部分が主張者の琴線に触れ、なにか内的な要因がそこに固執させているのだろうか。さすがに撹乱が目的なのではないかとまでは言わない。しかし、ほとんど悪意に近いものさえ感じる。
だから実は問題提起なんかはしていないし、どんなふうに吟味されてもいくらでも言を左右にできるよう最初から工夫されているわけで。で、なんでわざわざそんなことをしなきゃいかんのか、と云うことが不思議に思えるわけですが、一般的にわれわれはそんなことを考察するほどにはひまじゃなかったりするわけですけどね。
いよいよ「社会的に害悪でなければどうでもいいじゃん」と言い出してるような気配ですね。ていうか、どうして気配でものを言うのかな。あ、はっきり言うと反論されるからか。
「ひたすら反論されないような論の展開をすること」そのものに関心があるのであれば、もっとこう、ハマってるビリーバーな人たちと直接やりあってくれたりすると、意欲をそいでくれていいかもしれない、とか思ったり。